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私が人を厳しく批判する事はない、と思っている人もいるかも知れないけれど、私の中にも批判精神はある。

私の中の批判精神が一番強く反応するのは、弱者の事を考えない強者に対してだ。

昨日、ゆめタウンに寄った。駐車場はどこも一杯で、停める場所を探して何台もの車が駐車場の中をぐるぐる廻っている状態だった。私たちは駐車場の通路でどこかが空くのを待って停車していた。私たちのすぐ後に居た白いワンボックス車が、すっと私たちを追い越し、障害者用駐車スペースの前に車を寄せた。小学校5年生くらいの女の子が降りてきて、一般車が停めないようわざわざ店側がかけていたチェーンを外した。白い車はそこへ堂々と駐車した。どう見ても、障害者ではない、一般車だったし、降りてきた人たちも健常者だった。

こういうモラルに欠けた行動には、私はかなり反応する。
障害者用スペースに、健常者が停めるというのは、私に言わせれば「恥知らず」だ。

健常者には、そこに車を停める「権利がない」のである。人のものを勝手に我がもの顔で使うのは恥知らず以外の何ものでもない。
入り口から近く、駐車スペースも広く作られている障害者用の駐車スペースは、特別な理由によって特別に確保されているものだ。そこへ、子供にチェーンを外させてまでして駐車するというのは本当に心から呆れる。しかも、障害者という、自分よりも弱者の権利を平気で犯し横取りして使おうというその神経が信じ難いと思う。

この車を運転していた女性は、自分が我が子に何を教えてしまっているのか、分かっているのだろうか。弱者など踏みにじれと、教えるつもりがあってそうしているならまだ分かる。
「人に優しく、思いやりのある子になって欲しい」などと思っているならお笑い草だ。

…と、このように、私は弱者を踏みにじるような安易な行動には、それが間接的であってさえ容赦のない部分がある。

私は自分の怒りをコントロールする事を自分に課し、誓っているので、この後、静かに自分の中で瞑想を行う。事実を調べよう、と思う。本当に彼らには、障害者用の場所を使ってでも急ぐ買い物があったのかも知れない。何か、事情があったのかも知れない、と思ってみる。
おそらくは、自分のしていることが、わかっていないだけなのだろう、と祈る。
その人が、自分のしている安易な行動に気づく日が来て、弱者への慈悲心に目覚めますようにと、祈る。

人の事は誰にも解らない。
なぜその人が、そんな行動をとったのか。その人に聞くまでは解らない。
恥知らず、と憤っていた自分の気持ちは静かになる。



幼い頃、私は近所のガキ大将のお腹に噛みついて、かなりひどいけがをさせた事があるらしい。
2〜3才ころの事で、自分では覚えていない。母親に連れられてその子とその子の親に謝りに行ったのだそうだ。もちろん私の母は平謝りだ。
自分より何才も年上の男の子だった。その子が小さい子や動物を虐めていたのに腹を立てて、その子に猛然と立ち向かったのだそうだ。
「噛みついて全然離さなかったっていうからね、あんたはよっぽど腹を立てたんだろうね。よくよくの事だったんだろう」
親が言うには、その手のケンカは結構頻繁だったそうだ。

自分で覚えているのは多分5才ごろの記憶で、おたまじゃくしを見に、近所の女の子と小川へ遊びにいった時の事だ。
小学校2、3年生の男の子が、小川で捕まえたおたまじゃくしを、アスファルトの道に次々にたたきつけて、何匹も何匹も殺していた。
その残酷な光景に、身の毛がよだった。殺されて行く無力なおたまじゃくしの苦しみが全身に流れ込んできて、私は「やめてやめて!殺さないで!」と叫んだ。彼らは面白がって次々におたまじゃくしを掴んでは道に力いっぱいたたきつけた。私が止めれば止めるほど、男の子たちは面白がった。私より一つ年上の近所の女の子は乱暴な年上の男の子たちに怯えて泣き始めた。私は全身の血が逆流するかと思うほど怒って、その子たちに体当たりをして行った。近所の子は、泣きじゃくりながら逃げ帰り、私は一人で数人の小学生を相手に全力で戦った。髪を引っ張られ、顔をひっぱたかれ、突き飛ばされ、それでも私は引かなかった。私までが逃げたら、おたまじゃくしがまた殺されてしまうからだ。
彼らは私の本気の抵抗に怖れをなし、おたまじゃくしを川に捨てて、逃げ帰って行った。
私は、大声で泣きながら、傷とあざだらけでとぼとぼ家に帰った。平気で生き物を殺す、自分より身体の大きな、年上の男の子たちが、ものすごく恐ろしかった。そして殺されたおたまじゃくしが可哀想で可哀想で、たまらなかった。

この時の、血が逆流するほどの怒り、という感覚を今でもはっきり覚えている。
怒りで身体が震える、というのは本当だ。
もっともそれ以来、あれほど強い怒りは一度も感じた事がない。
私の怒りは、どこか抑圧されているのかも知れないと思う。

もし、私が今、チベットにいて、目の前で無抵抗の僧侶が拷問されレイプされ殺されたら、私は自分がどんな行動を取るか、よく解っている。あの5歳の時と同じ事をするだろう。だから私は、チベットに行かない。おそらく生きて戻らないからだ。

私は、弱者が強者に踏みにじられているのを黙認できない。
必要な処に、必要な救いが届かない事が我慢できない。

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インドやバリ島のトイレを経験すると、日本のトイレがいかに清潔でいかに快適かがつくづく身にしみる。

日本では、普通の家庭のトイレのレベルが、とてもハイクオリティなのだ。
さすがは、世界一清潔好きな国民、日本人である。

私が中学生になった時、我が家のトイレが簡易洋式に変わった。
同居する足の悪い祖母の為にトイレを洋式にする必要があったのだが、父親が和式でないと用が足せないと言い張って、簡易の洋式便座をかぶせる形で洋式にしたのだった。蛇足だが父は自分がトイレに入る時にはわざわざこの簡易便座をはずして和式に戻していた。しばらく一人そういう使い方で頑張っていたようだが、さすがに面倒くさいのか徐々に洋式トイレに慣れて行った。


トイレが変わった途端、トイレに本棚が設置された。
そこに漫画や落書き用ノートが置かれた。
家族中、トイレに入って、出てくるまでの時間が長くなった。
落書きノートには家族をもじったマンガが描かれていたり、有名なマンガのパロディが連載されたりして、家族のコミュニケーションに役立っていた。

そういう環境で育ったせいかと思っていたが、私はトイレで読書するのが好きだ。
若い頃、これはかなり恥ずかしい事かと思って誰にも言えずにいたのだが、大人になって、会社の仲間とトイレの話題になった時、意外に多くの人がトイレでくつろぎの時間を楽しんでいる事が分かった。中には休日はトイレで無意味に2時間以上過ごす、という人もいた。

思うに、これはトイレが個室だからという事だけではなく、日本のトイレがあまりひどい悪臭がせず清潔だからではないだろうか。日本の家庭のトイレはだいたい床に敷物がしてあって、トイレは冷たい感じがしない。日本の新しい家屋では、トイレも居住空間という雰囲気がある。

外国ではトイレはいかにも床に水を流しても大丈夫という作りになっていて、居住性は配慮されていない。シャワー設備と一緒の空間だったりする。水を床に流せるようにしているのがかえって、衛生的ではない感じになるのだ。水をざばざば流して掃除しないときれいにならない場所、と感じさせるのだ。

トイレで本を読んだり詩を書いたりするというのは、実務的な排泄の用を済ませるという事以上の役割をトイレに担わせているという事だ。究極の個室であるトイレは、誰にとっても本当にほっとできる空間なのかもしれない。


単純に排泄の用を足す場所としてのトイレを考えると、私はバリのトイレは最高だと思っている。

バリではトイレの脇に小さなシャワーが付いている。これがお尻を洗う為に付いている専用のシャワーなのだが、日本の自動水洗便座とは違って、自分の片手で好きなようにお尻に当てて、もう一方の手でお尻を洗うのだ。正式には右手でシャワーを持ち、左手で洗う。だからシャワーもたいていが、右側の側面に添えつけてある。
これが、慣れてしまうと自動のお尻洗い便座よりも遥かに気持ちが良い。

日本人は股間に手を触れる事にやたら抵抗感があるのだけれど、私なら個室の中での事なのだから、是非自分でしっかり洗いたいと思う。それに自分の体、それも重要なデリケートゾーンを清潔にするために自分の手以上の道具があるだろうか。
小型のシャワーを使うので、お尻をきれいにしたら自分の手もひとまず流して、キレイに出来る。
そのあと、洗面台でしっかり手洗いをすれば何の問題もない。

日本の自動お尻洗い便座は、ヨーロッパ式のビデから発想されたものだと思うが、ビデならば数百年前から貴婦人でも自分の手を使って洗うのが本当の使い方なのだから、やはり日本でも手を使って洗うのは間違っていないと思う。

トイレのショールームで、自動お尻洗い便座の正しい使い方を訊ねると、「自動で洗うという仕組みですから、お尻に水が当たるだけでいいのです」という。「自分でお尻を動かして、水の当たる部分を調整されても良いです」とも言う。トイレに座ってお尻を動かしている姿もなんだか滑稽極まるが、それより水が当たるだけでキレイになったとはあまり思えないのは私だけだろうか。メーカーなら責任を持って、本当は手で洗ってくださいというべき処だと思うが、日本でそれが受け入れられないと考えて、機械任せにしていいと言っているのではないだろうか。

日本人は世界で一番甘ったれで幼稚な国民だと思うけれど、それはメーカーの「なんでもお任せください」という姿勢によって育てられている側面もあるように思う。何でも機械任せ、人任せに慣れてしまうと、自分で出来る事まで出来なくなってしまう。面倒だと感じるようになってしまう。
ある意味、恐ろしい事だと思う。

さて、それはさておき。
トイレでのくつろぎは、なにものにも変え難いと思う今日この頃。
ただし家のトイレだからと油断して鍵をかけないと、娘には何の遠慮もなく開けられてしまう。
娘が小さかった頃、私がトイレに入ると泣いてしまったので鍵をかけないでいた習慣の名残だ。

ガチャ
「ママー、あのねー」
「……トイレのドアは開けちゃだめって言ってるでしょ」
「だってかぎかかってなかったもん」
「……今からうんこするわよ。臭いわよ」
「ギャーヤダー!!」
バタン

こういういつものやり取りになるので、そろそろ鍵をかけるようにしようと思う。
しかし下品だな(笑)

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父が夢に出てきた。

どこかの、海の見える岬に立つ、老人介護施設の庭で、父と一緒にいる夢だった。
日差しが暖かく、沖縄の石垣島の記憶とつながっている場所だった。

父は穏やかで、今より少し若い、40代の父だった。
体も健康で、引き締まった体つきで、よく働いていた時代の父がそこに穏やかに暮らしていた。
私は今と同じ私で、父と同じくらいの年齢だった。
そこに暮らしているのか、日常の何気ない会話をその日だまりの庭で話していた。

真っ赤なハイビスカスが咲いていた。
波が崖にぶつかって砕ける音が聞こえていた。
常に私の大好きな海風が吹いていた。

目が覚めて、私は父と対等に話したい事があると気づいた。
穏やかな父なら、その心に届く話が出来るような気がした。


現実の父は、夢の中の父の年齢より20才以上年を取っている。
そしてその20数年を、自分を痛めつけるようにお酒を飲んで過ごした。
私は、父の心に長年、孤独という毒が溜まっている事を知っている。
それを酒でごまかしている事も。

父は、本当はとても穏やかで優しく、むしろ気の小さな人間なのに、
幼い頃から与えられた教育は彼に「男らしさ」を激しく求める。
それが父の人格をゆがめているのを私は知っている。

作られた男らしさや父親らしさなど、父の生来の優しさに比べたら、何程の価値があろうか。
私は父の本当の純粋な優しさを知っている。

酒を飲んだ父の、人格が壊れた様を見るのは辛い。
その優しさが壊れるのを見るのは本当に悲しい。


父の本当の心に、愛している事を伝えたい。
父が、無条件に愛される価値のある人間である事を、彼が生きている間に、知らせたい。

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新しいお財布を探している。

なかなかこれ、というものに出会えない。
今使っている財布は、2年前に買ったものだけれど、これを買った当時には本当にお米を買うにも勇気がいるほどの極貧状態だった。その中で数千円の財布を買うというのは、実に無駄遣いだと言われそうだ。今どき、100円ショップでも財布は売っているのだから、その40倍の値段の財布というのは、確かに贅沢品だったに違いない。
しかし、実際には、この財布というアイテムへの投資は本当に極貧を救ってくれた。

「お気に入り」はその存在そのものが、気分を良くしてくれる。
極貧の中、このお財布は私の日々のお金の管理を楽しいものにしてくれた。
いくつかの仕切りに分かれていて、私はそれぞれの仕切りを「第一財布」「第二財布」「第三財布」と名付けていた。第一財布には食費光熱費などの生活必需品の出費用のお金が入っている。第二財布は、ささやかなレジャー、娘とちょっと寄り道をしておやつを買う時などのココロの潤いに使うお金が入っている。第三財布は緊急用でまず普段は手を付けないお金が入っている。
一つの財布の中に、3つの財布が入っているような状態で、それぞれ使い道を明確に分ける事で、貧しくとも貧しいなりに楽しく生活する事が出来た。
身分よりも高い財布を持つ、という事は、財布を大切に扱う事につながった。そしてその中には当時の生活のすべてを支えるわずかなわずかな全財産がしまわれていて、そのお金を大切に心を込めて管理する事につながった。

夫は、食品の買い物の時に私が「それは買っても使わないで腐らせるよ」「それよりこっちが安いから」と厳しく金額を管理しているのに、突然「ここでご飯食べて帰ろう」と外食する事に矛盾を感じていたようだが、それは財布が別だからこそ出来る事だった。気持ちまで貧しさに負けてしまうと、わずか300円のたこやきが買えなくなる。100円のお茶一本が買えなくなる。そしてますます貧しさに追い込まれた気分になって不幸になってしまう。
どんなに貧乏でも、楽しくいること。自由を手にする事。それが私の信条で、この財布はそのことにとても役立ってくれたのだった。

古くなったので、そろそろ「お気に入り」の代替りの頃だ。
それでこのところ、新しい財布を探している。

私は、ブランドにはまったく興味がない。
質の良いものや、機能が高いものにはおおいに興味がある。
たまたま質が良く、機能が高いものがブランド物だった、という事はあるが、積極的に「このブランドが好き」と思って買う事はまったくない。
ブランドものの財布も、もしかして高機能かもと思って見てみるが、機能はさほどでもない。私の機能に対する要求が高すぎて、こだわりすぎなのだと思うが、それでも妥協せず探す。

そうやって手にしたものは、私の相棒になって、私の幸せ作りを手伝ってくれるからだ。

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兄の仮通夜が明けて、通夜の日に私と娘は一足先に福岡へ戻った。
私の仕事の予定が連日入っていた事と、娘の始業式があったからだ。

本当は火葬まで一緒に居たかったのだが、同時に亡くなった晩までで、私のする事は終わったという感じもしていた。
娘と新大阪駅に行き、小さな将棋のセットを買った。700系の新車両になりとても快適に変わっていた新幹線の中で、娘と一つのお弁当を分けて食べ、将棋をした。

博多に着いた頃、大阪では通夜で大勢の人が兄のもとに駆けつけていた。

大きな荷物を抱えてやっと家に帰り着き、娘の始業式のしたくに追われる。
翌日からまた早起きの日々が始まった。

クライエントさんの為の準備、セルフカウンセリングの為の準備、合間に子供のおやつや食事の準備、そしてカウンセリングやワークを実施すること…。
老犬の介護、粗相の始末、娘の宿題をみてあげること、本を読んでやること、連絡帳への回答…。
いつもやっている事だけれど、坂本が居ないとやはり一人でそのすべてをやる負担は大きい。

そして、カウンセリングやワークの最中はそれに集中していて他の事はまったく考えないのだけれども、家事や掃除などしているとふと何か、ぼーっとして手につかない状態に気づく。

人の死は、考えている以上に人の心にダメージを及ぼす。
いつも人にそう言っているけれど、今回は身をもって体験する。
特にOE(過度激動)を持つ私には、普通の人以上の何かが起きても不思議はない。

必要最低限の仕事以外は、何も増やしたくない、増やせない、という状態になっている事に気づく。

やがて兄の葬式が終わり、翌日まで家族と一緒に過ごした坂本が、深夜に戻ってきた。
翌朝、娘をバス停まで二人で送ってから、どこかでコーヒーを飲もうと坂本に持ちかけた。
二人でマクドに入って(スタバが良かったのに。ケチが一緒だとどうもランクが落ちるのだ。ブーブー)大阪の事をあれこれ話す。

話していて気づく。
私はつくづく、兄の人生が可哀想でならなかったのだ。
人の人生、人のした選択、それは誰にもどうしてやる事も出来ないのだけれど。
それでも、兄には幸せでいてほしかった。
もっともっと、幸せになって欲しかった。
何度も何度も、その言葉が繰り返される。

私は兄の人柄が好きだったし、もしもっとそばにいる事が出来たら、兄と語り合う事が出来たら、彼をもっと深く理解しもっと好きになっただろう。そして彼の安らぎにつながるようにと、いつも彼を慰めただろう。

今生で、彼に寄り添う機会がなかった事が本当に残念だった。
何だかいろんな事が手に付かないのは、この残念さを深い深い処で感じているからなのだと、ようやく分かった。


坂本は、兄が生まれ変わるとしたら、リスが一番似合っていると言った。
可笑しいけれど、確かにリスになった兄はとても幸福そうに思えた。

バリーさんによれば死の瞬間に、その魂の転生に立ちあった人とは来世での絆がとても深くなるのだそうだ。兄は私たちのそばにやってくるかも知れない。


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4日、ダラムサラからバリー博士が来日し、広島の西光寺でセミナーをするという絶好の機会に、何とかスケジュールを調整して駆けつけた。

会員さんの二人が、深夜の長距離バスで一緒に旅してくれた事は嬉しかった。

バリーさんと再会した瞬間、私がこうしてバリーさんにこの日会う事は、必然のように思った。私がそこへ加わる事が、あらかじめ設定されていたかのような調和を感じた。

西光寺の素晴らしい自然に囲まれ、一日目のセッションが終わった。宿へ向かい、夜行バスで疲れた体をやっと横たえて休憩した。福岡に置いてきた娘の事がきがかりで電話すると、夫の兄が会社で倒れ、危篤状態になったという。

夫は大阪の兄の処へ駆けつけるつもりはない様子だった。
私にすれば、実の兄が危篤というのに駆けつけないという話はあり得ない。
すぐに大阪へ向かうようにと説得するが、彼はなかなかうんと言わない。
一晩、とにかく考えるようにと言って、電話を切ったが、私の頭の中では、彼を、息のあるうちに兄の元へ連れて行かなければならないという使命で一杯だった。

とにかく広島と行ってもかなりの田舎で、電車がとても少ないので、すぐにその場で動く事が出来ない。時刻表を調べ、翌日のワークを昼まででキャンセルする事にした。

朝になり、夫に電話した。
「とにかくあなたが何を言おうが大阪には連れて行くから。そのつもりで準備をして待っていて」
アスペルガーの夫はこういう緊急事態に対応する柔軟性も社会常識もまったく持ち合わせていない。私が彼の行動を手配しなければ彼は自分から大阪に行くとは言い出さないのだ。

西光寺へ向かい、バリーさんと少し話す時間をもらった。
私がこのセッションの中で聞きたかった質問に答えてもらい、死に瀕した兄の為に、私が成すべき事は何かの教えを乞うた。

バリーさんと他の参加メンバー全員が、兄やショックを受けている家族の為に祈ってくれるという。
私は、彼らの祈りを兄に届ける媒体として、広島から大阪に向かった。

夫は「あなたは大阪にすぐに駆けつけるべきである」という私の強固な意志に動かされ、大阪に自力で向かうと言ってくれた。それで私は博多に戻らず、そのまま一足先に大阪へ向かった。

その道中も含め、可能な限り兄の為にトンレンの瞑想をした。
多くの人が兄の為に祈っている事を背中で受け取り、呼吸に変えて、兄に届けようと務めた。

大阪に到着し病室に駆けつけた。
兄の顔は脳からの出血で晴れ上がり、もはや面影はほとんど失われていた。
義母の元に駆け寄り、抱きしめると義母は私の腕にすがって涙を流した。
兄がもう助かる見込みのない状態にある事は、一目でわかった。

それでも義姉、義母、兄の妻は、奇蹟の回復を諦めようとしなかった。言葉をかけ続け、腕をさすり、手を握って、ベッドの傍らに立ち続けて、内部で出血の続く頭部を氷水で冷やしたタオルで冷やし続けた。義姉はすでに2晩、徹夜し、食事もほとんど取っていない状態で献身的な看護を続けていた。

兄の家族すべてが、嘆き、痛み、兄の死の現実に抵抗を続けていた。

私だけが、兄の死を受け入れていた。
死に逝く兄の魂が平安である事と、その来世への旅立ちがせめて今生より良いものになるようにと願い続けていた。
今そこで死に瀕した苦しみの中にある兄が、ほんの一呼吸だけでも安らぐようにと願い続け、彼の苦しみや死への恐怖を呼吸で受け取って、私の体を通じて安らぎに変えて呼吸で返す、という瞑想を続けていた。
やがて夫と娘が夜更けに到着した。これで兄の血族が全員揃った。

「頑張ってるね!大丈夫だよ!良くなってきてるよ!」「みんなそばにいるからね!大丈夫だよ!頑張って!」と励ます家族とは明らかに違う立場の私だった。だからこそ、静かに、家族の邪魔にならないように振る舞う事にも気遣った。生還を願う家族と、転生を見守ろうとする私ではあまりにも向き合い方が違う。家族にとって、私は兄の死を待つ存在にも思えるだろう。だから私は静かに、何も言わず兄の手を握り、夫とあまりにも似ているその指や、足の形を見ていた。そして彼の体を通じて、この人が私の愛する夫と血を分けた兄弟であることを深く感じていた。

やがて兄の自発呼吸はとまり、呼吸器による強制呼吸だけで心臓を支える状態になった。もしこの状態で容態が安定してしまえば、植物状態となる。

家族が一瞬、病室を離れた時にだけ、私は兄の耳元で涙を流しささやいた。
「お兄さん。次には、楽しむ事や休む事を覚える為の人生を送ってね。待ってます。またお会いしましょうね」

証券マンとして、最後まで張りつめた人生を送った兄だった。楽しむ事を知らず、自分を幸福にする事から背を向けて、ただただ周囲の人や社会の事、日本の事を考えて走り続けた企業戦士だった。
それを思うと、兄が哀れでならなかった。兄が元気なうちに、兄の心に寄り添う機会がなかった事が残念でたまらなかった。

翌日の午後3時18分、倒れてから丸4日後、兄の心臓は静かに止まった。
体の機能が、徐々に徐々に失われていくさまを、兄は示しながら死んだ。
亡くなる数時間前には、血圧は30という状態で、心拍の早さで下がった血圧を補うために懸命に生きていた。兄の心臓は、司令塔である脳を失っても、孤軍奮闘しながら、生命を最後まで支えようと働いた。そして、最後まで諦めず鼓動を続け、ついに力尽きて静かに止まった。

大阪で生まれ、全国を転々としながら、最後には大阪で死んだ。
オリンピックの年に生まれ、オリンピックの年に死んだ。
倒れた時刻とほぼ同じ時刻に、死んだ。

兄は、その日倒れる事など夢にも思わなかっただろう。
最後に取った昼食が、自分の生涯最後の食事になる事など思いもしなかっただろう。
朝出てきた家に、いつものように帰るつもりで出てきた事だろう。
通い慣れた道を、いつものように疲れた足取りで戻るつもりでいただろう。

けれども突然に、兄の人生は終わった。

仮通夜を家族と共に過ごし、私と娘は先に福岡に戻った。
通夜にも葬儀にも、職場から多くの人が駆けつけた。
突然に親しい同僚を失った彼らの、惜しむ声はいかばかりだっただろうか。

人の明日は、誰にもわからない。
その本人でさえも。

私はいつも、明日死ぬとしても、という気持ちで生きている。
兄の死に際して、またその思いを深くした。

兄の冥福と幸福な来世への転生を心から願う。

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私は毎年、2月3月に体調を崩す事が多い。

面白い事に、四柱推命で見ると私の運勢が一年の内で一番落ちるのは2月と3月(寅月、卯月)なのだそうだ。寅と卯の時は私にとって凶の時期。寅年、卯年が来たらその2年はまさに要注意、12年に一度の最悪の時だ。再来年がその最悪の時期になるらしい。

占いと心理学は、実は結構仲が良い。
ユングは晩年、占いやオカルトを熱心に研究していた事で知られている。
クレッチマーは体格とその人の性格に相関性があるという研究結果をレポートした。
(やせ形で長身の人は神経質、太っている人は大らか、筋肉質ながっちり型は執着質などなど)

占いは命・卜・相(めい・ぼく・そう)の三種類に大別される。
命(四柱推命、星座占い、西洋占星術、算命学、九星気学など)
卜(易、タロット占い、ルーン占い、ダイス占い、水晶占いなど)
相(手相、人相、風水など)

私は、偶然性によって結果を予測する卜(ぼく)のものは術者を信用していない為、あまり興味を持たなかった。命(めい)の占いは、なかなか面白いなと思う。術者が誰であれ、結果は同じだからだ。相(ソウ)の占いはかなりどうでもいいと思っているし信用していない。手相に関しては自分の人生にシンクロして変化するそうなので、ちょっとだけ気にかけている。

特に、四柱推命は結構勉強してみた事があるのだが、自分のこれまでの人生の大きなイベントと、四柱推命での吉凶はシンクロしているものが多く、興味深いなと思う。

占いの結果が当たったとか外れたというのも、心理的な作用で影響される。
人は信じたいように信じてしまうので、結果の判断も客観的とは言えない。
私は科学者の目(覚めていて客観的な姿勢)で、占いの結果を観察しようと心がけている。
占いそのものもとても面白いと思うし、占いの結果で一喜一憂してしまう人の心も面白いと思うからだ。

2、3月は体調を崩す時期。
そう思っているから体調を崩してしまう事もあり得る。(マイナスのプラシーボ)
今年、インドから帰って気温差にやられたらしく風邪を引き、風邪から咳喘息に。
忙しくて咳喘息の治療に行けてないものだから1ヶ月引っ張っている。
あらかじめこの時期は運勢が悪いと分かっていれば、覚悟したり、よくない事を最小にしようとして注意する事もできる、というのが命(めい)の占いの効用だ。

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実家にいる19才の猫が 今日の夜 昇天した。

ボランティアの人たちが手伝いにきてくれていて 珍しく人が何人も仕事にいそしんでいるちょうどその時だった。

9月から調子が悪く それでも母が一生懸命看病して何とか生きている状態で
それでも 12月の初めに母が「年を越せるかわからない」と言った。

年末には出来るだけ急いで会いにいくからと言っていた。
それでも 間に合わなかった。

母が泣きながら電話して来た。
「今 死んじゃったから」

夕方仕事から帰った父が見ると、もう虫の息だったらしい。父は「もうすぐお母さんが帰ってくるからな。待っててやれよ」と猫に声を掛けた。母が仕事から帰るのを本当に待っていたのだろう。母が駆けつけるとすぐにすーっと息を引き取ったそうだ。

その猫は19年前 私が命を助けて育てた猫だった。
へその緒がついた状態でまだ羊水に濡れ、血がもついている状態の3匹の子猫だった。それを段ボールに入れて、雨の降る公園に捨てた人の気が知れない。私は犬だか猫だかネズミだかさえ解らないその赤ちゃん動物を見捨てることが出来ず、抱きかかえて家に走った。
冷たくて、もう死にそうだった。すぐにお湯に入れ体を暖めてマッサージすると、もじもじと動き、ミーというよりチーという音に近い声を上げて、「生きているよ」と主張した3匹。

それから寝ずの育児が始まった。生後10日を過ぎたころ、「賢(かしこ)」と名付けた1匹が風邪にかかり、看病の甲斐なく肺炎で死んだ。ものすごく苦しそうな最後だった。あんなに苦しんで、最後まで生きようと頑張ることが、果たして出来るだろうかと思うほどの苦しみようだった。かしこは私に「命の限り生きる勇気」を教えて、そして死んだ。

残りの2匹を助けようと、私も命がけになった。バイト先で居眠りをしてしまうほど、毎日睡眠不足で育児した。
19年生きたのは そうして育った猫だった。名前は康(すこや)。すこやかに育って欲しいという願いでつけた名前だった。いつもスコちゃんと呼ばれていた。犬のように言うことを聞き、名前を呼ぶと「にゃー」と返事をしながらやってきた。犬の散歩にいつもついてくる珍しい猫だった。夫が「こんなに意志疎通が出来る賢い猫は見たことがない」と言った。一緒に育ったもう1匹「清(きよら)」は熊本に引っ越ししてまもなく家出して居なくなった。

最後まで家に残り、家族として過ごした すこやは 私の大事な友達で かけがえのないぬくもりだった。

19年。
十分、長生きした。
猫の体を持っていたけれど、その中には 何百歳かの魂が宿っていた。
いつも思慮深い目をして 人間を優しく 時に厳しく見つめていたスコ。
私の首の上に寝そべり ごろごろと幸せのドラムを鳴らしていたスコ。

私の処に来てくれてありがとう。
甘えん坊でさびしがり屋の母さんを毎日慰めてくれてありがとう。
かしこやきよらにはもう会えたかな。
ジルやコロにも会った?
おじいちゃんにもよろしくね。

スコ。お前のいない家は 寒いよ。
お前の体の柔らかいぬくもりが大好きだった。
スコ。また会おうね。
ありがとう。また会おう。きっとまた。

お前がいなくなっても 私は生きてる。
最後に会えなくて ごめん。

クリスマスに天国に行くなんて お前はほんとにカッコいいヤツだ。

「いつか」がやってきたら その時は私を迎えにきてね。
スコ。約束だよ。

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昨日は娘の誕生日だった。

7年前のその日、40時間以上の陣痛に苦しんでようやく彼女が生まれた事を思い出す。
帝王切開だったので2週間入院して家に帰る時 自分の腕の中に小さな赤ちゃんを抱いて帰るのは本当に不思議な感覚だった。「いいんだろうか?こんな価値あるものを私が連れて帰ったりしてもいいんだろうか?」とずっと思っていた。

毎年 彼女の誕生日にはいろいろな事をするけれど 今年は本人のリクエスト通りに全部希望を叶えるという事にした。
最初のリクエストは「映画館で映画を見る」こと。
それから「お昼はMKレストランの桃アンマンを食べ放題すること」「ケーキを作ること」「夕ご飯はカニ」

ネットで調べて昨日封切り初日の「ルイスと未来泥棒」の初回上映分、一番いい席を確保した。
朝、娘は自分で起きて私を起こしに来た。私のベッドに潜り込んできて「もう7才」と言ったので冷たい娘を布団の中で抱きしめて暖めながらハッピーバースデーを歌った。
しばらく一日の計画についてあれこれ話して、朝一番の10時の回に映画を予約しているので急いで出かける支度にかかった。ホークスタウンの映画館に行くのは初めてだが朝一の回にしては結構人がたくさんいた。
当然、最大サイズのポップコーンを購入し館内へ。食べ切れないことは分かっているがイベントを盛り上げるアイテムとして欠かせない。

予想もしていなかったことだが、「ルイスと未来泥棒」は近年のディズニー作品の中では間違いなく最高の作品だった。シナリオの完成度は高く、無駄のない練られたセリフとストーリー構成、絵の表現ともに、ディズニーアニメらしい伸びやかな明るさに満ちて、感動出来る作品だった。孤児ルイスの苦悩と家族が欲しいという強い願いが明るい表現に彩られたストーリーラインにどっしりした重みを持たせている。苦悩を抱えるルイスに共感出来るシーンは数多く、後半以降のエンドシーンへ向けてのルイスの表情表現は素晴らしかった。もちろんビデオを借りて、家でみるのではなく映画館で見る事よる感動効果も大きかったと思うが、これはもう一度映画館に行ってみたいと思うほど好きになれた作品だった。娘も楽しんでいたようだが、親の方が感涙に顏をびちょびちょにして出てきた。

そのままトイザらスへ行き、あれこれ見て、ジェンガを購入。夜みんなでやろうと言うと娘は嬉しそうにはしゃいだ。欲しがっていたシールを買ってあげた。
ドームでふわふわイベントをやっていたのでお腹を空かせるためにも行ってみた。
入場料を払って中に入ると広い球場内にたくさんのふわふわが設置されている。それぞれに別途有料で300円から500円かかる。そして遊べる時間はたった5分。非常にあこぎなシステムである。でも誕生日は一年に一度のサラブレーションだ。好きなものを選んで自由に遊ばせてあげる。

セグウェイの乗車体験コーナーがあった。18才以上しか載れないので大人向けだ。夫をこれに乗せてあげた。私ものろうかと思っていたが、その分のお金を娘にプレゼントしてもうひとつふわふわで遊ばせた。たくさん暴れて疲れた娘はそろそろ眠そうな顏になった。
急いでお昼ご飯を食べさせないと寝てしまう。

予定通り 姪浜のMKレストランに連れていくと娘はいつも以上にもりもり自発的に食べてくれた。しゃぶしゃぶをひとしきり食べた後で大好きな桃アンマンを8つも食べてくれた。

お腹一杯になって、サニーに寄ってケーキの材料を購入。
娘はケーキのデコレーション作業がやりたいので、今回は100円くらいの安い山崎ロールケーキを2本買う。これに好きなようにデコレーションさせてあげることに。飾り用のいちごがまた泣けるほど高いのだが、これも毎年必要経費とあきらめて購入する。

ジェンガで数時間遊んで、ケーキのデコレーションを始める。
ロールケーキを輪切りにし、いちごを1/2、1/4、スライスといろいろな切り方で用意する。
ホイップした生クリームと刻んだクルミも用意。
材料としてこれらを与えると娘は 工作や積み木をするように楽しんで何かの作品を作り上げる。

でき上がったのはケーキのお城だった。
ロウソクを7本立てて、部屋を暗くして、親子三人でハッピーバースデーを歌った。
眠くて眠くて、でも頑張って起きている娘に急いでカニを山盛りにして出し、まだ消化が済まない親は娘が好きなだけ食べるのを見守る。「もういいや」と娘がギブアップして、満足そうな顏をした。
ケーキを一つ食べると、娘はもう座ったままで眠っている。
声を掛けるとうがいをして、ベッドに潜り込み「今日は良いことが一杯だった」と満足げに眠った。

誕生日は年に一度のサラブレーション。
最高の一日にするのが当たり前だ。
私は娘に甘い。
一人っ子らしく親の愛情を一身に受けるのは、彼女が私の娘に生まれたからには当然のことだと思う。

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娘はカソリックの小学校に通っているのでクリスマスの行事には気合いが入っている。キリスト教信者にとって、クリスマスは最大の重要イベントだからだ。

今日そのクリスマス会に行き、心洗われる思いで午前中鑑賞して過ごした。

年端も行かない幼い子供たちが、何十人もステージに上がり声を合わせて「天の神様に栄光!私たちにこんなにもお恵みくださる神様、ありがとうございます!」と力いっぱい言う姿を見ると、北朝鮮のようだなあとも思うし、そのまっすぐな瞳の曇りなき美しさに心打たれもする。

娘の表情をよく見たくて、ステージすぐ下の最前列の席に陣取り、全ての出し物をしっかり見てきた。自分の娘だけでなく、壇上の子供たちの一生懸命な姿に、もう何をみても感動して泣けてしかたがない。

娘と一緒に帰る時、「クラスの子から『○○ちゃん(娘の名)のお母さん泣いてたね〜』って言われたよ。ママめっちゃ泣いてたでしょう」といわれた。娘は涙もろいママを恥ずかしく思っただろうか。私は子供の演じる出し物にはめっぽう弱くて、何を見てもけなげで泣けてしまう。
こんなに一生懸命に…とその小さな体で精いっぱい頑張っている純粋な姿に感動して胸が一杯になってしまうのだ。

子供たちは自分に与えられた役割を本当に一生懸命頑張っていたなと思う。その姿を見ることができ、一生懸命な声を聴けて、クリスマス会は本当に行って良かったと思えた。

そして、信仰というものに触れるきっかけを与えてくれるカソリックの学校に娘が行ってくれてありがたいとつくづく思う。自分が信仰している宗教でなくとも、信仰の現場に身を置くと、自分のより善いものを使うという機会が与えられる。そして子供たちが指導に素直にしたがって、神様を愛し、友達を助け、愛をもって生きようとする姿には本当に希望を見るし、胸を打たれる。子供たちが書いた、「神様への手紙」という小さな文章がパンフレットの裏表紙にいくつか載っていた。
「かみさま、世界には私たちに当たり前に与えられているものがなにも与えられていない人々がいます。どうか彼らのために私たちに何ができるか教えてください」「かみさま、私のおじいちゃまとおばあちゃまは、毎年クリスマス会に見に来ることを楽しみしていました。今年は二人とも入院して来ることが出来ません。おじいちゃまとおばあちゃまに聞こえるように、大きな声が出るように助けてください」
どの手紙も純粋な愛に充ち満ちて、私はそれに触れてぼろぼろと泣けてしまう。


私は人間には信仰は必要だと思っている。
それは特定の宗教でなくてもいいかもしれないが、自分の中の善いものを活性化する具体的なきっかけや方法として、信仰を持つことは非常に効率的であると思う。もしも、自分の心を美しく保ちたい、いつも善なるものや美なるものをみつめ、自分の心や世界が良くなることを信じて強くありたいと願うなら、最低でも100年以上歴史ある何かの宗教に入ることをお勧めする。

私も13〜18の頃、修道院に行こうかとかなり本気で考えていた。
世俗から隔絶された世界で神様の事だけを求め、心を鍛えていくことが出来れば、それは世俗で垢にまみれて生きるよりよほど楽だろうと思えたのだった。
実際のところ、今、多くの人の心と向き合い、自分を救う為のより良い方法がありますよと知らせる仕事をしているが、この仕事そのものが深い信仰を持つ修道女の信仰生活に似ていると思う。

クリスマスは本当のクリスチャンのものであって、世俗の人には無関係なはずだが、世俗の人が愛を語らう機会としてクリスマスを都合よく利用している事を、キリストは多分許しているだろう。


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