2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
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4日、ダラムサラからバリー博士が来日し、広島の西光寺でセミナーをするという絶好の機会に、何とかスケジュールを調整して駆けつけた。
会員さんの二人が、深夜の長距離バスで一緒に旅してくれた事は嬉しかった。
バリーさんと再会した瞬間、私がこうしてバリーさんにこの日会う事は、必然のように思った。私がそこへ加わる事が、あらかじめ設定されていたかのような調和を感じた。
西光寺の素晴らしい自然に囲まれ、一日目のセッションが終わった。宿へ向かい、夜行バスで疲れた体をやっと横たえて休憩した。福岡に置いてきた娘の事がきがかりで電話すると、夫の兄が会社で倒れ、危篤状態になったという。
夫は大阪の兄の処へ駆けつけるつもりはない様子だった。
私にすれば、実の兄が危篤というのに駆けつけないという話はあり得ない。
すぐに大阪へ向かうようにと説得するが、彼はなかなかうんと言わない。
一晩、とにかく考えるようにと言って、電話を切ったが、私の頭の中では、彼を、息のあるうちに兄の元へ連れて行かなければならないという使命で一杯だった。
とにかく広島と行ってもかなりの田舎で、電車がとても少ないので、すぐにその場で動く事が出来ない。時刻表を調べ、翌日のワークを昼まででキャンセルする事にした。
朝になり、夫に電話した。
「とにかくあなたが何を言おうが大阪には連れて行くから。そのつもりで準備をして待っていて」
アスペルガーの夫はこういう緊急事態に対応する柔軟性も社会常識もまったく持ち合わせていない。私が彼の行動を手配しなければ彼は自分から大阪に行くとは言い出さないのだ。
西光寺へ向かい、バリーさんと少し話す時間をもらった。
私がこのセッションの中で聞きたかった質問に答えてもらい、死に瀕した兄の為に、私が成すべき事は何かの教えを乞うた。
バリーさんと他の参加メンバー全員が、兄やショックを受けている家族の為に祈ってくれるという。
私は、彼らの祈りを兄に届ける媒体として、広島から大阪に向かった。
夫は「あなたは大阪にすぐに駆けつけるべきである」という私の強固な意志に動かされ、大阪に自力で向かうと言ってくれた。それで私は博多に戻らず、そのまま一足先に大阪へ向かった。
その道中も含め、可能な限り兄の為にトンレンの瞑想をした。
多くの人が兄の為に祈っている事を背中で受け取り、呼吸に変えて、兄に届けようと務めた。
大阪に到着し病室に駆けつけた。
兄の顔は脳からの出血で晴れ上がり、もはや面影はほとんど失われていた。
義母の元に駆け寄り、抱きしめると義母は私の腕にすがって涙を流した。
兄がもう助かる見込みのない状態にある事は、一目でわかった。
それでも義姉、義母、兄の妻は、奇蹟の回復を諦めようとしなかった。言葉をかけ続け、腕をさすり、手を握って、ベッドの傍らに立ち続けて、内部で出血の続く頭部を氷水で冷やしたタオルで冷やし続けた。義姉はすでに2晩、徹夜し、食事もほとんど取っていない状態で献身的な看護を続けていた。
兄の家族すべてが、嘆き、痛み、兄の死の現実に抵抗を続けていた。
私だけが、兄の死を受け入れていた。
死に逝く兄の魂が平安である事と、その来世への旅立ちがせめて今生より良いものになるようにと願い続けていた。
今そこで死に瀕した苦しみの中にある兄が、ほんの一呼吸だけでも安らぐようにと願い続け、彼の苦しみや死への恐怖を呼吸で受け取って、私の体を通じて安らぎに変えて呼吸で返す、という瞑想を続けていた。
やがて夫と娘が夜更けに到着した。これで兄の血族が全員揃った。
「頑張ってるね!大丈夫だよ!良くなってきてるよ!」「みんなそばにいるからね!大丈夫だよ!頑張って!」と励ます家族とは明らかに違う立場の私だった。だからこそ、静かに、家族の邪魔にならないように振る舞う事にも気遣った。生還を願う家族と、転生を見守ろうとする私ではあまりにも向き合い方が違う。家族にとって、私は兄の死を待つ存在にも思えるだろう。だから私は静かに、何も言わず兄の手を握り、夫とあまりにも似ているその指や、足の形を見ていた。そして彼の体を通じて、この人が私の愛する夫と血を分けた兄弟であることを深く感じていた。
やがて兄の自発呼吸はとまり、呼吸器による強制呼吸だけで心臓を支える状態になった。もしこの状態で容態が安定してしまえば、植物状態となる。
家族が一瞬、病室を離れた時にだけ、私は兄の耳元で涙を流しささやいた。
「お兄さん。次には、楽しむ事や休む事を覚える為の人生を送ってね。待ってます。またお会いしましょうね」
証券マンとして、最後まで張りつめた人生を送った兄だった。楽しむ事を知らず、自分を幸福にする事から背を向けて、ただただ周囲の人や社会の事、日本の事を考えて走り続けた企業戦士だった。
それを思うと、兄が哀れでならなかった。兄が元気なうちに、兄の心に寄り添う機会がなかった事が残念でたまらなかった。
翌日の午後3時18分、倒れてから丸4日後、兄の心臓は静かに止まった。
体の機能が、徐々に徐々に失われていくさまを、兄は示しながら死んだ。
亡くなる数時間前には、血圧は30という状態で、心拍の早さで下がった血圧を補うために懸命に生きていた。兄の心臓は、司令塔である脳を失っても、孤軍奮闘しながら、生命を最後まで支えようと働いた。そして、最後まで諦めず鼓動を続け、ついに力尽きて静かに止まった。
大阪で生まれ、全国を転々としながら、最後には大阪で死んだ。
オリンピックの年に生まれ、オリンピックの年に死んだ。
倒れた時刻とほぼ同じ時刻に、死んだ。
兄は、その日倒れる事など夢にも思わなかっただろう。
最後に取った昼食が、自分の生涯最後の食事になる事など思いもしなかっただろう。
朝出てきた家に、いつものように帰るつもりで出てきた事だろう。
通い慣れた道を、いつものように疲れた足取りで戻るつもりでいただろう。
けれども突然に、兄の人生は終わった。
仮通夜を家族と共に過ごし、私と娘は先に福岡に戻った。
通夜にも葬儀にも、職場から多くの人が駆けつけた。
突然に親しい同僚を失った彼らの、惜しむ声はいかばかりだっただろうか。
人の明日は、誰にもわからない。
その本人でさえも。
私はいつも、明日死ぬとしても、という気持ちで生きている。
兄の死に際して、またその思いを深くした。
兄の冥福と幸福な来世への転生を心から願う。
会員さんの二人が、深夜の長距離バスで一緒に旅してくれた事は嬉しかった。
バリーさんと再会した瞬間、私がこうしてバリーさんにこの日会う事は、必然のように思った。私がそこへ加わる事が、あらかじめ設定されていたかのような調和を感じた。
西光寺の素晴らしい自然に囲まれ、一日目のセッションが終わった。宿へ向かい、夜行バスで疲れた体をやっと横たえて休憩した。福岡に置いてきた娘の事がきがかりで電話すると、夫の兄が会社で倒れ、危篤状態になったという。
夫は大阪の兄の処へ駆けつけるつもりはない様子だった。
私にすれば、実の兄が危篤というのに駆けつけないという話はあり得ない。
すぐに大阪へ向かうようにと説得するが、彼はなかなかうんと言わない。
一晩、とにかく考えるようにと言って、電話を切ったが、私の頭の中では、彼を、息のあるうちに兄の元へ連れて行かなければならないという使命で一杯だった。
とにかく広島と行ってもかなりの田舎で、電車がとても少ないので、すぐにその場で動く事が出来ない。時刻表を調べ、翌日のワークを昼まででキャンセルする事にした。
朝になり、夫に電話した。
「とにかくあなたが何を言おうが大阪には連れて行くから。そのつもりで準備をして待っていて」
アスペルガーの夫はこういう緊急事態に対応する柔軟性も社会常識もまったく持ち合わせていない。私が彼の行動を手配しなければ彼は自分から大阪に行くとは言い出さないのだ。
西光寺へ向かい、バリーさんと少し話す時間をもらった。
私がこのセッションの中で聞きたかった質問に答えてもらい、死に瀕した兄の為に、私が成すべき事は何かの教えを乞うた。
バリーさんと他の参加メンバー全員が、兄やショックを受けている家族の為に祈ってくれるという。
私は、彼らの祈りを兄に届ける媒体として、広島から大阪に向かった。
夫は「あなたは大阪にすぐに駆けつけるべきである」という私の強固な意志に動かされ、大阪に自力で向かうと言ってくれた。それで私は博多に戻らず、そのまま一足先に大阪へ向かった。
その道中も含め、可能な限り兄の為にトンレンの瞑想をした。
多くの人が兄の為に祈っている事を背中で受け取り、呼吸に変えて、兄に届けようと務めた。
大阪に到着し病室に駆けつけた。
兄の顔は脳からの出血で晴れ上がり、もはや面影はほとんど失われていた。
義母の元に駆け寄り、抱きしめると義母は私の腕にすがって涙を流した。
兄がもう助かる見込みのない状態にある事は、一目でわかった。
それでも義姉、義母、兄の妻は、奇蹟の回復を諦めようとしなかった。言葉をかけ続け、腕をさすり、手を握って、ベッドの傍らに立ち続けて、内部で出血の続く頭部を氷水で冷やしたタオルで冷やし続けた。義姉はすでに2晩、徹夜し、食事もほとんど取っていない状態で献身的な看護を続けていた。
兄の家族すべてが、嘆き、痛み、兄の死の現実に抵抗を続けていた。
私だけが、兄の死を受け入れていた。
死に逝く兄の魂が平安である事と、その来世への旅立ちがせめて今生より良いものになるようにと願い続けていた。
今そこで死に瀕した苦しみの中にある兄が、ほんの一呼吸だけでも安らぐようにと願い続け、彼の苦しみや死への恐怖を呼吸で受け取って、私の体を通じて安らぎに変えて呼吸で返す、という瞑想を続けていた。
やがて夫と娘が夜更けに到着した。これで兄の血族が全員揃った。
「頑張ってるね!大丈夫だよ!良くなってきてるよ!」「みんなそばにいるからね!大丈夫だよ!頑張って!」と励ます家族とは明らかに違う立場の私だった。だからこそ、静かに、家族の邪魔にならないように振る舞う事にも気遣った。生還を願う家族と、転生を見守ろうとする私ではあまりにも向き合い方が違う。家族にとって、私は兄の死を待つ存在にも思えるだろう。だから私は静かに、何も言わず兄の手を握り、夫とあまりにも似ているその指や、足の形を見ていた。そして彼の体を通じて、この人が私の愛する夫と血を分けた兄弟であることを深く感じていた。
やがて兄の自発呼吸はとまり、呼吸器による強制呼吸だけで心臓を支える状態になった。もしこの状態で容態が安定してしまえば、植物状態となる。
家族が一瞬、病室を離れた時にだけ、私は兄の耳元で涙を流しささやいた。
「お兄さん。次には、楽しむ事や休む事を覚える為の人生を送ってね。待ってます。またお会いしましょうね」
証券マンとして、最後まで張りつめた人生を送った兄だった。楽しむ事を知らず、自分を幸福にする事から背を向けて、ただただ周囲の人や社会の事、日本の事を考えて走り続けた企業戦士だった。
それを思うと、兄が哀れでならなかった。兄が元気なうちに、兄の心に寄り添う機会がなかった事が残念でたまらなかった。
翌日の午後3時18分、倒れてから丸4日後、兄の心臓は静かに止まった。
体の機能が、徐々に徐々に失われていくさまを、兄は示しながら死んだ。
亡くなる数時間前には、血圧は30という状態で、心拍の早さで下がった血圧を補うために懸命に生きていた。兄の心臓は、司令塔である脳を失っても、孤軍奮闘しながら、生命を最後まで支えようと働いた。そして、最後まで諦めず鼓動を続け、ついに力尽きて静かに止まった。
大阪で生まれ、全国を転々としながら、最後には大阪で死んだ。
オリンピックの年に生まれ、オリンピックの年に死んだ。
倒れた時刻とほぼ同じ時刻に、死んだ。
兄は、その日倒れる事など夢にも思わなかっただろう。
最後に取った昼食が、自分の生涯最後の食事になる事など思いもしなかっただろう。
朝出てきた家に、いつものように帰るつもりで出てきた事だろう。
通い慣れた道を、いつものように疲れた足取りで戻るつもりでいただろう。
けれども突然に、兄の人生は終わった。
仮通夜を家族と共に過ごし、私と娘は先に福岡に戻った。
通夜にも葬儀にも、職場から多くの人が駆けつけた。
突然に親しい同僚を失った彼らの、惜しむ声はいかばかりだっただろうか。
人の明日は、誰にもわからない。
その本人でさえも。
私はいつも、明日死ぬとしても、という気持ちで生きている。
兄の死に際して、またその思いを深くした。
兄の冥福と幸福な来世への転生を心から願う。
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