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輪廻転生は 仏教徒にとって一番基本になっている信条だが
私は 自分が転生した記憶を持てていない以上 転生を経験的に確信していない。
それでいて 今家族であるものは 前世のどこかで縁のあったものたちだという考え方や バリー博士に感じた 言いようの無い大きな懐かしさと安堵感が 転生前に知りあいだったからだ というような考えには 感覚はとても素直に納得する面がある。

そして、死んだ後が無であるという考えには 感覚としてどうしても納得が行かない。
私には肉体が死んだ後、肉体以外の自分自身は宇宙の無限意識に属するという感覚がある。生きている今も意識の根は宇宙に属していると感じるのだから 肉体が滅んだらその根を辿り元居た場所へ帰るというのは当然の感じがする。

宇宙の無限意識に属していて、肉体を持たない状態、もしかしたらそれを転生前の状態と言うのかも知れない、と考えている。

死んだ後がただの無なら それは楽だよね〜と思う。どうせ無になるんだったら苦しい時には死ぬのが一番だ。だが死んだら無だと思っていて死んだ後、なにかあったらどうするのだろう。無だ、無だ、と言っている人はそこの処をどう考えているのか聞いてみたい。無なら何も怖くは無いだろう。「無を感じる」ならばそれは途方もなく恐ろしい事だが、感じるという点ですでに無ではなく、魂とでも便宜的に呼ぶ意識(認識システム)が存在する事を内包しており、「死んだら無」に矛盾が生じている。
私の父も 死んだら無、と言う割には死ぬのは怖いそうだし、盆に彼岸に、念仏を唱えている。

私は何度も何度も 死んだら楽になるのなら今すぐに死にたい と思っていたが、死んで楽になる事はないと「感じて」いた。
死にたいのは 楽になりたい一心なのだから その主目的が叶わないのでは死ぬ意味そのものを失うではないか。それじゃあ、死ねないじゃないか。

自分で死んだら地獄に行くよ、だから一生懸命生きなきゃだめだよ、というのは まじめに生きるよう仕向けるための 社会にとって都合のよい概念だとも 長年思っていた。
確かにそれ(地獄や天国の存在)を説くことで 人の生き方にバイアスを掛けることが出来る。

だが、ただの概念ではないようだ、という事も最近、感じている。

宗教と切り離して考えても、人の魂の存在を証明するという科学的命題は残る。
それに続いて、魂があるのなら 死後 魂はどこへ行くのか という命題も生じる。

あらゆる国のあらゆる文化が、自死を拒んでいる。
自死を推進する文化では、生き死にが民族の存続に必要であるなどの 極めて差し迫った状況がその背景にある。そして死には必ずその報償が定義されている。たとえば日本の戦国時代は自死は当然であったが、転生、つまり来世が信じられていた。日本の武士道では死に方は生き方の一部として組み込まれている。尊厳を守って自死する事は生き様を完成させる事でもあった。
インカなどの古代文明では 神へのいけにえとして自らの心臓を捧げた勇者は 神にもっとも近いものへ転生すると信じられている。もっとも近い世界大戦中の日本でも戦地で死んだら靖国に行く、という報償が信じられていた。

死後に何かがあるとすれば 自分の生まれる前にも何かあると考えるのが自然である。前世や死後の無限の世界は存在するのか。

転生を証明するための何かメソッドが、おそらくチベットにはあると思われる。
現在のダライ・ラマ14世は貧しい農民の子として生まれ2才の時にダライ・ラマ13世の転生者であると認定され、法王庁へ上がった。わずか2才の子供をみて前法王の転生者であると認定するからにはそれなりのメソッドが確立されている事は間違いない。

ぜひとも機会を得て、それを知りたいと思っている。

ところで、私は幽霊にはまったく関心がない。
スピリチュアルな意味での霊的な感性は開いているが、霊界とか浮遊霊とか、地縛霊とか、先祖霊とか、その類いは一切感じないし、見えも聞こえもしない。

何か、今生に思いを残して死ぬという事はあるだろう。
それで転生がうまく行かなくて、不自然に霊がとどまってしまうという事はあるかもしれない。どんなシステムにも例外によるエラーはある。死んだら普通は現世を離れるのに、何かのエラーで現世に魂だけ留まってしまうという可能性は考えられる。

だが、残念ながら私は死んだ人に関心がない。今、生きているものが私の担当だ。
死んだ人に助けを求められても応じる気はないし、そんなものより生きている命を助けたい。だから見ないし、聞こえないのだろうと思う。

幽霊はいるのかも知れない。心霊スポットに行けば、うようよいるのかも知れない。それでも私はその霊たちの相手をするつもりがまったくないので、おそらく平気だ。

霊が自分に危害を及ぼしたらどうする、という事を多くの人は恐れている。霊にはかなわないというイメージが頭に擦り込まれているからだ。だが私は霊より現世では生きている私の方が圧倒的に強者だと思っている。霊のやつは、ぴしぱしと音をさせたり、せいぜい電子機器を壊したりする程度だというではないか。そんなものは蚊にさされる程度の話だ。恐れるに足らずである。

そう思っている限り、私は霊にたいして強者だ。だから霊障とかいう現象も決して起きない。私のご先祖様は、私に何か知らせたいなら足を痛くしたり肩を重くしたりする必要はない。ちゃんと話に来ていただこう。私の方は会話チャンネルを常に開ける用意がある。

くもやゴキブリが怖いというのと幽霊が怖いというのはとても似ている。
自分はそれに敵わないと、思い込んでいるのだ。
くももゴキブリも、人間が踏みつぶせる程度の非力な存在なのだ。
霊もせいぜい写真に写ったりするくらいの、それほどまでに非力なので、とても可哀想に思う事はある。手を合わせて冥福を祈る事はまったく厭わない。しかし霊の救済は担当外だ。

幽霊に告ぐ。
私はあなたがたの担当ではない。
だから助けが必要ならば ちゃんと修業を積んだ坊さんの処へ行きなさい。
私はあなた方の相手を一切しない。

私は生きているもので 手いっぱいだ。

私の霊的な感性は、もっぱら生きているものとの交信にのみ開かれている。
そういった感性は、自分でチャンネルを選ぶように出来ているのかもしれない。
だから幽霊を見ている人は 多分無自覚かもしれないが 幽霊を見たいのだろう。
幽霊はいない、とは言っていない。いてもいなくても、私はそれには無関心だ、というだけである。


蛇足だが もう一つ、興味深い事がある。
「どうやったら超能力が身に付くか」
それは 「そういう能力が当然誰にでもある」 と 信じきる事である。

私は 動物と意識を交信することが可能である と信じきった時(意識が変わった時)から いわゆる霊的な感性が開かれてしまった。

そして人の話を聞きながら その人の記憶を映像として眺めていたりその人が話す前に情報を得ていたり という奇妙すぎる事が起きるようになってしまった。
いつもではない。特別な訓練もしていないから その能力に磨きをかけているわけでもない。出来ればそれは封印しておくのが都合が良い。

そういう事が起こる度(やれやれ…困ったなあ…)と内心でため息をついている。

一般的多くの人に見えないものが見え、聞こえない音が聞こえる人は 一般社会では精神病なのだから。私はそれをよく知っている。

やれやれ…こまったものだ。
こういう事を言う人は、友達が減ってしまうのだ。
だから 黙っておくのが得策だ…。
そして 私は「見える系」の友達を増やすつもりも毛頭ないのだ…。


私を精神病だと思う人もいるかも知れない。
だが そう見えるだろうか?
または 証明できないのをいいことに 人の心につけ入る詐欺師か?

疑われる事の煩わしさからは、出来るだけ免れたい。
疑いを晴らすことに割く余力は、私にはない。
助けを必要としている人が多すぎるのだから 私はそこに全力を注ぎたい。


上記の理由で 釈明や説明をしないこともあります。
私が説明責任を果たしていないなら ごめんなさい。世間様。

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