2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
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情報に関して私はとても慎重な態度を取る。
そしてあらゆる事を簡単には信用しない。
それを敢えて、便宜的に、疑り深い、と表現しよう。
聞いた話は自分なりの調査と検証を通過してからでないと 受け入れない。
だが人間不信というのとはちょっと違う。
私は ひたすら 世界を間違いなく、精密に正確に理解したいのだ。
誰かが何か、私に新しい情報をくれたとする。
たとえば、新しいガンの治療方法が出来たとか、今度の大臣はこういう人らしいとか。
私は「ほうほう、なるほど、それはそれは」と肯定的にありがたく受け取っているので、疑り深いという表現はいささか気に入らないのだが。
ありがたく受け取った新しい情報は、私の頭の中で「新規情報トレイ」にストックされる。このトレイに入っている情報は、後で検証作業に掛けられる。ニュースソースを読み、必要なら専門用語を調べ、ソースを書いた人が誰かなのか、情報の出元はどこかなど、わかる限りの情報を並べる。その上で「極めて真実と思われる(取り込み可)」とか「世間話程度に不純物を含む(人との話のタネに使用し適当に忘れて良い)」とか「まゆつばである(不正確情報としてストック)」という具合に、実際にはもっと細かい単位だけれどもそれぞれを吟味した結果が出る。
結果の中で、一番多い結果は、「情報不足につき検証続行」というものだ。
得た情報を検証するための情報が不足しているため、答えが出せないというもので、こういう情報の吟味は引き続き情報を追加しながら継続しなければならない。
世の中の情報で、一つのテーマに関して、私の思う十分な情報量で提供されている情報は、情報全体のなかの1%にも満たないと感じる。だから、一つのニュースを読むにも、実際にはいろいろな処に転がっている別々の情報を多数組み合わせて理解する必要がある。だから自分の脳の中に、これまで出会った信頼できる正確な情報をどれほどストックしているか、が理解の速度の鍵になる。
世間の注目を集める事件が起こると、私は必ず全ての局の内容を比較する。同じ内容でも伝え方がまったく違うニュアンスを帯びているからだ。
ニュースを一つ読んでわかったような気になるのは非常に危ないのだ。いや、一般の人に危険はないと思うが、世界を精密に正確に理解したい私としては、そのように「わかった気になる」事はとても危険なことなのだ。
また、情報は単体ではほぼ意味を成さない。
情報はそれを扱う人間によって価値を持つものに変わる。
だから情報を受け取った人間の頭脳の働き方一つで、その情報は別の情報とリンクし、新しい機能を担ったりもする。
脳の中の神経軸索が、縦横無尽にリンクして、過去の情報と今新たに得た信頼の置ける情報を組み合わせ、別の何かを形成する。
日々 脳内ではそれの繰り返しだ。
だから、私は正確で信頼できる情報だけをインプットするよう心がけている。
そういう作業が、呼吸と同じレベルで当たり前になっているので 私は常に考えているし調べているとも言える。こういう事を書くと自分がコンピュータソフトのように無感情で、無機質なようにも思える。確かにそういう一面が、私にはあるようだ。
そして、その作業でいちばん手間をとるのは、「話し言葉による情報群」である。新聞やネットの活字なら情報は変化しない。ところが、人間の話す情報は刻々とニュアンスを変えていく。「殺人があったらしい」と話し始めた人が話の中で「新聞にそう書いてあった」と言うとしたら、あったらしいという曖昧な情報が、新聞に載っている事実というほぼ確定の情報に変わった訳である。確定する方向に変化するのはまだいいが、話すほど曖昧になって不確かになったり、急に情報の内容が変わったりする人もいる。生きている人間ほど油断のならないエキサイティングな情報ソースはほかにない。
話し言葉による情報は、その他の情報とは明らかに別枠で扱う必要がある。
情報を集めるというよりは、そのやりとりを楽しむためにある、というのが私の基本スタンスになっている。
「あ、またニュアンスが変わった」とか「内容そのものが変わった」とか、そういう事を刻々と体験するのもまた、非常に面白く、人間という存在を正確に理解したいという欲求を満たしていくものである。
そして私は人に情報の確かさを要求しない。
人はあいまいでいい加減なのが正常な状態だ。
それは豊かさとも言える。
その豊かさを楽しむ事が、こころを見るという事である。
私には、すべての現象を科学的にまたは客観的に精密にとらえようとする科学者のような醒めた視点と、感性にすべてをゆだね感覚や直感で感受する事への絶対的信頼を置く、世間では非科学的と言われる視点の両方が極めて拮抗した状態で共存している。
これは意外と、珍しいことなのかもしれない。
多くの人は、そのどちらかの視点に偏っている事が多いからだ。
文系? 理系? とか。
精神世界系? 科学絶対主義系? とか。
私をどちらかにカテゴライズしたがる人は少なくないようだ。
どちらかに片づけて、安心したいのだろう。
私はとても学術的で科学的な事も言うし、非科学的ななんの根拠もないような事も言う。
だが私の中では、それらは矛盾していないし、一つなのだ。
科学的である事が絶対的真実と捉えられがちな主流にたいして、精神的なもの、非科学的なものの価値を声高に主張しようとする副流が最近台頭している。オーラの泉などの番組はその動きを象徴するものである。
私に、オーラの泉はどう思いますかと訊ねてきた人は複数いた。
これも、私が「どっちよりの人間なのか」知りたいのだろう。
私はどっちよりでもない。
美輪明宏の言うことも納得が行くし江原なんとかの言うことに疑問を呈している事もある。特に江原なんとかはテレビというフィルター越しで見る限りの情報からだが 私は彼を信用しない。彼の言うことには 真実の煌めきを感じない。波長が会わないとでも言うのだろうか。
しかし彼に救われている人は多い。彼のしている事に価値はあるだろう。彼の言う前世や先祖の霊の話の証明はできないとしても、その言葉で救われる人は少なくないのだから。言われて納得できるものならどんなもので納得しても良いのだ。
結果が良いものは歓迎すればよい。
証明できることだけが真実ではない。
証明できない事だが真実である、という事は、あなたの回りにも山ほどあるだろう。
昨日あなたが歯を磨いたかどうか、他人に証明できるだろうか。
出来なくても、磨いたのなら磨いたのが真実だ。
昨日あなたが感じた寂しさは事実だろうか。
だれにも証明はできなくとも、あなたが感じたのならそれは事実だろう。
だがあなたが「恋人はうそをついている」と感じたならそれは事実だろうか。
あなたが感じた感覚(疑惑)はあなたに起きた事実だが、恋人が嘘をついた証明にはならないし、事実とは限らない。
私が人と話している最中に その人の過去を映像のように見ているとして
それは証明できないが私の中では起こっている事実と言えるだろう。
だがその映像が本当にその人の過去なのかどうかは事実ではないかもしれない。
私の見ているものをその人に見せて検証するしかないが、その方法がない。
「母が私にセーターをくれました」と言っただけで赤いセーターが見えているというような事がしばしばある。何故赤なのか知らない。だがそう見える。
「素敵な色ですね。赤はあなたによく似合います」とうっかり言おうものなら「何故赤だとわかったんですか」という話になってしまう。もちろん私は証明できない事をうかつに口に出したりはしない。カウンセラーに与えられる職業的要求とは 科学的に信頼できる事が第一だからだ。
私が妙にスピリチュアルっぽい事を言ってしまうと、人によってはそれを喜ぶが、人によっては気味悪がったり、怪しんだり怖がったりするだろう。
まあそれを人に話すと病気だとか 怪しい類いの人だと思われるのがオチなのだ。
だから何か見えても聞こえても、人にはあまり話さない。
私を病人だと思う人もいるかもしれない。
だがその人はそれを証明できるだろうか?
事実と証明できるかどうかは、まったく無関係の別の問題なのである。
同様に、科学と非科学は、まったく矛盾なく両立できる事を多数含む、まったく別の問題である。
私は科学的であることをやめないし、同時に非科学的であることもやめない。
人に見せるものは 私のごく一部であって 私の全体とは違っているかもしれない。
そしてあらゆる事を簡単には信用しない。
それを敢えて、便宜的に、疑り深い、と表現しよう。
聞いた話は自分なりの調査と検証を通過してからでないと 受け入れない。
だが人間不信というのとはちょっと違う。
私は ひたすら 世界を間違いなく、精密に正確に理解したいのだ。
誰かが何か、私に新しい情報をくれたとする。
たとえば、新しいガンの治療方法が出来たとか、今度の大臣はこういう人らしいとか。
私は「ほうほう、なるほど、それはそれは」と肯定的にありがたく受け取っているので、疑り深いという表現はいささか気に入らないのだが。
ありがたく受け取った新しい情報は、私の頭の中で「新規情報トレイ」にストックされる。このトレイに入っている情報は、後で検証作業に掛けられる。ニュースソースを読み、必要なら専門用語を調べ、ソースを書いた人が誰かなのか、情報の出元はどこかなど、わかる限りの情報を並べる。その上で「極めて真実と思われる(取り込み可)」とか「世間話程度に不純物を含む(人との話のタネに使用し適当に忘れて良い)」とか「まゆつばである(不正確情報としてストック)」という具合に、実際にはもっと細かい単位だけれどもそれぞれを吟味した結果が出る。
結果の中で、一番多い結果は、「情報不足につき検証続行」というものだ。
得た情報を検証するための情報が不足しているため、答えが出せないというもので、こういう情報の吟味は引き続き情報を追加しながら継続しなければならない。
世の中の情報で、一つのテーマに関して、私の思う十分な情報量で提供されている情報は、情報全体のなかの1%にも満たないと感じる。だから、一つのニュースを読むにも、実際にはいろいろな処に転がっている別々の情報を多数組み合わせて理解する必要がある。だから自分の脳の中に、これまで出会った信頼できる正確な情報をどれほどストックしているか、が理解の速度の鍵になる。
世間の注目を集める事件が起こると、私は必ず全ての局の内容を比較する。同じ内容でも伝え方がまったく違うニュアンスを帯びているからだ。
ニュースを一つ読んでわかったような気になるのは非常に危ないのだ。いや、一般の人に危険はないと思うが、世界を精密に正確に理解したい私としては、そのように「わかった気になる」事はとても危険なことなのだ。
また、情報は単体ではほぼ意味を成さない。
情報はそれを扱う人間によって価値を持つものに変わる。
だから情報を受け取った人間の頭脳の働き方一つで、その情報は別の情報とリンクし、新しい機能を担ったりもする。
脳の中の神経軸索が、縦横無尽にリンクして、過去の情報と今新たに得た信頼の置ける情報を組み合わせ、別の何かを形成する。
日々 脳内ではそれの繰り返しだ。
だから、私は正確で信頼できる情報だけをインプットするよう心がけている。
そういう作業が、呼吸と同じレベルで当たり前になっているので 私は常に考えているし調べているとも言える。こういう事を書くと自分がコンピュータソフトのように無感情で、無機質なようにも思える。確かにそういう一面が、私にはあるようだ。
そして、その作業でいちばん手間をとるのは、「話し言葉による情報群」である。新聞やネットの活字なら情報は変化しない。ところが、人間の話す情報は刻々とニュアンスを変えていく。「殺人があったらしい」と話し始めた人が話の中で「新聞にそう書いてあった」と言うとしたら、あったらしいという曖昧な情報が、新聞に載っている事実というほぼ確定の情報に変わった訳である。確定する方向に変化するのはまだいいが、話すほど曖昧になって不確かになったり、急に情報の内容が変わったりする人もいる。生きている人間ほど油断のならないエキサイティングな情報ソースはほかにない。
話し言葉による情報は、その他の情報とは明らかに別枠で扱う必要がある。
情報を集めるというよりは、そのやりとりを楽しむためにある、というのが私の基本スタンスになっている。
「あ、またニュアンスが変わった」とか「内容そのものが変わった」とか、そういう事を刻々と体験するのもまた、非常に面白く、人間という存在を正確に理解したいという欲求を満たしていくものである。
そして私は人に情報の確かさを要求しない。
人はあいまいでいい加減なのが正常な状態だ。
それは豊かさとも言える。
その豊かさを楽しむ事が、こころを見るという事である。
私には、すべての現象を科学的にまたは客観的に精密にとらえようとする科学者のような醒めた視点と、感性にすべてをゆだね感覚や直感で感受する事への絶対的信頼を置く、世間では非科学的と言われる視点の両方が極めて拮抗した状態で共存している。
これは意外と、珍しいことなのかもしれない。
多くの人は、そのどちらかの視点に偏っている事が多いからだ。
文系? 理系? とか。
精神世界系? 科学絶対主義系? とか。
私をどちらかにカテゴライズしたがる人は少なくないようだ。
どちらかに片づけて、安心したいのだろう。
私はとても学術的で科学的な事も言うし、非科学的ななんの根拠もないような事も言う。
だが私の中では、それらは矛盾していないし、一つなのだ。
科学的である事が絶対的真実と捉えられがちな主流にたいして、精神的なもの、非科学的なものの価値を声高に主張しようとする副流が最近台頭している。オーラの泉などの番組はその動きを象徴するものである。
私に、オーラの泉はどう思いますかと訊ねてきた人は複数いた。
これも、私が「どっちよりの人間なのか」知りたいのだろう。
私はどっちよりでもない。
美輪明宏の言うことも納得が行くし江原なんとかの言うことに疑問を呈している事もある。特に江原なんとかはテレビというフィルター越しで見る限りの情報からだが 私は彼を信用しない。彼の言うことには 真実の煌めきを感じない。波長が会わないとでも言うのだろうか。
しかし彼に救われている人は多い。彼のしている事に価値はあるだろう。彼の言う前世や先祖の霊の話の証明はできないとしても、その言葉で救われる人は少なくないのだから。言われて納得できるものならどんなもので納得しても良いのだ。
結果が良いものは歓迎すればよい。
証明できることだけが真実ではない。
証明できない事だが真実である、という事は、あなたの回りにも山ほどあるだろう。
昨日あなたが歯を磨いたかどうか、他人に証明できるだろうか。
出来なくても、磨いたのなら磨いたのが真実だ。
昨日あなたが感じた寂しさは事実だろうか。
だれにも証明はできなくとも、あなたが感じたのならそれは事実だろう。
だがあなたが「恋人はうそをついている」と感じたならそれは事実だろうか。
あなたが感じた感覚(疑惑)はあなたに起きた事実だが、恋人が嘘をついた証明にはならないし、事実とは限らない。
私が人と話している最中に その人の過去を映像のように見ているとして
それは証明できないが私の中では起こっている事実と言えるだろう。
だがその映像が本当にその人の過去なのかどうかは事実ではないかもしれない。
私の見ているものをその人に見せて検証するしかないが、その方法がない。
「母が私にセーターをくれました」と言っただけで赤いセーターが見えているというような事がしばしばある。何故赤なのか知らない。だがそう見える。
「素敵な色ですね。赤はあなたによく似合います」とうっかり言おうものなら「何故赤だとわかったんですか」という話になってしまう。もちろん私は証明できない事をうかつに口に出したりはしない。カウンセラーに与えられる職業的要求とは 科学的に信頼できる事が第一だからだ。
私が妙にスピリチュアルっぽい事を言ってしまうと、人によってはそれを喜ぶが、人によっては気味悪がったり、怪しんだり怖がったりするだろう。
まあそれを人に話すと病気だとか 怪しい類いの人だと思われるのがオチなのだ。
だから何か見えても聞こえても、人にはあまり話さない。
私を病人だと思う人もいるかもしれない。
だがその人はそれを証明できるだろうか?
事実と証明できるかどうかは、まったく無関係の別の問題なのである。
同様に、科学と非科学は、まったく矛盾なく両立できる事を多数含む、まったく別の問題である。
私は科学的であることをやめないし、同時に非科学的であることもやめない。
人に見せるものは 私のごく一部であって 私の全体とは違っているかもしれない。
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