2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
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自分が特別だと思って誇ったことはなくむしろ劣等感の方が大きかったのだが
どうやらこれまでの経験や自分に起きた出来事、人の意見などの総合から導き出された結果では、私は相当「頭がいい」部類らしい。
と、こう書くと、直ちに「頭がいい」事を自慢していると思う人も少なくないかもしれないと懸念する。「頭がいい」の定義を、便宜的に「思考の回転速度が一般平均より高速であること」とする。
日本では 自分の能力について それがハイレベルである事を自ら言うとひどいバッシングに遭うという公式が成立する。金メダルをとった荒川静香でさえ、「私の滑りは世界でもっとも美しいでしょう」と言ったらたちまち世間の女性から総すかんを食らうだろう。彼女の滑りが世界でもっとも美しく技巧的に卓越したものである事は事実なのに、自分でそれを口にすることは禁止されている。それが世間のルールである。
しかし敢えてタブーを乗り越えて 私の思うことをそのまま公開してみようと思う。
「頭がいい」を便宜上、「思考の回転速度が一般平均より高速であること」とした場合、これは医学的には「知能が高い」と定義される。
知能指数を計測するためのテストはもともと知能発達の遅れを発見するために開発されたものなので、高いポイントが測定出たからと言ってどうという事もないだろうが、とりあえず私の知能指数は4才の頃には160以上、と結果が出ていたそうだ(テストの種類や、偏差は不明)。
それでなのか、IQ本やテレビの不正確なお遊び程度のテストを遊びでやってみても、現在に至るまでいつやってみてもほぼ最上位ランクの値を出す。
ちなみにIQ160というのは成人用のIQテストなら、ほぼ上限数値で、出現率は3万人に一人、上位0.003%という事になる。
ギフテッドチャイルドの中でもこの数値は「並外れたギフテッド」と認定される。
私がギフテッドチャイルドの中でも特別なギフトだと主張したい訳ではない。しかし、少なめに見ても、私の経験した人生は平均とか平凡とかにはどうしても分類出来ないだろうと思う。
そもそも私は家庭学習を小学生の頃から一度もまともにやっていない。
それでも勉強で困った事はないし、成績は努力しなくても良かった。
高校時代、全国統一模試の国語で福岡県1位を連続2回、取った事もある。
連続2回1位という事で、まぐれでとれた成績ではないと証明した事になり周囲の注目が嫌になって それ以降成績は低迷した。私は自ら良い成績を残すことを放棄したのである。大嫌いな学校にそれ以上介入されるのはまっぴらだったからだ。かわりに友達の成績アップのコーチをした。
幼い頃から長文を記憶することも苦もなく出来たし、拒絶反応を示さない限り勉強で苦労はしない。(数学はごく最近まで私の精神的アレルギー物質だったのだが)
家族で映画館にでかけて見た映画のセリフを最初から最後まで全部覚えてしまった事もあるし、学校では昨夜見た面白いドラマを全シーンセリフそのままに再現するという芸もよくやり、「ガラスの仮面」と友達に命名された事もある。
私は特に聴覚優位タイプなので 音で聞いたことは録音されたもののようにそのまま記憶する。思い出すときにはその音を再生ボタンを押して聞いている感じなのだ。
こういう話をすると世間では自慢と認識される。
私は事実を話しているだけだが、そこに自慢というエゴを嗅ぎ取るのはその人にエゴがあるからではないのか。私を鏡にしているだけではないだろうか。
もちろん普段は 相手を不快にさせる事も望まないので 世間のマナー通り、謙遜の態度も使い分けている。
私は自分の知能を自慢することに価値を持たない。
人は自分に出来ないことを人が出来ると羨むという心理があるが、私も自分に可能な模試1位より、マラソンでいつも上位3割に入れる友人のほうがよほど羨ましかったし、スタイルのいい友人がその薄っぺらなウエストを強調し制服を見事に着こなしている事の方がよほど羨ましかった。
私は自分の知能の高さで得をすることはほとんどなかったと思っている。だからこの知能を自慢したいという動機そのものを持たない。
そして、まあ、人間とはそういうものだなと思う。
人を羨む事の無意味さを思い、やめる。
自慢も、ねたみも、なんの役にも立ちはしない。
自慢がいけないから、ねたみがいけないから という道徳的観点ではなく 無駄な事に精神エネルギーを割くのがもったいない という感覚が私の中には人生早期からあった。
幸せな事なら誰かに共有して欲しいし、分け合いたいが、自分が優秀である事を自慢する意味は感じない。優秀なら、周りの人を助けるためにその余っている能力を活かせばよいと思うだけだ。
自分が生まれつき持っている能力を人に自慢する悪阻かさは、車イスの人の前で「私は走れますよ!すごいでしょう」と小躍りしている光景に等しい。
…なんて馬鹿な光景だろう。間抜けすぎて恥ずかしくなる。
私が走れるのは当たり前で、車イスの人が自分の足で歩くこともままならないことも当たり前なのだ。どっちが上でも下でもなく、状態が違うだけだ。
私は走ったりできる健康で優秀な足で、その人の車イスを押して歩いてあげられるのだから、走れない人の目の前で小躍りするような愚かで恥ずかしい真似をせず 車イスの人を助けてあげる方がよほど気持ちがいいし幸せだ。
知能の高い人間は ほかの人の思いつかない事を思いつき 行動し 新しい可能性を開く為に存在している。その役割を果せば みなの幸せに繋がる。
人は決して 公平など 与えられていない。
世の中は不公平なのだ。そしてそれが自然界の 正常な状態だ。
均一ではなく ばらつきがあること それが自然である。
だから 足の速いのも 遅いのもいる。
頭の回転が早いのも 遅いのもいる。
指先が器用なのも 不器用なのもいる。
それらのばらつきの結果として
豊かなものも 貧しいのもいる。
それで 自然なのだ。
だがどちらの立場にも 果たすべき役割がある。
人の優位になる何かを才能として与えられたものは 与えられなかったものに分け与え 救済する役割を持っている。
優位性に恵まれなかった平凡なものは 大多数としてコミュニティを形勢し、社会を営むという役割を持っている。
どちらも 生き方の質に目覚め 懸命に生きなければ 果たせない事である。
ちなみに 知能が高いこと と 勉強が出来ること は一致していない。
あらゆる天才型の人は ある分野にはものすごい能力を示し 別の分野では小学生以下の能力しか示さない という事が起こる。
勉強の成績が良いことが 知能が高いことの証明にはならない。
東大生の知能指数平均と 一般人平均は そう大差ない。少し高いくらいのものだ。
だが 知能が高いこと は 生き延びるチャンスが多いこと である。
私は サバイバル能力が極めて高いことを自負している。不測の事態に対応する能力は 平均をはるかに超えるだろう。それもまた 人が私を頼りたくなる要素なのだろうと自覚している。
過酷な現実を生き延びた集団には おそらく賢いリーダーがいただろう。
そのリーダーは リーダーになりたいと望んだのではなく 持っている才能により その立場につくことが自然だったのだ。
私は リーダーの立場は 嫌いである。疲れるし孤独だからだ。
だが それを繰り返ししなければならないのは 自らの才能による役割なのである。
愛だけが その苦しみを救う。
愛だけが すべてを包み救う。
どうやらこれまでの経験や自分に起きた出来事、人の意見などの総合から導き出された結果では、私は相当「頭がいい」部類らしい。
と、こう書くと、直ちに「頭がいい」事を自慢していると思う人も少なくないかもしれないと懸念する。「頭がいい」の定義を、便宜的に「思考の回転速度が一般平均より高速であること」とする。
日本では 自分の能力について それがハイレベルである事を自ら言うとひどいバッシングに遭うという公式が成立する。金メダルをとった荒川静香でさえ、「私の滑りは世界でもっとも美しいでしょう」と言ったらたちまち世間の女性から総すかんを食らうだろう。彼女の滑りが世界でもっとも美しく技巧的に卓越したものである事は事実なのに、自分でそれを口にすることは禁止されている。それが世間のルールである。
しかし敢えてタブーを乗り越えて 私の思うことをそのまま公開してみようと思う。
「頭がいい」を便宜上、「思考の回転速度が一般平均より高速であること」とした場合、これは医学的には「知能が高い」と定義される。
知能指数を計測するためのテストはもともと知能発達の遅れを発見するために開発されたものなので、高いポイントが測定出たからと言ってどうという事もないだろうが、とりあえず私の知能指数は4才の頃には160以上、と結果が出ていたそうだ(テストの種類や、偏差は不明)。
それでなのか、IQ本やテレビの不正確なお遊び程度のテストを遊びでやってみても、現在に至るまでいつやってみてもほぼ最上位ランクの値を出す。
ちなみにIQ160というのは成人用のIQテストなら、ほぼ上限数値で、出現率は3万人に一人、上位0.003%という事になる。
ギフテッドチャイルドの中でもこの数値は「並外れたギフテッド」と認定される。
私がギフテッドチャイルドの中でも特別なギフトだと主張したい訳ではない。しかし、少なめに見ても、私の経験した人生は平均とか平凡とかにはどうしても分類出来ないだろうと思う。
そもそも私は家庭学習を小学生の頃から一度もまともにやっていない。
それでも勉強で困った事はないし、成績は努力しなくても良かった。
高校時代、全国統一模試の国語で福岡県1位を連続2回、取った事もある。
連続2回1位という事で、まぐれでとれた成績ではないと証明した事になり周囲の注目が嫌になって それ以降成績は低迷した。私は自ら良い成績を残すことを放棄したのである。大嫌いな学校にそれ以上介入されるのはまっぴらだったからだ。かわりに友達の成績アップのコーチをした。
幼い頃から長文を記憶することも苦もなく出来たし、拒絶反応を示さない限り勉強で苦労はしない。(数学はごく最近まで私の精神的アレルギー物質だったのだが)
家族で映画館にでかけて見た映画のセリフを最初から最後まで全部覚えてしまった事もあるし、学校では昨夜見た面白いドラマを全シーンセリフそのままに再現するという芸もよくやり、「ガラスの仮面」と友達に命名された事もある。
私は特に聴覚優位タイプなので 音で聞いたことは録音されたもののようにそのまま記憶する。思い出すときにはその音を再生ボタンを押して聞いている感じなのだ。
こういう話をすると世間では自慢と認識される。
私は事実を話しているだけだが、そこに自慢というエゴを嗅ぎ取るのはその人にエゴがあるからではないのか。私を鏡にしているだけではないだろうか。
もちろん普段は 相手を不快にさせる事も望まないので 世間のマナー通り、謙遜の態度も使い分けている。
私は自分の知能を自慢することに価値を持たない。
人は自分に出来ないことを人が出来ると羨むという心理があるが、私も自分に可能な模試1位より、マラソンでいつも上位3割に入れる友人のほうがよほど羨ましかったし、スタイルのいい友人がその薄っぺらなウエストを強調し制服を見事に着こなしている事の方がよほど羨ましかった。
私は自分の知能の高さで得をすることはほとんどなかったと思っている。だからこの知能を自慢したいという動機そのものを持たない。
そして、まあ、人間とはそういうものだなと思う。
人を羨む事の無意味さを思い、やめる。
自慢も、ねたみも、なんの役にも立ちはしない。
自慢がいけないから、ねたみがいけないから という道徳的観点ではなく 無駄な事に精神エネルギーを割くのがもったいない という感覚が私の中には人生早期からあった。
幸せな事なら誰かに共有して欲しいし、分け合いたいが、自分が優秀である事を自慢する意味は感じない。優秀なら、周りの人を助けるためにその余っている能力を活かせばよいと思うだけだ。
自分が生まれつき持っている能力を人に自慢する悪阻かさは、車イスの人の前で「私は走れますよ!すごいでしょう」と小躍りしている光景に等しい。
…なんて馬鹿な光景だろう。間抜けすぎて恥ずかしくなる。
私が走れるのは当たり前で、車イスの人が自分の足で歩くこともままならないことも当たり前なのだ。どっちが上でも下でもなく、状態が違うだけだ。
私は走ったりできる健康で優秀な足で、その人の車イスを押して歩いてあげられるのだから、走れない人の目の前で小躍りするような愚かで恥ずかしい真似をせず 車イスの人を助けてあげる方がよほど気持ちがいいし幸せだ。
知能の高い人間は ほかの人の思いつかない事を思いつき 行動し 新しい可能性を開く為に存在している。その役割を果せば みなの幸せに繋がる。
人は決して 公平など 与えられていない。
世の中は不公平なのだ。そしてそれが自然界の 正常な状態だ。
均一ではなく ばらつきがあること それが自然である。
だから 足の速いのも 遅いのもいる。
頭の回転が早いのも 遅いのもいる。
指先が器用なのも 不器用なのもいる。
それらのばらつきの結果として
豊かなものも 貧しいのもいる。
それで 自然なのだ。
だがどちらの立場にも 果たすべき役割がある。
人の優位になる何かを才能として与えられたものは 与えられなかったものに分け与え 救済する役割を持っている。
優位性に恵まれなかった平凡なものは 大多数としてコミュニティを形勢し、社会を営むという役割を持っている。
どちらも 生き方の質に目覚め 懸命に生きなければ 果たせない事である。
ちなみに 知能が高いこと と 勉強が出来ること は一致していない。
あらゆる天才型の人は ある分野にはものすごい能力を示し 別の分野では小学生以下の能力しか示さない という事が起こる。
勉強の成績が良いことが 知能が高いことの証明にはならない。
東大生の知能指数平均と 一般人平均は そう大差ない。少し高いくらいのものだ。
だが 知能が高いこと は 生き延びるチャンスが多いこと である。
私は サバイバル能力が極めて高いことを自負している。不測の事態に対応する能力は 平均をはるかに超えるだろう。それもまた 人が私を頼りたくなる要素なのだろうと自覚している。
過酷な現実を生き延びた集団には おそらく賢いリーダーがいただろう。
そのリーダーは リーダーになりたいと望んだのではなく 持っている才能により その立場につくことが自然だったのだ。
私は リーダーの立場は 嫌いである。疲れるし孤独だからだ。
だが それを繰り返ししなければならないのは 自らの才能による役割なのである。
愛だけが その苦しみを救う。
愛だけが すべてを包み救う。
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心の中 深くにしまい込まれている何かに出会う事は難しい。
特に自分の無意識に気づくだけでなく、自分という個を超越した何かに出会う事は、常識の枠にとどまっているとさらに難しいだろう。
だから古くから様々な方法を 人は開発してきた。
催眠などはまだ新しい方で
古くからは麻薬成分のある草を食べたり
熱狂して体力の限り踊り続けたり
原始的な打楽器のリズムで恍惚となったり
動的なもの、静的なもの、手法はどちらも数多く存在する。
私が試していないものも数多く、合法である限り機会があったらどれも是非体験してみたいと思っている。
我を忘れる
我= 個人的な自己意識
を
忘れる= 一時的に失う
というのは 深い瞑想の状態とも よく似ている。
瞑想を続けると 忘我の状態、つまり自分がここにいる事を忘れ 目は開けているが見ておらず だが視界を失った訳ではなく 何にも集中しておらず 同時に深い集中の状態にある …というような、一見矛盾した状態になる事がある。
高僧など瞑想を長年続けてきた上級者は いつでもこの状態になれるそうだ。
私は日ごろから時々、自分で意識せず勝手にそういう状態(どっかに行っちゃった状態)になる事があるが、瞑想というのは意識的にその状態になろうとする事を指す。(上手に出来ている瞑想は この解釈でよいか?とバリー博士に聞いたらその通りと答えて頂いたので断言調)
私の脳は 休息が必要だと自己判断した時に 勝手にスリープモードになるらしく 普通の人は居眠りなどになるのだろうに 目を開けたままロボットの起動電圧が急に下がったように 直前の姿勢のまま一旦停止状態になったりする。普通に言う「ぼんやりする」がもっと急に起こるようなものと思ってもらえればわかるかもしれない。正直言って それに気づいた人がいたら 精巧なアンドロイドみたいで気持ち悪いだろうなと思う。
そこで、無自覚にそういう風になるのは周りの人にも申し訳ないと思い、意識的にその状態を作れるようになろうと、瞑想を日常の中に出来るだけ組み込むようにしている。
瞑想はすごい。
宇宙との一体感は 人間のもつ受容限界が果てしなく深く広いことを確信させてくれる。人類は持っている能力の数%しか使っていないと言われているが、おそらくそれは真実である。
記憶力世界一のギネスタイトルホルダー、エラン・カッツとは 2007年6月の来福の時すっかり仲よくなってしまい、今では本当に親友と言えるつきあいをさせてもらっているが、彼は能力に限界はない、というメッセージを世界中に発信している一人である。
500桁の無意味な数列を一度聞いただけで暗誦してしまうという偉業は、確かに常識の中で考えると「あり得ない」事である。けれど人間の脳には、それが出来るだけの能力とキャパシティが、「誰の脳にも」あるのである。
常識は「彼はともかく(特別なんだから)、そんな事は私には無理だ」と言うだろう。
実はその常識こそが自己妨害そのものだ。
本気でやろうとしやれると信じた事は、何であれ実現出来る。
エランはそれを、世界中の人たちに分かりやすい形で証明してくれた「人類にとっての恩人」の一人である。
そして彼の素晴らしい処は、(彼とセミナーで会った人なら判ると思うが)「彼が特別なだけでなく 自分にももしかしたら、いえきっと出来るのかもしれない」と思わせる能力がある事である。
医学博士でありチベット密教高僧のバリー・カーズィン博士は 瞑想の医学的効用についても、インドのダラムサラにあるダライラマ法王庁で研究を続けている。瞑想を日々に取り入れる事は、体の全身機能に良い結果を与える事が証明されているそうである。
人間の脳は 精密な受信機のようなもので 宇宙のどこかからの情報にアクセスして 記憶(と場合によってはそれ以上の情報)を取り出している という説がある。
実際、脳の研究成果では 我々の記憶がどうやってどこに格納されているのかは、現在の処まったく未解明である。脳の神経が切れたり減ったりすると記憶したり思い出したりする事ができなくなる、という事は判っているが、どこにどんな風に書き込まれ書いてあるものをどんな風に取り出しているのかは、まったく判っていない。
もうちょっと踏み込んで言うと、「神経が記憶に関わっていることは判っているが、脳の細胞のどこかに記憶そのものがある、という前提そのものが、実は立証されていない事」なのである。脳の神経や脳細胞にダメージを負うと記憶に障害が起きるから、脳は記憶する場所なんだろう、という程度の考えから作り出された前提なのである。科学と言われているものも実際には結構、非科学なものを前提にしていることがよくある。
だからその点について 脳の細胞の中にそれが書いてあるのではなく 宇宙のどこか(ゼロポイント・フィールド)にそれが記録されており、そこにアクセスして記録を取り出しているのだ という説がある。
これは量子物理学、量子力学など量子学分野からの検証が必要で報告が待たれる部分だ。医学分野と量子分野はすでに共同での研究が進められていて、検査機器MIRは量子学から医学用に転用開発されたものだ。
この「脳=受信機説」が証明され、科学者に認知されるためにはまだまだ数多くの証明が必要だが 極めてユニークでしかもエキサイティングな 今とてもhotな説である。量子の分野に大注目だ。
時々 超能力と呼ばれる特殊能力を持つ人が現れるが それもこの学説に立脚すれば その仕組みが科学的にも理解できる現象ということになる。
遠くのものが見える 過去が見える 遠い場所の音が聞こえる 人が頭の中で考えていることがわかる 物から持ち主の記憶が読み取れる etcetc
すべて、無限の情報源である宇宙のどこかにアクセスしていると考えればすんなり説明がついてしまう。普通の人にはわからない事が判る人の脳は、受信機としての機能をグレードアップしているから、取り出せる情報、アクセスできる領域が広い、という訳である。
ちなみに チベット密教の高僧には超能力が現れる事は少なくないため、人にそういう能力が備わっているという考えそのものが常識なのだそうだ。
宇宙との 一体感を得る 深い瞑想。
宇宙へと アクセスする 私たちの脳。
自己という個を超えて それ以上のものを内包した時
私たちの可能性は 無限になる。
特に自分の無意識に気づくだけでなく、自分という個を超越した何かに出会う事は、常識の枠にとどまっているとさらに難しいだろう。
だから古くから様々な方法を 人は開発してきた。
催眠などはまだ新しい方で
古くからは麻薬成分のある草を食べたり
熱狂して体力の限り踊り続けたり
原始的な打楽器のリズムで恍惚となったり
動的なもの、静的なもの、手法はどちらも数多く存在する。
私が試していないものも数多く、合法である限り機会があったらどれも是非体験してみたいと思っている。
我を忘れる
我= 個人的な自己意識
を
忘れる= 一時的に失う
というのは 深い瞑想の状態とも よく似ている。
瞑想を続けると 忘我の状態、つまり自分がここにいる事を忘れ 目は開けているが見ておらず だが視界を失った訳ではなく 何にも集中しておらず 同時に深い集中の状態にある …というような、一見矛盾した状態になる事がある。
高僧など瞑想を長年続けてきた上級者は いつでもこの状態になれるそうだ。
私は日ごろから時々、自分で意識せず勝手にそういう状態(どっかに行っちゃった状態)になる事があるが、瞑想というのは意識的にその状態になろうとする事を指す。(上手に出来ている瞑想は この解釈でよいか?とバリー博士に聞いたらその通りと答えて頂いたので断言調)
私の脳は 休息が必要だと自己判断した時に 勝手にスリープモードになるらしく 普通の人は居眠りなどになるのだろうに 目を開けたままロボットの起動電圧が急に下がったように 直前の姿勢のまま一旦停止状態になったりする。普通に言う「ぼんやりする」がもっと急に起こるようなものと思ってもらえればわかるかもしれない。正直言って それに気づいた人がいたら 精巧なアンドロイドみたいで気持ち悪いだろうなと思う。
そこで、無自覚にそういう風になるのは周りの人にも申し訳ないと思い、意識的にその状態を作れるようになろうと、瞑想を日常の中に出来るだけ組み込むようにしている。
瞑想はすごい。
宇宙との一体感は 人間のもつ受容限界が果てしなく深く広いことを確信させてくれる。人類は持っている能力の数%しか使っていないと言われているが、おそらくそれは真実である。
記憶力世界一のギネスタイトルホルダー、エラン・カッツとは 2007年6月の来福の時すっかり仲よくなってしまい、今では本当に親友と言えるつきあいをさせてもらっているが、彼は能力に限界はない、というメッセージを世界中に発信している一人である。
500桁の無意味な数列を一度聞いただけで暗誦してしまうという偉業は、確かに常識の中で考えると「あり得ない」事である。けれど人間の脳には、それが出来るだけの能力とキャパシティが、「誰の脳にも」あるのである。
常識は「彼はともかく(特別なんだから)、そんな事は私には無理だ」と言うだろう。
実はその常識こそが自己妨害そのものだ。
本気でやろうとしやれると信じた事は、何であれ実現出来る。
エランはそれを、世界中の人たちに分かりやすい形で証明してくれた「人類にとっての恩人」の一人である。
そして彼の素晴らしい処は、(彼とセミナーで会った人なら判ると思うが)「彼が特別なだけでなく 自分にももしかしたら、いえきっと出来るのかもしれない」と思わせる能力がある事である。
医学博士でありチベット密教高僧のバリー・カーズィン博士は 瞑想の医学的効用についても、インドのダラムサラにあるダライラマ法王庁で研究を続けている。瞑想を日々に取り入れる事は、体の全身機能に良い結果を与える事が証明されているそうである。
人間の脳は 精密な受信機のようなもので 宇宙のどこかからの情報にアクセスして 記憶(と場合によってはそれ以上の情報)を取り出している という説がある。
実際、脳の研究成果では 我々の記憶がどうやってどこに格納されているのかは、現在の処まったく未解明である。脳の神経が切れたり減ったりすると記憶したり思い出したりする事ができなくなる、という事は判っているが、どこにどんな風に書き込まれ書いてあるものをどんな風に取り出しているのかは、まったく判っていない。
もうちょっと踏み込んで言うと、「神経が記憶に関わっていることは判っているが、脳の細胞のどこかに記憶そのものがある、という前提そのものが、実は立証されていない事」なのである。脳の神経や脳細胞にダメージを負うと記憶に障害が起きるから、脳は記憶する場所なんだろう、という程度の考えから作り出された前提なのである。科学と言われているものも実際には結構、非科学なものを前提にしていることがよくある。
だからその点について 脳の細胞の中にそれが書いてあるのではなく 宇宙のどこか(ゼロポイント・フィールド)にそれが記録されており、そこにアクセスして記録を取り出しているのだ という説がある。
これは量子物理学、量子力学など量子学分野からの検証が必要で報告が待たれる部分だ。医学分野と量子分野はすでに共同での研究が進められていて、検査機器MIRは量子学から医学用に転用開発されたものだ。
この「脳=受信機説」が証明され、科学者に認知されるためにはまだまだ数多くの証明が必要だが 極めてユニークでしかもエキサイティングな 今とてもhotな説である。量子の分野に大注目だ。
時々 超能力と呼ばれる特殊能力を持つ人が現れるが それもこの学説に立脚すれば その仕組みが科学的にも理解できる現象ということになる。
遠くのものが見える 過去が見える 遠い場所の音が聞こえる 人が頭の中で考えていることがわかる 物から持ち主の記憶が読み取れる etcetc
すべて、無限の情報源である宇宙のどこかにアクセスしていると考えればすんなり説明がついてしまう。普通の人にはわからない事が判る人の脳は、受信機としての機能をグレードアップしているから、取り出せる情報、アクセスできる領域が広い、という訳である。
ちなみに チベット密教の高僧には超能力が現れる事は少なくないため、人にそういう能力が備わっているという考えそのものが常識なのだそうだ。
宇宙との 一体感を得る 深い瞑想。
宇宙へと アクセスする 私たちの脳。
自己という個を超えて それ以上のものを内包した時
私たちの可能性は 無限になる。
情報に関して私はとても慎重な態度を取る。
そしてあらゆる事を簡単には信用しない。
それを敢えて、便宜的に、疑り深い、と表現しよう。
聞いた話は自分なりの調査と検証を通過してからでないと 受け入れない。
だが人間不信というのとはちょっと違う。
私は ひたすら 世界を間違いなく、精密に正確に理解したいのだ。
誰かが何か、私に新しい情報をくれたとする。
たとえば、新しいガンの治療方法が出来たとか、今度の大臣はこういう人らしいとか。
私は「ほうほう、なるほど、それはそれは」と肯定的にありがたく受け取っているので、疑り深いという表現はいささか気に入らないのだが。
ありがたく受け取った新しい情報は、私の頭の中で「新規情報トレイ」にストックされる。このトレイに入っている情報は、後で検証作業に掛けられる。ニュースソースを読み、必要なら専門用語を調べ、ソースを書いた人が誰かなのか、情報の出元はどこかなど、わかる限りの情報を並べる。その上で「極めて真実と思われる(取り込み可)」とか「世間話程度に不純物を含む(人との話のタネに使用し適当に忘れて良い)」とか「まゆつばである(不正確情報としてストック)」という具合に、実際にはもっと細かい単位だけれどもそれぞれを吟味した結果が出る。
結果の中で、一番多い結果は、「情報不足につき検証続行」というものだ。
得た情報を検証するための情報が不足しているため、答えが出せないというもので、こういう情報の吟味は引き続き情報を追加しながら継続しなければならない。
世の中の情報で、一つのテーマに関して、私の思う十分な情報量で提供されている情報は、情報全体のなかの1%にも満たないと感じる。だから、一つのニュースを読むにも、実際にはいろいろな処に転がっている別々の情報を多数組み合わせて理解する必要がある。だから自分の脳の中に、これまで出会った信頼できる正確な情報をどれほどストックしているか、が理解の速度の鍵になる。
世間の注目を集める事件が起こると、私は必ず全ての局の内容を比較する。同じ内容でも伝え方がまったく違うニュアンスを帯びているからだ。
ニュースを一つ読んでわかったような気になるのは非常に危ないのだ。いや、一般の人に危険はないと思うが、世界を精密に正確に理解したい私としては、そのように「わかった気になる」事はとても危険なことなのだ。
また、情報は単体ではほぼ意味を成さない。
情報はそれを扱う人間によって価値を持つものに変わる。
だから情報を受け取った人間の頭脳の働き方一つで、その情報は別の情報とリンクし、新しい機能を担ったりもする。
脳の中の神経軸索が、縦横無尽にリンクして、過去の情報と今新たに得た信頼の置ける情報を組み合わせ、別の何かを形成する。
日々 脳内ではそれの繰り返しだ。
だから、私は正確で信頼できる情報だけをインプットするよう心がけている。
そういう作業が、呼吸と同じレベルで当たり前になっているので 私は常に考えているし調べているとも言える。こういう事を書くと自分がコンピュータソフトのように無感情で、無機質なようにも思える。確かにそういう一面が、私にはあるようだ。
そして、その作業でいちばん手間をとるのは、「話し言葉による情報群」である。新聞やネットの活字なら情報は変化しない。ところが、人間の話す情報は刻々とニュアンスを変えていく。「殺人があったらしい」と話し始めた人が話の中で「新聞にそう書いてあった」と言うとしたら、あったらしいという曖昧な情報が、新聞に載っている事実というほぼ確定の情報に変わった訳である。確定する方向に変化するのはまだいいが、話すほど曖昧になって不確かになったり、急に情報の内容が変わったりする人もいる。生きている人間ほど油断のならないエキサイティングな情報ソースはほかにない。
話し言葉による情報は、その他の情報とは明らかに別枠で扱う必要がある。
情報を集めるというよりは、そのやりとりを楽しむためにある、というのが私の基本スタンスになっている。
「あ、またニュアンスが変わった」とか「内容そのものが変わった」とか、そういう事を刻々と体験するのもまた、非常に面白く、人間という存在を正確に理解したいという欲求を満たしていくものである。
そして私は人に情報の確かさを要求しない。
人はあいまいでいい加減なのが正常な状態だ。
それは豊かさとも言える。
その豊かさを楽しむ事が、こころを見るという事である。
私には、すべての現象を科学的にまたは客観的に精密にとらえようとする科学者のような醒めた視点と、感性にすべてをゆだね感覚や直感で感受する事への絶対的信頼を置く、世間では非科学的と言われる視点の両方が極めて拮抗した状態で共存している。
これは意外と、珍しいことなのかもしれない。
多くの人は、そのどちらかの視点に偏っている事が多いからだ。
文系? 理系? とか。
精神世界系? 科学絶対主義系? とか。
私をどちらかにカテゴライズしたがる人は少なくないようだ。
どちらかに片づけて、安心したいのだろう。
私はとても学術的で科学的な事も言うし、非科学的ななんの根拠もないような事も言う。
だが私の中では、それらは矛盾していないし、一つなのだ。
科学的である事が絶対的真実と捉えられがちな主流にたいして、精神的なもの、非科学的なものの価値を声高に主張しようとする副流が最近台頭している。オーラの泉などの番組はその動きを象徴するものである。
私に、オーラの泉はどう思いますかと訊ねてきた人は複数いた。
これも、私が「どっちよりの人間なのか」知りたいのだろう。
私はどっちよりでもない。
美輪明宏の言うことも納得が行くし江原なんとかの言うことに疑問を呈している事もある。特に江原なんとかはテレビというフィルター越しで見る限りの情報からだが 私は彼を信用しない。彼の言うことには 真実の煌めきを感じない。波長が会わないとでも言うのだろうか。
しかし彼に救われている人は多い。彼のしている事に価値はあるだろう。彼の言う前世や先祖の霊の話の証明はできないとしても、その言葉で救われる人は少なくないのだから。言われて納得できるものならどんなもので納得しても良いのだ。
結果が良いものは歓迎すればよい。
証明できることだけが真実ではない。
証明できない事だが真実である、という事は、あなたの回りにも山ほどあるだろう。
昨日あなたが歯を磨いたかどうか、他人に証明できるだろうか。
出来なくても、磨いたのなら磨いたのが真実だ。
昨日あなたが感じた寂しさは事実だろうか。
だれにも証明はできなくとも、あなたが感じたのならそれは事実だろう。
だがあなたが「恋人はうそをついている」と感じたならそれは事実だろうか。
あなたが感じた感覚(疑惑)はあなたに起きた事実だが、恋人が嘘をついた証明にはならないし、事実とは限らない。
私が人と話している最中に その人の過去を映像のように見ているとして
それは証明できないが私の中では起こっている事実と言えるだろう。
だがその映像が本当にその人の過去なのかどうかは事実ではないかもしれない。
私の見ているものをその人に見せて検証するしかないが、その方法がない。
「母が私にセーターをくれました」と言っただけで赤いセーターが見えているというような事がしばしばある。何故赤なのか知らない。だがそう見える。
「素敵な色ですね。赤はあなたによく似合います」とうっかり言おうものなら「何故赤だとわかったんですか」という話になってしまう。もちろん私は証明できない事をうかつに口に出したりはしない。カウンセラーに与えられる職業的要求とは 科学的に信頼できる事が第一だからだ。
私が妙にスピリチュアルっぽい事を言ってしまうと、人によってはそれを喜ぶが、人によっては気味悪がったり、怪しんだり怖がったりするだろう。
まあそれを人に話すと病気だとか 怪しい類いの人だと思われるのがオチなのだ。
だから何か見えても聞こえても、人にはあまり話さない。
私を病人だと思う人もいるかもしれない。
だがその人はそれを証明できるだろうか?
事実と証明できるかどうかは、まったく無関係の別の問題なのである。
同様に、科学と非科学は、まったく矛盾なく両立できる事を多数含む、まったく別の問題である。
私は科学的であることをやめないし、同時に非科学的であることもやめない。
人に見せるものは 私のごく一部であって 私の全体とは違っているかもしれない。
そしてあらゆる事を簡単には信用しない。
それを敢えて、便宜的に、疑り深い、と表現しよう。
聞いた話は自分なりの調査と検証を通過してからでないと 受け入れない。
だが人間不信というのとはちょっと違う。
私は ひたすら 世界を間違いなく、精密に正確に理解したいのだ。
誰かが何か、私に新しい情報をくれたとする。
たとえば、新しいガンの治療方法が出来たとか、今度の大臣はこういう人らしいとか。
私は「ほうほう、なるほど、それはそれは」と肯定的にありがたく受け取っているので、疑り深いという表現はいささか気に入らないのだが。
ありがたく受け取った新しい情報は、私の頭の中で「新規情報トレイ」にストックされる。このトレイに入っている情報は、後で検証作業に掛けられる。ニュースソースを読み、必要なら専門用語を調べ、ソースを書いた人が誰かなのか、情報の出元はどこかなど、わかる限りの情報を並べる。その上で「極めて真実と思われる(取り込み可)」とか「世間話程度に不純物を含む(人との話のタネに使用し適当に忘れて良い)」とか「まゆつばである(不正確情報としてストック)」という具合に、実際にはもっと細かい単位だけれどもそれぞれを吟味した結果が出る。
結果の中で、一番多い結果は、「情報不足につき検証続行」というものだ。
得た情報を検証するための情報が不足しているため、答えが出せないというもので、こういう情報の吟味は引き続き情報を追加しながら継続しなければならない。
世の中の情報で、一つのテーマに関して、私の思う十分な情報量で提供されている情報は、情報全体のなかの1%にも満たないと感じる。だから、一つのニュースを読むにも、実際にはいろいろな処に転がっている別々の情報を多数組み合わせて理解する必要がある。だから自分の脳の中に、これまで出会った信頼できる正確な情報をどれほどストックしているか、が理解の速度の鍵になる。
世間の注目を集める事件が起こると、私は必ず全ての局の内容を比較する。同じ内容でも伝え方がまったく違うニュアンスを帯びているからだ。
ニュースを一つ読んでわかったような気になるのは非常に危ないのだ。いや、一般の人に危険はないと思うが、世界を精密に正確に理解したい私としては、そのように「わかった気になる」事はとても危険なことなのだ。
また、情報は単体ではほぼ意味を成さない。
情報はそれを扱う人間によって価値を持つものに変わる。
だから情報を受け取った人間の頭脳の働き方一つで、その情報は別の情報とリンクし、新しい機能を担ったりもする。
脳の中の神経軸索が、縦横無尽にリンクして、過去の情報と今新たに得た信頼の置ける情報を組み合わせ、別の何かを形成する。
日々 脳内ではそれの繰り返しだ。
だから、私は正確で信頼できる情報だけをインプットするよう心がけている。
そういう作業が、呼吸と同じレベルで当たり前になっているので 私は常に考えているし調べているとも言える。こういう事を書くと自分がコンピュータソフトのように無感情で、無機質なようにも思える。確かにそういう一面が、私にはあるようだ。
そして、その作業でいちばん手間をとるのは、「話し言葉による情報群」である。新聞やネットの活字なら情報は変化しない。ところが、人間の話す情報は刻々とニュアンスを変えていく。「殺人があったらしい」と話し始めた人が話の中で「新聞にそう書いてあった」と言うとしたら、あったらしいという曖昧な情報が、新聞に載っている事実というほぼ確定の情報に変わった訳である。確定する方向に変化するのはまだいいが、話すほど曖昧になって不確かになったり、急に情報の内容が変わったりする人もいる。生きている人間ほど油断のならないエキサイティングな情報ソースはほかにない。
話し言葉による情報は、その他の情報とは明らかに別枠で扱う必要がある。
情報を集めるというよりは、そのやりとりを楽しむためにある、というのが私の基本スタンスになっている。
「あ、またニュアンスが変わった」とか「内容そのものが変わった」とか、そういう事を刻々と体験するのもまた、非常に面白く、人間という存在を正確に理解したいという欲求を満たしていくものである。
そして私は人に情報の確かさを要求しない。
人はあいまいでいい加減なのが正常な状態だ。
それは豊かさとも言える。
その豊かさを楽しむ事が、こころを見るという事である。
私には、すべての現象を科学的にまたは客観的に精密にとらえようとする科学者のような醒めた視点と、感性にすべてをゆだね感覚や直感で感受する事への絶対的信頼を置く、世間では非科学的と言われる視点の両方が極めて拮抗した状態で共存している。
これは意外と、珍しいことなのかもしれない。
多くの人は、そのどちらかの視点に偏っている事が多いからだ。
文系? 理系? とか。
精神世界系? 科学絶対主義系? とか。
私をどちらかにカテゴライズしたがる人は少なくないようだ。
どちらかに片づけて、安心したいのだろう。
私はとても学術的で科学的な事も言うし、非科学的ななんの根拠もないような事も言う。
だが私の中では、それらは矛盾していないし、一つなのだ。
科学的である事が絶対的真実と捉えられがちな主流にたいして、精神的なもの、非科学的なものの価値を声高に主張しようとする副流が最近台頭している。オーラの泉などの番組はその動きを象徴するものである。
私に、オーラの泉はどう思いますかと訊ねてきた人は複数いた。
これも、私が「どっちよりの人間なのか」知りたいのだろう。
私はどっちよりでもない。
美輪明宏の言うことも納得が行くし江原なんとかの言うことに疑問を呈している事もある。特に江原なんとかはテレビというフィルター越しで見る限りの情報からだが 私は彼を信用しない。彼の言うことには 真実の煌めきを感じない。波長が会わないとでも言うのだろうか。
しかし彼に救われている人は多い。彼のしている事に価値はあるだろう。彼の言う前世や先祖の霊の話の証明はできないとしても、その言葉で救われる人は少なくないのだから。言われて納得できるものならどんなもので納得しても良いのだ。
結果が良いものは歓迎すればよい。
証明できることだけが真実ではない。
証明できない事だが真実である、という事は、あなたの回りにも山ほどあるだろう。
昨日あなたが歯を磨いたかどうか、他人に証明できるだろうか。
出来なくても、磨いたのなら磨いたのが真実だ。
昨日あなたが感じた寂しさは事実だろうか。
だれにも証明はできなくとも、あなたが感じたのならそれは事実だろう。
だがあなたが「恋人はうそをついている」と感じたならそれは事実だろうか。
あなたが感じた感覚(疑惑)はあなたに起きた事実だが、恋人が嘘をついた証明にはならないし、事実とは限らない。
私が人と話している最中に その人の過去を映像のように見ているとして
それは証明できないが私の中では起こっている事実と言えるだろう。
だがその映像が本当にその人の過去なのかどうかは事実ではないかもしれない。
私の見ているものをその人に見せて検証するしかないが、その方法がない。
「母が私にセーターをくれました」と言っただけで赤いセーターが見えているというような事がしばしばある。何故赤なのか知らない。だがそう見える。
「素敵な色ですね。赤はあなたによく似合います」とうっかり言おうものなら「何故赤だとわかったんですか」という話になってしまう。もちろん私は証明できない事をうかつに口に出したりはしない。カウンセラーに与えられる職業的要求とは 科学的に信頼できる事が第一だからだ。
私が妙にスピリチュアルっぽい事を言ってしまうと、人によってはそれを喜ぶが、人によっては気味悪がったり、怪しんだり怖がったりするだろう。
まあそれを人に話すと病気だとか 怪しい類いの人だと思われるのがオチなのだ。
だから何か見えても聞こえても、人にはあまり話さない。
私を病人だと思う人もいるかもしれない。
だがその人はそれを証明できるだろうか?
事実と証明できるかどうかは、まったく無関係の別の問題なのである。
同様に、科学と非科学は、まったく矛盾なく両立できる事を多数含む、まったく別の問題である。
私は科学的であることをやめないし、同時に非科学的であることもやめない。
人に見せるものは 私のごく一部であって 私の全体とは違っているかもしれない。
自分が生まれてきた意味はなんだろうと考えたことのある人は 白けて見えるこの現代でも 決して少なくはないと私は思っている。
高校1年生の頃 「生きる意味とは何か」というテーマで小論文を書いた。国語教師の受けは良く、喜色満面で「これはいいね。また何年か後に同じテーマで書いたら」と褒められた事を覚えている。その小論文で私は「自分の生まれてきた意味はわからない。考えても結局はわからない。これから生きていく中で、おそらく見つかるのかもしれない」と結んだ。そうとしかまとめようがなかったのだった。国語教師にはこの部分がいたく気に入られたように思う。
その後もいろいろな場所に顔を出した。
大学の哲学科教授とひょんなことで知り合いになり、教授が私的に催す日曜日の哲学科ゼミに、大学生や院生と一緒になぜか高校2年生の私が顔を出していたりした。
そこでの哲学は あたりまえの事をことさら難解に表現する知的ゲームのようだった。私は何でも哲学風に表現する事を楽しみ、そんな「ちょっと変わった子」を教授は可愛がってくれた。白髪で、どこか亡くなった祖父を思わせる老教授はいつも私に敬語を使い、「あなた」と呼びかけた。着ているものには頓着のない人で、ひらたく言えば「どこにでもいるちょっと汚い感じのするみすぼらしい老人」が、大学の哲学教授だとは誰も思わなかっただろう。
この知的で世間離れした、そしてその風采からは想像も出来ないほど 美しい物腰の老人が とても好きだった。紅茶を好み すべての他者に敬語を使い 知らない事を決して上からではなく 手を添えるようにして丁寧に優しく教えてくれる人だった。「最近はね、僕は人間の脳が一番面白いと思うんです。」教授との交際の最後の頃には、しきりに脳の話を聞かせてくれた。脳の仕組みに目を輝かせる 若々しい感性が その年齢を重ねた肉体の中にあった。
今思えば 彼は私の誘導役の一人として 私の人生に登場していた。「あんたって暗いよね」と、物事を深く考える事を否定されていた私に「思索の面白さ」を教え知性に光を灯してくれた恩人だ。
彼の公平で穏やかで それでいて好奇心や冒険心に満ちたありようには 限りない精神性の豊かさが広がっていて 人は肉体や年齢を超え 自分自身を越えた何かを内在できることをさらに 確信させてくれたのだった。
ところで 自分の生まれた意味について 私はそれからもずっと問い続けていた。私の毎日には喜びより苦しい事や悲しい事の方が圧倒的に多かったからだ。これほどまでに苦しむのなら その意味を感じなければとても耐えていけそうにはなかった。神に面会が許されたなら 絶対に真っ先に聞きたいことがあった。
教えてください。
私は何をするために生かされているのですか。
それを終えるまで勝手に自分で死ぬことが許されていないなら
さっさとそれを終えて早く死にたいのです。
これが長年に渡る 神への質問だった。
神に面会する早道とばかりに キリスト教に入信した。
しかし 残念ながらその教えの中にあるキリストは私には不足だったのだ。
キリスト教の教会の中で私は人間のしがらみと人間の作り上げたシステムばかりが目についた。牧師も神父も ただの人だった。私にとって尊敬できるとは言い難かった。
洗礼まで受けて 神を信じると宣言したからには そう簡単にキリスト教を裏切る訳にはいかないと思って頑張ってみたが 私の中にある信仰心と キリストはどうしても一つになることはなかった。そして私が感じることの出来る神とキリストも どうしても一つにはならなかった。私は教会という人間の作り出したシステムを必要としないほど 神と私の間の一対一の関係を感じていた。教会の教えるキリストは 私にはもの足りなかった。
私にはとても強い信仰心があるし それのためならおそらく踏み絵同様に命を捧げることもあるだろうが 残念ながらその信仰とキリスト教は一致しない。
今も 多くの人が神と呼ぶ 絶対超越的意志やその存在を感じることは出来る。
それを ある人々はキリスト教に ある人々はイスラム教に ヒンズー教に ユダヤ教に 仏教に etcetc まとめあげてきたのだ。
だから キリスト教が間違っている訳でもない。私には 一定の宗教の形よりも 神そのものと対話をする事の方が はるかに重要だったというだけの事だ。
人間は いつから 神と対話する事を忘れてしまったのだろうか。
それは とても日常的であり いつも どこにでも 存在しているのに。
あなたの中にも 神と呼ばれる超越的存在はあるのに 人はそれを信じない。
自分の中に 自分を越える存在やその声を聞く人のことを 狂人と呼び恐れる。
大きな恐れに飲み込まれて 自分を救うものを閉ざしている現代人。
それは なんと愛しくなんと哀れなのだろう と 私の中の「私を越えたものの声」が言う。
今 私は自分の苦しみに 意味がある事を知っている。
だからといって苦しい事が平気になった訳ではない。
苦しみにも終わりがあり 生き続ける意味がある事を どんなに苦しいさなかでも思えるようになった という程度だ。
それでも 今与えられている今生での時間は 豊かで実りに満ちている。
今生で与えられた苦しみは もしかしたら これまでの何かを清算するものかもしれない。私を傷つけ深く悲しませてきた母や父の魂が 私以上に救済を必要としている事を 感じられるようになり 私は彼らを本当の意味で赦すことができる。
高校1年生の頃 「生きる意味とは何か」というテーマで小論文を書いた。国語教師の受けは良く、喜色満面で「これはいいね。また何年か後に同じテーマで書いたら」と褒められた事を覚えている。その小論文で私は「自分の生まれてきた意味はわからない。考えても結局はわからない。これから生きていく中で、おそらく見つかるのかもしれない」と結んだ。そうとしかまとめようがなかったのだった。国語教師にはこの部分がいたく気に入られたように思う。
その後もいろいろな場所に顔を出した。
大学の哲学科教授とひょんなことで知り合いになり、教授が私的に催す日曜日の哲学科ゼミに、大学生や院生と一緒になぜか高校2年生の私が顔を出していたりした。
そこでの哲学は あたりまえの事をことさら難解に表現する知的ゲームのようだった。私は何でも哲学風に表現する事を楽しみ、そんな「ちょっと変わった子」を教授は可愛がってくれた。白髪で、どこか亡くなった祖父を思わせる老教授はいつも私に敬語を使い、「あなた」と呼びかけた。着ているものには頓着のない人で、ひらたく言えば「どこにでもいるちょっと汚い感じのするみすぼらしい老人」が、大学の哲学教授だとは誰も思わなかっただろう。
この知的で世間離れした、そしてその風采からは想像も出来ないほど 美しい物腰の老人が とても好きだった。紅茶を好み すべての他者に敬語を使い 知らない事を決して上からではなく 手を添えるようにして丁寧に優しく教えてくれる人だった。「最近はね、僕は人間の脳が一番面白いと思うんです。」教授との交際の最後の頃には、しきりに脳の話を聞かせてくれた。脳の仕組みに目を輝かせる 若々しい感性が その年齢を重ねた肉体の中にあった。
今思えば 彼は私の誘導役の一人として 私の人生に登場していた。「あんたって暗いよね」と、物事を深く考える事を否定されていた私に「思索の面白さ」を教え知性に光を灯してくれた恩人だ。
彼の公平で穏やかで それでいて好奇心や冒険心に満ちたありようには 限りない精神性の豊かさが広がっていて 人は肉体や年齢を超え 自分自身を越えた何かを内在できることをさらに 確信させてくれたのだった。
ところで 自分の生まれた意味について 私はそれからもずっと問い続けていた。私の毎日には喜びより苦しい事や悲しい事の方が圧倒的に多かったからだ。これほどまでに苦しむのなら その意味を感じなければとても耐えていけそうにはなかった。神に面会が許されたなら 絶対に真っ先に聞きたいことがあった。
教えてください。
私は何をするために生かされているのですか。
それを終えるまで勝手に自分で死ぬことが許されていないなら
さっさとそれを終えて早く死にたいのです。
これが長年に渡る 神への質問だった。
神に面会する早道とばかりに キリスト教に入信した。
しかし 残念ながらその教えの中にあるキリストは私には不足だったのだ。
キリスト教の教会の中で私は人間のしがらみと人間の作り上げたシステムばかりが目についた。牧師も神父も ただの人だった。私にとって尊敬できるとは言い難かった。
洗礼まで受けて 神を信じると宣言したからには そう簡単にキリスト教を裏切る訳にはいかないと思って頑張ってみたが 私の中にある信仰心と キリストはどうしても一つになることはなかった。そして私が感じることの出来る神とキリストも どうしても一つにはならなかった。私は教会という人間の作り出したシステムを必要としないほど 神と私の間の一対一の関係を感じていた。教会の教えるキリストは 私にはもの足りなかった。
私にはとても強い信仰心があるし それのためならおそらく踏み絵同様に命を捧げることもあるだろうが 残念ながらその信仰とキリスト教は一致しない。
今も 多くの人が神と呼ぶ 絶対超越的意志やその存在を感じることは出来る。
それを ある人々はキリスト教に ある人々はイスラム教に ヒンズー教に ユダヤ教に 仏教に etcetc まとめあげてきたのだ。
だから キリスト教が間違っている訳でもない。私には 一定の宗教の形よりも 神そのものと対話をする事の方が はるかに重要だったというだけの事だ。
人間は いつから 神と対話する事を忘れてしまったのだろうか。
それは とても日常的であり いつも どこにでも 存在しているのに。
あなたの中にも 神と呼ばれる超越的存在はあるのに 人はそれを信じない。
自分の中に 自分を越える存在やその声を聞く人のことを 狂人と呼び恐れる。
大きな恐れに飲み込まれて 自分を救うものを閉ざしている現代人。
それは なんと愛しくなんと哀れなのだろう と 私の中の「私を越えたものの声」が言う。
今 私は自分の苦しみに 意味がある事を知っている。
だからといって苦しい事が平気になった訳ではない。
苦しみにも終わりがあり 生き続ける意味がある事を どんなに苦しいさなかでも思えるようになった という程度だ。
それでも 今与えられている今生での時間は 豊かで実りに満ちている。
今生で与えられた苦しみは もしかしたら これまでの何かを清算するものかもしれない。私を傷つけ深く悲しませてきた母や父の魂が 私以上に救済を必要としている事を 感じられるようになり 私は彼らを本当の意味で赦すことができる。
夜が好きです。
夜は 地球が宇宙に向かって開かれる時間だからです。
夜になると本当に安らかな気分になります。特に家族がみんな眠っていて、部屋が真っ暗で、街も寝静まっている頃は大好きです。星が見える場所はさらに最高です。
小学校6年生の頃には、私は自分がこの地球にいることそのものに明確に違和感を感じていました。私の感覚は、当時から「自分自身は宇宙に属している」というほぼ確信に近いもので、夜に星を眺めることが大好きでした。いつもあの星空に帰りたくて、迷子のように星を眺めては泣いていました。そこが自分の魂の故郷なのです。
この事は私の親でさえ知りません。知っているのは一番親しい従姉妹ひとりだけです。
今も、私は「自分自身は宇宙に属している」という感覚を持っています。ただ、今では迷子ではなく、明確な目的と意志をもってこの地上に存在しているという感覚を同時に持っています。
自分とは何か?という探求を続けて、さまざまなワークを重ねてきました。
あるワークの中で、私は自分の中に水源を持っているというイメージに出会いました。自分のみぞおち辺り(体の中心部分)に、豊かな水源があります。その水源は私の意志とはまったく無関係に、豊かに清らかな水を溢れさせ、いくらでも湧き続けています。その水が供給されてくる根元が、宇宙なのです。つまり私の中の泉は宇宙とつながっていて、無限にエネルギーがそこに供給されているのです。泉から立ち上がるエネルギーは胸で波紋のようなものに変換され、私には「愛」と認識されます。また泉の深い部分で下腹部(子宮付近)にもつながっていて、そこでは「生きる力強さ」のエネルギーに変換されて私に認識されます。
私に内在するその泉は 枯れることがないという保証付きなので、だから私自身も飢えないし枯れないのです。私の意志と別に勝手にどんどん溢れているのですから、人にあげないともったいないくらいです。
私はこの泉の存在を見つけてから、宇宙の迷子ではなくなりました。実はずっと保護され、死なないように必要なものを供給され続けてきたのだと判りました。慌てて帰ろうとしなくても、私は常に故郷とつながったまま、この地上に存在しているのだと判ったのです。
先日、ダライ・ラマ法王庁の高僧でいらっしゃるバリー・カーズィン博士とお会いした瞬間、とても懐かしいと感じました。バリー博士の声を一声聞いたその瞬間に、私は懐かしさで胸がいっぱいになり、涙ぐんでいました。彼もまた、宇宙に属している事を感じました。私と同じ人がそこにいると感じて、とても安心し、嬉しくて懐かしくて仕方ないような、そんな気持ちでした。私はありがたいことにたくさんの方と出会いますが、自分と同じように宇宙に属している人だ、そう思える人に、たまに出会います。クリスもその一人です。
バリー博士の3日間のセミナーが終わり、お別れをする時、私は博士にその感覚を正直に伝えました。博士は優しく微笑みながら何度もうなづき、「私とあなたは前世で会っているのです。その可能性は極めて大きい。ダラムサラにいらっしゃい。その時は私を必ず訪ねて」とおっしゃいました。バリー博士によれば、私は前世でも今と同じような事をしていて、すでに前世でも多くを学んでいるのだそうです。私がセミナー中にバリー博士にした質問でそれが判ったとおっしゃいました。
そもそも、私がバリー博士に出会うことになったのは、私が「インドに行きたい、瞑想しに行きたい」と強烈に友人にアピールしたことから、「ちょうどいい、ダライ・ラマ法王庁の協力でインドからすごい人を呼んでる。瞑想のセミナーだから是非来たら」と誘われての事でした。
そうやって友人に誘われて東京へ行き、バリー博士に会ったら、今度はインドへいらっしゃいと誘われました。インドが私を呼んでいるのかもしれません。
私の人生は まるでロールプレイングゲームのように 次々と不思議なイベントに溢れ 世界中に私の訪ねるべき場所があるように思います。
夜は 地球が宇宙に向かって開かれる時間だからです。
夜になると本当に安らかな気分になります。特に家族がみんな眠っていて、部屋が真っ暗で、街も寝静まっている頃は大好きです。星が見える場所はさらに最高です。
小学校6年生の頃には、私は自分がこの地球にいることそのものに明確に違和感を感じていました。私の感覚は、当時から「自分自身は宇宙に属している」というほぼ確信に近いもので、夜に星を眺めることが大好きでした。いつもあの星空に帰りたくて、迷子のように星を眺めては泣いていました。そこが自分の魂の故郷なのです。
この事は私の親でさえ知りません。知っているのは一番親しい従姉妹ひとりだけです。
今も、私は「自分自身は宇宙に属している」という感覚を持っています。ただ、今では迷子ではなく、明確な目的と意志をもってこの地上に存在しているという感覚を同時に持っています。
自分とは何か?という探求を続けて、さまざまなワークを重ねてきました。
あるワークの中で、私は自分の中に水源を持っているというイメージに出会いました。自分のみぞおち辺り(体の中心部分)に、豊かな水源があります。その水源は私の意志とはまったく無関係に、豊かに清らかな水を溢れさせ、いくらでも湧き続けています。その水が供給されてくる根元が、宇宙なのです。つまり私の中の泉は宇宙とつながっていて、無限にエネルギーがそこに供給されているのです。泉から立ち上がるエネルギーは胸で波紋のようなものに変換され、私には「愛」と認識されます。また泉の深い部分で下腹部(子宮付近)にもつながっていて、そこでは「生きる力強さ」のエネルギーに変換されて私に認識されます。
私に内在するその泉は 枯れることがないという保証付きなので、だから私自身も飢えないし枯れないのです。私の意志と別に勝手にどんどん溢れているのですから、人にあげないともったいないくらいです。
私はこの泉の存在を見つけてから、宇宙の迷子ではなくなりました。実はずっと保護され、死なないように必要なものを供給され続けてきたのだと判りました。慌てて帰ろうとしなくても、私は常に故郷とつながったまま、この地上に存在しているのだと判ったのです。
先日、ダライ・ラマ法王庁の高僧でいらっしゃるバリー・カーズィン博士とお会いした瞬間、とても懐かしいと感じました。バリー博士の声を一声聞いたその瞬間に、私は懐かしさで胸がいっぱいになり、涙ぐんでいました。彼もまた、宇宙に属している事を感じました。私と同じ人がそこにいると感じて、とても安心し、嬉しくて懐かしくて仕方ないような、そんな気持ちでした。私はありがたいことにたくさんの方と出会いますが、自分と同じように宇宙に属している人だ、そう思える人に、たまに出会います。クリスもその一人です。
バリー博士の3日間のセミナーが終わり、お別れをする時、私は博士にその感覚を正直に伝えました。博士は優しく微笑みながら何度もうなづき、「私とあなたは前世で会っているのです。その可能性は極めて大きい。ダラムサラにいらっしゃい。その時は私を必ず訪ねて」とおっしゃいました。バリー博士によれば、私は前世でも今と同じような事をしていて、すでに前世でも多くを学んでいるのだそうです。私がセミナー中にバリー博士にした質問でそれが判ったとおっしゃいました。
そもそも、私がバリー博士に出会うことになったのは、私が「インドに行きたい、瞑想しに行きたい」と強烈に友人にアピールしたことから、「ちょうどいい、ダライ・ラマ法王庁の協力でインドからすごい人を呼んでる。瞑想のセミナーだから是非来たら」と誘われての事でした。
そうやって友人に誘われて東京へ行き、バリー博士に会ったら、今度はインドへいらっしゃいと誘われました。インドが私を呼んでいるのかもしれません。
私の人生は まるでロールプレイングゲームのように 次々と不思議なイベントに溢れ 世界中に私の訪ねるべき場所があるように思います。