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自分が生まれてきた意味はなんだろうと考えたことのある人は 白けて見えるこの現代でも 決して少なくはないと私は思っている。

高校1年生の頃 「生きる意味とは何か」というテーマで小論文を書いた。国語教師の受けは良く、喜色満面で「これはいいね。また何年か後に同じテーマで書いたら」と褒められた事を覚えている。その小論文で私は「自分の生まれてきた意味はわからない。考えても結局はわからない。これから生きていく中で、おそらく見つかるのかもしれない」と結んだ。そうとしかまとめようがなかったのだった。国語教師にはこの部分がいたく気に入られたように思う。

その後もいろいろな場所に顔を出した。
大学の哲学科教授とひょんなことで知り合いになり、教授が私的に催す日曜日の哲学科ゼミに、大学生や院生と一緒になぜか高校2年生の私が顔を出していたりした。
そこでの哲学は あたりまえの事をことさら難解に表現する知的ゲームのようだった。私は何でも哲学風に表現する事を楽しみ、そんな「ちょっと変わった子」を教授は可愛がってくれた。白髪で、どこか亡くなった祖父を思わせる老教授はいつも私に敬語を使い、「あなた」と呼びかけた。着ているものには頓着のない人で、ひらたく言えば「どこにでもいるちょっと汚い感じのするみすぼらしい老人」が、大学の哲学教授だとは誰も思わなかっただろう。

この知的で世間離れした、そしてその風采からは想像も出来ないほど 美しい物腰の老人が とても好きだった。紅茶を好み すべての他者に敬語を使い 知らない事を決して上からではなく 手を添えるようにして丁寧に優しく教えてくれる人だった。「最近はね、僕は人間の脳が一番面白いと思うんです。」教授との交際の最後の頃には、しきりに脳の話を聞かせてくれた。脳の仕組みに目を輝かせる 若々しい感性が その年齢を重ねた肉体の中にあった。

今思えば 彼は私の誘導役の一人として 私の人生に登場していた。「あんたって暗いよね」と、物事を深く考える事を否定されていた私に「思索の面白さ」を教え知性に光を灯してくれた恩人だ。
彼の公平で穏やかで それでいて好奇心や冒険心に満ちたありようには 限りない精神性の豊かさが広がっていて 人は肉体や年齢を超え 自分自身を越えた何かを内在できることをさらに 確信させてくれたのだった。


ところで 自分の生まれた意味について 私はそれからもずっと問い続けていた。私の毎日には喜びより苦しい事や悲しい事の方が圧倒的に多かったからだ。これほどまでに苦しむのなら その意味を感じなければとても耐えていけそうにはなかった。神に面会が許されたなら 絶対に真っ先に聞きたいことがあった。

教えてください。
私は何をするために生かされているのですか。
それを終えるまで勝手に自分で死ぬことが許されていないなら
さっさとそれを終えて早く死にたいのです。

これが長年に渡る 神への質問だった。

神に面会する早道とばかりに キリスト教に入信した。
しかし 残念ながらその教えの中にあるキリストは私には不足だったのだ。

キリスト教の教会の中で私は人間のしがらみと人間の作り上げたシステムばかりが目についた。牧師も神父も ただの人だった。私にとって尊敬できるとは言い難かった。

洗礼まで受けて 神を信じると宣言したからには そう簡単にキリスト教を裏切る訳にはいかないと思って頑張ってみたが 私の中にある信仰心と キリストはどうしても一つになることはなかった。そして私が感じることの出来る神とキリストも どうしても一つにはならなかった。私は教会という人間の作り出したシステムを必要としないほど 神と私の間の一対一の関係を感じていた。教会の教えるキリストは 私にはもの足りなかった。

私にはとても強い信仰心があるし それのためならおそらく踏み絵同様に命を捧げることもあるだろうが 残念ながらその信仰とキリスト教は一致しない。

今も 多くの人が神と呼ぶ 絶対超越的意志やその存在を感じることは出来る。
それを ある人々はキリスト教に ある人々はイスラム教に ヒンズー教に ユダヤ教に 仏教に etcetc まとめあげてきたのだ。
だから キリスト教が間違っている訳でもない。私には 一定の宗教の形よりも 神そのものと対話をする事の方が はるかに重要だったというだけの事だ。

人間は いつから 神と対話する事を忘れてしまったのだろうか。
それは とても日常的であり いつも どこにでも 存在しているのに。
あなたの中にも 神と呼ばれる超越的存在はあるのに 人はそれを信じない。 
自分の中に 自分を越える存在やその声を聞く人のことを 狂人と呼び恐れる。
大きな恐れに飲み込まれて 自分を救うものを閉ざしている現代人。
それは なんと愛しくなんと哀れなのだろう と 私の中の「私を越えたものの声」が言う。

今 私は自分の苦しみに 意味がある事を知っている。
だからといって苦しい事が平気になった訳ではない。
苦しみにも終わりがあり 生き続ける意味がある事を どんなに苦しいさなかでも思えるようになった という程度だ。
それでも 今与えられている今生での時間は 豊かで実りに満ちている。

今生で与えられた苦しみは もしかしたら これまでの何かを清算するものかもしれない。私を傷つけ深く悲しませてきた母や父の魂が 私以上に救済を必要としている事を 感じられるようになり 私は彼らを本当の意味で赦すことができる。



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