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2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
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今月はあと10日もあるというのに、家計が大ピンチである。
GWに盛大に使い過ぎたのが原因の一つ。
もう一つは、あらゆるものの値上げがじわっと全体に効いてきている。
そして、老犬の医療費が、いよいよかさむ一方だ。
もう、いつ死んでしまってもおかしくないけれど、本犬も随分頑張っている。

まあいいや。
お買い物に行けないなら行けないなりに、あるもので食いつなぐ事が意外と出来るものだ。
お米はあるし、最低でもおにぎりでお腹一杯になる事は出来る。
もっと酷い状況もあったし、それから比べればまだマシだと言える。

今月はあと一つ、運動会があるなあ。
子供をがっかりさせない工夫を考えながら、頑張ろう。

今はこれでも本当にマシなのだ。
どんなに貧乏でも、一応、NPOから少ないながらもお給料をもらっている。
NPOの経理状況によっては定められた額の全額もらえない状況も、決まった日にもらえない状況もありえるが、それでも「来月どうなるか分からない」という全く先の見えない自営の状態よりは気が楽でいられるものだ。

NPOがまともに私に給料を払えるようになる為には、NPOの収益事業がきちんと集客出来ていて経営的に正常化している必要がある。それには営業力、企画力などを備えた運営能力が必要なのだが、現時点では人材のマンパワー不足だ。
誰もが雇われている訳ではなく自発的なボランティアだけで運営しているのだからやむを得ない。
早く経営的に正常化して、事務局職員を雇用できるようになりたいと思う。
坂本も無給で3年、このNPOの為に働いてきた。
事務局職員を雇用して、坂本を早く自由にしてやりたい。
私はとにかくNPOを維持するためにも社会のためにも、働き続けようと思う。
それが結局は私の収入減であり、そして私の人生でもある。

まあ、いいのだ。
生きていられればそれで。
子供に教育を与えてあげられれば、それで充分だ。
誰とも言い争いをせず、出来るだけ穏やかな気持ちで生きていよう。


今日は、ウエサク祭(五月満月祭)だ。
釈迦(ブッダ)の降誕、悟りを開いた日、入滅の日が、すべてヴィシャカ月(インド歴第2月)の満月の夜であったという伝承により、アジア各地(チベット、タイ、ミャンマー、スリランカなど)で行われる祭りの日。
太陽暦では4月から5月の満月の日にあたり、その日にちなんで、ブッダに捧げ、また世界の平和と人々の幸福を祈念 しています。

世界中で 仏教徒が祈りを捧げている、今日。

中国で、チベットで、ミャンマーで、苦しみの中にある全ての人々の為に。


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「あと5キロ 夏までにヤセる!」
「脚細くなりたい!」

そんな広告文字がネットを開けば勝手に飛び込んでくる。
新聞にもフリーペーパーにも、手を変え品を替え、美容に関する広告が山のように掲載される。
みんな、そんなに痩せて、どうするの?
だいたい、どうしてそんなに痩せたいの?

まあ、私が言ったら説得力もなにもないとは思うけれど、どうしてそんなに、自分の身体に不満足なの?

身体は一人ひとり、それぞれで、みんな特徴があって、それでいいじゃない。
毎日生きてる事を感じられる身体があれば、それで充分じゃないのかな?

どうしてそんなに、今の自分の身体に、不満足なの?

私は、美容の目的で、痩せたいと思う事がまったくない。
だからそんな体形なんだろうと言われるだろうけれど、どう言われても、世間の言うように痩せようとは思わない。
健康の為にだけ、痩せる方がいいだろうなあ、と思う。
それに、太っているのが醜いという価値観も、時代が勝手に決めているものだから、普遍ではない。

太っているほど美しいと言われる国も、現在あるし、過去にもあった。山ほど。

ルノアールの描く裸婦を見よ。
あの美しさと柔らかさを。
私そっくりじゃないか、と一人満足する。むふふ。
皆さん、ルノアールの裸婦像をじっくり鑑賞した事がありますか。
女性への愛が溢れているのですよ、ルノアールの絵には。
本当にため息が出るほど、美しい絵ですよ。


「日焼けすると、肌が老化し、しみ、しわの元になる」
これもよく目にする情報だ。

多くの女性が、しみやしわには神経質で、肌がたるむと老け顔になると恐れている。

でも…。
何故老化に抵抗するの?

どうせ長くても100年くらいしか生きないよ。
だからこの身体は100年生きる分の耐用年数があれば、それで充分なんじゃないのかな?

100才なのにお肌がツルぴかだったら、かえって怖いんじゃないのかな?
私は 由美かおるが 怖いよ。

私はしわくちゃの梅干しばあさんになりたい。
深いしわを刻んだ、味のある顔になりたいし、老人らしい老人になりたい。
しみだって、年齢分、出てくるのが当たり前だと思っている。

身体は健康なほうがいい。もちろんそれはそうだよね。
最後まで痛みがなければ、それはこれ以上ないくらい、幸せだろう。

だけど、見た目は結構、どうでもよくないですか?
私はそうなんだけどなあ…。


両親の、若い頃の写真を見た時、「おおー若い。肌がピンとしてる。ある意味キレイ」と思った。でも、「今の老けた顔の方が味があって、いい顔だよなあ」とも思った。
若くてキレイだけど、何もわかってない顔の両親より、人生を重ね、苦労をして、いろんな事がわかったことが現れている、年取った両親の顔が好き。

年をとるってのは、いいものだよねえ、って、私は本気で思っているんだけど。


お風呂はいつも銭湯に行く。
たくさんの人の裸を見る。
一人として、同じ身体の人はいない。
みんな、身体にはその人としての特徴を持っている。
お腹のお肉も、お腹のしわも、お尻のラインも、脚のラインも、腕も、胸も、背中も。

誰一人、同じ身体の人はいない。

みんな、何になろうとして、痩せたいの?
誰と同じになろうとしているの?

自分の身体は、とっても自分らしいよ。
それは忘れちゃったの?

そんなにお腹のお肉を掴んで、もみ壊そうとしなくていいんじゃないの?
サウナでお腹や腕を激しくマッサージしてる人は毎回何人かいるけど、ちょっとそのお肉が可哀想に思えちゃうよ。

気持ちいいから、という理由でマッサージを受けるのはとっても共感出来る。
血行が良くなるし、身体に優しくしてあげてる感じがするよね。
だけど、セルライトを破壊する!という理由で揉まれに行くのは、全然意味が違ってると感じる。


あなたは、そのままで、あなたらしいよ。
みんな、きれいだよ。
あなたの身体は、あなたらしい、きれいな身体だよ。


銭湯にいって、お湯に浸かってぼーっと人を眺めている時、よくそう思う。


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私は政治の事はさっぱりわからないし、政治問題にはタッチしない事にしているが、小泉元首相はほんとに見ていて面白く、あんな魅力的な人物が政治家である事のミスマッチにも本当に感心してしまう。

変人とか、自己中心的だとか、批判されたり嫌われたりする事も多いだろうが、私には小泉さんの言動はどれもこれも面白くて堪らない。記者だったら小泉番になりたい。今日のワイドショーでは小泉さんが出版した「わたしの音楽遍歴」という本を紹介していたが、あんなにどこででも歌う政治家は珍しいのではないだろうか。オペラを見に行ったり、外遊の時にもブッシュ大統領の前で歌ったり、ワルノリと酷評されたが、私は「日本人にもこういうユニークな人がいるんだ」とアメリカ人にも思ってもらえたと思う。

私が小泉びいきなのは、多分変人同士だからだろう。
彼に自分と共通する部分を見るからだろう。

誰ともつるまず、自分の人生を楽しんで、自由に流れながら生きている小泉さんから目を離せない。
政治家として活躍しなくても、あの人ならテレビ業界でも充分やっていける。

夫にはしたくないし仕事で組むのも嫌だが、恋人や友人としてはかなり面白い人だろうと思う。

思うにあの人は、数少ない「勝者の人生脚本」を持つ人ではないかと思う。

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ただいま朝5時ちょっと。
子供を起こすまで1時間ほどある。

まだ薄暗い、この早朝に目が覚めた日は、ベッドの上で身体を起こして、のんびり過ごす。
好きな音楽をかけ、エスプレッソコーヒーで作ったカフェラテをベッドで飲む。
私にとって一番贅沢な時間だ。

娘がまだ赤ちゃんだった時、どうやって分かるのか不思議だけれど私が起きると必ず娘も目覚めてしまって、自分の時間を持つ事が本当にまったく出来なかった。やっと寝た、と思ってノートパソコンを起動した途端に目を覚まして泣き出す。私がそっと布団を抜け出すと1分以内に泣き出す。

あれにはほとほとこっちが泣きたかった。自分の時間がない、というのは私には本当に堪えた。
今でも自分の時間を持てないほど忙しいと、段々イライラして発狂モードになっていくのが分かるので、そういう時には家事一切を放棄して誰にも会わない場所に避難したりしてバランスを取っている。

今、子供が自分のベッドで寝るようになり、部屋も分かれているからこそできる、私だけの朝。

日が昇る、この早朝の時間が大好きだ。
空気も太陽の光も一番新しくて、今日も命があった事を感謝する。

全ての命が輝きますように。
全ての命が平安でありますように。
苦しんでいるものの苦しみが終わりますように。
捕らわれているものが解放されますように。
許す心が目覚めますように。
あなたの痛みを受け取ります。
それが少しでも和らぎますように。

新しい光、新しい空気の中に、祈りをそっと放つ。
世界中に、私と同じことをしている仲間がいる。

地球が祈りで包まれますように。


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10日にマインドマップのワークショップをする事になっているので、その準備中。

開発者への敬意を込めて、人に教えるからには本家のセオリーはきちっとおさらいして置こうと、再勉強中だ。

しかしそれにしても改めて、トニーブザンはすごい。
これほど頭の良い人はそういない。トニーという人類の宝は、人類にマインドマップというすばらしい贈り物をしてくれた。機会があったらトニー本人からマインドマップの講習を受けようと思う。

トニーは、1970年代にMENSAのインターナショナル・ジャーナルを編集していたので、MENSA関係者だ。そういう意味でも親しみを感じる。


人類は、ようやく「知性が知性を育むことができるのだ」という事実に気づいた。知性は孤立しているものではなく、知性によってより知的に成長できるのだ。トニーが教育した学習障害児が学年トップになったり、超エリート大学に合格して首席卒業したりしたことからも、知性が知性を育てるという事は証明されている。

95%の人がつまらない、効率の悪いノートを書いている。
マインドマップを使えば、自分の能力はたちまち5倍以上に引き上げられる。
世界中の多国籍企業が、トニーとアドバイザー契約を結び、マインドマップを業務に導入している。
トニーの素敵な処は、人々とこの知的財産を共有し、誰にでも使って才能を伸ばして欲しいと心から願っている処だ。成功した人にありがちな、虚栄心や野心や鼻持ちならないプライドはみじんもない。彼は人類の可能性を花咲かせたいと願っているだけのように見える。

今、世界中の2億5000万人以上がマインドマップを使っている。
理由はただ一つ。
誰にでも使えて、そしてものすごく役に立つからだ。
マインドマップは、現時点で存在する最高峰のマインドリテラシーだ。

知らない人の方が多いのだから、まずは知らせる事に役立とうと思う。
私からこの情報を得て、さらに深く学びたい人は、私がそうするように、実際に使い続けて、トニーやトニーの弟子のトレーナーにマインドマップを習いに行けばいい。

私は、最初の入り口になれれば、それで充分だ。
多くの人に、その人たちが知らない素敵な事を伝えて行きたい。
それが私の仕事であり、今のところの役割だ。

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日本には、100人に一人の割合で億万長者がいるのだそうだ。
(しかしいまだに「長者」って云うのか…)

億万長者とは、貯蓄や有価証券などの動産資産が一億円以上ある人の事。
土地や建物の不動産資産は含まない動産だけの資産調査でも、これだけの億万長者がいるらしい。

つまり日本では、俗に言うミリオネアは、どこにでもごろごろしていて、ありふれている訳だ。

同時に、日本の世帯では、貯金0円の家庭が一番多いという。
我が家もおなじようなものだ。

余ったお金を銀行にどっさり持っている人々と、銀行へは支払いにいくだけで一円の貯金も出来ず日々のお金で精いっぱいの人々。
マスコミは、これを格差社会と言って声高に騒ぐけれど、そんな事は今に始まった事でも珍しい事でもない。世界中のあらゆる処で、持つものと持たざるものがいる。

ある意味、世の中は不平等な処なのだ。
私は今、貯蓄ゼロの方のグループに属している訳だけれども、だからと言ってマスコミの言うように「政治が悪いからだ」とか「一部の富裕層だけが一人勝ちしている」とか「小泉のせいだ」とか文句を言うつもりはまったくない。そんな事言ってもただの負け犬の遠ぼえになるからだ。
ガソリンが高いのも、食品が値上がりするのも、全部文句を言っても始まらない。
それが現実なら、それをどう乗りきるのかを考える。それだけだ。

何かのせいにして、自分の生活を嘆いている人に限って、小さなレベルで自分の生活を向上させる事さえしていなかったりする。不平等だなあ、大変だなあ、と思う事はあるだろう。それが現実なのだから、そう思うのは当然で、むしろ事実をよく見つけていると言える。大事なのは、その次のプロセスだ。
不平等なのだから、大変なのだから、だからこそ余計に、その現実の中を、どう生きるのかは自分の力にかかっている、という事だ。
誰かのせいにしたり、自分の生まれのせいにしたりしていても、何も変わらない。

私ならこう考える。
私は100人に一人、億万長者のいる日本に生まれた。
しかも日本にはカースト制度がない。
だから身分に関係なく、私も億万長者になれるという事だし、日本は世界でも恵まれた経済大国なのだから、それが実現出来る国だという事だ。

もし私がインドに生まれていて、カーストの最下層(物乞い)に生まれていたら、多分そういう風には思えないし、億万長者になれる可能性は遥かに低いのだから、日本人だというだけでも、よほど多くのチャンスをもらっている。

100人に一人。全く高いハードルではなさそうだ。
親からの資産を受け継いだ人はともかく、自力で稼いで億万長者になった人もたくさんいるだろう。
彼らが何をして、何を努力したのかを学べるだろう。

私の父はよくこう言っていた。
「人に出来た事なら、自分にも出来るはずだ」


…とは言え。
今気づいたが、私は億万長者になりたいと思っていないのだった。
ははは。

まあ、のーんびりやっていこう。
毎日が楽しい事が いちばん大切。
お金を可愛がって大切に扱っていれば、お金はきっと私を慕って後からついてくるさ。

幸せスキルだけはめきめき上がる、極貧生活。
今はそれを満喫している。

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今、NHKのみんなのうたで流れている歌、聞いた事があるだろうか。

http://www.youtube.com/watch?v=VOwftDns1VI

これは「クリスタル・チルドレン」に関するメッセージソングだが、この言葉はスピリチュアル系の人たちにはなじみ深い。逆に、スピリチュアル系の知識のない人にはまったくピンと来ないだろう。

この歌の歌詞はスピ系の人には格別に響くだろうが、何の知識もない人にも深いレベルで感動を与えるかも知れない。私などは、この歌は聴くたびに涙が溢れてくるし、一緒に歌おうとすると声が詰まってろくに歌えなくなるほど強い反応が起きる。

この歌にメッセージされている言葉は、すべて私の中に存在するものと共通するからだ。


●●●以下 私の考えではなく、スピリチュアル系の人のサイトにあったものの要約です●●●

スピリチュアル系のメッセージによると、今、地球を救う為にクリスタルの魂を宿した子供が次々と生まれている、という。彼らは生まれながらに許しの愛を持ち、天真爛漫で、人の心を癒す力を持っているという。彼らのオーラを見ると、パステル調の柔らかな色合いに、オパールような白っぽい輝きで、そのオーラの色に基づいて「クリスタル」と呼ばれている、という。

クリスタルチルドレンに先立って、地上に送り込まれてきた魂に「インディゴ」の子供たちがいる。彼らのオーラカラーは深い藍色で、この色(インディゴ)にちなんでこの子供たちをインディゴと呼ぶ。
インディゴの役割は、社会の改革であり、現在の人間の間違いや嘘を見抜き、それを正す事にある。人々の悩みに深く関わり、コミュニケートしようとする。そうしてインディゴが社会の状態を整えて、クリスタルがやってくる準備をしていたという訳だ。

インディゴの魂は、1970年代後半から多く地上に現れているそうだ。1978年以前に生まれたインディゴを、特にパイオニアグループインディゴと呼ぶ。インディゴチルドレンは、非常に繊細なので周囲の理解を得られない時、その能力を使えなくなったりする。ADDやADHDと診断された子供の中に多くのインディゴチャイルドが含まれているという。実際、1970年代後半から、ADD、ADHDの診断数がどんどん増加しているそうだ。

1992年から1994年が、インディゴとクリスタルの境目だそうで、その頃から多くのクリスタルチャイルドが出現するようになっているのだそうだ。

●●●● 以上、伝聞形で書いた通り、私の主張ではない事をご理解下さい ●●●

こういう情報は「ライトワーカー」と言われるスピリチュアルカウンセラーたちが発信している。

私の考え方とスピ系の人たちの主張は多くの共通点がある。
けれども私には、スピ系の人たちの「根拠を持たない危うさ」を見過ごせない。
もちろん例えば前世とか輪廻転生とか、本当なのかどうか分からない事はある。
そういう事を信じるのも信じないのも、自由だし感覚に従えばいいのだけれど、そういう事を信じる姿勢には違いがあると思うのだ。

私は、あらゆる事に客観的視線を注ぐ事をやめてはいけないと考えている。
それが、証明出来る、出来ないに関わらず、科学的な検証と、事実を冴えた目で見つめ続ける姿勢は常に失ってはならないと思っている。
スピリチュアル系の人々には、そういう部分が欠落していると感じる。
「あるもんはあるのよね〜」「感じるんだからそうなのよ」

そういってしまうと確かにそうなのだが、だが姿勢として、私は、それでは納得できない。
そんな怪しげな言い分をうのみにする事は出来ない。多くの人がそうだろう。
あらゆる事に、検証のメスを振るうことを諦められない。
客観的姿勢を失った時、容易に単なる自己満足や自己完結に陥り、社会との共存を捨て背を向けて行く姿勢になると思うからだ。
私がスピリチュアル系の人とちょっと相性が悪いのは、そういう、現象に対する姿勢の違いによる。

ダライラマ法王を心から尊敬するのは、法王が世界一の仏教実践者でありながら、同時に科学的な検証を続けようとする科学者であろうとする姿勢だ。
チベットの神秘の数々に、科学の光を当てようとするのはとても勇気ある姿勢であり、そして真実に対して真摯な態度だと、心から信じられる。


ところで、スピ系の説によれば、私はパイオニアグループのインディゴという可能性が高い。
オーラを見る事ができる、という信頼できる人に出会ったら、見てもらって自分のオーラカラーを確かめてみようと思っている。


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朝ご飯を、外で食べる人が増えているそうだ。

私が娘をバス停まで送った後に入るスタバでも、朝ご飯を食べている人が多い。斜め向かいのマクドにはひっきりなしに朝マックを買いに来る人が入っている。
家で食べるより、外で一人ほんのひととき、ゆっくり時間を過ごしたいという志向があるのだそうだ。

確かに、その気持ちは分からないではない。
けれど同時に、なんだか少し寂しい気がする。

一人暮らしならいざしらず、家族のいる人なら、朝食くらいは家族一同、顔を合わせて取ってはどうだろうか。
今日の予定は?とか、今日は晴れて良かったねとか、サラダ食べなさいとか、そういう何でもない会話を、家族と交わす事は大切ではないのだろうか。

家族と過ごす事が煩わしい、一人になりたい、と思うのは、家族がもはや自分の幸せの供給源ではなく、単なる重荷になっているという事ではないのだろうか。家でくつろぐことが出来ないから、人から干渉されない人混みのなかでかえってほっとしているのではないだろうか。

家がくつろぐ場所でないとしたら、いったい、どこへ帰ればいいのだろう。
暖かくて、心の底からほっと安心できて、優しさといたわりに満ちた自分の居場所がないとしたら、人はどうやって生きて行くのだろう。

家が安らぎの場でないとしたら、私は生きて行けないと思う。
あらゆるエネルギーが枯渇して、心は冷えて行き、優しさも忘れ、自分に対しても冷酷になり、そして生きる事に疲れ絶望してしまうだろう。

私は一つの物事から、二歩も三歩も先を考えてしまう癖がある。
たかが朝ご飯を外で食べる人が増えたというニュース一つで、こんな具合だ。

だから、私の日常は私の勝手なこだわりに満ちていると思う。
無自覚に何となくそうしている、という事があまりなく、大抵の事は考えた上でそうしている。いい加減にしている事は「適当にしよう」と決めて、つまり手を抜く事を決めて、そうしている。だからそういう私の適当な部分を人に指摘されたり非難されても、「ああ、そこはそうなんですよ。ごめんね」と、あまり改めるつもりがない。それが私をよく理解していない人の神経を逆なでしてしまう場合がある。私に怒る人の反応は、大抵「あんたは反省しないのか!」である。そういう人とは、私はあまり長く付きあえないようだ。

話を戻そう。
私なら、自分の家でくつろげないという現実は絶対に見過ごす事のできない重大問題だ。何しろ、自分の人生の質、さらに大げさに言えば生死に関わっている。だから、徹底的に解決を図る。

家で楽しく朝ご飯を食べられないのは何故か。
何がうまく行っていないのか。
妻や夫との会話が弾まないせいなのか。だとしたらそれは何故か。
家族が煩わしいのは何故か。仕事のしすぎだろうか。
自分に余裕が無くなっているからか。だとしたらそれは何故か。

せっかくの美しい朝日の中、自分にエネルギーを注入する為の美味しい食事を楽しめないのは何故なのだろうか。

それは放置できない問題ではないのだろうか。

自分の家は、完全な安全地帯でなければならない。
外でとる朝食で得られる以上のくつろぎとやすらぎを、家で得られるかどうかは、とても重要なバロメーターではないかと思う。


蛇足
朝食を用意したくない時、自分で自分にサービスするのが嫌な時、人にサービスしてもらいたい時、
私は外で朝食をとる。
でも一番好きなのは、夫や娘に用意してもらう朝食だ。

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人が人を殺す、という事が恐ろしい。

殺人も、死刑も、もっと言えば中絶も、私にはとても恐ろしい。
人だけでなく、犬や猫が捕獲されてガス室で毎日殺されている事も恐ろしい。
命を一方的に、絶つという事が恐ろしい。


だから私は死刑は無くなって欲しいと思う。
殺人が無くなるように、と願うのと同じように、死刑も無くなるように、と願う。

身内が殺されたら、その犯人を殺したいと思うだろうか。
思うかも知れない。でもその犯人が死んだら、私はだれに、身内の命を無残に奪われた悲しみと怒りをぶつければいいのだろうか。
私だったら犯人にぶつけたい。死んで居なくなって欲しくない。

犯人に泣いて欲しい。
悪かったと思って欲しい。
こんなに責められて苦しいと思って欲しい。
そして、殺してすまなかったと、何度も何度も、思って欲しい。

その為には、生きていてもらわなければならない。


日本に、終身刑を。
一生、二度と社会に出る事のない、終身刑を作って欲しい。

そして、加害者と被害者遺族とが、直接話す事の出来る制度を確立して欲しい。
そうでなければ、被害者遺族も、加害者も、救われる事はない。

死んでしまった被害者は、救われる事がないのだから、加害者が一生ずっと責めを負うのは当然のことだ。だが加害者が死んでしまったら、罪を背負うものが居なくなる。被害者の無念は、どこへいくのだろうか。誰が彼らを慰めるのか。


終身刑を。
その生ある限り、償い続ける事ができるように。


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驕る(おごる)
 自分の能力・財産・権力など誇って他人を見下げたふるまいをする。我がまま勝手な振る舞いをする。


人間性の向上を求めるなら、「驕ること」を自戒し、厳しく排除しなければならない。
特に、自分が人に勝る部分があると自覚するなら尚の事だ。

先日、バリー師とお会いした際にいくつか質問をしたが、私の考えや感覚が優れており、前世でこのような「人間性に関する学び」をすでに繰り返している事は明確であろうとの示唆を受けた。「ゆえに、あなたはそれを誇りすぎて驕らないよう、自制しなければならない」という教示も同時に与えられた。

そこで、数日、驕りから自分を遠ざけるにはどうすればよいかを、深く考えてみた。

多くの場合、自分では自分が驕っているかどうかは気づきにくい。
自分の顔を自分では見る事ができないので、自分が人を見下した顔をしている事に気づくには、鏡をその瞬間のぞき込まない限り無理だ。
「鏡を手に取り、今自分がどんな顔をしているのか」を「見てみよう」という気持ちがなければ、自分が人を見下げた顔をしているかどうかを確認することはない。しかも、驕っているその時には、自分の顔を見てみようという気持ちが起こるかどうか、はなはだ怪しい。

そこでまず、重要なのは「人」という鏡を使うという事だろう。
つまり「あなたは驕っていないか?」という人の言葉を得た時には、その人は私が自分で見る事ができない私の顔をみてそう言っているのだから、私の判断より事実を言っている可能性がある、と考えようという事だ。
バリー師から「驕ってはならない」と言われた時、私の顔はその直前に「優秀である」と言われた喜びを浮かべていただろう。だからこそバリー師は私に「驕ってはならない」という教示を与えてくださったのだ。

ここで次に、私の心の中での吟味が始まる。
「驕ってなどいない」と直ちに反発したい気持ちがないか?
少しだがある。これはエゴである。
エゴを静め、与えられた教示を謙虚に受け取るより良い状態に、自らを整地しなければならない。

ここで、心理学が役に立つ。
「素直になれ」とやみくもに自分に課すのではなく「教示を受け入れる事は、自分の成長につながる、非常に価値ある事だ」と優しく教えてやる。
すると、自分の成長のためならば、素直に聞き入れようという自分が現れ、「驕っている部分があるかも知れません。よく探り、それを静めます」と静かな気持ちで頭を垂れている。


自分の中の驕りは、常に自分にとって死角にある。
自分では気づきにくい。
だからこそ、たゆまず吟味が必要だろうと思う。


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