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自分が特別だと思って誇ったことはなくむしろ劣等感の方が大きかったのだが
どうやらこれまでの経験や自分に起きた出来事、人の意見などの総合から導き出された結果では、私は相当「頭がいい」部類らしい。
と、こう書くと、直ちに「頭がいい」事を自慢していると思う人も少なくないかもしれないと懸念する。「頭がいい」の定義を、便宜的に「思考の回転速度が一般平均より高速であること」とする。

日本では 自分の能力について それがハイレベルである事を自ら言うとひどいバッシングに遭うという公式が成立する。金メダルをとった荒川静香でさえ、「私の滑りは世界でもっとも美しいでしょう」と言ったらたちまち世間の女性から総すかんを食らうだろう。彼女の滑りが世界でもっとも美しく技巧的に卓越したものである事は事実なのに、自分でそれを口にすることは禁止されている。それが世間のルールである。

しかし敢えてタブーを乗り越えて 私の思うことをそのまま公開してみようと思う。

「頭がいい」を便宜上、「思考の回転速度が一般平均より高速であること」とした場合、これは医学的には「知能が高い」と定義される。
知能指数を計測するためのテストはもともと知能発達の遅れを発見するために開発されたものなので、高いポイントが測定出たからと言ってどうという事もないだろうが、とりあえず私の知能指数は4才の頃には160以上、と結果が出ていたそうだ(テストの種類や、偏差は不明)。
それでなのか、IQ本やテレビの不正確なお遊び程度のテストを遊びでやってみても、現在に至るまでいつやってみてもほぼ最上位ランクの値を出す。
ちなみにIQ160というのは成人用のIQテストなら、ほぼ上限数値で、出現率は3万人に一人、上位0.003%という事になる。
ギフテッドチャイルドの中でもこの数値は「並外れたギフテッド」と認定される。
私がギフテッドチャイルドの中でも特別なギフトだと主張したい訳ではない。しかし、少なめに見ても、私の経験した人生は平均とか平凡とかにはどうしても分類出来ないだろうと思う。

そもそも私は家庭学習を小学生の頃から一度もまともにやっていない。
それでも勉強で困った事はないし、成績は努力しなくても良かった。
高校時代、全国統一模試の国語で福岡県1位を連続2回、取った事もある。
連続2回1位という事で、まぐれでとれた成績ではないと証明した事になり周囲の注目が嫌になって それ以降成績は低迷した。私は自ら良い成績を残すことを放棄したのである。大嫌いな学校にそれ以上介入されるのはまっぴらだったからだ。かわりに友達の成績アップのコーチをした。

幼い頃から長文を記憶することも苦もなく出来たし、拒絶反応を示さない限り勉強で苦労はしない。(数学はごく最近まで私の精神的アレルギー物質だったのだが)

家族で映画館にでかけて見た映画のセリフを最初から最後まで全部覚えてしまった事もあるし、学校では昨夜見た面白いドラマを全シーンセリフそのままに再現するという芸もよくやり、「ガラスの仮面」と友達に命名された事もある。
私は特に聴覚優位タイプなので 音で聞いたことは録音されたもののようにそのまま記憶する。思い出すときにはその音を再生ボタンを押して聞いている感じなのだ。

こういう話をすると世間では自慢と認識される。
私は事実を話しているだけだが、そこに自慢というエゴを嗅ぎ取るのはその人にエゴがあるからではないのか。私を鏡にしているだけではないだろうか。
もちろん普段は 相手を不快にさせる事も望まないので 世間のマナー通り、謙遜の態度も使い分けている。

私は自分の知能を自慢することに価値を持たない。
人は自分に出来ないことを人が出来ると羨むという心理があるが、私も自分に可能な模試1位より、マラソンでいつも上位3割に入れる友人のほうがよほど羨ましかったし、スタイルのいい友人がその薄っぺらなウエストを強調し制服を見事に着こなしている事の方がよほど羨ましかった。
私は自分の知能の高さで得をすることはほとんどなかったと思っている。だからこの知能を自慢したいという動機そのものを持たない。

そして、まあ、人間とはそういうものだなと思う。
人を羨む事の無意味さを思い、やめる。
自慢も、ねたみも、なんの役にも立ちはしない。
自慢がいけないから、ねたみがいけないから という道徳的観点ではなく 無駄な事に精神エネルギーを割くのがもったいない という感覚が私の中には人生早期からあった。

幸せな事なら誰かに共有して欲しいし、分け合いたいが、自分が優秀である事を自慢する意味は感じない。優秀なら、周りの人を助けるためにその余っている能力を活かせばよいと思うだけだ。

自分が生まれつき持っている能力を人に自慢する悪阻かさは、車イスの人の前で「私は走れますよ!すごいでしょう」と小躍りしている光景に等しい。
…なんて馬鹿な光景だろう。間抜けすぎて恥ずかしくなる。

私が走れるのは当たり前で、車イスの人が自分の足で歩くこともままならないことも当たり前なのだ。どっちが上でも下でもなく、状態が違うだけだ。
私は走ったりできる健康で優秀な足で、その人の車イスを押して歩いてあげられるのだから、走れない人の目の前で小躍りするような愚かで恥ずかしい真似をせず 車イスの人を助けてあげる方がよほど気持ちがいいし幸せだ。

知能の高い人間は ほかの人の思いつかない事を思いつき 行動し 新しい可能性を開く為に存在している。その役割を果せば みなの幸せに繋がる。

人は決して 公平など 与えられていない。
世の中は不公平なのだ。そしてそれが自然界の 正常な状態だ。
均一ではなく ばらつきがあること それが自然である。

だから 足の速いのも 遅いのもいる。
頭の回転が早いのも 遅いのもいる。
指先が器用なのも 不器用なのもいる。

それらのばらつきの結果として
豊かなものも 貧しいのもいる。

それで 自然なのだ。

だがどちらの立場にも 果たすべき役割がある。
人の優位になる何かを才能として与えられたものは 与えられなかったものに分け与え 救済する役割を持っている。
優位性に恵まれなかった平凡なものは 大多数としてコミュニティを形勢し、社会を営むという役割を持っている。

どちらも 生き方の質に目覚め 懸命に生きなければ 果たせない事である。

ちなみに 知能が高いこと と 勉強が出来ること は一致していない。
あらゆる天才型の人は ある分野にはものすごい能力を示し 別の分野では小学生以下の能力しか示さない という事が起こる。
勉強の成績が良いことが 知能が高いことの証明にはならない。
東大生の知能指数平均と 一般人平均は そう大差ない。少し高いくらいのものだ。

だが 知能が高いこと は 生き延びるチャンスが多いこと である。
私は サバイバル能力が極めて高いことを自負している。不測の事態に対応する能力は 平均をはるかに超えるだろう。それもまた 人が私を頼りたくなる要素なのだろうと自覚している。

過酷な現実を生き延びた集団には おそらく賢いリーダーがいただろう。
そのリーダーは リーダーになりたいと望んだのではなく 持っている才能により その立場につくことが自然だったのだ。

私は リーダーの立場は 嫌いである。疲れるし孤独だからだ。
だが それを繰り返ししなければならないのは 自らの才能による役割なのである。

愛だけが その苦しみを救う。
愛だけが すべてを包み救う。

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