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2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
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2008年とお別れする日。

どんな一年でしたか?
私にはこの1年は 「死と新生」がテーマだったように思います。

インドに行き、ダラムサラで過ごした日々が先月のよう。
法王様のおひざもとで、本当に平安な気持ちで過ごせたティーチング。
冷たい石畳に座り、屋外で寒風にさらされようとも、そこに居た人々すべてが、平和で温もりに満ちていました。できれば最終日まで法王様のお話を聞きたかった。
帰りによったシンガポールでとても親しくなれた友人。
近々、シンガポールに世界への活動拠点を置こうと思っています。(預金ゼロで借金生活の人間がよく言うよね。でも実現出来ますから)
そのきっかけをくれた彼に大感謝。

帰ってきたと同時に、チベット紛争勃発。
自分の魂のルーツかと思えるチベットが、中国の激しい暴力に晒されている苦しみ。
チャムが生きて待っていてくれたことに感謝と喜び。

そしてすぐにバリーさんの広島セミナー。
参加中に夫の兄が倒れて、広島から大阪に駆けつけたあの日。
もう意識を回復する希望のない、瀕死の兄に付添い、人の死のプロセスを見守った3日間。
たった43才である日突然に倒れ死んで行くという人生もあり得るのだとまざまざと思い知った経験。生きて桜の花が散る姿を見ている私たちと、もう何も聞こえず、見えず、感じない死んだ兄との強烈なコントラスト。

6月、バリーさんが福岡に。
ボランティア養成講座のテキスト制作と重なって、あまりに忙しく、周囲の人に気配りするゆとりを失い、非常に仏頂面を晒して無愛想だった恥ずかしい日々。
忙し過ぎてやけを起こしそうになったりヒスを起こしそうになったり。そして鬱で何も手に付かず。あれでも自制するのに精一杯という器の小ささ。修練が足りません。

7月、チャムがいよいよほぼ寝たきり状態に。重度介護が必要な大型犬は、人間の病人となんら変わらない。毎日、毎日が大変。長く生きて欲しい思いと、早くこの苦しみや苦労が終わればいいと願う思い。そしてチャムにそんな事思ってごめんねと泣きながら詫びる日々。

8月、チャムが腕の中で息を引き取って。直前のクライエントさんが長引いてしまい、チャムの意識のあるうちに側にいけなかったことを悔やんで、悔やんで、悔やみ切れない。
あまりにも大きなものを失って、悲しいのか何なのか、わからない、感じない日々。
多分今も、まだ全部感じ切れていない。

9月、10月、記憶が取り出せないほど、茫然として過ごしていた日々。
でも私が茫然としていても大丈夫な、仕事上のパートナーに恵まれる。仕事の面だけでなく、怪しげな言い方をすれば「魂のレベル」でかなり近い、安心できる存在。この人と一緒に仕事していく事はおそらく私の人生の中には外せない計画として入っていたのに違いないと確信。だから安心して呆けていられたのだろう。
この人との出会いにより、自然と傾聴講習会が大幅にパワーアップしてしまった。話す言葉の力が違う。だから90分の枠の中にうまいこと入れられず、調整に苦労した。未だに、新バージョンの傾聴講習会では力の調整加減がまだ慣れていないので、時間管理がうまく行かない。でも受講者にとって、とっても良い事が起きている。新生、傾聴講習会です。

11月、恐ろしい貧乏生活が襲いかかる。そんな中、英彦山のリトリート。雲の上の天上界。安らぎの中に包まれて真摯に自分の声を聞く日々。とても幸せ。英彦山の山伏たちの魂がそこかしこに感じられる、素晴らしい土地に「招かれた」のだと実感。
「日程決めてくれたら休みを取って必ず行きます」と言って後押ししてくれたともちゃんに、本当に心から感謝。彼女の存在もまた、英彦山という土地に私を招いた因の一つだった。そして集ってくれた誠実で信頼出来る参加者全員に感謝。すべての人が誠実であろうとし、一生懸命でした。そのすべての人に支えられているから、私は立っていられます。

12月貧乏度でいったらこれまででもトップ1,2位に来そうなくらい、ド貧乏な日々。電話止まりそう。電気止められそう。家賃払って完全に貯金も吹っ飛んだ。ここまで丸裸になったのは初めてかも。このままいけば、家も追い出され、路上生活が頭をよぎり怯える。でもそうなったらホームレス中学生みたいに私も本を書いて後で稼ごうと思う。(芸人か)

死に触れて、自分の人生に新生が起こる。
そんな一年でした。
ダイナミックに、何度でも生まれ変わる。
それもまた、一つの人生なんだなあと思います。

ああ、チャム。お前ったらどこに生まれ変わったの。
一度ハエになって来たでしょう。
ダメだよ、ハエなんかじゃ。
何遍でも生まれ変わって、早く一緒に暮らせる姿になっておいで。
早く逢いたいよ。待ってるから。

一年の締めくくり。
除夜の鐘をつきに行こうと思っています。
行けなかったら、テレビ「行く年来る年」です。

この一年、こんな未熟な人間を見守ってくださってありがとうございました。
袖すり合うも多生の縁なら、ブログのぞくも多生の縁なのかも知れません。
いつかどこかでご一緒したあなた。私の家族だったかもしれないあなた。隣に住んでた人だったかも知れないあなた。動物だった時にあなたを食べちゃったかも知れません。あるいは、私が食べられちゃったのかも知れません。それでも何でも、あなたとこうして、今生でまた関われて幸せです。


みなさん、よいお年をお迎えください。
命輝く、新しい年を迎えましょう。
共にこの大気を吸っているあなたと この瞬間を生きている幸せ。
ありがとう、ありがとう。

あなたに喜びと温もりと善いことがたくさん起こりますように。

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動物はプレッシャーを感じない。
自分で自分を追い込んだりしない。
人間だけが、自分で自分に圧力をかけ、自分に今の等身以上のものを課し、自滅する。

動物は自殺しない。
自分で自分の首をしめたりしない。
人間だけが、自分で自分を傷つけ、追い込み、最後には殺してしまう。


この事から分かるのは、追い込まれて苦悩する時、その人は実に「人間」らしいという事だ。

悩んでもいいんだよ。
それはあなたがより良い自分を知っているからだ。
そこへ向かおうとしているからだ。
自分の成長を焦り、時間が一定の速度で進む以上に急ごうとするのは、
あなたが未来を見ているからだ。


まず悩んでいる自分を許してあげよう。
「本当に、一生懸命なんだね」と優しく肩を抱いてあげよう。
「本当に立派だ」と充分な敬意を払おう。

そして、悩んで辛そうな自分に、大きく深呼吸して新鮮な空気を届けてあげよう。
緑たちが作ってくれた、酸素と愛で一杯の空気を、胸一杯に届けてあげよう。

大丈夫。
あなたは地球に愛されている。
あなたは地球に許されている。
今のままのあなたで大丈夫。

思ったように出来なくてもいい。
周囲の期待に応えられなくてもいい。
それがあなたなんだから。
大丈夫。
そんなあなたを愛している人がいる。
そんなあなたを許す人がいる。

大気の中に散らばっている、きらきらした細かな結晶のような愛を、呼吸して体の中に集めよう。
その愛は全ての生き物が無償で受け取っていいもの。

そうして愛を受け取っている時、あなたはやっと未来から 今いる場所へ戻ってくるだろう。
それでいいよ。


さあ、等身大の自分で、体の中に受け取った愛の瞳から、今、目の前にあるものだけを見よう。
それは、あなたにも必ず出来ること。

人間らしいあなただから出来ること。

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ひとりぼっちだと感じることは とても寂しい。

私たちは基本的に ひとりぼっちだと感じるように出来ている。
自分の考えを人には読めないし 人の気持ちも伝わらないように お互いに遮へいされている。それが基本の状態として、セットされている。
だから、私たちは誰ともつながっていない自分をふとしみじみと感じて、とても寂しくなる。

私は「それは 人との境界線がない状態のデメリットを防ぐためではないか」という仮説を立てている。
バス停で隣にたまたま座った人のココロも考えも読むことは出来ない。
でも逆に、映画「サトラレ」のように、相手の考えが常に垂れ流されていて自分に伝わってきたとしたら、私たちはどうなるのだろう。同じように自分の考えも気持ちもたれ流れていて、周りの人すべてに知られているとしたら。

それはとても不便なように思う。
今築かれている秩序はすべて失われ、あらたな文化、あらたな秩序が必要になるだろう。サトラレは悲しい恋愛ストーリーだが、自分の思考が人にいつも読まれてしまう不都合を考えさせてくれる作品だ。

便利な面もある。
意志の疎通が一瞬で済み、全員が等しく同じことを理解するだろう。
それはどこか、組織社会を営む昆虫の世界を思わせる。

思うに、自分と人の遮へいがまったく無くなったら、それは種としてもはや人類ではないのではないだろうか。

実際には、私たち人間の脳は 人とリンクする能力を備えている、というのは事実であるように思う。その方法は仕組みがまだ科学的に解明できないとしても、虫の知らせのような類いの、不思議な現象は昔から日本だけでなくいろんな国でも言われている。

私の頭の中でぐるぐる回っていて止まらない曲があって、それを目の前で妹が歌い出すとか、その逆などは子供時代は日常茶飯事だった。
ふと気になって電話するとその人が具合が悪くて自宅で助けを必要としている、などという事もあるし、友達と食べたいものが何故か完全に一緒だったという事もあるだろう。

ただし、自分以外の意識とリンクする瞬間は、普通の人は自分では選択できない。何故か、ふと、そういう不思議な体験をしてしまうのだ。

寂しくて寂しくてしかたないとき、それはあなた一人分の寂しさではないのかもしれない。あなたと同じ誰かの、遮へいされている悲しさをあなたは受信し、それと共鳴してさらに大きな寂しさを感じているのかもしれない。

それなら、すこしでもその誰かに安らぎを届けることも出来るかもしれない。

寂しいのはあなただけじゃないよ。
ここにもいるよ。ここにもいるよ。
大丈夫。 今 つながっているよ。
同じ寂しさを 一緒に感じているよ。



人は皆 寂しい

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ただでさえ つらいんだから もうそれ以上 苦しみを増やさないこと

もしいま 自分を責めている言葉を 頭の中で繰り返しているなら
どんな手段を使ってでも その声をとめよう

水を浴びてもいいし クッションを顔に当てて大声で叫んでもいい
大好きな元気の出る歌を歌ったり 外に出て走ってもいい

ダイレクトメールを破ったり 古くなったいらないお皿を割ってもいい

顔を太陽に向けて両手を大きく広げて 
見えない天使を抱き留めようとするように
腕を肩より上に上げて
そして 叫ぼう

わたしは 生きていていい って。
このままのわたしでいい って。

両手を下ろしたら
地面を見て 自分の足がちゃんと地面を踏みしめてることを確認する
胸に手をあてて 心臓がちゃんと 律義に 健気に
今も 脈打ってくれていることを確認する

そしてまっすぐ正面に顔と視線を向けて
大きく深呼吸。
それから 大きなため息といっしょに言おう。
ま、いっか!!
これでも いっか!
まあ、いっか〜!


そういう 一見馬鹿馬鹿しい事をちゃんとまじめにやってみる。
すると ココロって意外と 体についてくる


ひとりぼっちのココロさん。
カラダさんがいつも一緒にいることを思い出してね。


アナタノクルシミガ
ホンノワズカデモ
ヤスラギヘト
カワリマスヨウニ

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私が これまでの経験上 ああほんとうだなあと感じて 無視しないで 今も気をつけていることのひとつ。

「もし あなたが何かを決断して
 その決断が 否定的なもので 
 しかも夜の間に決断したことだとしたら
 明日の朝になってから もう一度よく考え直すこと」

現在の私は「夜には決断しない」し「考えない」。

10年くらい前の私は 夜にいつもあれこれを考えては それがきまってドツボのような ネガティブなことにはまり込んで行くことが判っているのに 止められないというような 病的なネガティブ思考だった。

最終的には、「全部わたしのせいなんだ」とか「生まれてこなければよかったのに」とか 絶望的で何もかも投げ出すしかないような結論にたどり着いてしまう。

「夜に考え事をすると ろくでもない発想しか出ない」
という事実を認め、受け入れ、そしてその悪しき習慣を自分の意志で辞めるのに、ずいぶん年数が必要だった。

「夜には考え事をしない」 ということは 少なくとも「狂ったようにネガティブな結論を強奪するのを辞める」ということだ。つまり非常に自分のためになる選択だ。

ところが「自分を救う行動を選択する」ことは、自分が完全なる人生の敗北者であると固く信じていた頃の私にとって、極めて難しいことだった。

馬鹿だな、と笑う人もいるだろう。
けれど、自分の中に、自分の破滅を信じている何かを内在している人にとって、自分を破滅から救う行動を取ること自体がとても難しいことなのだ。
自分はかなづちだと思っている人は 普通の状態では深い水の中に入ろうとしないだろう。つまり「自分には生きる価値などないのに、自分を救う」というのはそのくらいの「敢えての行動」であり、とても難しいのだ。とてもではないが普通に選択できるような気楽なものではない。
背後に火が迫っていて、深いとわかっていても水に飛び込まないと助からない、というような場合になら、かなづちでも飛び込むかもしれない。あるいは深く深く信頼している人から、「大丈夫、飛び込め!それが今ベストな事だ!」と指示されたら、自分一人では難しくても飛び込むかもしれない。

自分自身を救え。
生まれてきた意味を探せ。
わからなくてもいいから 何かあると信じろ。

誰かに力強く耳元でそう言い続けていて欲しかった。
でもそんな人はいなかった。だから私は、死の淵を何度ものぞき込み、それでも運良くなんとか死なずに何度も引き返してきた。

そして、とうとうある時に「生きよう」と決意した。
この決意は本物だった。

それからだ。
自分のためにならない事を ひとつひとつ、その都度、止める事ができるようになったのは。

「夜に考えつくのはろくでもないこと。だから太陽の光を浴びながら大好きなコーヒーでも飲んで、ゆったりとした前向きな気持ちの時に もう一度考えよう。それが本当に自分を救う決断になるように」

もし あなたが 今
何かを決めようとしていて
それがあなたにとって 大切な決断であるならば
慌てて決める必要はない。

夜は 考え事をするための時間じゃなく 眠って 休むために あるもの。
魂を もとのあるべき場所に 帰し エネルギーを補給するために 自我を忘れる時間。
夜は 赦しの時。
闇があなたを優しく包み 全方位から あなたに必要なエネルギーのすべてを豊かに注いでくれる至福の時間。
それを拒絶しないこと。

「決まって夜に否定的な決断をしてしまう癖をやめる」と、たったそれだけでも あなたの人生は確実に変わる。

本当だよ。
試してごらん。

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