2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
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貧乏な生活をしていると 時々無性に
「無駄遣いがしたいっ」という衝動に襲われることがありませんか?
ありませんかって言っても、みなさんはきっと私よりは貧乏生活ではないと思いますけれど。
今日、とっても無駄遣いがしたくなりました。
雑貨屋さんに行って、のんびり時間を気にせず雑貨を眺めて、使うかどうかわからないけど可愛いからいいや、というような小物を2、3千円分くらい買ってみたり。
リサイクルショップに行って、使うかどうかわからないけど珍しいからいいや、というような変わった柄のバッグを千円くらいで買ったり。
岩盤浴付きで1500円くらいの銭湯にいってジュウジュウ湯気を立てて全身を蒸されたり。
クリスマスツリーと、それに付けるオーナメントをあれこれ選んで買ってきて、飾り付けたり。
そんな無駄遣いがしたくてしたくて、はふーとため息。
そんなもんにお金を使ってもほんの一瞬、気が紛れるだけの事なんですけど。
だからこそ無駄遣いって言うんですけどね。
人生、時々、無駄も必要だなーって思います。
無駄遣い用の予算が取れるまで数ヶ月は忍耐です。
今年のツリーは折り紙で娘と手作り!それもまた善きかな、善きかな。
夏の名残の、朝顔とキュウリのつるをベランダから片づけました。
ツタ性の植物は最後の後始末が結構大変なんだなと分かりました。
でもたくさん種が収穫できたので、来年もたくさんの朝顔を育てることができそうです。
「無駄遣いがしたいっ」という衝動に襲われることがありませんか?
ありませんかって言っても、みなさんはきっと私よりは貧乏生活ではないと思いますけれど。
今日、とっても無駄遣いがしたくなりました。
雑貨屋さんに行って、のんびり時間を気にせず雑貨を眺めて、使うかどうかわからないけど可愛いからいいや、というような小物を2、3千円分くらい買ってみたり。
リサイクルショップに行って、使うかどうかわからないけど珍しいからいいや、というような変わった柄のバッグを千円くらいで買ったり。
岩盤浴付きで1500円くらいの銭湯にいってジュウジュウ湯気を立てて全身を蒸されたり。
クリスマスツリーと、それに付けるオーナメントをあれこれ選んで買ってきて、飾り付けたり。
そんな無駄遣いがしたくてしたくて、はふーとため息。
そんなもんにお金を使ってもほんの一瞬、気が紛れるだけの事なんですけど。
だからこそ無駄遣いって言うんですけどね。
人生、時々、無駄も必要だなーって思います。
無駄遣い用の予算が取れるまで数ヶ月は忍耐です。
今年のツリーは折り紙で娘と手作り!それもまた善きかな、善きかな。
夏の名残の、朝顔とキュウリのつるをベランダから片づけました。
ツタ性の植物は最後の後始末が結構大変なんだなと分かりました。
でもたくさん種が収穫できたので、来年もたくさんの朝顔を育てることができそうです。
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夏に。娘がカブトムシにハマってしまい。
上手に飼えた証拠なのか、そのカブトムシが全部寿命で死んでしまった後の土の中に幼虫がいることが分かった。
娘は狂喜乱舞である。
生きているものがいるのなら仕方ない。お世話をしない訳にはいかないので、カブトムシ幼虫飼育用の土や昆虫ウォーターなどを一揃え買ってくる。
そして、親カブたちがいた箱の土をひっくり返して、幼虫を新しい土にいれてあげる作業をした。
土をひっくり返して思わず「うぎゃー」と言ってしまった。出るわ出るわ、巨大ウジ虫のようなカブトムシの幼虫が21匹も出てきた。
「カワイイ〜!!」と娘の絶叫。
まあ。確かに。カワイイと言えなくもない。
でもあまり可愛いと思うようになりたくない。
21匹もの命がこの狭い土の中にウゾウゾとうごめいていたのかと思うと、気持ち悪いやら喜ばしいやら複雑な気持ちでもあるが、ともかく、十分な広さを確保してやらなければ可哀相と思う。カブトムシの幼虫はクヌギの木の腐葉土がエサなので、農薬の入っていない昆虫飼育用の土を飼ってこなければならない。
養分を食い尽くすと、土が糞だらけになるので、土を変えてやらなければならないし、土の水分量が減ると弱ったり死んだりするので毎日のメンテナンスが必要だ。
巨大ウジ虫のお世話なんてしたくないけれども、生きているんだからほっておけない。
土を変えるたびに、巨大ウジ虫を全部土から出すのだけれども、大きく育っているのを見るとそれなりに可愛いとも思う。コロコロとカールそっくりの形に丸くなるカブトムシの幼虫はかわいいと言えなくもない。
途中、1匹が死んでしまった。
自分の飼い方が悪かったのだとひどくがっくり来る。
赤ちゃんのうちに死んでしまうなんてと、ものすごく可哀相に思う。ごめんごめんと謝っても生き返らない。すごく落ち込んでしまう。
その後、もう1匹が調子悪そうな様子に気付く。
何とか助けてやりたくて毎日昆虫用の栄養剤をかけてやったり、土を新しくしてやったりする。恐ろしく高級なブリーダー用の土を買ってきて使ってみたり、虫の為になっているのかなっていないのかよくわからないけれども、出来そうなことを必死にやってみる。
そうやって10日ほど頑張ってみたけれどもついに、ある日、仲間に食われて死んでいた。
よく頑張った。早く転生して、次はもうちょっといい人生に生まれておいで、と祈る。
弱っていると逃げられないし抵抗できないので共食いの犠牲になってしまうのだろう。
それが自然の摂理と言えなくもない。他の仲間はそうして養分を無駄にせず、大きくなっていく。
今、すごく大きくなった巨大なウジ虫くんたちが19匹。
見るたびにため息が出る。ウジ虫くんだなんて言い方をしていても、もう一匹も死んで欲しくない。
でも19匹の命の責任を負うのは本当に苦しい。私は気軽に生き物を飼う事ができないというのに、娘は絶対に手放したくないそうだ。
これが全部来年の夏に成虫になったら、今度は一体、何匹の幼虫を世話することになるんだろうか。
これからずっと虫を飼い続けるなんて嫌だなあ。
数が増えるばかりの虫はほんとに嫌だ。責任が重過ぎる。
早く娘がカブトムシに飽きてくれないかなあとひたすら思っている。
一杯いるから、カブトムシを飼ってみたい人がいたら譲ってあげよう、と娘が言ってくれた。
これはありがたい。欲しい方がいれば是非もらってやってくだせい!!
そう言ってるくせに、もらわれていったらそれはそれで「元気で大人(成虫)になったかなあ」と心配になるのは目に見えている。
だから生き物って気軽には飼えないんだよーーー。
うわーーん。
上手に飼えた証拠なのか、そのカブトムシが全部寿命で死んでしまった後の土の中に幼虫がいることが分かった。
娘は狂喜乱舞である。
生きているものがいるのなら仕方ない。お世話をしない訳にはいかないので、カブトムシ幼虫飼育用の土や昆虫ウォーターなどを一揃え買ってくる。
そして、親カブたちがいた箱の土をひっくり返して、幼虫を新しい土にいれてあげる作業をした。
土をひっくり返して思わず「うぎゃー」と言ってしまった。出るわ出るわ、巨大ウジ虫のようなカブトムシの幼虫が21匹も出てきた。
「カワイイ〜!!」と娘の絶叫。
まあ。確かに。カワイイと言えなくもない。
でもあまり可愛いと思うようになりたくない。
21匹もの命がこの狭い土の中にウゾウゾとうごめいていたのかと思うと、気持ち悪いやら喜ばしいやら複雑な気持ちでもあるが、ともかく、十分な広さを確保してやらなければ可哀相と思う。カブトムシの幼虫はクヌギの木の腐葉土がエサなので、農薬の入っていない昆虫飼育用の土を飼ってこなければならない。
養分を食い尽くすと、土が糞だらけになるので、土を変えてやらなければならないし、土の水分量が減ると弱ったり死んだりするので毎日のメンテナンスが必要だ。
巨大ウジ虫のお世話なんてしたくないけれども、生きているんだからほっておけない。
土を変えるたびに、巨大ウジ虫を全部土から出すのだけれども、大きく育っているのを見るとそれなりに可愛いとも思う。コロコロとカールそっくりの形に丸くなるカブトムシの幼虫はかわいいと言えなくもない。
途中、1匹が死んでしまった。
自分の飼い方が悪かったのだとひどくがっくり来る。
赤ちゃんのうちに死んでしまうなんてと、ものすごく可哀相に思う。ごめんごめんと謝っても生き返らない。すごく落ち込んでしまう。
その後、もう1匹が調子悪そうな様子に気付く。
何とか助けてやりたくて毎日昆虫用の栄養剤をかけてやったり、土を新しくしてやったりする。恐ろしく高級なブリーダー用の土を買ってきて使ってみたり、虫の為になっているのかなっていないのかよくわからないけれども、出来そうなことを必死にやってみる。
そうやって10日ほど頑張ってみたけれどもついに、ある日、仲間に食われて死んでいた。
よく頑張った。早く転生して、次はもうちょっといい人生に生まれておいで、と祈る。
弱っていると逃げられないし抵抗できないので共食いの犠牲になってしまうのだろう。
それが自然の摂理と言えなくもない。他の仲間はそうして養分を無駄にせず、大きくなっていく。
今、すごく大きくなった巨大なウジ虫くんたちが19匹。
見るたびにため息が出る。ウジ虫くんだなんて言い方をしていても、もう一匹も死んで欲しくない。
でも19匹の命の責任を負うのは本当に苦しい。私は気軽に生き物を飼う事ができないというのに、娘は絶対に手放したくないそうだ。
これが全部来年の夏に成虫になったら、今度は一体、何匹の幼虫を世話することになるんだろうか。
これからずっと虫を飼い続けるなんて嫌だなあ。
数が増えるばかりの虫はほんとに嫌だ。責任が重過ぎる。
早く娘がカブトムシに飽きてくれないかなあとひたすら思っている。
一杯いるから、カブトムシを飼ってみたい人がいたら譲ってあげよう、と娘が言ってくれた。
これはありがたい。欲しい方がいれば是非もらってやってくだせい!!
そう言ってるくせに、もらわれていったらそれはそれで「元気で大人(成虫)になったかなあ」と心配になるのは目に見えている。
だから生き物って気軽には飼えないんだよーーー。
うわーーん。
小室哲哉が逮捕という大きなニュースで ワイドショーの芸能コーナーがにぎやかだ。
100億円の預金があった人が10年で資産ゼロどころが十数億の借金を負う、というのは、普通の生活者にとっては遠い世界の話かも知れない。
100億円、何に使えばたった十年で無くなるのか、想像がつかないという事が、話題になっているのかも知れない。
私は、小室哲哉をみていると可哀相にと思う。
自分の仕事が一件100万円単位、一曲あたれば数億になった人には、当然その規模のビジネス話がつきまとう。お金の感覚が、数千円から数万、そして飛躍的に数百万、数千万の単位にすり替わってしまうのだ。特に何かの事業をしていれば尚のこと、事業費の桁に慣れ大金を大金と思わなくなるのだ。自分にも覚えのある事だ。ビジネスベースでお金を捉えると、数百万ははした金になってしまう。ビジネスの現場では数百万で出来ることはごくわずかだからだ。小室哲也も同じ思いをしただろう。彼の場合だとレコーディング一回でそのくらいは使ってしまうだろう。
小室哲哉が、周辺の人に数十万、数百万の借金をして、そのまま踏み倒しになっているというのは、返すつもりがないのではなく、そのくらいの借金が小額に思えるほどのお金の額に取り囲まれていたという事を示しているのだ。
世界の何ヶ所かに専用のスタジオを持ち、高級な車を何台も持ち、贅沢に囲まれた日々で、彼は自分の世界が広がったと感じただろうか。
寝て、起きて、シャワーを浴び、食べて、トイレに行って、出かけて、買い物をして、帰る。
その全てにお金がかかるようになった。
だから多くを稼がなければならなくなった。
以前同様に稼げなくなった時、贅沢な世界から追い落されそうになった。
落ちればよかったのに、可哀相にも落ちたくなかった彼は、巨額なビジネスに夢を見続けてしまっただろう。そして益々巨額な借金が増えていく。
誰でもお金持ちになれば判ることだけれど、お金持ちにとっての数万円は、普通の人の数千円か数百円だ。ランチの予算は、普通の人は数百円からせいぜい3千円くらいまでだろう。これがお金持ちの人になると、ランチ予算でも1万円から5万円くらいになる。
そして世の中にあるどんなものでも私たちが普通に買っているあらゆるものは、一般売価の数倍から数十倍の価格で「お金持ち用」のものが存在する。
グラスを例にとってみる。
水を注ぐグラス一個、100円ショップでも手に入るものだが、お金持ち向けには、数万円のグラスが売られている。そして、お金持ちが行く店と、普通の人が行く店は完全に境界線があって、お互いの世界は干渉されない。
お金持ちは100円ショップには入らない。
お金のない人は、高級クリスタルガラスのショップには入らない。
お金持ちになると、数百円のランチのお店は、お店の存在そのものが目に入らなくなる。
お金がない人は、5千円以上のランチメニューしかない高級店には近寄らない。
使えるお金の量で、世の中は棲み分けがされている。それが事実である。
お金持ちになりたい人に、何故なりたいのかと訊くと返ってくる答えの一つは、「高級なお店に行けるようになり、高級なものを買えるようになるから」という。この答えが意味するのは、「これまで普通に利用しているお店や持ち物に加えて、より高級な店、より高級なものへと広がる」という期待だ。
しかし残念ながら現実はそうではない。
たくさんお金を持っていると、住む世界がひろがるのではなく、住む世界がスライドして変わるだけなのだ。
お金を使えるようになった人の多くは、それまで属していた普通の生活を捨ててしまい、別の世界へと住み替えてしまう。つまり、世界は広くなったのではなく、スライドしてお引っ越しをしただけに過ぎないのだ。堀江モンだって同じだ。
だから、お金持ちになってもその人の日常の生活は、根本的には何も変わらない。
眠って、食べて、風呂に入って、トイレに入って、出かけて、買い物して、帰ってくる。
同じ事をするのに、ただ安直に、かかるお金の規模が大きくなる。
それがお金持ちの生活だ。
お金持ちは、水を注いで飲む、という機能さえあればよいグラスに、数万円を使う。
何故だろうか? 皆さんはそこに疑問を持ち、何故か考えたことがあるだろうか?
それは、お金の使い道がないと、お金持ちになった意味がないからだ。
お金持ちになっても、高級なものが用意されていなかったらどうしよう。
もしもお金持ちになったら行きたいと思っているあらゆるお店が、存在しないような国に住んでいたら、お金持ちになる意味はどこにあるだろうか?
ほら、困ると思いませんか?
つまり、多くの人は、お金の使い道があると思っているから、お金持ちになりたいのだ。
幸いというべきか、日本にはお金持ちが大勢居るので、お金持ち用のお店も商品も、じつにたくさんある。だから多くの人は、お金の使い道があると信じているので、お金持ちになりたいのだ。
私は、自分という個人に生活にお金の使い道が多くないと判っている。
グラスは100円もので十分だし、食べ物も高級である必要はない。
毎日フォアグラを食べ続けたら飽きるし、自分がフォアグラになってしまう。
だから、お金持ちになりたいと思っていない。
使い道がないのだから、お金持ちになる意味がない。
無駄に大金持ちになっても、自分の世界は広くならない。
世界はスライドし、その世界にしがみつきたいと思ってしまった途端に、多くを稼がなければならなくなる。
ビートたけしと島田洋七が対談している時に、お金についてじつにうまいことを言った。
「うなぎ食べたいなって時に、うなぎ屋に入って、並が1000円くらいだ。特上は3000円くらいだろ。なら、普通の人の3倍くらいのお金があれば十分贅沢出来るな。普通の人の3倍くらいが丁度良いや。」
名言である。
お金持ちを目指すなら、平均年収の3倍くらい。それくらいが丁度よい。
私には、100円のグラスでも十分である。
100億円の預金があった人が10年で資産ゼロどころが十数億の借金を負う、というのは、普通の生活者にとっては遠い世界の話かも知れない。
100億円、何に使えばたった十年で無くなるのか、想像がつかないという事が、話題になっているのかも知れない。
私は、小室哲哉をみていると可哀相にと思う。
自分の仕事が一件100万円単位、一曲あたれば数億になった人には、当然その規模のビジネス話がつきまとう。お金の感覚が、数千円から数万、そして飛躍的に数百万、数千万の単位にすり替わってしまうのだ。特に何かの事業をしていれば尚のこと、事業費の桁に慣れ大金を大金と思わなくなるのだ。自分にも覚えのある事だ。ビジネスベースでお金を捉えると、数百万ははした金になってしまう。ビジネスの現場では数百万で出来ることはごくわずかだからだ。小室哲也も同じ思いをしただろう。彼の場合だとレコーディング一回でそのくらいは使ってしまうだろう。
小室哲哉が、周辺の人に数十万、数百万の借金をして、そのまま踏み倒しになっているというのは、返すつもりがないのではなく、そのくらいの借金が小額に思えるほどのお金の額に取り囲まれていたという事を示しているのだ。
世界の何ヶ所かに専用のスタジオを持ち、高級な車を何台も持ち、贅沢に囲まれた日々で、彼は自分の世界が広がったと感じただろうか。
寝て、起きて、シャワーを浴び、食べて、トイレに行って、出かけて、買い物をして、帰る。
その全てにお金がかかるようになった。
だから多くを稼がなければならなくなった。
以前同様に稼げなくなった時、贅沢な世界から追い落されそうになった。
落ちればよかったのに、可哀相にも落ちたくなかった彼は、巨額なビジネスに夢を見続けてしまっただろう。そして益々巨額な借金が増えていく。
誰でもお金持ちになれば判ることだけれど、お金持ちにとっての数万円は、普通の人の数千円か数百円だ。ランチの予算は、普通の人は数百円からせいぜい3千円くらいまでだろう。これがお金持ちの人になると、ランチ予算でも1万円から5万円くらいになる。
そして世の中にあるどんなものでも私たちが普通に買っているあらゆるものは、一般売価の数倍から数十倍の価格で「お金持ち用」のものが存在する。
グラスを例にとってみる。
水を注ぐグラス一個、100円ショップでも手に入るものだが、お金持ち向けには、数万円のグラスが売られている。そして、お金持ちが行く店と、普通の人が行く店は完全に境界線があって、お互いの世界は干渉されない。
お金持ちは100円ショップには入らない。
お金のない人は、高級クリスタルガラスのショップには入らない。
お金持ちになると、数百円のランチのお店は、お店の存在そのものが目に入らなくなる。
お金がない人は、5千円以上のランチメニューしかない高級店には近寄らない。
使えるお金の量で、世の中は棲み分けがされている。それが事実である。
お金持ちになりたい人に、何故なりたいのかと訊くと返ってくる答えの一つは、「高級なお店に行けるようになり、高級なものを買えるようになるから」という。この答えが意味するのは、「これまで普通に利用しているお店や持ち物に加えて、より高級な店、より高級なものへと広がる」という期待だ。
しかし残念ながら現実はそうではない。
たくさんお金を持っていると、住む世界がひろがるのではなく、住む世界がスライドして変わるだけなのだ。
お金を使えるようになった人の多くは、それまで属していた普通の生活を捨ててしまい、別の世界へと住み替えてしまう。つまり、世界は広くなったのではなく、スライドしてお引っ越しをしただけに過ぎないのだ。堀江モンだって同じだ。
だから、お金持ちになってもその人の日常の生活は、根本的には何も変わらない。
眠って、食べて、風呂に入って、トイレに入って、出かけて、買い物して、帰ってくる。
同じ事をするのに、ただ安直に、かかるお金の規模が大きくなる。
それがお金持ちの生活だ。
お金持ちは、水を注いで飲む、という機能さえあればよいグラスに、数万円を使う。
何故だろうか? 皆さんはそこに疑問を持ち、何故か考えたことがあるだろうか?
それは、お金の使い道がないと、お金持ちになった意味がないからだ。
お金持ちになっても、高級なものが用意されていなかったらどうしよう。
もしもお金持ちになったら行きたいと思っているあらゆるお店が、存在しないような国に住んでいたら、お金持ちになる意味はどこにあるだろうか?
ほら、困ると思いませんか?
つまり、多くの人は、お金の使い道があると思っているから、お金持ちになりたいのだ。
幸いというべきか、日本にはお金持ちが大勢居るので、お金持ち用のお店も商品も、じつにたくさんある。だから多くの人は、お金の使い道があると信じているので、お金持ちになりたいのだ。
私は、自分という個人に生活にお金の使い道が多くないと判っている。
グラスは100円もので十分だし、食べ物も高級である必要はない。
毎日フォアグラを食べ続けたら飽きるし、自分がフォアグラになってしまう。
だから、お金持ちになりたいと思っていない。
使い道がないのだから、お金持ちになる意味がない。
無駄に大金持ちになっても、自分の世界は広くならない。
世界はスライドし、その世界にしがみつきたいと思ってしまった途端に、多くを稼がなければならなくなる。
ビートたけしと島田洋七が対談している時に、お金についてじつにうまいことを言った。
「うなぎ食べたいなって時に、うなぎ屋に入って、並が1000円くらいだ。特上は3000円くらいだろ。なら、普通の人の3倍くらいのお金があれば十分贅沢出来るな。普通の人の3倍くらいが丁度良いや。」
名言である。
お金持ちを目指すなら、平均年収の3倍くらい。それくらいが丁度よい。
私には、100円のグラスでも十分である。
娘がどうしても観たいというので。
映画館で映画を観るという超贅沢。経費削減の為パパはお留守番です。
パコと魔法の絵本。
事故の後遺症で記憶が一日しか持たない少女パコと、人生を嫌われ者として生きてきた大金持ちの老人、オオヌキ。
映像の全てが、絵本のような彩りに満ちていて、登場人物も美術も何もかもが空想の世界だった。
見事に構成された舞台を観ているかのような感覚の映画だが、CGがじつに斬新なやり方で使われている。パコやオオヌキの心の中に拡がる空想の絵本世界をCGが見事に引き継ぎ、実写の役者の演技とつながり合う。こんなCGの使い方があるのかと感心した。
不思議な登場人物、不思議な世界。
けれどその中に通うテーマは、誰かを想う純粋な気持ち。
最初から最後まで泣きっぱなしになってしまった。
娘は全然泣かなかったけれど、後日、「あのねママ、わたし、この間のパコが、今までみた映画の中で一番面白かったかもしれない」と言った。
そうかい。良かった良かった。
投資した甲斐がありました。
映画館で映画を観るという超贅沢。経費削減の為パパはお留守番です。
パコと魔法の絵本。
事故の後遺症で記憶が一日しか持たない少女パコと、人生を嫌われ者として生きてきた大金持ちの老人、オオヌキ。
映像の全てが、絵本のような彩りに満ちていて、登場人物も美術も何もかもが空想の世界だった。
見事に構成された舞台を観ているかのような感覚の映画だが、CGがじつに斬新なやり方で使われている。パコやオオヌキの心の中に拡がる空想の絵本世界をCGが見事に引き継ぎ、実写の役者の演技とつながり合う。こんなCGの使い方があるのかと感心した。
不思議な登場人物、不思議な世界。
けれどその中に通うテーマは、誰かを想う純粋な気持ち。
最初から最後まで泣きっぱなしになってしまった。
娘は全然泣かなかったけれど、後日、「あのねママ、わたし、この間のパコが、今までみた映画の中で一番面白かったかもしれない」と言った。
そうかい。良かった良かった。
投資した甲斐がありました。
数年前に 火事で消失してしまった大手門が復元され、ふたたびライトアップされているのに気付いた。
この事務所に来てから、周辺の建物が取り壊されて駐車場になったり大きな高層ビルになったりという事をずっと眺めてきた。都市は目まぐるしく変化する場所だなあとしみじみ思う。
あの古い大手門が好きだった。何百年も前に建てられた美しく堂々とした姿や、私の寿命を遥かに越える長い年月、同じ姿で門を支えてきた木材に触れるのが大好きだった。門をくぐるたびに、あの大きく立派な木材に触れていた。
あの門が焼けた時、リアルタイムで消火活動を見守った。
焼けた後の黒焦げの門を、悲しく何度も眺めた。何週間もの間、焦げた臭いが周辺に漂っていた。
あの火事は不審火だったけれど、犯人は捕まったのだろうか。
私は、あの火事は周辺のホームレスの人が起こしたのではないかとずっと思っている。それも故意に燃やしたのではなく、彼らが暖を取る為か煮炊きをするために着けた火が、門に引火したのではないかと、何故かずっと思っている。ホームレスの人があの門の中で雨風をよけて寝ているのを知っていたからかも知れないけれど。
真相はどうなのか、どこにも出ていないけれど、機会があったら調べてみたい。
新しい大手門は、真っ白で美しく、以前とは違う形になって復活した。
でも今でも、私の脳裏にはあの古い大手門がはっきりと残っている。
変わらないものは何一つない。
大手門も変わってしまった。
けれどそれが 私たちの生きている世界のきまりごとだ。
すべては新しくなりそして、いつかまた消えていく。
焼けて無くなってしまった大手門が、再建されたのは、今を生きる人たちの心にまだ、あの建物に対する愛着があったからだろう。どうでもいいと思うものを再建するはずがない。
そしてまた、この新しい大手門が歴史を引き継いで生きていく。
何百年か後、私と同じ気持ちで大手門を愛する人がいるのかも知れない。
この事務所に来てから、周辺の建物が取り壊されて駐車場になったり大きな高層ビルになったりという事をずっと眺めてきた。都市は目まぐるしく変化する場所だなあとしみじみ思う。
あの古い大手門が好きだった。何百年も前に建てられた美しく堂々とした姿や、私の寿命を遥かに越える長い年月、同じ姿で門を支えてきた木材に触れるのが大好きだった。門をくぐるたびに、あの大きく立派な木材に触れていた。
あの門が焼けた時、リアルタイムで消火活動を見守った。
焼けた後の黒焦げの門を、悲しく何度も眺めた。何週間もの間、焦げた臭いが周辺に漂っていた。
あの火事は不審火だったけれど、犯人は捕まったのだろうか。
私は、あの火事は周辺のホームレスの人が起こしたのではないかとずっと思っている。それも故意に燃やしたのではなく、彼らが暖を取る為か煮炊きをするために着けた火が、門に引火したのではないかと、何故かずっと思っている。ホームレスの人があの門の中で雨風をよけて寝ているのを知っていたからかも知れないけれど。
真相はどうなのか、どこにも出ていないけれど、機会があったら調べてみたい。
新しい大手門は、真っ白で美しく、以前とは違う形になって復活した。
でも今でも、私の脳裏にはあの古い大手門がはっきりと残っている。
変わらないものは何一つない。
大手門も変わってしまった。
けれどそれが 私たちの生きている世界のきまりごとだ。
すべては新しくなりそして、いつかまた消えていく。
焼けて無くなってしまった大手門が、再建されたのは、今を生きる人たちの心にまだ、あの建物に対する愛着があったからだろう。どうでもいいと思うものを再建するはずがない。
そしてまた、この新しい大手門が歴史を引き継いで生きていく。
何百年か後、私と同じ気持ちで大手門を愛する人がいるのかも知れない。
自分の内面に変化が起きるような経験をすると、心の仕組みが組み変わったり、変化したりして、結果的に感じ方、考え方に変化が起きることがある。
カウンセリングはそれを意図的に起こすようにするものであり、ワークショップでは自分の知らなかった自分に出会ったりする事でそれが起きたりする。
心というシステム(ルールブック)に変更が起こると、私たちは感覚が変わり、感覚が変わるから考え方が変わる。
例えば、先端が尖ったものが怖いという「先端恐怖症」の人は、心のシステムに変更が起きれば、その後に尖ったものを見ても以前ほどは怖いと感じない。劇的に変わってしまう場合には、尖ったものを触ることさえもなんとも感じず、平気になる。怖いものが怖くなくなれば、考え方も楽観的になるし、明るくなる。
自分なんて何をやってもダメと感じてしまう人は、頭では理論的に自分にも他の人と平等なチャンスがあると理解していても、感覚が「自分がやれば必ず失敗する」と感じるので、当然考え方も暗くなり、不安から後ろ向きな性格になっていく。
自分なんてダメ、と感じている感覚に変化が起きれば、当然他の人と平等に自分にもチャンスがあるのだという考え方を受け入れられるようになり、結果として行動も表情も明るく前向きになるのだ。
つまり、私たちの生き方の全てに、自分自身の感覚が影響を及ぼす。
どう感じるのか、という事だ。
処で、自分の心(というシステム)に変化が起きた瞬間を発見するという経験は、本当に面白い。
それは間違いなく自分の人生が、大なり小なり、路線変更した瞬間だからだ。
私は渡辺篤史の「建もの探訪」という番組が昔から好きで、何年もの間ずっと見ている。この番組を見る時、私は出てくる家のユニークな点や工夫に凝らされた点などを見て頭の中に自分の将来の理想の家を描くのだ。ああ、こういうキッチンはいいな、とかお風呂はこういうのがいいな、とか。
ところが、先週、これに変化があった。
いつもなら「いつか住む(建てる)自分の家」を思いながら楽しく番組を見ているのに、その日は違ったのだ。
素敵な広いテラスへとつながるオープンリビングを持つその家を見ながら、私は「私はもう自分の家なんて建てないんだろうな」と感じていたのだ。こんな感覚は生まれて初めてと言ってもいいかも知れない。いつか自分の理想の家を建てることにずっと憧れていたのに、その憧れが突然に消えうせてしまった。
番組が面白くなかった訳ではない。でも完全に「人様の話し」になっていた。自分は無関係、自分の憧れも無関係の話だった。これは本当に、小さな変化とは言えない。私の未来は、ここで大きく変化したのに間違いない。
こんな風に、心の変化は予期しない形で現れる。
カウンセリングはそれを意図的に起こすようにするものであり、ワークショップでは自分の知らなかった自分に出会ったりする事でそれが起きたりする。
心というシステム(ルールブック)に変更が起こると、私たちは感覚が変わり、感覚が変わるから考え方が変わる。
例えば、先端が尖ったものが怖いという「先端恐怖症」の人は、心のシステムに変更が起きれば、その後に尖ったものを見ても以前ほどは怖いと感じない。劇的に変わってしまう場合には、尖ったものを触ることさえもなんとも感じず、平気になる。怖いものが怖くなくなれば、考え方も楽観的になるし、明るくなる。
自分なんて何をやってもダメと感じてしまう人は、頭では理論的に自分にも他の人と平等なチャンスがあると理解していても、感覚が「自分がやれば必ず失敗する」と感じるので、当然考え方も暗くなり、不安から後ろ向きな性格になっていく。
自分なんてダメ、と感じている感覚に変化が起きれば、当然他の人と平等に自分にもチャンスがあるのだという考え方を受け入れられるようになり、結果として行動も表情も明るく前向きになるのだ。
つまり、私たちの生き方の全てに、自分自身の感覚が影響を及ぼす。
どう感じるのか、という事だ。
処で、自分の心(というシステム)に変化が起きた瞬間を発見するという経験は、本当に面白い。
それは間違いなく自分の人生が、大なり小なり、路線変更した瞬間だからだ。
私は渡辺篤史の「建もの探訪」という番組が昔から好きで、何年もの間ずっと見ている。この番組を見る時、私は出てくる家のユニークな点や工夫に凝らされた点などを見て頭の中に自分の将来の理想の家を描くのだ。ああ、こういうキッチンはいいな、とかお風呂はこういうのがいいな、とか。
ところが、先週、これに変化があった。
いつもなら「いつか住む(建てる)自分の家」を思いながら楽しく番組を見ているのに、その日は違ったのだ。
素敵な広いテラスへとつながるオープンリビングを持つその家を見ながら、私は「私はもう自分の家なんて建てないんだろうな」と感じていたのだ。こんな感覚は生まれて初めてと言ってもいいかも知れない。いつか自分の理想の家を建てることにずっと憧れていたのに、その憧れが突然に消えうせてしまった。
番組が面白くなかった訳ではない。でも完全に「人様の話し」になっていた。自分は無関係、自分の憧れも無関係の話だった。これは本当に、小さな変化とは言えない。私の未来は、ここで大きく変化したのに間違いない。
こんな風に、心の変化は予期しない形で現れる。
チャムの夢を見た。
死ぬ2日前くらいのチャムでオシッコでとても汚れていた。
私はああ、あの時のチャムの処に戻ったんだと時間が戻った事を解っていた。
チャムを抱き上げて、シャワーで、あの日と同じように洗ってきれいにしてあげた。
リアルにチャムの体の感触だった。
もう自力ではまったく立てないチャムは、全身の力を抜いて私に身体を預けていた。
私はチャムを抱きかかえたまま、一緒にずぶ濡れになってチャムを洗った。
顔を流してやる時、チャムは少しシャワーから水を飲んだ。
きれいになったチャムを抱えて、リビングに連れていった。
娘に「ほら、チャムだよ。もう一度チャムに触りたいっていってたでしょう」と触らせてあげた。
薄い耳、柔らかい毛並み、たぶたぶ気味の身体の皮。何もかもチャムだった。
でもチャムがあの日と同じように身体がとてもきつそうで、可哀相で堪らなかった。
夢の中では、そのまま、チャムの死の瞬間を、今度は側を離れずに迎えそうな感じだったが、娘とチャムを触っているところで目が覚めた。
目が覚めて、リアルにたった今までチャムを抱きしめていた感触が手に残っていた。
チャムに、会えた。嬉しかった。
今、チャムはどこでどうしているんだろう。
苦しんでいなければいい。幸せならいいけど。
正直、苦しそうだったチャムに再会して、目が覚めてみると、今チャムが死んでいることにほっとした。あんな苦しい状態に戻ったら可哀相だ。
足下で寝ているももを見て、長生きしてよ、と思う。そしてまた近い将来、この子も同じように死んでいくんだなあと思う。
生き物はみんな、カラダを持っていて、カラダがあるが故の苦しみを背負っている。
みんなみんな、生きているものは可哀相な存在だと思った。
病気と老いと死の苦しみは続く。
確かに、それが無くなればどんなに生き物は幸せだろうかと思った。
チャムはどうしているんだろう。
誰かの元に生まれて、幸せになっているだろうか。。。
死ぬ2日前くらいのチャムでオシッコでとても汚れていた。
私はああ、あの時のチャムの処に戻ったんだと時間が戻った事を解っていた。
チャムを抱き上げて、シャワーで、あの日と同じように洗ってきれいにしてあげた。
リアルにチャムの体の感触だった。
もう自力ではまったく立てないチャムは、全身の力を抜いて私に身体を預けていた。
私はチャムを抱きかかえたまま、一緒にずぶ濡れになってチャムを洗った。
顔を流してやる時、チャムは少しシャワーから水を飲んだ。
きれいになったチャムを抱えて、リビングに連れていった。
娘に「ほら、チャムだよ。もう一度チャムに触りたいっていってたでしょう」と触らせてあげた。
薄い耳、柔らかい毛並み、たぶたぶ気味の身体の皮。何もかもチャムだった。
でもチャムがあの日と同じように身体がとてもきつそうで、可哀相で堪らなかった。
夢の中では、そのまま、チャムの死の瞬間を、今度は側を離れずに迎えそうな感じだったが、娘とチャムを触っているところで目が覚めた。
目が覚めて、リアルにたった今までチャムを抱きしめていた感触が手に残っていた。
チャムに、会えた。嬉しかった。
今、チャムはどこでどうしているんだろう。
苦しんでいなければいい。幸せならいいけど。
正直、苦しそうだったチャムに再会して、目が覚めてみると、今チャムが死んでいることにほっとした。あんな苦しい状態に戻ったら可哀相だ。
足下で寝ているももを見て、長生きしてよ、と思う。そしてまた近い将来、この子も同じように死んでいくんだなあと思う。
生き物はみんな、カラダを持っていて、カラダがあるが故の苦しみを背負っている。
みんなみんな、生きているものは可哀相な存在だと思った。
病気と老いと死の苦しみは続く。
確かに、それが無くなればどんなに生き物は幸せだろうかと思った。
チャムはどうしているんだろう。
誰かの元に生まれて、幸せになっているだろうか。。。
多くの人が対人関係に悩んでカウンセリングを訪れるように
私にとっても 人と関わることで 難しさを感じることは少なくない
相手が私を 「何か」だと思って近づいてきた時はなおさら難しい。
相手の期待する「何か」でない事がいずれ分かった時 相手は私に要求(もしくは期待)する。
私がその要求(もしくは期待)に応えられないと分かった時にも そっと離れてくれる人ばかりではないからだ。
私がいけないのだろうか、とも思う。
私が、回りに餌をばらまいて、人を引き付けているのだろうか。
だから自業自得なのだろうか。
人に優しくしたり 親切にしたり 丁寧な態度や言葉遣いをしたりすると 人は私を「優しくて親切で丁寧な人なのだ」と思う。
でもそれで全部の私ではない。
優しくない時も親切でない時も丁寧な態度や言葉遣いをしない時もあって、それも私の一部なのだけど。
つまり「本当の私」などいない。
「私」は常に移り変わっていて変化し続けているし、常に同じ私などどこにも居ない。
丁寧に人に対応する時、私は人から丁寧に扱ってもらっている。
私が人に丁寧に対応出来ない時、私も人から雑に扱われている。
人から何かを期待されたり要求されたりする事は 大した苦痛ではないのだけれど
それに応じられるとは限らないことは けっこう苦しい。
それで私は優しく親切で丁寧でいられない時には出来るだけひとりぼっちで居たいと願う。
私の事を長く見ている人は、案外私が人嫌いのように見える時があると知っているだろう。
私は人間が大好きで、同時に嫌いなのだ。
クリスのワークにいくと、私が一人で居たがることを仲間みんなが受け入れてくれる。食事の後や夜のワークの後、みんなで集まっておしゃべりしている時に私が一人抜け出して散歩にいく事を、みんなが受け入れてくれる。
それが最高に有り難く、嬉しい。
宮古でのワークの時、一人で食事をとっている私の処へ、クリスがやってきた。
「一人なの?一緒にいてもいいかしら」とクリスは言った。
二人で食事して、休憩時間、ぼーーっと海を眺めていた。
一人でいる事を心配してくれたのかも知れないし、たまたま気が向いて来てくれたのかも知れない。
いずれにしろ、クリスは私を邪魔せずに、一人でいる時と同じくらい楽な状態のまま、側にいてくれた。
すべての人と、このように関われればどんなにいいだろうかと、思う。
相手に何かを期待しない。
相手が何者かを追及しない。
ただ、そこにある瞬間の出会いとだけ 共にいられたら。
私はそう願って、その瞬間ごとの自分で目の前の相手に対応している。
けれどそれが相手にとってうまくいかない時 とても悲しい思いをしたり傷ついたりしている。
「人生って複雑なのよ」とクリスは言った。
人と人が関わるというだけで、複雑になってしまう。
本当にそうだ。けれどその中で 誤解を恐れずシンプルさを追及出来たらと願っている。
私を嫌いになる人も大勢いるだろう。
けれど私は人を嫌わないでいたいと願っている。
私を嫌う人にも思いやりをもてたらといつも願っている。
人と関わることは、大きな喜びと大きなため息と、大きなプレゼントと大きな試練に満ちている。
私と関わる全ての人に、幸せがありますように。
私を嫌って離れていく人にも、平安がありますように。
私にあげられるものを、関わる全ての人にあげられますように。
私が我を捨て、一瞬でも多く無で居られますように。
私にとっても 人と関わることで 難しさを感じることは少なくない
相手が私を 「何か」だと思って近づいてきた時はなおさら難しい。
相手の期待する「何か」でない事がいずれ分かった時 相手は私に要求(もしくは期待)する。
私がその要求(もしくは期待)に応えられないと分かった時にも そっと離れてくれる人ばかりではないからだ。
私がいけないのだろうか、とも思う。
私が、回りに餌をばらまいて、人を引き付けているのだろうか。
だから自業自得なのだろうか。
人に優しくしたり 親切にしたり 丁寧な態度や言葉遣いをしたりすると 人は私を「優しくて親切で丁寧な人なのだ」と思う。
でもそれで全部の私ではない。
優しくない時も親切でない時も丁寧な態度や言葉遣いをしない時もあって、それも私の一部なのだけど。
つまり「本当の私」などいない。
「私」は常に移り変わっていて変化し続けているし、常に同じ私などどこにも居ない。
丁寧に人に対応する時、私は人から丁寧に扱ってもらっている。
私が人に丁寧に対応出来ない時、私も人から雑に扱われている。
人から何かを期待されたり要求されたりする事は 大した苦痛ではないのだけれど
それに応じられるとは限らないことは けっこう苦しい。
それで私は優しく親切で丁寧でいられない時には出来るだけひとりぼっちで居たいと願う。
私の事を長く見ている人は、案外私が人嫌いのように見える時があると知っているだろう。
私は人間が大好きで、同時に嫌いなのだ。
クリスのワークにいくと、私が一人で居たがることを仲間みんなが受け入れてくれる。食事の後や夜のワークの後、みんなで集まっておしゃべりしている時に私が一人抜け出して散歩にいく事を、みんなが受け入れてくれる。
それが最高に有り難く、嬉しい。
宮古でのワークの時、一人で食事をとっている私の処へ、クリスがやってきた。
「一人なの?一緒にいてもいいかしら」とクリスは言った。
二人で食事して、休憩時間、ぼーーっと海を眺めていた。
一人でいる事を心配してくれたのかも知れないし、たまたま気が向いて来てくれたのかも知れない。
いずれにしろ、クリスは私を邪魔せずに、一人でいる時と同じくらい楽な状態のまま、側にいてくれた。
すべての人と、このように関われればどんなにいいだろうかと、思う。
相手に何かを期待しない。
相手が何者かを追及しない。
ただ、そこにある瞬間の出会いとだけ 共にいられたら。
私はそう願って、その瞬間ごとの自分で目の前の相手に対応している。
けれどそれが相手にとってうまくいかない時 とても悲しい思いをしたり傷ついたりしている。
「人生って複雑なのよ」とクリスは言った。
人と人が関わるというだけで、複雑になってしまう。
本当にそうだ。けれどその中で 誤解を恐れずシンプルさを追及出来たらと願っている。
私を嫌いになる人も大勢いるだろう。
けれど私は人を嫌わないでいたいと願っている。
私を嫌う人にも思いやりをもてたらといつも願っている。
人と関わることは、大きな喜びと大きなため息と、大きなプレゼントと大きな試練に満ちている。
私と関わる全ての人に、幸せがありますように。
私を嫌って離れていく人にも、平安がありますように。
私にあげられるものを、関わる全ての人にあげられますように。
私が我を捨て、一瞬でも多く無で居られますように。
「お金」について語って欲しい、という依頼があった。
わざわざ個人カウンセリングに予約してきて「話してもらう分、お金を支払うからお金について教えて欲しい、話して欲しい」という人もいた。私はお金の専門家でもないのにね。
理事会でも、「それは是非聞きたい」という声が上がり、今度、「マネマネマネー!」(注:私のネーミングではありません)というタイトルのトークイベントをやることになった。
まあ、聞きたい方がいれば何でもお話しますけど。
NPOの経営を助ける為ですから、私に出来ることならなんでもしましょう、と。
そもそも、お金が回ってない私がお金についてどう思うのかを聞きたい人が居るということが不思議なのだけれども。
でもお金に関して、後ろめたい思いを持っていて、お金を堂々と見つめることが出来ない人はとても多いようだから。そこから解いてみるのはいいかも知れない、と思った。
よくあるのは、「お金持ちになるには、お金と友達になる」系のセレブ指向の意識改革セミナーだけど、私は「セレブを目指すのもいいけど、それは単に結果の一つにすぎないよ」と考えている。
人の「お金持ちになりたい」という欲望につけ込んで商売するようなスピーカーにはなりたくない。
お金について話すのは下品だとか、お金の計算をするのは何だかずる賢い感じがするとか、お金を真正面から捉えられないことが、結構、人生には影響を及ぼしてしまう。何故って、誰だってお金なしには生きられないのに、そのお金をこそこそとしか扱えない事は人生の大きな一部がこそこそしたものになるからだ。
もっと堂々とお金を見つめてみよう。
そうすれば、自分の人生の不安の一部は消えていく。
お金という存在をコントロールしたり、仲良くしたりできるようになろう。
そうすれば、きっと自力で生きている感覚がはっきりしていく。
お金に関してもっと堂々と要求してみよう。
そうすれば自分がお金を扱える能力が育っていく。
セレブ、という言葉が踊るマスコミ。
私はそれを見るたびに、プッと笑っている。
マネマネマネー!(注:私のネーミングではありません。)
乞うご期待。
世の中に溢れる情報に躍らされるか、それとも世界を舞台に自分のダンスを踊るか。
それはあなた次第。
わざわざ個人カウンセリングに予約してきて「話してもらう分、お金を支払うからお金について教えて欲しい、話して欲しい」という人もいた。私はお金の専門家でもないのにね。
理事会でも、「それは是非聞きたい」という声が上がり、今度、「マネマネマネー!」(注:私のネーミングではありません)というタイトルのトークイベントをやることになった。
まあ、聞きたい方がいれば何でもお話しますけど。
NPOの経営を助ける為ですから、私に出来ることならなんでもしましょう、と。
そもそも、お金が回ってない私がお金についてどう思うのかを聞きたい人が居るということが不思議なのだけれども。
でもお金に関して、後ろめたい思いを持っていて、お金を堂々と見つめることが出来ない人はとても多いようだから。そこから解いてみるのはいいかも知れない、と思った。
よくあるのは、「お金持ちになるには、お金と友達になる」系のセレブ指向の意識改革セミナーだけど、私は「セレブを目指すのもいいけど、それは単に結果の一つにすぎないよ」と考えている。
人の「お金持ちになりたい」という欲望につけ込んで商売するようなスピーカーにはなりたくない。
お金について話すのは下品だとか、お金の計算をするのは何だかずる賢い感じがするとか、お金を真正面から捉えられないことが、結構、人生には影響を及ぼしてしまう。何故って、誰だってお金なしには生きられないのに、そのお金をこそこそとしか扱えない事は人生の大きな一部がこそこそしたものになるからだ。
もっと堂々とお金を見つめてみよう。
そうすれば、自分の人生の不安の一部は消えていく。
お金という存在をコントロールしたり、仲良くしたりできるようになろう。
そうすれば、きっと自力で生きている感覚がはっきりしていく。
お金に関してもっと堂々と要求してみよう。
そうすれば自分がお金を扱える能力が育っていく。
セレブ、という言葉が踊るマスコミ。
私はそれを見るたびに、プッと笑っている。
マネマネマネー!(注:私のネーミングではありません。)
乞うご期待。
世の中に溢れる情報に躍らされるか、それとも世界を舞台に自分のダンスを踊るか。
それはあなた次第。
子供の頃から 時間の無駄や労力の無駄が大嫌いだった。
意味のない決まりにも従えないし すべての事に意味を見いだそうとしていた。
先生に「どうして背の低い順に並ぶのですか」「出席簿はあいうえお順になっていますがなぜ廊下に並ぶ時は背の順になるのですか」などといちいち聞きたい性分だった。
私の質問につきあってくれる気の長い先生は居なかったので 私はいつも不満と疑問とで苦しんでいた。
教科書の内容をすべて丸暗記できても、教科書以上の疑問には答えてもらえなかった。
教科書に載っていない、世界のあらゆることに対しての興味は尽きなかった。
運動場に全校生徒が集まって、座る時に何故体育座りでなければならないのか、意味が判らない。
座るという事の目的が 「立っていると疲れるから」なら くつろげる座り方をしていいのではないだろうか。
足を伸ばして座ると、声がでかいことが取り柄の、脳まで筋肉で出来ているのかとおもうような体育教師から怒鳴られた。
この世は納得出来ないことばかりだった。
だから私は 人の命令にただ従うということができないし それが原因で会社勤めは無理なのだ。
私にとって 仕事には常に「それをやる価値」が必要で
しかも「その価値は自分にとって重要なこと」でなければ 自分の仕事として行うことが出来ない。
仕事に「やる価値」を見いだせずに苦しんでいる人が 多分大勢居るだろうと思う。
どうしてもその仕事に 価値を見いだせないなら それはあなたの仕事ではないのではないだろうか。
人にはそれぞれ、自分にとって価値が見いだせることと見いだせないことある。
それは一人ひとり違う基準で成立していて あなたにとって価値ない事でも 他の誰かには価値のある事だったりもする。
だから自分にとって価値のない事なら すぐに他の誰かに代わってもらってもいいのだ。
私は 自分の仕事を「伝えること」「ヒントを与えること」「人の持つ美しさや善さを刺激すること」だと思っている。
それには大きな価値があり 私は自分のために仕事をしているというよりは 人類全体のために もっと言えば地球そのもののために 仕事していると思っている。
そう思える事でなければ 正直 あまりやる気がしない。
私が個人カウンセリングよりもグループワークが好きなのは 個人個人を変容することよりも グループで相互作用を引き起こして 変容する方が 一度に起きる変化量が大きいからだ。
ワークの参加者というグループの中で 日頃ブロックされている「人を信頼する能力」の鍵を外し自由にその能力が使える状態にすると 一人の人をきっかけに次次と他の人に変化が連鎖する。
その様は実にダイナミックだし 美しくも感動的でさえもある。
私は ワークの中で 場を調整する役割=ファシリテーターとして存在するが その仕事の価値は 参加者が全人的自分自身を回復するという点にある。
一部分としてしか生きていない人が 全人的な生き方を手に入れることで世界に起こす変化は ものすごいものがある。だからこの仕事にはやるだけの価値がある。
実際に参加者を変化させるのは 参加者自身なのだが 私が「場」を調整する事によって それが実現しやすくなる。だから私は自分の仕事に専念し、その「場」が可能な限り最大限安全であるように、また善いもので満たされる美しい空間であるようにと調整し続ける。
自分自身の中の汚れや雑音を排除し 精神統一した集中状態で 繊細さを総動員してワークに臨む。
それはワクワクする緊張と 涙ぐむほどの美しさに満ちた世界を 一瞬だけその場に具体化する事だ。
グループワークに限らず、傾聴講習会でも同じことだ。
私が場を調整し 参加者がそれに応えて変化していく。
私の講習会に参加する人が「毎回来るたびに癒される感じがしました」と感想文に綴るのはそういう事だと思う。
実際私の仕事の価値は 伝えている知識や情報ではなく その「場の調整能力」にある。
私が話す事のコピーは多くの人が出来る。
だが私がしている場の調整は 多分私にしか出来ない。
場の調整能力を持つ人は 実は非情に少ない。
私以外の 調整能力を持つ人が行う調整は、私のものとは別物になる。
だから、私のしている仕事の本質である「場」の調整は、私にしか出来ない。
早く 傾聴の講習会を引き継げる講師が現れることを祈っている。
その人には 場の調整能力が必須だが きっといつかその人に出会うだろう。
10年規模で待つつもりでいる。
意味のない決まりにも従えないし すべての事に意味を見いだそうとしていた。
先生に「どうして背の低い順に並ぶのですか」「出席簿はあいうえお順になっていますがなぜ廊下に並ぶ時は背の順になるのですか」などといちいち聞きたい性分だった。
私の質問につきあってくれる気の長い先生は居なかったので 私はいつも不満と疑問とで苦しんでいた。
教科書の内容をすべて丸暗記できても、教科書以上の疑問には答えてもらえなかった。
教科書に載っていない、世界のあらゆることに対しての興味は尽きなかった。
運動場に全校生徒が集まって、座る時に何故体育座りでなければならないのか、意味が判らない。
座るという事の目的が 「立っていると疲れるから」なら くつろげる座り方をしていいのではないだろうか。
足を伸ばして座ると、声がでかいことが取り柄の、脳まで筋肉で出来ているのかとおもうような体育教師から怒鳴られた。
この世は納得出来ないことばかりだった。
だから私は 人の命令にただ従うということができないし それが原因で会社勤めは無理なのだ。
私にとって 仕事には常に「それをやる価値」が必要で
しかも「その価値は自分にとって重要なこと」でなければ 自分の仕事として行うことが出来ない。
仕事に「やる価値」を見いだせずに苦しんでいる人が 多分大勢居るだろうと思う。
どうしてもその仕事に 価値を見いだせないなら それはあなたの仕事ではないのではないだろうか。
人にはそれぞれ、自分にとって価値が見いだせることと見いだせないことある。
それは一人ひとり違う基準で成立していて あなたにとって価値ない事でも 他の誰かには価値のある事だったりもする。
だから自分にとって価値のない事なら すぐに他の誰かに代わってもらってもいいのだ。
私は 自分の仕事を「伝えること」「ヒントを与えること」「人の持つ美しさや善さを刺激すること」だと思っている。
それには大きな価値があり 私は自分のために仕事をしているというよりは 人類全体のために もっと言えば地球そのもののために 仕事していると思っている。
そう思える事でなければ 正直 あまりやる気がしない。
私が個人カウンセリングよりもグループワークが好きなのは 個人個人を変容することよりも グループで相互作用を引き起こして 変容する方が 一度に起きる変化量が大きいからだ。
ワークの参加者というグループの中で 日頃ブロックされている「人を信頼する能力」の鍵を外し自由にその能力が使える状態にすると 一人の人をきっかけに次次と他の人に変化が連鎖する。
その様は実にダイナミックだし 美しくも感動的でさえもある。
私は ワークの中で 場を調整する役割=ファシリテーターとして存在するが その仕事の価値は 参加者が全人的自分自身を回復するという点にある。
一部分としてしか生きていない人が 全人的な生き方を手に入れることで世界に起こす変化は ものすごいものがある。だからこの仕事にはやるだけの価値がある。
実際に参加者を変化させるのは 参加者自身なのだが 私が「場」を調整する事によって それが実現しやすくなる。だから私は自分の仕事に専念し、その「場」が可能な限り最大限安全であるように、また善いもので満たされる美しい空間であるようにと調整し続ける。
自分自身の中の汚れや雑音を排除し 精神統一した集中状態で 繊細さを総動員してワークに臨む。
それはワクワクする緊張と 涙ぐむほどの美しさに満ちた世界を 一瞬だけその場に具体化する事だ。
グループワークに限らず、傾聴講習会でも同じことだ。
私が場を調整し 参加者がそれに応えて変化していく。
私の講習会に参加する人が「毎回来るたびに癒される感じがしました」と感想文に綴るのはそういう事だと思う。
実際私の仕事の価値は 伝えている知識や情報ではなく その「場の調整能力」にある。
私が話す事のコピーは多くの人が出来る。
だが私がしている場の調整は 多分私にしか出来ない。
場の調整能力を持つ人は 実は非情に少ない。
私以外の 調整能力を持つ人が行う調整は、私のものとは別物になる。
だから、私のしている仕事の本質である「場」の調整は、私にしか出来ない。
早く 傾聴の講習会を引き継げる講師が現れることを祈っている。
その人には 場の調整能力が必須だが きっといつかその人に出会うだろう。
10年規模で待つつもりでいる。