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病気のことですが 今、ひとつだけブルーになることがあります。
それは「母が私の病気を知ったらどうなるだろう」ということです。

5年前、私は胆嚢結石になってある夜「このまま死ぬ気がするほど痛い」
という状態で救急に担ぎ込まれ、即手術が必要という診断を受けました。

その時も「手術する」と決めてから母に連絡をしましたが、母は熊本から
夜中にすっとんできて、翌朝一番手術の予定が決まっているというのに
大反対しました。

臓器を一つ取ってしまうなんて、今後人生にどんな影響があるか分から
ない。食事療法で、何とかなるんじゃないのか。アオサがいいと聞いたの
で買ってきた。これを食べて何とか、様子をみてから、どうにもならないと
きに手術したらどうか。取ってしまった後ではもう後戻りできない。

そんなことを言いに、わざわざ夜中に車を3時間も飛ばして病院にやって
きたのです。

まあ…母の気持ちも分からないではないですが、正直に言えば私は
その母の顔を見て(私がどんなに痛い思いをしたかぜんぜん分かってい
ないなあ)と思いました。
しかも、結石の痛みはそうやって病院に担ぎ込まれる前の1年間、ずっ
と耐えてきた痛みだったのです。脂汗がにじむほどの原因不明の苦痛を、
家族の誰も深刻には思わず、いくら訴えてもわかってくれませんでした。

その日深夜、「もうだめ、このまま死ぬ気がする」という言葉で初めて、夫
が深刻さを理解したのです。

母はもちろん私がそんなに長い間痛みと闘ったのかもしれないなんて考え
もしていなかったのです。
ある一晩のひどい痛みで、医者の言うとおりにあっさり自分の内臓を切り
取ろうとしている…そう思ったに違いありません。

私にしてみれば、あの苦痛から開放されるなら片腕でも切ってもらいたい
ほどの痛みでした。陣痛の時とはまた種類の違う、しかし同様に我慢のし
ようのない、激しい痛みに、もう十分に耐えたと思うし、いろいろと治らな
いかと自分なりに工夫していた1年間でした。
なのにいまさら「アオサを食べて様子を見る」という呑気な提案を、受け入
れることなど無理でした。

私が「せっかく来てくれて、忠告してくれるのはありがたいんだけど、手術
は受ける。もう決めたことだから。術後の体への影響も説明は受けている
し、考えた結果決めたから」というと母は、「そんなこと言っても手術してし
まって、あとで後悔してももう取り返しが付かないじゃない」と食い下がりま
した。
「お母さん、私の体で、私の人生。自分で決めたことで後悔するとしても、
その後悔も私のもの。だから大丈夫だよ」と言ったら母は、「お前はやっぱ
り私を恨んでいるんだ。私を許してくれないんだ」と言って泣きはじめました。

母には、母の意見に完全に賛同しないと、「私を受け入れてくれない」「私を
嫌っている」と曲解する心の癖があります。意見が違っていても好きだし、
それぞれの意見、それぞれの道、それぞれの人生があるといくら説明しても、
あの聡明な頭がどうしてそんなにおかしな具合になるのか、どうしても感情
的になっていじけてしまうのです。
幼い頃に被虐待児だった影響だと思います。

多分に、母には、娘と一心同体でいたいという依存心があります。
だから母と一体でない、という事実をこちらから突きつけると、母はすぐに大
げさな感情恐慌に陥り、「お前は私を奥底でずっと恨んでいるんだ」などと言
い出すのです。

私が治癒しない病気になったなどと言おうものなら、自分のことのように
落ち込んだり、治療法探しにやっきになって、あれを試せ、これを試せと日
替わりのようにして言ってくるに違いありません。

事実として私の方が豊富な情報をもっているし、母が進める治療法はなん
らかの理由で採用できない可能性の方が高いのです。しかし断れば母は
恐慌状態に陥ります。
何らかの因縁でそうなったとか、だから私は前から思ってたのよとか、聞
かされると余計負担になるようなことを嘆きの中でぶつぶつ言うのも勘弁
してほしいことです。

治癒しないとは言っても、進行はコントロール出来るし、日常生活も制約つ
きとはいえ、別に普通に過ごせ、仕事も出来ます。この病気は私の体の一
部であり、付き合っていけると確信しています。
母があわてる必要はないので、この際、言わずにいようかと思います。

積極的に隠し通そう、というわけではないですが、「きっかけがないなら
言わないでいる」という感じです。

病名をぼかしていてすみません。
なんでしょうね、まだ、自分でも病気になった自体が恥ずかしくて(汗)
そのうちぺロッと公開するかも。
命に別状ないので、心配なさらないでね。

拍手[2回]

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元ゲーム職人ネタをもう一つ。

仮想の世界をつくり、その世界のルールをつくり、その世界にプレイヤーを
招き入れて仮想の人生、仮想の遊びを体感させる。

それがゲーム職人の使命です。

何もない処から本当にすべてを創り上げるのだということを、言葉だけで話
しても、多くの人にはピンと来ないと思います。

仮想世界を作るのですから、現実の世界とおりにしなくてもいいのです。

たとえば、重力の無い世界を作ってもいい。
スーパーマリオはBダッシュジャンプという技が出来ますが、これなんかも
現実の物理法則は無視して、操作感の快感を重視して作られています。

その世界だけの物理法則、その世界だけの社会常識、その世界だけの
職業、その世界だけの貨幣、それらを一つ一つ、全部決めて行きます。
ゲームの画面に登場するもので、「何となく」登場するものは一つもありま
せん。すべてに作り手という「神」の意思がそう決めて、そう作ったから
存在するのです。

それを本当に理解していただくと、ゲーム作品を作るということは、まさに
この地球、この宇宙を作った「神」を真似て同じことをするのだというのが
分かると思います。
(もっとも本当に創造神がいるのかは神秘すぎて永遠の謎ですが…)

ゲームを遊ぶと、草が生えていたり、ブロックがあって進めない場所があ
ったりしますが、それらはなんとなくそうなっているのではなく、神の意思
でそうなっているということです。
隠されている宝物、落ちているコイン、現れる敵、すべてが神の意思でそ
こに置いてあるのです。
神は常にプレイヤーの心と、プレイヤーが陥るであろう事態を予測してい
ます。

ここを通ると大体10~15くらいの戦闘を経験する。
だからこのポイントへたどり着くプレイヤーには、体力を回復させる薬を用
意してやろう。何か無いかと探し回ったプレイヤーだけが見つけることがで
きるように、隅のほうには、ごほうびとしてお金を置いておこう。
見つけるとうれしいからね。

そんな具合です。
私や坂本は、元制作者ですから、容易に「ここに何か隠してあるだろうな」
という予想が付きます。
まるでプロの泥棒が、「ここに通帳を隠しているだろう」とわかるようにです。


セガ(ゲームメーカー)が作った「ナイツ」というアクションゲームがあります。
この世界では、プレイヤー=主人公ナイツ は地面を歩きません。
ひたすら空を飛翔する存在です。なぜどういう仕組みで飛べるのかという
説明は必要ありません。ただゲーム製作者が、「空飛ぶゲームを作ろう、
プレイヤーに自由自在に飛ぶ快感を与えよう」と決めて、そう決めたから
そうなったということです。

そして、そのゲームが現実の世間に受け入れられるかどうかは、製作者が
勝手に決めた仮想世界のルール、その世界でプレイヤーに与えている感覚
が、人々に納得できるか、喜びや快感や感動を与えるかどうかによって決ま
ります。

玉が画面の上から下に向かって転がり落ちるゲームがあったとしたら、
プレイヤーにとってその玉の動きは納得できる、なじみ易いものになります。
もしそれを、玉が画面の下から上に向かって転がるように作ってみると、
ユーザーにとって、現実のボールの動きとはかけ離れており、物理法則上
ありえなさ過ぎる感じがしてしまい、とても操作に戸惑ってしまい、そのスト
レスで「面白くないゲームだ」と判断されてしまいます。
仮に、そのストレスを感じてもなお、妥当だと感じるような喜び、プレイヤー
にとって歓迎される結果が用意されていれば、プレイヤーはそのゲームを
「面白い」と判断します。

ですから、ゲームの神様は、自由に何でも決められるとは言え、プレイヤー
に受け入れられるかどうかをかなり真剣に吟味して製作しなければならない
のです。
これは、れっきとした心理戦です。

ストレスをかけなければ、報酬感覚(喜び)は大きくならない。
しかしストレスが大きすぎたり、頻度が高すぎたりすると、報酬を与える前
にプレイヤーはそのゲームを投げ出してしまう。
だから与えるストレスと、喜びや報酬感覚のバランス、駆け引きを読み切
った制作者の作ったゲームは「良作」「いいゲーム」と評価されます。


私はよく、「本物の神様も、これをやってるのかも知れないなあ…」と思っ
ていました。
キリスト教ではしばしば、辛い体験をしている信者に対して「神はあなたに
耐えられない試練はお与えにならない」といいます。
つまりどんなに辛くても、死にたいほど苦しくても、その試練を乗り越えるこ
とが出来ると読みきっていて、その試練を与えていると。

私には時々「神様読み違えてませんかね?」と聞きたい事もありましたが(笑)
まあそれでも今も私はこうして元気に生きていますから、神の読みは正し
かったわけですね。

ゲームは、プレイヤーに喜び、感動、快感を与えたくて作るわけですが、
神は何を与えようとして我々にさまざまなライフイベントを与えるのでしょうね。
辛く苦しいことを乗り越えた人間に、何を報酬として用意してくれているので
しょうか。天国だよ、なんて答えは私は聞きたくないですね。

だから私は、神様が与えてくれる報酬は当てにしません。
自分を幸せにするのは、自分。
ゲームと現実の決定的な違いは、そこにあります。
幸せを得たいとき、神頼みが必要ないというのは、ゲーム世界にはありえ
ませんから。


やっぱり現実は素敵ですね。
どんなにゲーム職人が真似ても、本物の世界の方がやっぱりすごいのです。

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今は心理の専門家みたいなことしていますが
以前私はゲーム職人でした。
ゲーム製作に関することならほぼ何でも知っています。

ゲームって、「面白い!楽しい!」って思わせるために作るんですが
実はこの「面白さ、楽しさ」を与えることは実に、緻密な計算が必要なのです。

たとえば、弾で敵を打ち落とすシューティングゲームというジャンルのゲーム
がありますが、反射神経の鈍い人や、ゲームに慣れていない人にとっては
とっても難しくて、すぐに敵の弾に当たってやられてしまいます。
だから、初心者はすぐに「もっと簡単に作ってくれればいいのに。そうしたら
自分にも遊べる」って考えます。

ゲームの難易度を易しくするのは、作り手にとって本当に簡単なことなんです。
敵を弱くすればいい。
自分を強く(弾に当たってもダメージをうけないように)すればいい。

じゃあ試しに、自分に弾があたっても、ぜんぜんダメージを受けないように
(いわゆる無敵状態)にしたらどうなると思いますか?
または自分の打つ弾は無制限で、しかもものすごく強力だったら?
敵がすんごく弱くて、自分が体当たりしただけでやっつけることができるんだったら?


実はそんなゲームは、本当に、すごくつまらないんですよ。

最初だけ、「やった!」って思います。成功体験の快感が起こります。
でもこの成功は実に簡単に実現する「安易な成功」なんですね。
だからあっという間に感覚の麻痺が起こります。
つまり、「いつでも倒せる敵を倒しても、面白くない」んです。

実は、人間が「面白い、楽しい」と思うことは、必ず何らかの制約を受けた
結果、努力したり工夫したり知恵をしぼったりしたときにだけ実現できるこ
となのです。

なかなか倒せない敵になんどもやられて、それでもチャレンジしていったら
ついに今日、倒せた。操作が上手になって、倒せるようになった。
その成功体験の快感が、ゲームにおける「面白さ」の核なのです。

つまり、簡単にしすぎると、ゲームはつまらない。
わざと簡単じゃないように作ります。(ある程度、ですが)
そして、最初の敵を倒せるようになったユーザー(ゲーム業界では
ゲームを遊んでくれている人をユーザーまたはプレイヤーと呼びます)が
飽きないように、次の楽しみを用意します。
つまりまた試練が用意されているのです。
さらに強い敵が現れたり、自分の弾に限りがあったり。

これって、人生と同じだということに気づきませんか?

最初からお金がうなるほどあると、ものを手に入れることは当たり前で、
快感ではありません。でもごく普通の家庭に育てば、子供の時代には
お金は自由にはなりません。
持っていたとしても、お年玉やお小遣いを貯めて手にする、「制約つき」
のものです。
だからこそ、一生懸命お金を貯めて、ついに自力で買い物をしたときの
喜びがあるのです。

人間は苦労するのがいやだと口では言いますが、本当に苦労がないと
「退屈だ、つまらない」と言い出します。だから人間は適度に苦労するよ
う、様々な制約があったほうがより幸福になれるのです。

貧乏だという制約があるからこそ、それを努力や創意工夫で克服する
喜びがあります。
命に限りがあるからこそ、生きることの喜びがあるのです。

私は現実の人生というゲームをとても楽しんでいます。

ゲーム職人は、人間観察力の豊かな人でないと務まりません。

ゲーム職人は、ゲーム世界のすべてを無から作り出す、その世界の
「神」と言える存在です。神としての視点とは、その世界に入ってきた
「人間(ユーザー)」の心理を可能な限り読みきり、「面白さ、楽しさ、感
動」へ向けて誘導するためのありとあらゆる仕掛けを用意するということです。

本当に心から言えることですが、非常に楽しく、とってもやりがいのある仕事でした。
自分にはとても向いている仕事だったと言えると思います。

そして、これはいみじくも、人間心理の専門家への入り口だったのですね。


今でもゲームを遊ぶと、その世界の「神(作り手)」を感じます。
ゲームの中に決して顔を出すことはありませんが、その神(作り手)の意思は
ゲーム世界の端々に、常に満ち溢れていて感じ取ることが出来ます。
それもまた、現実の世界と同じような気がします。

もっとも、ゲーム世界の神は、よく間抜けなことをしていて
「考え足らず!」と罵声を浴びせてしまいますが(笑)

現実の神の意思は神秘で、読みきれませんねえ。
さすが本物、です。

だからこそ、本当の人生の謎や試練には、取り組むべき価値があるのです。

拍手[2回]

またまたご無沙汰しています。
更新がほんと少なくて申し訳ない。

しかも最近 老いについて考えるって書いてばかりいますね。
(暗くて申し訳ない)

でも今日もそんな話題。

いつかなるんじゃないかなーと思っていた病気が発症したと発覚しました。
もともと若い頃から膠原病という持病もちなので、別段ショックを受けたり
はしないのですが、今後ずっと食事制限や行動制限があるという現実は
やっぱり少しだけブルーな感じもしなくはないですね。

でもね。
現実をよく見れば、本当はみーんなそうなんですね。
年を取って、体のあちこちが痛くなったり動きにくくなったり
内臓が弱ってあまり働かなくなったり、機能が駄目になったり。
そんなこと、当たり前なんです。

高齢の方たちはみんなそれを分かっていて、
自分の体とどう折り合って生きていくのかをゆっくり、考えて、ゆっ
くり、取り組んでいる、そんな風に思います。

最近の美智子妃殿下のコメントにも同じような言葉がありましたね。
自分の体と折り合って…って。

だから哀れんだり悲観したりする必要なんてなくて。

私はおばあちゃんになっていきます。
半年前から、膝の違和感が始まり、今では寝てても痛くて目が覚めます。
調べてみると、そういう人は大勢いるんですね。
ほんと、自分がなってみてわかる、他人の苦しみ。

でもね、体の無理がきかなくなると、心もゆっくり行けますよ。

(待とうか、いいよ、どうせゆっくりしか進めないからねえ。)
そう言う事が若くて元気ぴんぴんの頃よりずっと楽です。

娘が長生きしてほしいと真剣に言ってくれるので
出来るだけ長生きするように、しっかり治療にも取り組みます。
(あ、すぐ死ぬような深刻な病気じゃないのでどうぞ
本当にぜんぜん心配ないですよ。本当にありふれたものなので)

私が自分の病気について調べてしまうのでお医者さんが不機嫌になります。
あまり専門的なことを突っ込むと大抵のお医者さんはむっとしますね。

だから何でも知らないふりをします。
お医者さんの説明を「そうなんですか、なるほど、なるほど」と言いながら聞きます。
まあ、正体はお医者さんの指示はぜんぜん守らない不良患者なんですけど(笑)

だってお医者さんは私の命や人生に責任持ってくれないですからね。
私自身が私の体と寿命に関して責任もっているのですから、自分でしっかり
考え、最善を尽くさなければ。

新しい病気と取り組み始めたばかりですが、やること、試すことが多くて、
とっても忙しく充実しています。
元通り若い頃みたいになるとは思いませんが、その時、その時、
折り合っていけるようになると信じています。

病気は、先生ですよね。いつでも。

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最近、お年を召した方の話を聞く機会が多くて、
自分自身もどんどん年をとってきたせいか
自分の今後(近い未来)を実にリアルに感じるようになりました。

老後って普通は仕事をリタイアしたころを指すんでしょうね。
年金もらってるとか。

私が65歳になるころ…年金ってもらえるのだろうか?
制度がまだ維持されている保証はないし、最近も年金額の見込みと
いうお知らせが届いていますけど、本当にこの額を当てにしてていい
のかしら?と思います。

かといって、老後の生活のために蓄えるとしたら何千万必要だとか言いますし…。
あはは、到底無理ですね。

私はもう、今この時生きられればいいと思っています。
生活できなくなれば、自然な形で貧しくなり、そのまま自然な形で
飢え死にすればいいとも思います。

年をとっても働けるだけ働いて、働けなくなったら死ねばいいんじゃないかなと。
死ぬ前に、多分、ミャンマーとかブータンとかの仏教国に行って貧しくしぶとく
生きてる気もします。
日本では生きられなくても貧しい国でその国の水準でなら生きられる可能性も
ありますよね。
それに私、本当にその国の水準の生活ってぜんぜん苦痛ではないのです。

電気がなくても平気。
便利な道具がなくても平気。
そこにあるもので生きていけます。
今の日本でそういう生活をしていたら変人扱いかもしれませんが、
でも多分、今から20年後の日本ならそういう貧しさは当たり前になって
いるのかも知れません。

私はそれで幸せを感じる自信があります。

だから私って意外と、しぶといのかも(笑)。

追伸:
最近しいたけをミニ栽培しています。
食べきれないほど収穫できて、非常に楽しいっ!!

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最近 講演のスライドに「自己肯定感」という文言を使っ
ていないことに気づいた。

以前は必須ワードだったのに 最近は自殺関連事業で
依頼を受けたときくらいしか使っていないという事実に
気づき、ちょっと驚いた。

使い慣れすぎてしまって自分の中では消化しすぎていて
表に出てこないのだろうか。
けれどこのキーワードは 多くの人にピンとくる重要ワード
なので 今後忘れず入れるようにしよう。メモメモ。

最近の出来事。
ルルちゃんの不妊手術が無事終了。
傷がなかなかふさがらず3週間近く傷の手当てに苦労した
けれどやっと完治。
コナと元気に遊べるようになり 家の中荒らしのいたずらも
復活。毎日なにかが壊されたりこぼされたりひっくり返された
りされているけれど 叱られてもへっちゃらなワンパクわんこ
たちに癒されてます。

コナちゃんの手術は11月の予定。
可哀想だけどこれでももと同じ乳がんにはならずに済むの
だから涙を呑んで。

元気で長生きするんダゾ。

娘が学校で図工室にたむろしていたところを先生に叱られ
怒りまくっております。
よいよい、先生との対決もまたいい経験。
世の中は思うとおりにならないのだよ。
さてそれでどうするかね?

娘が始めてぶつかった社会の壁。
何を経験するのかしっかり目撃させてもらっております。

相手のせいにしても何も変わらない。
さてそれでどうする?自分は何をする?
口や頭だけ動かしても変わらんよねえ。
娘が自分でそれを掴むのか、楽しみに見守っています。

自分で何かを乗り越える経験。
自分でチャレンジする経験。
それらが自己肯定感を育みます。
親は余計な先回りをしないこと。

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ひとつ自分の反応から考えたこと。

子供が散らかしっぱなしで部屋が雑然としすぎてくると、だんだん
イライラがたまってきて最後には「片付けしなさーあい!」と号令を
出すことになるのだけれども、

我が家の犬が散らかすことには私は非常に寛大で
ぜんぜんイライラしないなあということに気づきました。

昨晩も コナとルルが私の部屋ではしゃいで大暴れして、
ニッセンの分厚いカタログを 地面を掘るようにしてビリビリに
引き裂いて遊びました。

私はそれを止めもせずテレビを見ていて。
ビリビリ、グジャグジャ、ワホワホという音が非常に心地よいBGMのようで。

犬たちはそのまま深夜も同じく カタログビリビリ遊びをしていたのですが
私はその音も心地よく 聞きながら眠りました。とても気持ちが安らかで
心が癒されました。

朝になって部屋を見ると、もうそれはそれは、盛大に散らかしていました。
足の踏み場もないほどカタログの残骸が細かく引き裂かれて敷き詰めら
れていて何かのコマーシャル用に用意したセットのようです。

娘が「ママーおはよー」と部屋にやってきて「うわっ」と声を上げました。
「何これ」と娘が目を丸くするので私は「昨晩は犬祭りだったんだよ」と
答えました。

犬祭りのあとを片付けるのはもちろん私なのですが
これまたとても楽しい作業なのです。

犬たちが本当に思う存分にやりたいことをやり、二匹で楽しく遊び尽く
したあとが、これなのだと実感します。
ビリビリに破かれた紙の破片から 「楽しいよ」「面白いよ」と犬たちの
言葉が聞こえてくるように感じます。
この遊びをしていた間、二匹の犬たちが幸せで、楽しかった、ハッピー
だったのだと思うと私は心底幸せに思います。

どんなに散らかっていると言えど、所詮は紙くずです。
集めてゴミ箱に捨てればすぐに元通りきれいな床になります。
犬が散らかしたあとの掃除は、私にとって幸せなことなのです。

ところが。
ところがところが。

これが娘だったらこうは行きません。
「なんでママが片付けないといけないの、あなたもやりなさい」
「自分で散らかしたんだからあなたが片付けなさい」
「なんでちゃんと片付けないの」
と小言のオンパレードになります。

要するに、これは、相手に期待しているものの差なのです。

人間なんだから これができて当たり前。
こうできるようにならないといけない、というように。

人間に生まれるというのは、実はそれだけで苦行なのではないかしら。
私はちょっと、そう思っています。

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私の仕事は それでお金がもらえるかどうかに関係なく

「助けること・伝えること・やさしさを引き出すこと」

の三つなのですが

最近 その仕事をしている比率が下がってきていてイカンなあと感じます。

多分お金のためにしていることに 時間を使いすぎているからだと思います。

確かに生きるためにお金は必要で 夫が社会でお金を稼げないから
には私が一人頑張って稼がなければどうにもならない訳ですが、
やはり本当の仕事とは別のことに時間を割かねばならないことの苦痛は
自分で思う以上に大きいようです。

いやでも待てよ。
今、稼ぐためにしている仕事でも 相手を助けているし時々は相手の優しい
気持ちが生まれてもいるから どんな時でも本当の仕事をしているといえば
そうかな。

うん、書いていてちょっとそう思った。

ただ、自分の自由に時間を使えないということは、自由な発想が生まれた
ときにすぐに行動に移せないということなので、自分の中で「思いついたっ
てどうしようもないや」とすねてしまう自分がいるのか、自由な発想自体が
出にくくなるようです。

自由な発想というのは自由な時間が必要。少なくとも私には。

自由な発想からしか、自分の本当の仕事でお金ももらえることは
作り出せないのでやはり自由な時間を より多く確保しなければ
自由になれないなと思うのです。

ん?
自由になるためには自由な時間を確保する必要がある?

これって矛盾してますね。
または卵が先かにわとりが先かという感じ。

勇気を出して 一歩踏み出さないと何も掴めないと分かって
いるのですが漬物石のような夫に 毎回やる気を挫かれています。

誰だってそうだと思いますが自分の仕事がたくさん出来ていると
とても幸せで毎日元気です。
忙しくて、体力的にぎりぎりでも、それは苦になりません。

今は辛抱の時なのかも知れないですが
大きく一歩 飛び出すための準備期間だと思っています。

拍手[1回]

こうやってブログを綴ってもう何年か経ちましたね。
しみじみ振り返ると感慨深いです。

最近自分の書く記事がつまらないなあと思っているのですが
考えているうちに少し理由がわかってきました。

最近の記事はやっぱり、正直さ、あえて言えば脱ぎっぷりが足りないのです。

アクセスログを見ると毎日来てくれている人がいることもわかってしまうのでついつい、そういう人のために書かないと悪いなと思って、書くほど湧き上がっているものがないのにひねり出して記事を書いたりしてしまっていました。

それがすべての原因。人の目を悪い方向で意識すると駄文製造機になってしまうという見本のような形でしょうか。

書こうと思えば、我が家にはネタやニュースがあふれています。
だけど、それをこんな場所に赤裸々に書き綴りたいと思うほど結晶する気持ちがないのに、だらだらなんとなく書いてしまうと、こうなる。

ちょっと時間かけて、自分をもっとぎりぎりまで煮詰めてみよう。


それと…神経質になっている時にはよく思うのですが

自分の感じていることや考えていることって

「言葉に出来ない」って思いませんか?

言葉にしたとたんにうそ臭くなってしまうというか…
感じていることとは微妙に違うというか…。

だから本当にどうしてもわかってほしいと思うときほど
言葉が出てこなくなって泣いてしまうことがいっぱいありました。

何を言っても伝わらない、伝えられない。


そんな時もあるけれど

だけどやっぱり何分の一かでも わかってもらうために、近づいてもらうために、
そして自分の中を整理するために、自分に触れるために etcetc

言葉にするしかないよね。

ああ。上手に生きられないけど
だけど一生懸命生きよう!

拍手[2回]

「遠い人類より隣人を愛しなさい」というマザーテレサの言葉は
「考えてばっかりいないで行動しなさい」という意味でもあると思います。

うーん、チクッと来ますね。
いつも人類のこととか地球規模のこととか、少し規模が小さくても
日本の社会構造のことなんかばかり考える癖があるものだから
なんだかマザーテレサに叱られているような気がします。
ははは…ショボン

けれど 自分に出来ることは両手二本で出来る分だから
もともとそんなに大きなことはできやしない。

そう思うことにして、出来ていないことばかり思い浮かべて自分を
責めないように努力します。

だけども、社会構造だとか国のことなどの大きなことばかり考えて
いないで、できる小さなことをコツコツやることが大事なことなんだ
よと思い起こさせてくれる言葉なんですね。

隣人を愛する…。
本当にやろうとすると意外にこれは難しいと誰でも気づくと思います。

人類や国や社会を思うとき、それは「概念」だけれど、「隣人」となると
がぜんそれはより「現実」であり「生活」であるからです。
ここでもまた、私たちがいかに、概念ばかりの中で空想にふけってい
るかを思い知らされることになるわけです。

つまりマザーテレサは、現実を見なさい、そして愛する行動を生活の
中に取り入れなさいとも言っているのです。

私はまず 家族には決して汚い言葉を向けまいと思います。
思いやりをもって より忍耐強く 愛情深く親切に接するようにしようと
思いました。もちろんそうできるときばかりではないのですが たとえ
失敗してしまっても次の瞬間には出来るだけ早く やさしくあろう、親切
であろう、丁寧であろうと思い直し態度を改めることが出来るよう、
努力し続けようと思います。

娘に酷い態度をしたり 夫に心無い言葉を言ったり
疲れからものに八つ当たりなんかして不機嫌になったり
そんな自分に気づいたらすぐに 一人になって深呼吸。

(思い出せ、大切なことを。何が大切なのかを。
 お前は自分だけが大事なのか?)
そう自分の真ん中に語りかけるのです。

深呼吸して 自分の中にある小さな宇宙につながって…。
そうそう。その調子。
今ある生活の繊細さや奇跡のような大切さを思い出して…。

いま、ここでこの人たちを家族と呼んで暮らしている生活は決して当た
り前なんかじゃない。
それは奇跡をいくつもいくつも紡いで実現しており そのバランスひとつ
で簡単に失われてしまう尊い日々なのだと思い出すのです。

明日死んでしまうのだとしたら 大切な人とケンカしたままでなんかいられません。
一瞬でも早く仲直りし謝罪し 穏やかでやさしい時を取り戻さなければ。


そして生活の中でも 誰かのために何か出来ることがあれば
それは出来るだけやっていこうと思います。
買い物で賛同できて信用できる募金箱を見たら
財布の中にある100円玉以下の小銭を全部入れる。
これはだいぶ以前からずっと続けています。

小さな金額だけど これが自分以外の、助けが必要な人とつながります、
という意思表示だと思っています。

困っている人を見かけたら声をかける。
手伝えることがあれば手を貸す。
そういう、些細な事の小さな小さな積み重ねでいいのだと思います。

19歳のころ、大きなトランクをもって一人上京しました。
東京の電車の階段は信じられないほど長くて 辞書なんかが入っていて
30キロもあるトランクを一段一段引きずって上がっていると 多くの人の
流れをせき止めてしまい、本当に迷惑になってしまいました。
どうしようと思いながら必死で休まず一段づつ上がっていたら
後ろから上がってきたスーツの男性がひょいとトランクを抱え上げ、一番
上まで無言で持って上がってくれました。一番上の段でトランクを置いて、
その人は何も言わず電車に駆け込んで行きました。お礼を背中に投げか
けるのが精一杯でしたが、東京にも親切な人はいるんだと、少し勇気が
出ました。

その人にとっては、大迷惑になっている障害物をどけただけかも知れな
いし、親切心だったとしてもお礼さえ受け取る必要がないほどの些細な
親切だったのではないかと思います。
でも本当に困って心細くなっていた私にとっては、本当に本当にありがた
かったし、なんと言っても、怖い人ばかりだと思っていた東京にも、無関係
の人に親切に出来る人がいるとわかっただけで、そこで生きていく勇気が
出たのですから影響は大きかったのです。

彼は間違いなく、私にとって助けになりました。
私は45になった今でも彼の親切を忘れません。

親切にすること 相手の身になって小さな助けになろうとすることは
とても尊いことです。

小学生はそのことをよく知っていますが中学生になるとそれを出来るだけ
忘れようとします。高校生になると馬鹿にするようになり大学生になると
すっかり忘れてしまいます。

大人になって誰も頼ってはいけないような身分になってから
人の親切に触れると「そうだった。人に親切にされること、親切にすること
はこんなに素敵なことだったんだ」と思い出すのです。

子供を育てるようになると 人の優しさがないととても乗り越えて行かれ
ないような大変な毎日になり 人に優しくすること、されることの重要性が
身にしみます。子育てをする機会に恵まれないと、ここのところが人生か
ら抜けてしまって寂しいまま大人の人生を長く過ごすことになりがちなの
かも知れません。

隣人を愛する…。
それは現実であり生活。

上の階に住んでいる老齢の大家さん夫妻のことも気がかりです。
何か手助けすることがないか しばしば考えています。
考えているだけじゃだめですね。行動を。
チャンスをうかがっています。

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