2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
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奇妙な食事方法を続けて約一ヶ月です。
昨日 結構ショックなことがあって気分がどよーーんと
落ち込んでしまいました。
すると それと連動してどうもお腹が減って仕方ないのです。
いわゆる、「ヤケ食いしたい衝動」です。
ふと気付くと「夏のビュッフェ特集」だの「デカ盛りの店
報告ブログ」などをぽーーっと閲覧しています。
よく体の言っていることに耳を澄ませば、100グラム何
かを食べれば、ちゃんとそれなりに満腹感を質量的にも、
栄養的にも感じてくれています。
でもココロが飢えているのです。
思いっきり、好きなものを好きなだけ、お腹がパンパンに
なるほど、苦しくなるほど食べてしまいたいっ!とココロ
が叫びます。
お腹がパンパンになれば、一時の幸福感と苦痛で ココロ
のショックは忘れられる。
それを経験上、良く知っているのです。
ココロや頭(思考)の声に比べると、体の声は いつも控
えめで小さな小さな声です。
体は現実のこと、真実のことしかしゃべらないけれど
ココロと頭(思考)は幻想や作り出したもののことを大声
で話します。
多くの人が、この時ココロや頭(思考)の作り出したもの
こそが現実だと勘違いして余計に苦しい思いをすることに
なります。
今日は、外食してみることにしました。
選んだのは、くるくる寿司です。
まず二皿とって、それぞれのお皿から一つづつ、食べてみ
ます。それから15分ほど話をして、ゆっくり次のお皿を
一つ取ります。
そのお皿からも一つ食べて、またゆっくり会話してみます。
体に、食べたものが消化され吸収されて行くことがよく分
かります。体はお腹の中にものが入った重みと 血液の中
に溶け込んでいく栄養素をきちんと把握して伝えてくれて
います。
ご飯というのは水分を含んでいて結構重いので、100グ
ラムであれば三貫くらいです。でもせっかく外に出たので
すから、あまり我慢ばかりでは楽しくありません。
ルールを少し緩くすることにします。100グラムぴった
りじゃなくてもいいことにしよう。お茶とガリをかじりな
がら20分ほどお話して、さらに二貫食べて、合計五貫。
私が残した分は一緒にいた人に食べてもらいました。
ゆっくりと、お店を出ました。
食事の量に制限があるとき、くるくる寿司は本当に便利なお店です。
ヤケ食いをしたい気持ちがなくなった訳ではないのですが
爆発するほどではありません。
さあ、次は何をたべようかなあ?と思うことで大丈夫。
落ち込んでることはまだ解決してないんですが、
あと一日二日、のんびり付き合っていれば何とかなるでしょう。
ヤケ食いの仕組みがよく分かるなあ。
初めての気づきじゃないけど またよーく感じられてよかった。
昨日 結構ショックなことがあって気分がどよーーんと
落ち込んでしまいました。
すると それと連動してどうもお腹が減って仕方ないのです。
いわゆる、「ヤケ食いしたい衝動」です。
ふと気付くと「夏のビュッフェ特集」だの「デカ盛りの店
報告ブログ」などをぽーーっと閲覧しています。
よく体の言っていることに耳を澄ませば、100グラム何
かを食べれば、ちゃんとそれなりに満腹感を質量的にも、
栄養的にも感じてくれています。
でもココロが飢えているのです。
思いっきり、好きなものを好きなだけ、お腹がパンパンに
なるほど、苦しくなるほど食べてしまいたいっ!とココロ
が叫びます。
お腹がパンパンになれば、一時の幸福感と苦痛で ココロ
のショックは忘れられる。
それを経験上、良く知っているのです。
ココロや頭(思考)の声に比べると、体の声は いつも控
えめで小さな小さな声です。
体は現実のこと、真実のことしかしゃべらないけれど
ココロと頭(思考)は幻想や作り出したもののことを大声
で話します。
多くの人が、この時ココロや頭(思考)の作り出したもの
こそが現実だと勘違いして余計に苦しい思いをすることに
なります。
今日は、外食してみることにしました。
選んだのは、くるくる寿司です。
まず二皿とって、それぞれのお皿から一つづつ、食べてみ
ます。それから15分ほど話をして、ゆっくり次のお皿を
一つ取ります。
そのお皿からも一つ食べて、またゆっくり会話してみます。
体に、食べたものが消化され吸収されて行くことがよく分
かります。体はお腹の中にものが入った重みと 血液の中
に溶け込んでいく栄養素をきちんと把握して伝えてくれて
います。
ご飯というのは水分を含んでいて結構重いので、100グ
ラムであれば三貫くらいです。でもせっかく外に出たので
すから、あまり我慢ばかりでは楽しくありません。
ルールを少し緩くすることにします。100グラムぴった
りじゃなくてもいいことにしよう。お茶とガリをかじりな
がら20分ほどお話して、さらに二貫食べて、合計五貫。
私が残した分は一緒にいた人に食べてもらいました。
ゆっくりと、お店を出ました。
食事の量に制限があるとき、くるくる寿司は本当に便利なお店です。
ヤケ食いをしたい気持ちがなくなった訳ではないのですが
爆発するほどではありません。
さあ、次は何をたべようかなあ?と思うことで大丈夫。
落ち込んでることはまだ解決してないんですが、
あと一日二日、のんびり付き合っていれば何とかなるでしょう。
ヤケ食いの仕組みがよく分かるなあ。
初めての気づきじゃないけど またよーく感じられてよかった。
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100グラム減量法の25日目です。
結果的に−3キロです。
25日の成果としてどうでしょうか。
健康的に減量する目安は一ヶ月に−2キロくらいまでと言われていますので、比較すれば十分な成果と言えるのかも知れません。でも普通人から見てダイエットの成果が上がったように見えるのには10キロは減量しなければならないものです。さすがに10キロ痩せると「痩せた?」と言われるようになります。
ただリバウンドにはかなり厳重な注意が必要なようです。
1日に花火大会がありまして花火を見ながら控えめにしたつもりでしたが、楽しかったので結局食べ過ぎてしまったら翌朝700グラムも増。昨日一日の摂生で600グラム減、何とか戻しましたが非常に容易に増加します。
3キロの増減というのはダイエットを何もしない時でも繰り返していますので、私の場合これを維持するのは難しいかも知れません。まあ、リバウンドしないように、もう少し調整しつつ続けてみます。
結果的に健康であれば体重はどうでもいいというのが今の私の感想です。
この100グラム減量法を振り返り、メリットとデメリットをまとめておきます。
やってみたい方は参考にしてくださいね。
メリット
・好きなものを食べられる
・一日3食以上食べられる
・カロリーを考えず食べられる
・停滞期が起きにくい
・甘いものも食べられる
・スナック菓子も食べられる
・空腹感と満腹感をはっきり感じるようになる
・一日に食べる総量が徐々に減る
デメリット
・100グラムでは物足りないものも多い(丼物・定食など)
・単品食い・偏食になりやすい(好きなものばかり食べる傾向になる)
・すべて計量しなければならない(秤がない場所ではできない)
・人との外食はできない(自分だけ飲み物のみ・残して食べてもらうなら可)
・何回も食べることが出来る工夫が必要(外には100グラムおにぎりを何個も持って行くなど)
・徐々にグラム数がいい加減になりがち
・お腹が減った感覚を何度も感じる
・食べる量が少ないのでより便秘になりやすい
コツ
・一食100グラムを絶対に守り続けること
ついつい、10グラムくらいいっかー、となりやすいのですが
そうなるとなし崩しに一食ごとの量が増えて、回数が多いだけ
に一日の総量が元よりも多いということに陥ります。
ダイエットしているつもりが大食いに。
・一食食べて満腹感を感じたら次は空腹をしっかり感じるまでは食べない
最後に食べてから一時間以内は食べないというルールを厳守す
るのはもちろんですが、空腹感を待つということでより食べる
間隔を伸ばすことができ、一日の回数が減ります。
・偏食になっても大目にみる
バランス良く食べられればなによりですが、一回の量が食べた
りないというストレスを抱えている間は完ぺきを捨てること。
肉、肉、肉、甘いもの、となっても100グラムと一時間おき
というルールを厳守しているならよし、と大目にみるくらいで
ないと長期間続けられません。食事内容のバランスは、一日単
位でつじつま合わせをしようとせずに数日単位で会わせるくら
いでよしとすればストレスがたまりません。
・楽しく考えるように工夫
これだけしか食べられない、と考えるときつくなるので、次は
何を食べようかなと楽しみにするようにすればストレスが溜ま
りません。馴れるまでは、甘いものでも脂肪の多いものでも、
何でもよいのですから。
・たまには普通の一食を食べてみる(オヤスミもアリ)
人と外食ができないことは多くの人にとって障害になると思い
ます。ですから楽しい外食の機会もたまには持つようにします。
その場合、一日の総量でカウントして、大体前日と同じくらい
になるように調整するか、一日お休みと思って翌日からまた再
開することにして覚悟を決めておくといいと思います。その場
合、仮に体重が増えていてもいちいちショックを受けないこと。
翌日から再スタートで十分取り戻せます。
この減量法の極意は
・空腹感と満腹感をはっきり取り戻す
・自分の体に必要な食事総量の把握
・ストレスを溜めないで長く続ける
ということにあります。
結果的に−3キロです。
25日の成果としてどうでしょうか。
健康的に減量する目安は一ヶ月に−2キロくらいまでと言われていますので、比較すれば十分な成果と言えるのかも知れません。でも普通人から見てダイエットの成果が上がったように見えるのには10キロは減量しなければならないものです。さすがに10キロ痩せると「痩せた?」と言われるようになります。
ただリバウンドにはかなり厳重な注意が必要なようです。
1日に花火大会がありまして花火を見ながら控えめにしたつもりでしたが、楽しかったので結局食べ過ぎてしまったら翌朝700グラムも増。昨日一日の摂生で600グラム減、何とか戻しましたが非常に容易に増加します。
3キロの増減というのはダイエットを何もしない時でも繰り返していますので、私の場合これを維持するのは難しいかも知れません。まあ、リバウンドしないように、もう少し調整しつつ続けてみます。
結果的に健康であれば体重はどうでもいいというのが今の私の感想です。
この100グラム減量法を振り返り、メリットとデメリットをまとめておきます。
やってみたい方は参考にしてくださいね。
メリット
・好きなものを食べられる
・一日3食以上食べられる
・カロリーを考えず食べられる
・停滞期が起きにくい
・甘いものも食べられる
・スナック菓子も食べられる
・空腹感と満腹感をはっきり感じるようになる
・一日に食べる総量が徐々に減る
デメリット
・100グラムでは物足りないものも多い(丼物・定食など)
・単品食い・偏食になりやすい(好きなものばかり食べる傾向になる)
・すべて計量しなければならない(秤がない場所ではできない)
・人との外食はできない(自分だけ飲み物のみ・残して食べてもらうなら可)
・何回も食べることが出来る工夫が必要(外には100グラムおにぎりを何個も持って行くなど)
・徐々にグラム数がいい加減になりがち
・お腹が減った感覚を何度も感じる
・食べる量が少ないのでより便秘になりやすい
コツ
・一食100グラムを絶対に守り続けること
ついつい、10グラムくらいいっかー、となりやすいのですが
そうなるとなし崩しに一食ごとの量が増えて、回数が多いだけ
に一日の総量が元よりも多いということに陥ります。
ダイエットしているつもりが大食いに。
・一食食べて満腹感を感じたら次は空腹をしっかり感じるまでは食べない
最後に食べてから一時間以内は食べないというルールを厳守す
るのはもちろんですが、空腹感を待つということでより食べる
間隔を伸ばすことができ、一日の回数が減ります。
・偏食になっても大目にみる
バランス良く食べられればなによりですが、一回の量が食べた
りないというストレスを抱えている間は完ぺきを捨てること。
肉、肉、肉、甘いもの、となっても100グラムと一時間おき
というルールを厳守しているならよし、と大目にみるくらいで
ないと長期間続けられません。食事内容のバランスは、一日単
位でつじつま合わせをしようとせずに数日単位で会わせるくら
いでよしとすればストレスがたまりません。
・楽しく考えるように工夫
これだけしか食べられない、と考えるときつくなるので、次は
何を食べようかなと楽しみにするようにすればストレスが溜ま
りません。馴れるまでは、甘いものでも脂肪の多いものでも、
何でもよいのですから。
・たまには普通の一食を食べてみる(オヤスミもアリ)
人と外食ができないことは多くの人にとって障害になると思い
ます。ですから楽しい外食の機会もたまには持つようにします。
その場合、一日の総量でカウントして、大体前日と同じくらい
になるように調整するか、一日お休みと思って翌日からまた再
開することにして覚悟を決めておくといいと思います。その場
合、仮に体重が増えていてもいちいちショックを受けないこと。
翌日から再スタートで十分取り戻せます。
この減量法の極意は
・空腹感と満腹感をはっきり取り戻す
・自分の体に必要な食事総量の把握
・ストレスを溜めないで長く続ける
ということにあります。
障害と一言で言っても 知的障害と肢体障害と精神障害は全く違うのでそれらの支援も具体的なアプローチは本当に違うわけだけれど、「障害者支援」ではなくただ単純に「働く場がないと生きられない」ということを何とかしたい。
例えば夫は ものすごく稀な才能を持っているのだが それ以外が普通のことも出来ない面があるのでよほど理解のある職場でない限り就労は不可能。
特に記憶障害と学習障害のダブルは痛い。
今、少しづつNPOや福祉団体などの運営で障害者自らが働くお店が社会の中で広がりつつある。
「障害者の働いているお店」ということは何らセールスポイントにはならない。
消費者が「障害者支援に理解を示すきっかけになれば」ということをかかげて店を経営することは、どこか甘えを感じる。
私なら、目指したいのは「障害のある人が、健常者以上の仕事をする」という驚きと感動を与える場だ。
例えばお手本にしたいのはホンダ太陽株式会社。
ここは本田宗一郎氏の肝いりで創設されたホンダの子会社。従業員の大半は障害者である。
しかしホンダ太陽の製品はミスや狂いが同業のどんな会社より少なく、従業員の仕事への意欲は高い。ここで作られた部品が世界に誇るホンダの製品に使用されている。
障害があることの如何ではなく、仕事への意欲や情熱がそこにある。
障害者、彼らが能力を発揮できないのは、システムがないためである。
今の世の中、特に仕事の現場は、すべて健常者用のシステムだけで構築されている。しかも健常者であるだけでは駄目で、健常者でありストレス耐性が高く、体力的にもタフである人物に合わせたチューニングとなっている。その為健常者であってもその要求に応えられず、システムからはじき出されてしまう人が大勢出て、世の中は半病人だらけになっているのだ。
健常者の中で「もっと働きやすい世の中に」などと唱えてシステム変更を検討しているのだから、障害のある人の為に独自のシステムを構築する必要性があるのは当然のことだ。
ホンダ太陽では、従業員一人ひとりの障害ごとにどうすればより効率良く仕事が行なえるかを最適化するシステムがある。左手が不自由であれば右手だけで操作できるようにスイッチを開発して渡す。そういう道具を開発する部署が存在しているのだ。従業員の仕事を支援する専門部署がある。ここが素晴らしい。
従業員は自分の効率を上げる方法を自分で自由に発案し、会社に提案できる。毎月30もの新たな提案があるそうだ。ここで働く人は自分の障害を克服することではなく、仕事をより良いレベルにすることに意欲を持つ事が出来るのだ。
少し考えてみればわかることだけれども、このシステムは健常者に当てはめても非常に効果を発揮するだろう。
障害者支援、という発想では「あなたたちは、出来るだけ普通の人のレベルに近づきましょう」というメッセージを発信する。
それでは当人にも、店自体にも、「障害者のしていることですので色々大目にみてくださいね」という社会に対しての甘えが生まれる。そんな店に、普通の人がわざわざ行きたいものか。
製品は常に、自信に溢れた良い質でなければならない。
サービスは常に、消費者のホスピタリティに仕えなければならない。
提供者がわの都合を消費者に押し付けるのは最後の砦だ。それを最初に考えてはならない。
「僕たちには、こんなことができるんです」
「どうですか?僕たちが素敵だと思うものは、あなたにも素敵でしょうか?」
そういう堂々としたメッセージを発信できる、特殊な人たちの為の職場を構築したい。
事業内容の選定。
システムの構築。
エラーの想定と対策。
教育システムの構築。
まずは思考作業。これは得意。
例えば夫は ものすごく稀な才能を持っているのだが それ以外が普通のことも出来ない面があるのでよほど理解のある職場でない限り就労は不可能。
特に記憶障害と学習障害のダブルは痛い。
今、少しづつNPOや福祉団体などの運営で障害者自らが働くお店が社会の中で広がりつつある。
「障害者の働いているお店」ということは何らセールスポイントにはならない。
消費者が「障害者支援に理解を示すきっかけになれば」ということをかかげて店を経営することは、どこか甘えを感じる。
私なら、目指したいのは「障害のある人が、健常者以上の仕事をする」という驚きと感動を与える場だ。
例えばお手本にしたいのはホンダ太陽株式会社。
ここは本田宗一郎氏の肝いりで創設されたホンダの子会社。従業員の大半は障害者である。
しかしホンダ太陽の製品はミスや狂いが同業のどんな会社より少なく、従業員の仕事への意欲は高い。ここで作られた部品が世界に誇るホンダの製品に使用されている。
障害があることの如何ではなく、仕事への意欲や情熱がそこにある。
障害者、彼らが能力を発揮できないのは、システムがないためである。
今の世の中、特に仕事の現場は、すべて健常者用のシステムだけで構築されている。しかも健常者であるだけでは駄目で、健常者でありストレス耐性が高く、体力的にもタフである人物に合わせたチューニングとなっている。その為健常者であってもその要求に応えられず、システムからはじき出されてしまう人が大勢出て、世の中は半病人だらけになっているのだ。
健常者の中で「もっと働きやすい世の中に」などと唱えてシステム変更を検討しているのだから、障害のある人の為に独自のシステムを構築する必要性があるのは当然のことだ。
ホンダ太陽では、従業員一人ひとりの障害ごとにどうすればより効率良く仕事が行なえるかを最適化するシステムがある。左手が不自由であれば右手だけで操作できるようにスイッチを開発して渡す。そういう道具を開発する部署が存在しているのだ。従業員の仕事を支援する専門部署がある。ここが素晴らしい。
従業員は自分の効率を上げる方法を自分で自由に発案し、会社に提案できる。毎月30もの新たな提案があるそうだ。ここで働く人は自分の障害を克服することではなく、仕事をより良いレベルにすることに意欲を持つ事が出来るのだ。
少し考えてみればわかることだけれども、このシステムは健常者に当てはめても非常に効果を発揮するだろう。
障害者支援、という発想では「あなたたちは、出来るだけ普通の人のレベルに近づきましょう」というメッセージを発信する。
それでは当人にも、店自体にも、「障害者のしていることですので色々大目にみてくださいね」という社会に対しての甘えが生まれる。そんな店に、普通の人がわざわざ行きたいものか。
製品は常に、自信に溢れた良い質でなければならない。
サービスは常に、消費者のホスピタリティに仕えなければならない。
提供者がわの都合を消費者に押し付けるのは最後の砦だ。それを最初に考えてはならない。
「僕たちには、こんなことができるんです」
「どうですか?僕たちが素敵だと思うものは、あなたにも素敵でしょうか?」
そういう堂々としたメッセージを発信できる、特殊な人たちの為の職場を構築したい。
事業内容の選定。
システムの構築。
エラーの想定と対策。
教育システムの構築。
まずは思考作業。これは得意。
「すべての生きとし生けるものに慈悲を向ける」
インドダラムサラまで不思議なご縁で導かれ法王のティーチングを受けた時
自分のこの生涯は菩薩行に捧げるべくあったと明確に悟った。
慈悲心を育み、智慧に目覚めようと志して日々、刻々がすべて修業と感じる。
自分のエゴに気付き、それと対話し、丁寧にとりのぞくことを自分の中で黙々と。
それでもいつまでたってもエゴは現れ、無知無明がそこかしこに現れる。
まこと 鈍なる凡人ここにあり。
ただの人として生きよう。
ただ優しくあろう。
ただ待てる人であろう。
自分が正しいのだと言わぬ人であろう。
朴とした穏やかな日々を望む。
静かに自分の行いのすべてを見つめる作業を失わない生活を望む。
障害と周囲の無理解に苦しみ 一人では生きられぬ連れ合いを助けよう。
菩薩行の人生を 前世の私は望み その結果選んでここに生まれた。
自分の生まれたことに責任を負うものは誰もいない。
自分の生まれたことを すべて負って命は無限の時間を生き続ける。
無限の時がこの後も続く。
時間はたっぷりあるのだ。
何度でも己を振り返り 腐らず また最初から。
一歩一歩。進み続ける。
インドダラムサラまで不思議なご縁で導かれ法王のティーチングを受けた時
自分のこの生涯は菩薩行に捧げるべくあったと明確に悟った。
慈悲心を育み、智慧に目覚めようと志して日々、刻々がすべて修業と感じる。
自分のエゴに気付き、それと対話し、丁寧にとりのぞくことを自分の中で黙々と。
それでもいつまでたってもエゴは現れ、無知無明がそこかしこに現れる。
まこと 鈍なる凡人ここにあり。
ただの人として生きよう。
ただ優しくあろう。
ただ待てる人であろう。
自分が正しいのだと言わぬ人であろう。
朴とした穏やかな日々を望む。
静かに自分の行いのすべてを見つめる作業を失わない生活を望む。
障害と周囲の無理解に苦しみ 一人では生きられぬ連れ合いを助けよう。
菩薩行の人生を 前世の私は望み その結果選んでここに生まれた。
自分の生まれたことに責任を負うものは誰もいない。
自分の生まれたことを すべて負って命は無限の時間を生き続ける。
無限の時がこの後も続く。
時間はたっぷりあるのだ。
何度でも己を振り返り 腐らず また最初から。
一歩一歩。進み続ける。
何を食べてもいいけれど一回に食べる量は100グラム。
という食事をつづけて16日過ぎました。早い。
全然外見からわからないと思いますが4キロ減りました。
でもテレビはやはり大げさな結果を作ってるなと思います。
このまま続けたとしても、25日目に10キロも減っている
とは思えません。
8キロ減りました、と 10キロ減りました、ではインパク
トが違う。だから視聴者にすごいと思わせる為には10キロ
減という結果が絶対必要だった。
その結果を先に決めておいて、いかにも
「本当にこのやり方をすれば10キロ落ちるのだ」
と思わせるように「作る」。
テレビの娯楽番組ってそういうものだと思います。
でもまあそれはさておき、確かに何の効果もないという訳で
はありません。一日に食べる食品の総量が以前より減ってい
るのですから単純に体重が減るのですね。
いろんな食べ物を100グラム測ってきたので面白いことが
わかりました。
ご飯は100グラムだと幼児用のおにぎりみたいになります。
朝には結構いい感じです。
スナック菓子だとほとんどのものが一袋まるごと行けます。
スナック一気食いなんて、小学生のころ以来やっていません。
ポテチ一袋はカツ丼よりカロリーが高いと知って以来、恐ろし
い食べ方だと思っています。久しぶりに禁を破りチャレンジし
てみたものの、一袋は気持ち悪くなり食べられませんでした。
というよりほとんどのスナック菓子は人工的な味で、しかも濃
過ぎてもともとあまり食べられません。
とうふやトマトのようなものだとほんのちょっとですぐ100
グラムです。美味しいのですが非常に口寂しい思いをします。
チョコ100グラムだとちょっと胸焼けすることになります。
でも満腹感は高いです。
丼物は本当に一口丼みたいになります。かなり寂しいです。
一度に食べる量が少ないのですが、一応一回食べると小腹が満
たされて「あ、満腹中枢に信号来た」とわかります。
そして短い時間ですぐにお腹が減ります。
一日に何度も「お腹減ったなーー」と感じます。
そして何度も「お腹一杯だなー」と感じます。
印象は「減った」という感覚の方がより鮮明です。
そのせいでしょうか、気をつけないとカロリーの高いものを選
びがちな気がします。何を食べてもいいといっても、毎回スナ
ック菓子では栄養が心配だし、毎回唐揚げやケーキではカロリ
ーが爆発しますのである程度は考えて食べます。
一日全体で何となく栄養面とカロリー面の両方を帳尻を合わせ
る感じでしょうか。
今日は、16日目にして初めて、お昼に一人前の定食をいただ
きました。しかたないので、帳尻を合わせる為に夜になっても
何も食べずに寝ます。
これはかなりお腹が減る。
このやり方をしている限り、人と一緒に食事することは難しい
ですね。
家族とでさえ、「いただきまーす」「ごちそうさまー」
私一人、80秒くらいで終わってしまいます。
家族が「ごちそうさま」と言う頃に再度「いただきまーす」と私。
ものすごいマイペースです。
でもまあ、あと10日ほどですので、最後まで続けてみます。
問題はどうやって普通の食事に戻すのだろうかということですね。
こういうことは下手するとリバウンドで元より太ります。
おー怖い、怖い。(あまり怖がっていない)
という食事をつづけて16日過ぎました。早い。
全然外見からわからないと思いますが4キロ減りました。
でもテレビはやはり大げさな結果を作ってるなと思います。
このまま続けたとしても、25日目に10キロも減っている
とは思えません。
8キロ減りました、と 10キロ減りました、ではインパク
トが違う。だから視聴者にすごいと思わせる為には10キロ
減という結果が絶対必要だった。
その結果を先に決めておいて、いかにも
「本当にこのやり方をすれば10キロ落ちるのだ」
と思わせるように「作る」。
テレビの娯楽番組ってそういうものだと思います。
でもまあそれはさておき、確かに何の効果もないという訳で
はありません。一日に食べる食品の総量が以前より減ってい
るのですから単純に体重が減るのですね。
いろんな食べ物を100グラム測ってきたので面白いことが
わかりました。
ご飯は100グラムだと幼児用のおにぎりみたいになります。
朝には結構いい感じです。
スナック菓子だとほとんどのものが一袋まるごと行けます。
スナック一気食いなんて、小学生のころ以来やっていません。
ポテチ一袋はカツ丼よりカロリーが高いと知って以来、恐ろし
い食べ方だと思っています。久しぶりに禁を破りチャレンジし
てみたものの、一袋は気持ち悪くなり食べられませんでした。
というよりほとんどのスナック菓子は人工的な味で、しかも濃
過ぎてもともとあまり食べられません。
とうふやトマトのようなものだとほんのちょっとですぐ100
グラムです。美味しいのですが非常に口寂しい思いをします。
チョコ100グラムだとちょっと胸焼けすることになります。
でも満腹感は高いです。
丼物は本当に一口丼みたいになります。かなり寂しいです。
一度に食べる量が少ないのですが、一応一回食べると小腹が満
たされて「あ、満腹中枢に信号来た」とわかります。
そして短い時間ですぐにお腹が減ります。
一日に何度も「お腹減ったなーー」と感じます。
そして何度も「お腹一杯だなー」と感じます。
印象は「減った」という感覚の方がより鮮明です。
そのせいでしょうか、気をつけないとカロリーの高いものを選
びがちな気がします。何を食べてもいいといっても、毎回スナ
ック菓子では栄養が心配だし、毎回唐揚げやケーキではカロリ
ーが爆発しますのである程度は考えて食べます。
一日全体で何となく栄養面とカロリー面の両方を帳尻を合わせ
る感じでしょうか。
今日は、16日目にして初めて、お昼に一人前の定食をいただ
きました。しかたないので、帳尻を合わせる為に夜になっても
何も食べずに寝ます。
これはかなりお腹が減る。
このやり方をしている限り、人と一緒に食事することは難しい
ですね。
家族とでさえ、「いただきまーす」「ごちそうさまー」
私一人、80秒くらいで終わってしまいます。
家族が「ごちそうさま」と言う頃に再度「いただきまーす」と私。
ものすごいマイペースです。
でもまあ、あと10日ほどですので、最後まで続けてみます。
問題はどうやって普通の食事に戻すのだろうかということですね。
こういうことは下手するとリバウンドで元より太ります。
おー怖い、怖い。(あまり怖がっていない)
えー、この二週間くらい更新しなかったのですが。
離婚の危機?…のような事がありました。
自分が側にいてもこの人の役に全然たっていないではないか とがっくりきて
過去くらったいろいろな嫌だった出来事 悔しかった出来事 悲しかった出来事が何故かどーっと押し寄せてきて
何が何だかわからないけど泣けてきて
そんな私に全然気付かぬアスペルガー空気読めない星人の夫にまたまたダメージ
もう家出しようっと
なんて思ってみたり実行しそうになってみたり まあ言って見れば久々にぼっきり折れてメゲた訳です。
でも娘が一生懸命間を取り持とうと頑張ってました。
そりゃそうだ。
娘にしたら両親が仲よくないと困るだろう。
私にしてみれば もう一緒に暮らすのはやめにして、遠くから彼を援助していけばいいかなと思いはじめていたので娘が取り持とうとしても突っぱね 一人離婚後の生活設計を始めていた訳です。
結構 転換早いな、自分。
ぐずぐず泣いて自分を哀れむ時間などない、という気持ち。
やめならやめですっぱり決めて、次に打つ手を考える。
そんな感じでした。
もちろん、「今までの努力はなんだったんだよ」と限りなく無気力な部分もあるのですが。
娘を育てる為にはその気分に浸りきっている訳にもいかず。
でも 別の側面では
「時間が経てば 我慢できるかもしれない。彼を許せるかもしれない。また努力してみようと思えるかもしれない」という希望的観測もありました。
目に涙を溜めて一生懸命、間を取り持ってくれる娘に動かされ、夫が私と話し合いをしたいと言い出し(これはこれまでにない画期的なこと)私も正直に自分の考えと覚悟と気持ちを話しました。
問題は解決できたわけではないけれど、それぞれにまた努力しながら試しに頑張ってみようということになりました。
(その時 夫は私が泣いていたのは悪かったと反省して泣いているのではと思っていたそうです。アホかどんだけ自分中心に考えられるんだYo! どこまで行っても異星人。。。)
昨日、バリー師の入菩薩行論の講義を受けました。
そうだったなあ。
自分は菩薩行をしているのだった。それなのに、彼を簡単に(じゃないんだけど!)見捨てたりしてはいけない。もっと努力できるはず。自分にもあらためるべきところはある。もっとお互いに成長できるはず。彼は私に忍耐を教えてくれる教師なのだ。
と思い直すことが出来ました。
またもうしばらく夫婦でいることにします。
夫婦でなくなるとしても、私は生きている限り彼を応援していくし、その時の最適の距離から彼に出来ることを最大限やるつもりです。
彼にどんな問題があってどんなに私が繰り返し傷つくことがあっても 彼の中に素晴らしい部分があるという事実は変わらないし それを大切でいとしいものだと感じることは変わらない自信があるのです。
離婚の危機?…のような事がありました。
自分が側にいてもこの人の役に全然たっていないではないか とがっくりきて
過去くらったいろいろな嫌だった出来事 悔しかった出来事 悲しかった出来事が何故かどーっと押し寄せてきて
何が何だかわからないけど泣けてきて
そんな私に全然気付かぬアスペルガー空気読めない星人の夫にまたまたダメージ
もう家出しようっと
なんて思ってみたり実行しそうになってみたり まあ言って見れば久々にぼっきり折れてメゲた訳です。
でも娘が一生懸命間を取り持とうと頑張ってました。
そりゃそうだ。
娘にしたら両親が仲よくないと困るだろう。
私にしてみれば もう一緒に暮らすのはやめにして、遠くから彼を援助していけばいいかなと思いはじめていたので娘が取り持とうとしても突っぱね 一人離婚後の生活設計を始めていた訳です。
結構 転換早いな、自分。
ぐずぐず泣いて自分を哀れむ時間などない、という気持ち。
やめならやめですっぱり決めて、次に打つ手を考える。
そんな感じでした。
もちろん、「今までの努力はなんだったんだよ」と限りなく無気力な部分もあるのですが。
娘を育てる為にはその気分に浸りきっている訳にもいかず。
でも 別の側面では
「時間が経てば 我慢できるかもしれない。彼を許せるかもしれない。また努力してみようと思えるかもしれない」という希望的観測もありました。
目に涙を溜めて一生懸命、間を取り持ってくれる娘に動かされ、夫が私と話し合いをしたいと言い出し(これはこれまでにない画期的なこと)私も正直に自分の考えと覚悟と気持ちを話しました。
問題は解決できたわけではないけれど、それぞれにまた努力しながら試しに頑張ってみようということになりました。
(その時 夫は私が泣いていたのは悪かったと反省して泣いているのではと思っていたそうです。アホかどんだけ自分中心に考えられるんだYo! どこまで行っても異星人。。。)
昨日、バリー師の入菩薩行論の講義を受けました。
そうだったなあ。
自分は菩薩行をしているのだった。それなのに、彼を簡単に(じゃないんだけど!)見捨てたりしてはいけない。もっと努力できるはず。自分にもあらためるべきところはある。もっとお互いに成長できるはず。彼は私に忍耐を教えてくれる教師なのだ。
と思い直すことが出来ました。
またもうしばらく夫婦でいることにします。
夫婦でなくなるとしても、私は生きている限り彼を応援していくし、その時の最適の距離から彼に出来ることを最大限やるつもりです。
彼にどんな問題があってどんなに私が繰り返し傷つくことがあっても 彼の中に素晴らしい部分があるという事実は変わらないし それを大切でいとしいものだと感じることは変わらない自信があるのです。
最近、和の再評価というか、日本的情緒や日本古来のものへの再評価が著しい気がする。
明治維新で西洋に追いつけと、洋服を取り入れ生活様式を変え必死に欧米の真似をしてきた日本人。欧米並になったと高い誇りを抱き、世界大戦に参戦。そして敗戦後、占領され日本という独立国は世界から一時的に消滅。連合国軍(実質的には米軍)占領下にてかろうじて天皇制を維持し、サンフランシスコ条約にて独立国家として復活。
今、日本が世界に独立国家として残っていることはとてもすごい事なのだ。
日本人が、自らのアイデンティティを求め、和を見直すことは欧米化が進み過ぎた為の自然な揺り戻し現象かも知れない。
私は、子供のころから畳の部屋が嫌いだった。
何となく、ダニなどの見えない虫がいる気がしていた。親が共働きだったので、掃除が行き届いた和室の経験が少ないせいかもしれない。
大人になり、一人で部屋を借りたときにも、和室はどうしてもあまり使う気にならず、結構物置化したり開かずの間になったりした。27才でマンションを買った時には、和室を洋室に変更しようとしたら、不動産屋に「そうすると将来転売する時に必ず困りますよ」と強く忠告されて諦めた。
これだけ洋風が定着している日本でも、多くの人が、一部屋は和室が欲しいと望むのだそうだ。
そんな私が、最近、畳の心地よさにすっかり酔っている。
きっかけは川端商店街で、寝ござが安かったので買ってきたことだ。
これをヨガマット代りに使っているのだが、これがもう、肌触り最高。
買ったばかりで清潔だという安心感もあるのかもしれないが、このゴザの上にぺたんと座った時の肌触りは、本当に最高なのだ。そして、一晩かけて水から淹れた緑茶に氷を浮かべて頂く。清々しい緑茶の色、香り、それにぴったりマッチする新しい畳の匂い、少し蒸し暑い夏の風。
窓辺に下げた風鈴が緑茶を音にしたような涼しげな音を奏でる。
至福の時。
ごろんと寝ころんだ時の感じも。
なんだろうか、この体が空気に溶けてしまいそうな心地よさは。
将来、もし小さな家に住んだら、畳だけは新しいものに変えよう。
そしてきれいにそうじを欠かさず、この心地よさを毎日楽しめるようにしよう。
私は、作務衣が好きで2着もっている。畳の上で浴衣や、作務衣を着て過ごすのはいい感じだろうな。
毎日そうして過ごす日々が、明確なイメージに結晶している。多分、近い将来、それを現実にするだろう。
日本に生まれ、日本の良さを何度も何度も見直す。
祖父母の生きた時代を振り返る。その前の時代を学ぶ。
失われたものを蘇らせ、失われつつあるものを僅かでも継承する。
それだけでも、祖先から命を繋いでもらった意味を残せる気がする。
明治維新で西洋に追いつけと、洋服を取り入れ生活様式を変え必死に欧米の真似をしてきた日本人。欧米並になったと高い誇りを抱き、世界大戦に参戦。そして敗戦後、占領され日本という独立国は世界から一時的に消滅。連合国軍(実質的には米軍)占領下にてかろうじて天皇制を維持し、サンフランシスコ条約にて独立国家として復活。
今、日本が世界に独立国家として残っていることはとてもすごい事なのだ。
日本人が、自らのアイデンティティを求め、和を見直すことは欧米化が進み過ぎた為の自然な揺り戻し現象かも知れない。
私は、子供のころから畳の部屋が嫌いだった。
何となく、ダニなどの見えない虫がいる気がしていた。親が共働きだったので、掃除が行き届いた和室の経験が少ないせいかもしれない。
大人になり、一人で部屋を借りたときにも、和室はどうしてもあまり使う気にならず、結構物置化したり開かずの間になったりした。27才でマンションを買った時には、和室を洋室に変更しようとしたら、不動産屋に「そうすると将来転売する時に必ず困りますよ」と強く忠告されて諦めた。
これだけ洋風が定着している日本でも、多くの人が、一部屋は和室が欲しいと望むのだそうだ。
そんな私が、最近、畳の心地よさにすっかり酔っている。
きっかけは川端商店街で、寝ござが安かったので買ってきたことだ。
これをヨガマット代りに使っているのだが、これがもう、肌触り最高。
買ったばかりで清潔だという安心感もあるのかもしれないが、このゴザの上にぺたんと座った時の肌触りは、本当に最高なのだ。そして、一晩かけて水から淹れた緑茶に氷を浮かべて頂く。清々しい緑茶の色、香り、それにぴったりマッチする新しい畳の匂い、少し蒸し暑い夏の風。
窓辺に下げた風鈴が緑茶を音にしたような涼しげな音を奏でる。
至福の時。
ごろんと寝ころんだ時の感じも。
なんだろうか、この体が空気に溶けてしまいそうな心地よさは。
将来、もし小さな家に住んだら、畳だけは新しいものに変えよう。
そしてきれいにそうじを欠かさず、この心地よさを毎日楽しめるようにしよう。
私は、作務衣が好きで2着もっている。畳の上で浴衣や、作務衣を着て過ごすのはいい感じだろうな。
毎日そうして過ごす日々が、明確なイメージに結晶している。多分、近い将来、それを現実にするだろう。
日本に生まれ、日本の良さを何度も何度も見直す。
祖父母の生きた時代を振り返る。その前の時代を学ぶ。
失われたものを蘇らせ、失われつつあるものを僅かでも継承する。
それだけでも、祖先から命を繋いでもらった意味を残せる気がする。
この仕事を選んで 私は「責めることをやめる」という訓練を10年続けてきた。人を責めることをやめ、自分を責めるのをやめる努力をひたすら続けてきた。
それは自分を責め過ぎていた自分を思い知る10年だったし、小さなことやわずかな理由で人を責める自分を思い知る10年でもあった。そんな風に「責める」ことを排除しつづけている私に厳しい批判をした人がこの3年に二人いた。
「あなたのしていることは相手をつけ上がらせ、甘やかせ、悪を助長することだ。悪を悪といわないものもまた、悪なのだ。あなたは悪に加担しているのだ」
この言葉をA氏とB氏両方から言われた。この三年間、ずーっと言われている。ネット上のことなので、別に何の被害もないのだが。
そしてA氏はB氏のことを、B氏はA氏のことを「お前は悪だ。わがままをいい加減あらためろ」と言い合っているのだ。私はA氏にもB氏にも、同じだけ言い分があると思うし、どちらが正しいとか間違っているではなく、敢えて言えばどちらも正しいと言ってきた。その為に、その両方から責められることになっているのだ。
彼らがそれぞれに、私に膨大なメールを送ってくる。
そして、いかに相手のしていることが間違っているか、主張におかしい点があるかを言い続けている。
二人にはそれぞれ、「私を説得してもどちらかの味方になることはありませんよ」と答えているけれど、この二人の争いは終わらないだろう。そして私は巻き込まれ続けるのかもしれない。
どんな行為にも、言葉にも、それを発した理由がある。汚い言葉を使ったならその結果はその人が背負っている。間違った行いをしたなら必ずその結果をその人は背負う。だから私にはその人をそれ以上に責める理由がないのだ。
私はそう言っているだけなのだけれど。
けれど、二人と粘り強く対話していて、一つ気付いたことがある。
相手のした、いけない行為を「よしよし、そんな馬鹿なことをする理由があるのだね」と容認していたら、叱られなかったその人が増長するということは確かに間違いない。
それはその人の為にならない。確かに。
そしてその人の周りにいる人の為にもならない。確かに。
子供がバスの中で騒いでいたら叱ってやらないのはかえってその子が可哀相だ。
きつく叱るのではなく、「いけないよ」と優しく教えればいい。
子供にならそうしていたけれど、大人にそれをするのはどうかと思ってA氏にもB氏にも、しないできた。けれどその結果、私は二人の両方から罵られる羽目になっている。
実はA氏もB氏も、私の目からみればいけない行為、あきらかに言い過ぎた発言があった。その時どちらの味方でもなく、「Aさん、それはいけませんね」「Bさん、言い過ぎていますよ」と言えばよかったのかも知れない。
例えば政治でも、タレントのニュースでも、私はこの10年、一生懸命批判せずにいようとしてきた。けれども、やり方はそれだけでもないのだなとあらためて思った。
A氏、B氏は私にそれを教えてくれたのだ。
谷亮子は政治家とアスリートの両立は無理だ。
障害者用の駐車場を健常者が使ってはいけない。
子供の前で口汚い言葉を使ってはいけない。
人のことを良く知りもしないのに決めつけてはいけない。
批判力は 公平かつシンプルなら私たちを善く導く。
批判することを恐れ過ぎていたのかも知れない。
それは自分を責め過ぎていた自分を思い知る10年だったし、小さなことやわずかな理由で人を責める自分を思い知る10年でもあった。そんな風に「責める」ことを排除しつづけている私に厳しい批判をした人がこの3年に二人いた。
「あなたのしていることは相手をつけ上がらせ、甘やかせ、悪を助長することだ。悪を悪といわないものもまた、悪なのだ。あなたは悪に加担しているのだ」
この言葉をA氏とB氏両方から言われた。この三年間、ずーっと言われている。ネット上のことなので、別に何の被害もないのだが。
そしてA氏はB氏のことを、B氏はA氏のことを「お前は悪だ。わがままをいい加減あらためろ」と言い合っているのだ。私はA氏にもB氏にも、同じだけ言い分があると思うし、どちらが正しいとか間違っているではなく、敢えて言えばどちらも正しいと言ってきた。その為に、その両方から責められることになっているのだ。
彼らがそれぞれに、私に膨大なメールを送ってくる。
そして、いかに相手のしていることが間違っているか、主張におかしい点があるかを言い続けている。
二人にはそれぞれ、「私を説得してもどちらかの味方になることはありませんよ」と答えているけれど、この二人の争いは終わらないだろう。そして私は巻き込まれ続けるのかもしれない。
どんな行為にも、言葉にも、それを発した理由がある。汚い言葉を使ったならその結果はその人が背負っている。間違った行いをしたなら必ずその結果をその人は背負う。だから私にはその人をそれ以上に責める理由がないのだ。
私はそう言っているだけなのだけれど。
けれど、二人と粘り強く対話していて、一つ気付いたことがある。
相手のした、いけない行為を「よしよし、そんな馬鹿なことをする理由があるのだね」と容認していたら、叱られなかったその人が増長するということは確かに間違いない。
それはその人の為にならない。確かに。
そしてその人の周りにいる人の為にもならない。確かに。
子供がバスの中で騒いでいたら叱ってやらないのはかえってその子が可哀相だ。
きつく叱るのではなく、「いけないよ」と優しく教えればいい。
子供にならそうしていたけれど、大人にそれをするのはどうかと思ってA氏にもB氏にも、しないできた。けれどその結果、私は二人の両方から罵られる羽目になっている。
実はA氏もB氏も、私の目からみればいけない行為、あきらかに言い過ぎた発言があった。その時どちらの味方でもなく、「Aさん、それはいけませんね」「Bさん、言い過ぎていますよ」と言えばよかったのかも知れない。
例えば政治でも、タレントのニュースでも、私はこの10年、一生懸命批判せずにいようとしてきた。けれども、やり方はそれだけでもないのだなとあらためて思った。
A氏、B氏は私にそれを教えてくれたのだ。
谷亮子は政治家とアスリートの両立は無理だ。
障害者用の駐車場を健常者が使ってはいけない。
子供の前で口汚い言葉を使ってはいけない。
人のことを良く知りもしないのに決めつけてはいけない。
批判力は 公平かつシンプルなら私たちを善く導く。
批判することを恐れ過ぎていたのかも知れない。
体のメンテナンスは、とても大切なことだ。
ダライラマ法王猊下も、「より多くの仕事が出来るよう、より多くの人たちを助けられるように、自分自身の肉体を健康に保つよう努めるのは大事なことだ」とおっしゃっている。非常に説得力のあるお言葉だ。
私は小学校3年生の頃から急激に太りはじめ、以来、どんなダイエットも虚しくいわゆる標準体形になったことは一度もない。若い頃とは違って、ちょうど妊娠した頃くらいから、美容目的のダイエットにはまったく興味がないが、健康の為の自己管理はずっと休まず続けている。肥満が健康によくないことは自明だからだ。
気功の先生に「若い頃からどうやっても体重が標準にはならないんですが、どうすればいいでしょうか」と数年前に聞いたら「あなたは人を支えたり、相手にエネルギーを分ける仕事をしているのだから、それをやる為の体なのです」と言われ妙に納得してしまった。太りはじめた理由はとても不健康な、可哀相な理由だったけれど、大人になってカウンセラーになった頃にはすっかり痩せようという意欲はゼロだった。太っている自分をありのまま認めることができないとすれば、クライエントさんのありのままを認めることは不可能だ。
私の体重は10年前出産後のころからほとんど変わっていない。
この10年、一年の間に3キロくらいの幅で増減を繰り返し、平均すると結局変わりない。風邪を引けばあっという間に3、4キロ減るし、そういう時は服が緩くて困る。そのまま減った体重が定着するかと思えば、風邪が直ったらいつの間にか元通りになってしまう。生理の前後でも体重がカクン、カクン、と山谷のグラフを描き、3キロくらいの幅を激しく増減している。そういう体なのだ。
小学2年生以前を除けば、一番体重が少なかったのは夫と出会った頃で、当時は拒食の摂食障害があった。それでもギリギリ標準体重には入らないポチャ体形。あれが一番いわゆる「痩せていた頃」。摂食障害で痩せていたって少しも幸せではないよね。
結局、ご飯が美味しく感じられ、その日の適量を楽しく食べることが一番なのだと思っている。それと、食べたいものは、体が教えてくれることを信じるのが一番いいような気がする。年々、外食の食べ物が食べられなくなっている。特にファミレスの食事とマクドナルドは体に合わない。
そんな私が、また今さら、食生活を変えてみようと思ったのは、面白いダイエット方法を知ったからだ。一日に何食でも食べて良い。何を食べても良い。ただ、一度に100グラムだけ。次の食事まで一時間以上空ける。それだけがルールだ。もちろん、秤できっちり計量するのだ。面白いと思ったら何でも実験してみたい。やってみないと何もわからない。
今、始めて4日目。一日9食くらい食べている。でも食事の総量はきっちり毎回100グラムだ。
トマトだけの一食もあれば、プチ豚カツ丼の一食もある。自宅にいるから簡単に実行できるやり方かもしれないけれど、結構面白い。スナック菓子だっておまんじゅうだってケーキだって、一回100グラムだったら何度でも食べていいのだ。何食食べてもいいのに、いつの間にか食べる回数が減るらしい。
食事をローカロリーに置き換えるとか、夜には絶対食べないとか、そういうものは全部「一日三食!」という既成概念の上に成り立っている。一日三食、一日何キロカロリー、一日30品目、全部ただの目安だ。健康神話を捨てて、自分の体の言うことを信じよう。
起きているのが16時間なら、食事回数を最大16回持てるというのは、面白過ぎる。
朝、だいたいいつも5時か5時半に起きる。朝は必ず、瞑想か、ヨガをする。6時半に娘を起こし、7時半に夫を起こす。その頃、「ママは3回目の朝ご飯」などと言っている。ほとんどホビット族だ。
このダイエット法は、もともと食べ過ぎで太っている人には非常に有効らしい。テレビでは25日実践した人二人が10キロくらい減ってしまった。もともと、私は食べ過ぎで太っているのではない。けれど40代になり、運動量が減って、基礎代謝能力が落ちているので、もっと食事を減らしても問題ないだろうとは思っていた。一回100グラム、2、3口で食べてしまうような量だが、時間さえ空ければ何度でも食べていいという自由からストレスが全然溜まらない。それより「次の一食は何にしようかなあ」などと余計に食いしん坊になれる楽しみがある。
まずは2日目くらいで胃が小さくなった感覚がある。
その頃から、自分の体が、エネルギーが枯渇しているか、エネルギーが巡っているかがはっきり分かるようになってくる。つまり、ほんの2、3口食べた食物が、エネルギーに変わって空腹感がとまることがはっきり自覚できる。そして空腹になったことがはっきり分かる。自分の体とコンタクトする精度が上がるという意味で、これは非常に健康的だ。
一時間おきに必ず食べてやろうともくろんでいても、意外と2,3時間食べなくても大丈夫だなと感じる時間帯もある。よく考えてみると、さっき食べたものがトマトなのか豚カツなのかで腹持ちが違うのだと分かるのだ。
食をこま切れにして、体と対話する機会を増やす。
面白い訓練にもなりそうで、ワクワク、毎日そうして過ごしている。
とりあえず、25日は続けてみるつもりだ。
ダライラマ法王猊下も、「より多くの仕事が出来るよう、より多くの人たちを助けられるように、自分自身の肉体を健康に保つよう努めるのは大事なことだ」とおっしゃっている。非常に説得力のあるお言葉だ。
私は小学校3年生の頃から急激に太りはじめ、以来、どんなダイエットも虚しくいわゆる標準体形になったことは一度もない。若い頃とは違って、ちょうど妊娠した頃くらいから、美容目的のダイエットにはまったく興味がないが、健康の為の自己管理はずっと休まず続けている。肥満が健康によくないことは自明だからだ。
気功の先生に「若い頃からどうやっても体重が標準にはならないんですが、どうすればいいでしょうか」と数年前に聞いたら「あなたは人を支えたり、相手にエネルギーを分ける仕事をしているのだから、それをやる為の体なのです」と言われ妙に納得してしまった。太りはじめた理由はとても不健康な、可哀相な理由だったけれど、大人になってカウンセラーになった頃にはすっかり痩せようという意欲はゼロだった。太っている自分をありのまま認めることができないとすれば、クライエントさんのありのままを認めることは不可能だ。
私の体重は10年前出産後のころからほとんど変わっていない。
この10年、一年の間に3キロくらいの幅で増減を繰り返し、平均すると結局変わりない。風邪を引けばあっという間に3、4キロ減るし、そういう時は服が緩くて困る。そのまま減った体重が定着するかと思えば、風邪が直ったらいつの間にか元通りになってしまう。生理の前後でも体重がカクン、カクン、と山谷のグラフを描き、3キロくらいの幅を激しく増減している。そういう体なのだ。
小学2年生以前を除けば、一番体重が少なかったのは夫と出会った頃で、当時は拒食の摂食障害があった。それでもギリギリ標準体重には入らないポチャ体形。あれが一番いわゆる「痩せていた頃」。摂食障害で痩せていたって少しも幸せではないよね。
結局、ご飯が美味しく感じられ、その日の適量を楽しく食べることが一番なのだと思っている。それと、食べたいものは、体が教えてくれることを信じるのが一番いいような気がする。年々、外食の食べ物が食べられなくなっている。特にファミレスの食事とマクドナルドは体に合わない。
そんな私が、また今さら、食生活を変えてみようと思ったのは、面白いダイエット方法を知ったからだ。一日に何食でも食べて良い。何を食べても良い。ただ、一度に100グラムだけ。次の食事まで一時間以上空ける。それだけがルールだ。もちろん、秤できっちり計量するのだ。面白いと思ったら何でも実験してみたい。やってみないと何もわからない。
今、始めて4日目。一日9食くらい食べている。でも食事の総量はきっちり毎回100グラムだ。
トマトだけの一食もあれば、プチ豚カツ丼の一食もある。自宅にいるから簡単に実行できるやり方かもしれないけれど、結構面白い。スナック菓子だっておまんじゅうだってケーキだって、一回100グラムだったら何度でも食べていいのだ。何食食べてもいいのに、いつの間にか食べる回数が減るらしい。
食事をローカロリーに置き換えるとか、夜には絶対食べないとか、そういうものは全部「一日三食!」という既成概念の上に成り立っている。一日三食、一日何キロカロリー、一日30品目、全部ただの目安だ。健康神話を捨てて、自分の体の言うことを信じよう。
起きているのが16時間なら、食事回数を最大16回持てるというのは、面白過ぎる。
朝、だいたいいつも5時か5時半に起きる。朝は必ず、瞑想か、ヨガをする。6時半に娘を起こし、7時半に夫を起こす。その頃、「ママは3回目の朝ご飯」などと言っている。ほとんどホビット族だ。
このダイエット法は、もともと食べ過ぎで太っている人には非常に有効らしい。テレビでは25日実践した人二人が10キロくらい減ってしまった。もともと、私は食べ過ぎで太っているのではない。けれど40代になり、運動量が減って、基礎代謝能力が落ちているので、もっと食事を減らしても問題ないだろうとは思っていた。一回100グラム、2、3口で食べてしまうような量だが、時間さえ空ければ何度でも食べていいという自由からストレスが全然溜まらない。それより「次の一食は何にしようかなあ」などと余計に食いしん坊になれる楽しみがある。
まずは2日目くらいで胃が小さくなった感覚がある。
その頃から、自分の体が、エネルギーが枯渇しているか、エネルギーが巡っているかがはっきり分かるようになってくる。つまり、ほんの2、3口食べた食物が、エネルギーに変わって空腹感がとまることがはっきり自覚できる。そして空腹になったことがはっきり分かる。自分の体とコンタクトする精度が上がるという意味で、これは非常に健康的だ。
一時間おきに必ず食べてやろうともくろんでいても、意外と2,3時間食べなくても大丈夫だなと感じる時間帯もある。よく考えてみると、さっき食べたものがトマトなのか豚カツなのかで腹持ちが違うのだと分かるのだ。
食をこま切れにして、体と対話する機会を増やす。
面白い訓練にもなりそうで、ワクワク、毎日そうして過ごしている。
とりあえず、25日は続けてみるつもりだ。