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2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
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私のところには

数年ぶりにふいに予約を入れる

という相談者がよくいる。
今日も、そんな人と2年ぶりの再会。

予約者の名前を当日の朝告げられるので、名前を元に
過去のカウンセリング記録を見ると、最後に会った日
がわかる。
過去の記録をみれば、最後に会った時、どんな話をし
たのか、その人の最後の状態なども分かるようになっ
ている。

そして、大抵、ああ、この人が最後に来てから、もう
そんなに時間が経ったのかと、感慨深い。
記憶は新しく残っているので、2年もの時間を感じら
れないのだ。けれど現実、その人は2年間、私の助け
を必要とせず、逞しく生きていてくれたという訳だ。
それがとても嬉しい。
そして、今、また何か助けを必要としているのだ。
全力で手助けしたい、と思う。

人生には、いろんな波がやってくる。
大波が来た時に、波の上に顔を出し続けられるだけの
自力があればいいけれど、まだ泳ぎが上手でないなら、
波にのまれてしまうかも知れない。大波が来たと分か
った時、すぐに手近にあるサーフボードにつかまれば
いいんだ、と学んでくれたから、予約をして、再来し
てくれたのだと、私はこの時にわかる。

少なくとも、私が過去、その人と一緒に過ごした時に、
サーフボードにつかまればいいんだと、その人に学ん
でもらえていたという事実を、数年後にようやく証明
出来たという事なのだ。

そういう意味で、私は数年後の再会をとても嬉しく思う。

ああ、お久しぶり!
よく生きててくれましたね!

そういって再会を喜ぶ。
それだけで、泣き出す人もいる。

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もうすぐ、バリー博士の日本での講演録をまとめた本が出版されます。

この本には、講演内容を書き起こすスタッフとして参加しました。
まだでき上がった本は手にしてないですが、一応名前を載せてもらっ
たようです。ワクワク。
小冊子版と、文庫版がでる予定です。内容は別の日の講演なので、
それぞれ別の内容になります。

もし欲しい方がいらっしゃったら声かけて下さいね。

現在、小冊子版は発売直前、文庫判は作業中です。

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理論1を共に学んだ皆さんと、お昼ご飯。

心理学って楽しい!面白い!
先生の話は本当に解りやすかった!

と喜びの声をたくさん頂いた。
私は気恥ずかしいのを我慢して、そのせっかくの
賛辞を捨ててしまわずに、ちゃんと受け取る修業
にいそしんだ。


私はどんなに貧乏でも構わない。
家族の事はおいておいて、私自身は一生お金に恵
まれないとしても構わない。

生きて行ける限り、このような人たちの為に講座
を提供したい。一緒に学び、生活をより豊かに変
えて行く力を私が差し上げられるすべて、持って
帰って欲しい。
私が持っている力のすべてを、どうぞ持ち帰って
欲しい。上げられるだけの真心と、優しさを慎ん
で差し上げる。あなたを応援する。

人生は変えられる。
幸せはちゃんと手に入る。

その事を確信して欲しい。

確信出来たことは実現するのだから。

ご飯の味は全然わからなかったけれど
皆さんが安心し、学んだ事を吸収出来るように
最大限 場を調整し続けた。

皆さんの為に祈ります。
本当に、より多くの幸せを。
健康で、より輝く光に照らされた毎日でありま
すように…!

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坂本と2時間 激論をかわす。

私という人間の特殊性について延々と述べられ、どうすれば社会に私を理解してもらえるのかを模索したいと言われた。
私は、誰からも理解されなくて仕方ないと思っている。
多くの(ほとんどの)人が私を変人だと思い、私に呆れ、または私の行ないに傷つき、裏切られたと言う事があるとしても、それをすべて避ける事はできないと諦めている。

残念な事だけれども、願っても叶わないものを願うよりこれが私の生きる道と受け止めて自分の道を究める方が私には合っている。何故なら私の人生は残り少ないのかも知れないから。
人に理解してもらう事に力を注いでいたら、生きたいように生きられない内に今生が終わってしまう。私は体が丈夫な方ではない。いつ死んでも不思議ではないと毎日思いながら生きている。長生きするかも知れないが、明日事故で死ぬかも知れない。親とのしがらみで、30才過ぎまでまったく自分の人生を生きていなかった。もう無駄には出来ない。私は悔いなく全うする人生と、全うする人間らしい死を迎えたい。だからもうこれ以上、人の期待の為には生きられない。これは誰が何を言おうが、変わらない。

私は人に優しくありたい。親切でありたい。
人と関わる時には、その人の幸せを願って生きたい。
その人を絶対に支配したくない。
その人をすがらせたくない。
いつでもその人が自由である事を願う。
そのような、私の願う「人との関わり方」を、変えろといわれても絶対に変えることが出来ない。

自分が何者かわかってしまったら、その在りようを変える事は絶対に出来ない。
それは自分の命を裏切る事だからだ。
自分が鳥ではなく、カエルだと分かったら、そのカエルは空を飛ぼうと思うだろうか。
自分がカエルだと知らなかった時になら、もしかしたら飛べるのかも、と思って努力もするだろう。けれど自分がカエルだと知ったら、飛ぼうとするより水の中でどう生きるのかに一生懸命になるのが当たり前ではないだろうか。

私に生き方を変えろと言う言葉は、
「いや、カエルでも、努力すれば鳥になれる」
と言っているのと同じに聞こえる。

無茶を言わないでくれ、と思う。
私は、自分がカエルだと明確に分かってしまった。
驕っていると言われてもいいし、我がままと言われてもいい。
人の評価はもう私には関係ない。どんなに非難されてもいい。
私は、カエルなのだから、カエルとしての一生を、精一杯全うする。

2時間過ぎて、二人とも激論に疲れてきた頃、坂本はぽつりと言った。
「たくさんあなたを試すための質問をした。あなたの答えには矛盾がない。あなたが真実、そういう存在である事を認めざるを得ない」

極端に変わっている(のだろう)私の個性。
それを受け入れるのは、パートナーとしてどれほど大変だろうか。
しかし受け入れてくれたのなら嬉しい。ありがたい。

しばらくして坂本はまたぽつりといった。
「だけど…僕はどうすればいいのだろう。貴方と僕は違い過ぎる。どうすれば貴方を楽にしてあげられるのだろう。理解されず苦しんでいる貴方を楽にしてあげたい。だけどどうすれば社会にあなたの本当のことを理解させられるだろう…。考えなければ。それが僕の役目だと、僕は勝手に思っている」

困らせてごめん、と思う。
変われたら良かった。でももう変われない。

「何もしてくれなくていいよ。分かってもらえない事は、もう知っているし、それはもう私にとっては問題じゃないから。世間は私を好きに言っていいんだよ。本当にそれで、まったく構わない。傷つく事や悲しむ事は私の人生の一部として受け入れた。もう、苦労をしょい込まないでいいんだよ」
と彼に言った。


時々、坂本は、激しく、厳しく、私を問い詰める。
それはいつも、私を試し、私に嘘がないかを確かめるためだ。
私を傷つけ、泣かせてでも、彼は私に真実を迫る。
私はその行為が、私を救いたいという一心であると知っている。
だから彼がどんなに私を傷つけるとしても全てを許す。


本当はね。
本当は、人はみんな、だれ一人として、同じではないんだよ。
みんな、同じだという幻想が必要なだけ。
違う事を受け入れるのがあまりにも難しいので
それを避けているだけなんだ。

自分が人と違う事が怖いので 問い詰められれば安易に相手に合わせて自分を放棄してしまうんだよ。人の期待に応える方が、自分で自分の生き方を決めるよりも楽だから。

本当に生きている人は少ない。
私の仲間は少ない。

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思い出した。
力の抜き方。

思い出した。
嫌な事の忘れ方。

思い出した。
おじいちゃんの匂い。

思い出した。
おたまじゃくしすくいに夢中だった春の日。

思い出した。
笑ってもいいんだってこと。

思い出した。
お日さまがあたたかいってこと。

思い出した。
夢を見ずに眠ること。

思い出した。
空を飛んでいたころ。

思い出した。
水に潜る感じ。

誰にも謝らなくて いいんだよ。
大口あいて 笑っていて いいんだよ。

ああ よかった。

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昔から人の関心は恋と金と人気と健康の4つに代表される。
年齢が高くなるほど、「健康」には関心が高まる。
テレビを見ていると、本当に健康食品のCMが多い事に気付く。
8時間以上寝て、3食きちんと規則正しく食べ、栄養の偏りがないようにし、適度な運動をし、ストレスを溜めないようにして暮らせば健康が保てる、と繰り返し教えられている。

私はこれを健康教と呼ぶ。「教」と付くものは、すべて思考プログラムだ。自分で考える事の代りに、一定のフォーマットが与えられる。それが「教」と呼ばれるものの特徴。どうしたらいいのか分からない事に明確な答えを提示する、それが「教」と呼ばれるもの。

健康教の教えを受け入れた人(現代ではほとんどの人がそうかもしれない)は、頭の中に教えのプログラムをインプットし、自分で吟味したり考えるのをやめる。それは今の自分の状態をリサーチする能力を低下させ、自分の体が出すメッセージを受け取ることが出来なくなる、と私は考えている。

3食を規則正しくとることよりも、より大事なのは、今の自分の空腹加減を知る事だ。
バランスの良い食事内容を頭で考える事よりも、より大事なのは、今の体が何の栄養素を必要としているか欲しがっているかを正確に感じとる事だ。

自分の肉体の状態を正確に把握し、肉体のメッセージをしっかり受け取れて、それからが思考の出番になる。その順番を変えると、自分で自分の事がわからないままに間違ったメンテナンスをする事になる。

健康に良いと言われている酢や酵素も、精密に見れば全ての人に同じ効果を発揮している訳ではない。体内環境は一人ひとりのオーダーメイドになっていて、自分の体の特性は自分で把握するほかないのだ。自分の体の限界、得意なこと、苦手なこと、変化していること、すべて自分で実験して見れば正確に分かる。

センサリーアウェアネスの創始者エルザギンドラーはその方法を教えていたのだ。

お腹が減った時に、それをしっかりと感じ取ること。刻々と、体の要求は変化する。
そして何を食べるべきか、飲むべきか、体はメッセージしている。
動かせと命じている時もあるし、じっとして眠れと命じている時もある。実際にはもっと微妙で、緻密なメッセージを発している。

それらのメッセージを把握する能力を高めることを 行 と呼ぶ。
ヨガや瞑想も 行 の一種。

健康に関しては
教 のプログラムをインプットする前に
行 でスキルを磨く方がおそらく目的に近づく近道だ。

幸福に関しては
教 を受け入れ
教のプログラムが提示する 行を行なうのが近道だ。

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最近のテレビ番組は本当に観る価値のないものばかり。
我が家では報道番組を除いて、テレビ番組はほとんど見ない。

代りに、娘と一緒に見るために毎週ビデオやDVDを借りてくる。
今、小公女セーラを見始めた処。毎日2、3話づつ家族全員で観る。

今この年齢になって名作劇場を見直す事になるとは思っていなかったけど、娘にくだらないお笑いタレントが出ている番組を垂れ流しにみせるよりは遥かにマシだ。

しかしこのお話は本当に可哀相な話だな。
重いもの一つ持った事もなく、お腹が空くという感覚を知らない裕福な家に生まれた少女。誰もが羨むような幸せな少女が、父親の死によって孤児になり、一気に一日ですべての持ち物(人形一つをのぞく)を失って、屋根裏暮らしのメイドに身を落とすという話。
裕福な人が貧乏になるという事が可哀相なのではなく、周りの人々が彼女の裕福さを愛していただけだったという事が、あからさまになるこの残酷さ。ここが非常に可哀相である。愛されて生きてきた少女は、一日で他人の愛がにせものだったのだという事にも直面させられるのである。

このお話には意地の悪い人が何人も登場する。意地が悪いだけではなく人間性が稚拙で、観るに耐えないキャラクターが、そのダメっぷりを披露するエピソードが満載だ。

私は人に意地悪をするという心境には、心底は共感しきれない。
何故なら人に意地悪をするという行為が恥ずかしくてとても出来ないからだ。
このお話にラビニアというアメリカ人の子が登場する。これがまた、意地の悪さではかなり筋金入りのキャラクターなのだが、こんな意地悪な真似をすると、自分の心の狭さ汚さが人に丸見えになってしまうではないか、と思う。私には、それがまず耐えられそうにない。

私にも嫉妬心や相手の失敗を願ったりする気持ちがまったく沸かない訳ではない。すぐにその気持ちが消えてしまうとしても、そんな恥ずかしいものが人様に丸見えになってしまう行動を取るだなんて、まさに生き恥である。人に嫌みをするというのは、私にとっては「生き恥」、そういう行為だ。そんな生き恥を晒すくらいなら、どんなに苦しくても絶対に嫉妬心や復讐心を滅そうと努力するし、絶対にそんな人として恥ずかしい真似をしないで済むように全力で自分を抑制するだろう。
それを意地、と呼ぶ場合もあるかもしれない。けれど、歯を食いしばってでも、絶対に崩したくないのは人としての在りようだ。

世間がせち辛いとか、荒んでいるという時、その世間を構成する人々の心には「恥」の意識が薄れているのではないかと私は思う。
ラビニアは、直視するのが気の毒なほど自分の狭量をさらしまくり、その生き恥っぷりは私が彼女なら何度自分を恥じて死にたくなるかと思うほどだ。私なら自分をとても許せそうにないほどの、あからさまな嫌み、意地悪、嫉妬。

そういえば、私に意地悪をしかけてくる人が、私の人生の中で時々登場する。私の何かがその人には気に入らず、私を傷つけ、変えようとしたり汚そうとしたりする。しかしその人が何をしようとも私は変わらないので、ついには私はその人から憎まれる事になる。私にはどうしようもない事なのだ。そういう事が起きると私はもちろん大変悲しんでいるが、それでも私にはどうしようもない。
そういう人と出会う度、その人の生き恥っぷりが気の毒でたまらなくなる。そんな真似をして、貴方が気の毒だ、と本当に心から思うのだ。冷静になったらどんなに自分の振る舞いを恥ずかしく思うだろう。私があなたの何かを刺激してしまうために、あなたがそこまでもみっともない真似をしてしまうのなら、私の方が、むしろあなたの前から消えてあげないと気の毒でたまらないとさえ思う。相手は私の事を憎んでいるのだから、私から気の毒だなんて言われたら激怒するに決まっている。だから私はその人からはそっと離れるしかなく、それが私に出来るその人への思いやりを込めた態度だ。
ああ、思い出すと本当にその人の振る舞いが気の毒だ。生き恥さらして、どんなにか苦しい人生だろうに。

恥ずかしい人間がたくさん登場する小公女。これは小公女セーラの気高さとの対比の為に、敢えて配置されている人物像なのだが、それにしても強いメッセージだ。人はこのようであってはならない、というメッセージ。セーラのようである事は難しいとしても、せめてこのラビニアや学院長ミンチンのようであってはならない、という教訓。

私にとっての「生き恥」。
それは自分の中の欲や嫉妬や意地悪のようなものに、自分を明け渡してしまうことだ。私は自分の行ないとして、それを絶対に許してはならない。その存在をうかつに見過ごしてはならない。それは自分の心の内側を焼く、暗い毒の炎。
それを放置すると心は荒廃し、人間らしさはくもって行く。人を騙し、自分のわずかな利益で心が揺れ動く小さな器、欠けた器になってしまう。それが人間という存在の危うさだ。
自分の中の欲、嫉妬、意地悪を見過ごさず、安易に許さず、それと対峙し続けること。私は自分自身にそれを課すと誓っている。そして、他者を意地悪に扱うことで自分が豊かになる事は永久にあり得ないと繰り返し、智慧のすべてを尽くして知ること。自分の心の内側にある光を決して曇らせてはいけない。

自分自身の命に対して、恥ずかしい真似を、決してしてはいけない。
自分の瞳はいつでも自分自身を見ているのだから。

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仲の良い友人から仕事を頼まれると 少し困ること。

相手の喜ぶ顔も見たいし、仕事もしたい。
相手を喜ばせたい、助けてあげたいと思う私は 無償の気持ち。
仕事をさせてもらいたいと思う私は 自分の力で生きる糧を得たい気持ち。

喜んで、でもプロとして引き受けますと答えるのだけど、内心、日頃よりも少々複雑。相手と自分の距離が近いからだ。

そんな関係で仕事を依頼されていた友人が、「これとこれもやってくれる?」とメールしてきた。それはもちろん、できる事なんだけれど、それをやるとなったら、フルに取りかかって3日はかかる。彼女が忙しくて、自分でやる余裕がないから私に頼んでいる事もわかっている。友人としては、快く引き受けてあげたい。そうすれば彼女は「助かったー」と喜んでくれる。けれど、3日もかかると解っている作業を、奉仕できるほど時間も経済的にも余裕がない。自分の力で生きる糧を得たい私が「3日の無償労働は困る。その3日は、他の仕事さえできなくなるのだから実質的には損失」と言う。

そこで困りながら、調整。
「その作業はもちろんできるけれど、かなり時間もかかるので、追加の料金を考えてもらえるかしら。そうしたら責任を持って、ベストの成果を提出します。もし予算の都合でその余裕はないなら、そちらでその部分はやってもらって、続きの作業は約束通りやります。与えられた仕事を一生懸命やりますので、そちらの判断をお願いします」という主旨のメールをした。
するとすぐに、「予算ないので、こちらでやります」という短いメールが帰ってきた。

もともとメールは嫌いだけれど、短い、用件だけの文面のメールは特に苦手だ。相手の表情が本当にわからない。
彼女の期待に応えられなかった、という悲しい気持ち、後悔のような苦々しい気持ちが胸を刺す。ここは私の弱点だ。人の依頼を断る時にはいつもこれを感じる。

もう一人の自分が「大丈夫、間違っていない」と言う。3日の無償労働をするような状況ではないはず、と。

わかってる、わかってる。
だけどそれでももう一人の私は悲しい。
頑張ってやってあげればよかったんじゃないか?彼女は今とても忙しい。少し私が無理をすれば、助けてあげられたんじゃないのか?彼女は、私なら引き受けてくれると信頼して頼んできたのかも知れないのに。予算もなく困っているからただでやってくれと言えなかっただけなのかも知れないのに。そう言われたら、断れたか?いや多分、断れなかったはずだ。何故、もう少し彼女の事を考えてあげられなかったの?

期待に応えられず悲しむ私は、やがて自分の行動を責めはじめてしまう。

でもこんな時、呼吸を思い出す。
ひと呼吸づつ、自分の内側や思考に閉じこもるのをやめて、外側に気付きをむける。
気温、空気の流れ、道路を走る車の音。今自分がどこにいるのかをしっかり確認して、思考の世界と今いる場所の両方に足を一本づつのせている事を確認する。

そして、自分さえ犠牲になれば、自分が奉仕さえすれば、物事をうまく行かせられるという自分のエゴ(自我)に気付き、それを優しく抱きしめる。

自分の等身大をよく見てご覧。
お前は万能ではないのだよ。
今のお前には一日は24時間しかなく、
今のお前の手は二本、足も二本しかない。
自分に出来る事をよく見てご覧。
何もかもをうまくやることなど出来はしない。
お前に出来るのは、お前が一生懸命にやれる分、一人分だけなのだ。
不都合を見つけてはそこに駆け出すのをお待ち。
お前は人の世話をする事ばかりを教わってきて、
自分の世話をする事をあまり学んでいないのだ。
少し待って、自分を幸せにする事からはじめるのだよ。
そうすればお前は、きっと今よりももっと周りの人を助けられる。
さあ、自分の等身大をよく見てご覧。



そんな言葉が、言葉にならないメッセージが聞こえてくる。
今こうして言葉に翻訳しているのは私の頭脳がやっているのだけれど、この言葉のもとのメッセージは言葉ではない形で私の魂に届いている。

静かに呼吸し、思考と内側と外側のすべてにアクセスしているとこういうメッセージが届き、私を救ってくれる。そのメッセージには一切の批判がなく ただただ大きな抱擁がある。ちっぽけな私を本当にわかってくれていると感じる。そしてちっぽけな私を抱き、間違いのない光の方へ導くために私にこれを伝えてくれる。

友人にメールした。
「了解。そちらの指示をまちます。サービスしてあげられなくてごめん。最善になるように祈ります。」

大丈夫。友人も、少しは期待がはずれてがっかりして、もしかしたら少しの間、私に怒ったかも知れないけど、最後にはちゃんと解ってくれる。だって彼女は、私が友人と認めた、私の友人なのだから、そういう人に違いない。

今の自分に、彼女の依頼に応え3日の損失を被る余裕はないのだ。それが等身大の自分だし、今の現実の状況。
無理をすればなんとかなる、だなんて、思考が暴走している。
私が無理をすれば彼女を救えるだなんて、エゴ(自我)が肥大化した間違った考えだ。


私を導くものに感謝。
ただひたすらに感謝。

私はこのメッセージを翻訳する事の出来る人間として、働かなければならない。
それが私の使命。

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久しぶりに体を動かしたくて ビリーザブートキャンプとWiiFitで2時間ほど汗を流した。
やっぱりビリーはハードだ…。
でもビリーをやると体が目覚めて軽くなる。動く事がおっくうではなくなるし、カチカチに固まっていた肩関節がかなり緩んで、可動範囲が大きくなった。はー、本当に血行が良くなった。

リトリートの構想を練っている。

次回は少し、アダルトチャイルドの回復プログラムを導入しようかな、というアイデアをもこもこと立体化しているところ。
私たちが幼少期に受けた心の傷が、今現在も癒されていない理由は、自分の感情をどう扱えばいいのかを学んでいないからだ。自分の感情を取り戻し、向き合い方を獲得する為には、心理的安全と自分の過去に向き合う勇気が必要。リトリートのように、非日常でなければ、なかなかしっかり向き合うチャンスはない。

とは言え、リトリートを開催するのは本当に、パワーが必要なので、自分の中をよく調整しなければやろうと言い出す事が出来ない。今年は充電期間なので、パワーを放出するイベントは難しいのだ。誰かがやろうと言い出してくれる事が、大きな助けになるのだけれど。

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世の中、どうしてそんなにお金が大事という価値観になっているのだろうかと言う根本的な疑問を持ち続けているので、日頃から世間とのギャップが大きい訳だけれども。

何にそんなにお金が必要なの?と考えていて、一つ発見!!

化粧品って、ものすごく高いですね!!

私は35才すぎても、本当に必要最低限の時にしか化粧をしない生活だったので、化粧品にはとんと疎いのだ。化粧品のイロハを何も知らないわけではない。若い頃にはパーティコンパニオンをしていたので、メイク講習は何度も受けさせられたし、仕事で必要な時にはちゃんとTPOを踏まえて化粧もしてきた。

でも回数が少ないので、化粧品が減らないのだ。

40才を過ぎて、さすがに仕事の時くらいは素顔ではなくけじめとしても化粧をしないと礼儀を失している気がしてきたので、しぶしぶ、化粧するようになったので気付いた。
毎日化粧をする人は、ものすごく化粧品を消費してしまうのではないだろうか。

化粧品を消耗品と考えた事がなかったので、本当にびっくりしている。

今日のお昼の地元テレビで、春物の新作化粧品を特集していた。
地元のデパートの化粧品売り場で、有名ブランド各店の最新の商品を私と同世代のレポーターが試していく。実際に化粧でどんどん美しく見栄えのする顔になっていく。

こうして見ていると、化粧品って、ちょっと魔法の道具のようなワクワク感もあるし、高級な美術道具の用にも思えてくる。実際に値段もかなりするし、ここで紹介されたものを一式揃えたとすると、おそらく4万円は下らない。各社本当に趣向を凝らしていて、美しく、高級な感じ、洗練を身に付ける優越感を確かに刺激するものばかりだ。

うーん。確かに素敵だし、全然手が届かないとまでは言えない、ちょっと頑張って手に入れたいなと思える価格帯かもしれない。

でもこれをじゃんじゃん使って消耗し、買い足していく事を考えると、これは年間、かなりの額をつぎ込む事になる。なるほど、そうか。お化粧を生活として必須と捉えると、これは経費として必要な額となる訳だ。

お金の使い道が一つわかったぞ、というアハ体験だった。

でも私は やっぱり化粧が嫌いなのだ。出来るだけ顔に塗り物はしたくない。皮膚が吸収しないものや吸収したら害のありそうなものは、体に付けたくないのだった。
お金を唸るほどもっていたら、新作の化粧品を次々にコレクションしてみるという遊びをするような気もするけど、自分は使わないんだろうなあ。

(普段は、東京にいる義理の姉が経営している会社の自社製品サンプルを使わせてもらっています。結構自然系、無添加系の化粧品です。いや本当に、ありがたい、ありがたい。)

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