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2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
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旅行の隠された目的。何故目的地が別府だったのか。

話は、私が20才のころにさかのぼる。

私はアメリカ留学から一時帰国して入院した。
それは一ヶ月以上続く微熱と倦怠感の症状で、アメリカの病院でガンの可能性を指摘されたからだった。ガンの治療は、医療保険に加入していないアメリカで受けると途方もない額になる。医者は、帰国して再度診察を受け、治療するよう勧めたのだ。事実上、留学のドクターストップだった。

帰国し、主治医に診察を受けると、ガンの可能性は否定されたが、やはり症状の原因は不明で、九州大学病院に一ヶ月入院することになった。

九州大学病院第二内科。それが私が入院した処だ。
そして、同じ病室で過ごした人たちとの、今でも忘れられない記憶がある。

同じ病室に、Kちゃんという女性がいた。
彼女は私より1、2才上くらいの、同年代の女性だった。
童顔で、小柄で色白で、痩せても太ってもいない可愛い人だった。

私は膠原病と診断されたが、彼女は脳腫瘍だった。
彼女の脳腫瘍は、脳の中心に近い部位にあり、しかもかなり大きいということで、いつ麻痺や痙攣が起きるか、最悪いつ死んでもおかしくないという重篤な状態だった。
年が近かったせいか、私たちは退屈な病院生活で仲よくなり、よくおしゃべりした。彼女は、病気になったために、婚約を破棄した直後だった。

私が退院したあと、Kちゃんも退院したと聞いた。
彼女は、外科的な手術では成功率が低いのでそれを拒否し、放射線治療を受けるために、地元の病院に自宅から通うことになったと聞いた。
Kちゃんの自宅は、大分、別府の鉄輪だった。

九州大学病院には、地方病院では手に負えなくなった難しい症例の患者が集められている。彼女もまた、遠く大分の病院から九州大学病院に入院してきていたのだ。

その後、アメリカに戻り、また日本に帰国してすぐ、Kちゃんに会いにいった。
可愛らしかった彼女の姿は、あまりにも変わり果てていた。
放射線の影響で髪の毛は抜け落ち、腫瘍のせいなのかそれとも薬の副作用なのか、手も足も顔もむくんでパンパンだった。太っているというより、風船を膨らませた感じといった方がわかりやすい。私は自分が受けたショックを、彼女に悟らせまいとすることに必死だった。

鉄輪の彼女の実家では、食堂を営んでいた。
自宅に泊めてもらい、近所を案内してくれた。
2日間一緒にいるうちに、私も落ち着き、今の姿が今の彼女なのだと受け入れることができた。
姿が変わってしまっても、彼女は彼女なのだった。
その言葉や声、まなざし、冗談は何も変わらなかった。私たちは、病院でいた時と同じようにいろいろおしゃべりして楽しく過ごした。

その後すぐ私は就職した。
入社間もなく、社員旅行があり、行き先はたまたま別府だったので、自由時間に連絡を取り合って、スギノイホテルのラウンジで再会した。ほんの30分程度だったが、私は彼女に会いたかった。彼女はさらにその姿が変わっていた。病気は、悪くなっているようだった。

いつ爆発するかわからない、脳の中の小さな爆弾と一緒に生きている彼女。
同年代の女性がごく当たり前に持っている幸せの大部分を、病の為に捨てざるを得なかった彼女。
一方私の方は、心は不健康でいつも苦しく、体も丈夫ではないけれど、普通に企業に就職し、恋愛もしている。彼女の人生と自分を対比するたびに、彼女が気の毒でならなかった。どうして人の人生と自分の人生は、取り換えてあげられないのだろうと。彼女に、数日でもいいから、自由な自分の人生を貸してあげられたらどんなにいいだろうかと、何度も思っていた。



その後、私は引越などで彼女の連絡先を無くし、20年以上、彼女との音信は完全に途絶えてしまった。けれど折りに触れ、彼女が今も生きているだろうかと、気にかけてきたのだった。
彼女は忘れられない人の一人だった。

今回の旅で、私は、Kちゃんを探してみようと思っていたのだ。


何とか無事にたどり着いた別府初日、私はネットで探した、Kちゃんの実家が営んでいた食堂と思われる食堂に向かったのだった。
娘にはそんな込み入った事情は、何も話さなかった。



ネットで調べた通りの店に到着したのは、17時過ぎだった。
店に明かりはともっておらず、準備中なのかもしれなかった。夜の営業は遅くとも18時には始まるだろうと、娘と雪の降る中、近所を散歩しながら、開店を待った。
18時を過ぎても、店に明かりはともらなかった。どうやら店休日らしかった。
ネットで調べた店休日は火曜日だが、年末なので変更したようだった。

「うーん仕方ないな、ここにはまた、明日来ようね!」

空腹で不機嫌になりそうなのを我慢している娘に明るく声をかけ、別の店を探しに車を出した。
娘のお腹はもう待てそうになく、口に入るなら何でもよさそうだったので、「何がいい?あっ、お寿司にする?」と目にした最初の看板を指すと娘の顔がぱっと元気になった。

すぐに店に入った。
やれやれ、せっかく別府にきてもチェーンの回転寿司かあ、
とがっかりしそうになったが、なんと別府湾の新鮮なネタが数多く用意されていて、非常に美味しかった。

娘は元々回転寿司ファンなので、二もなく大喜び。
二人で20皿を平らげてしまった。
普段なら取らない一貫盛りのお皿も、普段ならスルーの茶わん蒸しや赤だしも注文して、我が家でいう処の「暴れ食い」状態である。

ささやかではあるが、これは現在の我が家でもっとも贅沢と呼ばれる行為だ。
例え行き先が日頃と同じ回転寿司でも、日頃とはまったく違うお金の使い方なのである。

使うと決めたら、豊かな気分に貢献するお金は惜しまず使う。
これは長く貧乏生活を続けても心が枯れない為のコツのようなものだ。
二人でお腹一杯になり、贅沢気分で上機嫌になった。

さて、今日最後のイベントは、100円ショップでのお買い物。
ペンライトやガムテープを購入。

車に戻る。
温泉で温めた体はこんなに寒い日なのに、ずっとほかほかしている。
そして、お腹はイッパイに満たされている。
あとは寝るだけだ。

車を、公園の駐車場に泊める。
エンジンを切って、バックシートをすべてフラットにし、すべての窓ガラスを断熱シートで目張り。
ここでガムテープが活躍する訳だ。まっくらになった車内で、ペンライトを付けると、「いいねーー、ライフな感じ!!」と娘がよく分からない形容で喜びの声を上げる。

「ライフな感じってなんだ?」
「いいからいいから」

狭いけれど、すっかり寝室と化した車内。
寝袋と毛布で横になってみる。

「うーーん、いいねえ!!」
娘は大興奮で大喜びだ。

横になって、少しの間、明日の予定などを話していると、娘はすやすや眠ってしまった。
凍死しない温度かどうか、夜中に何度か起きて確かめたが、まったく寒くなく、朝まで休むことが出来た。開いていなかったお店のことは、また明日訪ねてみよう。そう思いながら、娘と過ごす明日のイベントを再度計画しなおしていた。

真冬の車内泊は大成功。思ったより寒くない。
実は贅沢なホテルに泊まるよりも、こういう貧乏旅が好きである。
狭い車内で、娘と二人だったからこそ、ワクワクする車内泊が実現した。
ここに夫がいたなら、スペースが足りないのでやむなく、安宿に転がり込むしかないわけだ。

大興奮の貧乏旅行初日は、こうして終った。

(長ーーいレポートですみません^_^;;
 おつき合いありがとうございますです。まだまだ続きそうです)

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