2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
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最近のテレビ番組は本当に観る価値のないものばかり。
我が家では報道番組を除いて、テレビ番組はほとんど見ない。
代りに、娘と一緒に見るために毎週ビデオやDVDを借りてくる。
今、小公女セーラを見始めた処。毎日2、3話づつ家族全員で観る。
今この年齢になって名作劇場を見直す事になるとは思っていなかったけど、娘にくだらないお笑いタレントが出ている番組を垂れ流しにみせるよりは遥かにマシだ。
しかしこのお話は本当に可哀相な話だな。
重いもの一つ持った事もなく、お腹が空くという感覚を知らない裕福な家に生まれた少女。誰もが羨むような幸せな少女が、父親の死によって孤児になり、一気に一日ですべての持ち物(人形一つをのぞく)を失って、屋根裏暮らしのメイドに身を落とすという話。
裕福な人が貧乏になるという事が可哀相なのではなく、周りの人々が彼女の裕福さを愛していただけだったという事が、あからさまになるこの残酷さ。ここが非常に可哀相である。愛されて生きてきた少女は、一日で他人の愛がにせものだったのだという事にも直面させられるのである。
このお話には意地の悪い人が何人も登場する。意地が悪いだけではなく人間性が稚拙で、観るに耐えないキャラクターが、そのダメっぷりを披露するエピソードが満載だ。
私は人に意地悪をするという心境には、心底は共感しきれない。
何故なら人に意地悪をするという行為が恥ずかしくてとても出来ないからだ。
このお話にラビニアというアメリカ人の子が登場する。これがまた、意地の悪さではかなり筋金入りのキャラクターなのだが、こんな意地悪な真似をすると、自分の心の狭さ汚さが人に丸見えになってしまうではないか、と思う。私には、それがまず耐えられそうにない。
私にも嫉妬心や相手の失敗を願ったりする気持ちがまったく沸かない訳ではない。すぐにその気持ちが消えてしまうとしても、そんな恥ずかしいものが人様に丸見えになってしまう行動を取るだなんて、まさに生き恥である。人に嫌みをするというのは、私にとっては「生き恥」、そういう行為だ。そんな生き恥を晒すくらいなら、どんなに苦しくても絶対に嫉妬心や復讐心を滅そうと努力するし、絶対にそんな人として恥ずかしい真似をしないで済むように全力で自分を抑制するだろう。
それを意地、と呼ぶ場合もあるかもしれない。けれど、歯を食いしばってでも、絶対に崩したくないのは人としての在りようだ。
世間がせち辛いとか、荒んでいるという時、その世間を構成する人々の心には「恥」の意識が薄れているのではないかと私は思う。
ラビニアは、直視するのが気の毒なほど自分の狭量をさらしまくり、その生き恥っぷりは私が彼女なら何度自分を恥じて死にたくなるかと思うほどだ。私なら自分をとても許せそうにないほどの、あからさまな嫌み、意地悪、嫉妬。
そういえば、私に意地悪をしかけてくる人が、私の人生の中で時々登場する。私の何かがその人には気に入らず、私を傷つけ、変えようとしたり汚そうとしたりする。しかしその人が何をしようとも私は変わらないので、ついには私はその人から憎まれる事になる。私にはどうしようもない事なのだ。そういう事が起きると私はもちろん大変悲しんでいるが、それでも私にはどうしようもない。
そういう人と出会う度、その人の生き恥っぷりが気の毒でたまらなくなる。そんな真似をして、貴方が気の毒だ、と本当に心から思うのだ。冷静になったらどんなに自分の振る舞いを恥ずかしく思うだろう。私があなたの何かを刺激してしまうために、あなたがそこまでもみっともない真似をしてしまうのなら、私の方が、むしろあなたの前から消えてあげないと気の毒でたまらないとさえ思う。相手は私の事を憎んでいるのだから、私から気の毒だなんて言われたら激怒するに決まっている。だから私はその人からはそっと離れるしかなく、それが私に出来るその人への思いやりを込めた態度だ。
ああ、思い出すと本当にその人の振る舞いが気の毒だ。生き恥さらして、どんなにか苦しい人生だろうに。
恥ずかしい人間がたくさん登場する小公女。これは小公女セーラの気高さとの対比の為に、敢えて配置されている人物像なのだが、それにしても強いメッセージだ。人はこのようであってはならない、というメッセージ。セーラのようである事は難しいとしても、せめてこのラビニアや学院長ミンチンのようであってはならない、という教訓。
私にとっての「生き恥」。
それは自分の中の欲や嫉妬や意地悪のようなものに、自分を明け渡してしまうことだ。私は自分の行ないとして、それを絶対に許してはならない。その存在をうかつに見過ごしてはならない。それは自分の心の内側を焼く、暗い毒の炎。
それを放置すると心は荒廃し、人間らしさはくもって行く。人を騙し、自分のわずかな利益で心が揺れ動く小さな器、欠けた器になってしまう。それが人間という存在の危うさだ。
自分の中の欲、嫉妬、意地悪を見過ごさず、安易に許さず、それと対峙し続けること。私は自分自身にそれを課すと誓っている。そして、他者を意地悪に扱うことで自分が豊かになる事は永久にあり得ないと繰り返し、智慧のすべてを尽くして知ること。自分の心の内側にある光を決して曇らせてはいけない。
自分自身の命に対して、恥ずかしい真似を、決してしてはいけない。
自分の瞳はいつでも自分自身を見ているのだから。
我が家では報道番組を除いて、テレビ番組はほとんど見ない。
代りに、娘と一緒に見るために毎週ビデオやDVDを借りてくる。
今、小公女セーラを見始めた処。毎日2、3話づつ家族全員で観る。
今この年齢になって名作劇場を見直す事になるとは思っていなかったけど、娘にくだらないお笑いタレントが出ている番組を垂れ流しにみせるよりは遥かにマシだ。
しかしこのお話は本当に可哀相な話だな。
重いもの一つ持った事もなく、お腹が空くという感覚を知らない裕福な家に生まれた少女。誰もが羨むような幸せな少女が、父親の死によって孤児になり、一気に一日ですべての持ち物(人形一つをのぞく)を失って、屋根裏暮らしのメイドに身を落とすという話。
裕福な人が貧乏になるという事が可哀相なのではなく、周りの人々が彼女の裕福さを愛していただけだったという事が、あからさまになるこの残酷さ。ここが非常に可哀相である。愛されて生きてきた少女は、一日で他人の愛がにせものだったのだという事にも直面させられるのである。
このお話には意地の悪い人が何人も登場する。意地が悪いだけではなく人間性が稚拙で、観るに耐えないキャラクターが、そのダメっぷりを披露するエピソードが満載だ。
私は人に意地悪をするという心境には、心底は共感しきれない。
何故なら人に意地悪をするという行為が恥ずかしくてとても出来ないからだ。
このお話にラビニアというアメリカ人の子が登場する。これがまた、意地の悪さではかなり筋金入りのキャラクターなのだが、こんな意地悪な真似をすると、自分の心の狭さ汚さが人に丸見えになってしまうではないか、と思う。私には、それがまず耐えられそうにない。
私にも嫉妬心や相手の失敗を願ったりする気持ちがまったく沸かない訳ではない。すぐにその気持ちが消えてしまうとしても、そんな恥ずかしいものが人様に丸見えになってしまう行動を取るだなんて、まさに生き恥である。人に嫌みをするというのは、私にとっては「生き恥」、そういう行為だ。そんな生き恥を晒すくらいなら、どんなに苦しくても絶対に嫉妬心や復讐心を滅そうと努力するし、絶対にそんな人として恥ずかしい真似をしないで済むように全力で自分を抑制するだろう。
それを意地、と呼ぶ場合もあるかもしれない。けれど、歯を食いしばってでも、絶対に崩したくないのは人としての在りようだ。
世間がせち辛いとか、荒んでいるという時、その世間を構成する人々の心には「恥」の意識が薄れているのではないかと私は思う。
ラビニアは、直視するのが気の毒なほど自分の狭量をさらしまくり、その生き恥っぷりは私が彼女なら何度自分を恥じて死にたくなるかと思うほどだ。私なら自分をとても許せそうにないほどの、あからさまな嫌み、意地悪、嫉妬。
そういえば、私に意地悪をしかけてくる人が、私の人生の中で時々登場する。私の何かがその人には気に入らず、私を傷つけ、変えようとしたり汚そうとしたりする。しかしその人が何をしようとも私は変わらないので、ついには私はその人から憎まれる事になる。私にはどうしようもない事なのだ。そういう事が起きると私はもちろん大変悲しんでいるが、それでも私にはどうしようもない。
そういう人と出会う度、その人の生き恥っぷりが気の毒でたまらなくなる。そんな真似をして、貴方が気の毒だ、と本当に心から思うのだ。冷静になったらどんなに自分の振る舞いを恥ずかしく思うだろう。私があなたの何かを刺激してしまうために、あなたがそこまでもみっともない真似をしてしまうのなら、私の方が、むしろあなたの前から消えてあげないと気の毒でたまらないとさえ思う。相手は私の事を憎んでいるのだから、私から気の毒だなんて言われたら激怒するに決まっている。だから私はその人からはそっと離れるしかなく、それが私に出来るその人への思いやりを込めた態度だ。
ああ、思い出すと本当にその人の振る舞いが気の毒だ。生き恥さらして、どんなにか苦しい人生だろうに。
恥ずかしい人間がたくさん登場する小公女。これは小公女セーラの気高さとの対比の為に、敢えて配置されている人物像なのだが、それにしても強いメッセージだ。人はこのようであってはならない、というメッセージ。セーラのようである事は難しいとしても、せめてこのラビニアや学院長ミンチンのようであってはならない、という教訓。
私にとっての「生き恥」。
それは自分の中の欲や嫉妬や意地悪のようなものに、自分を明け渡してしまうことだ。私は自分の行ないとして、それを絶対に許してはならない。その存在をうかつに見過ごしてはならない。それは自分の心の内側を焼く、暗い毒の炎。
それを放置すると心は荒廃し、人間らしさはくもって行く。人を騙し、自分のわずかな利益で心が揺れ動く小さな器、欠けた器になってしまう。それが人間という存在の危うさだ。
自分の中の欲、嫉妬、意地悪を見過ごさず、安易に許さず、それと対峙し続けること。私は自分自身にそれを課すと誓っている。そして、他者を意地悪に扱うことで自分が豊かになる事は永久にあり得ないと繰り返し、智慧のすべてを尽くして知ること。自分の心の内側にある光を決して曇らせてはいけない。
自分自身の命に対して、恥ずかしい真似を、決してしてはいけない。
自分の瞳はいつでも自分自身を見ているのだから。
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