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2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
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自分が 人からしてもらったことを感謝しない人は大抵嫌われ者になる。

世の中、そうなっている。

人に感謝する気持ちを表現することは 人間の社会で円滑に生きて行こうと思ったら必須項目なのだ。
現代において、感謝はただ自分の感じるものに留まってはいけない。人前で盛大に表現されなければならないのだ。

でも私はここに、ひとつだけ疑問を投げ掛けたい。

その「感謝」の表現は 人のための感謝になっていませんか?

人のための感謝。
相手から怒られない為、嫌われない為の感謝。
社会からはみださない為の感謝。
感謝すべきという考えによる強制的な感謝。

世の中に こういう変質した感謝がまん延している。
そのせいで 人間関係が複雑になりすぎている。

私が これが感謝という気持ち と認識する「感謝」とは、自分の内側から溢れ出る光のようなものだ。受け取ったものの中にこもる、柔らかく暖かい何かを感じ、それに作用して勝手に自分の内側から溢れ出るようにしてこぼれていく感情と光の粒のような感覚。それが感謝だ。

そして、この感謝の念を感じているとき 私は本当に幸福だ。出来るだけこの状態でいたいと思う。

誰であれ、この感謝を胸に沸き起こしている時は幸せだろうと思う。
あなたの日頃感じている感謝は、このようなものだろうか。
私は人がこの感謝の状態にあることを喜ぶ。その人は間違いなく幸せをその瞬間手にしているからだ。


一方、変質した感謝を感じている人は、本当に喜んで幸福感のなかにあるようには見えない。
「ありがたい」と口にしていても、「こんなにしてもらってもったいない」」「私には過ぎたことです」とでもいいたそうに、罪悪感や悲しみに似た感情を同時に感じているように見える。

私にも覚えがある。そういう状態は本当に気の毒だと思う。
背負っている荷物が多過ぎて自分の心に邪魔なものが溜まり過ぎて、本当の感謝に触れることができないでいるのだ。

そして、日頃から変質した感謝ばかりを感じている人は、残念なことに人にも同じく変質した感謝を強要する。それを感じない人を「非常識」呼ばわりすることさえある。感謝を表現しなかったというだけで「人間失格」とさえ言う人もいる。


あなたが、誰かたまにしか合わない人に贈り物を送ったとしよう。
その人があなたにお礼状の一つもよこさず、次に会った時に贈り物の話題さえ持ち出さなかったら、あなたはきっと多少なりとも、気を悪くするだろう。そしてその人の評価を心の中で下げたり、その人とのつき合い方を考え直したりするだろう。または自分が贈った贈り物は相手にとって何の価値もなかったのだろうか、とか、余計なことをして怒らせたのではないか、などと妄想して不安になったりもするだろう。

それが、現代のごく普通の、不文律、きまりごとだ。
贈り物をもらったら お礼の一言を言うべきだ。出来ればお返しをすべきだ。送り主が心配しないように到着したことを知らせ、感謝の言葉をいって相手を喜ばせるべきだ。それが常識なのだ。私はそれを否定しない。私はこれを常識的な「感謝風の儀式」だと考えている。現代人は、マニュアルが好きで、儀式が好きなのだ。それをコミュニケーションだと錯覚している。


けれどそういう常識的なことを 越えた考え方もあることを知って欲しい。


あなたが贈り物をしたのは、何故だったのだろう。
一体、何を目的にしたのだろう。
相手から好かれる計略のためか。
自分の評価をあげておくためか。
感謝の言葉をもらうためか。
あなたの相手への思いを伝えるためか。
(これらはあなたの心の中ですべて相手への
「貸し」に数えられている。 贈り物そのものと、
 それにくっつけた思いの両方が「貸し」となる。)

それとも
あなたが見ることのない、相手が贈り物を開け喜ぶ一瞬の笑顔のためか。
(相手が喜ぶ姿を想像する瞬間にあなたは贈り物を
 する喜びを得ている。それが「貸し」のない状態。)


この世のだれ一人として私に対して 「借り」のある人はいない。
私がする行動と放つ言葉のすべては 私が手放したものであり それを受け取った人が私に感謝風の儀式をする必要はまったくない。

貸しを作らずに生きることを 多くの人にお勧めしたい。
それは、感謝ごっこの因縁を断ち切る具体的な方策だからだ。
感謝することを教えるのも大事だろう。だが同時に相手の感謝を求め過ぎないことを教えるのを忘れてはならない。自分が相手から好かれているという安心のために、相手に感謝の表現を義務づけてはならない。

もちろん私がどれほど純粋に感謝の中にあったとしても それを表現しないなら相手にはわからないだろう。だから私は務めて相手のために表現すべきなのだ。けれどもその質を理解出来る人は少ないことが、残念だ。いつも痛感するけれど 本質に触れた時、それを言葉で表現することはほとんど不可能なのだから。
だから不文律の常識のなかでは 私は多くの人に「借りだらけ」の人間なのだろう。

私に何かを与えてくれた人と その行為そのものに深い感謝を捧げる。
それで納得してもらえない場合はお互い残念なのだが 借りとは考えない。
借りを返す為に生きることを考えるのではなく 貸しを作らず与え手放し続けることを考えるほうが 自然なことなのだから。

借りがあると言えば無数にあるだろう。
そもそも、返しきれないほどのものを受け取っている。それは誰もがそうなのだ。
私たちは大きな大きな循環の中で 互いに与えあいながら生きている。
人間だけがそれを貸しだ借りだと大騒ぎするのだ。


人生は 貸し借りなし。
ただ手放して 与えればいい。

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