2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
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だいぶ前の映画でAIという、人工知能ものをそのまま連想させる米映画があった。機械萌え属性を持つ私はもちろんこれも速攻で見たのだが、可哀相すぎて見るのが苦しいくらいのストーリー。
で、そういう情緒的な振幅とは別に、知的好奇心の方の振幅も起きて。
「愛」をプログラムされた少年(AIの主人公である少年型ロボット)
というキャッチを真面目に考えてしまう。
数ある動詞のどれをとっても、それをプログラム化してロボットに自律的にそれをさせ、人間の期待に応えるレベルにするのは非常に難しい。学生時代人工知能の研究にあやうく嵌まりかけたのでよく解る。
歩く、座る、走る、この基本動作を実現するだけでも、それぞれの動きを解析し、その運動制御を自律させるための仕組みをゼロから考えなければならない。今でこそASHIMOが代表する、二足歩行の人間型ロボットが実現しているが、HondaがP2開発成功をプレスリリースする以前には、世界中の多くのロボット開発現場が二足歩行ロボットの開発を諦め、多関節ロボットや4つ足またはそれ以上の多足歩行ロボットを進めていた。これは、いかに二足歩行させることが困難だったかを示している。そういう世界的情勢の中でも、会社にも内緒で黙々と独自に二足歩行の夢を追い続けたHondaのP2(現在ではASHIMO)開発チームには日本技術者の誇りを感じる。
※ASHIMOの姿勢制御は本当に素晴らしく、「歩行中に押しても倒れない」のである。人間のように踏ん張ることが出来る。くぅ、胸キュン。(これがどうすごいかを語ると大変なので省略。決して転ばないロボットの代表としてはアメリカのBIGDOGという四足歩行ロボットがあるが、こっちはかなり気持ち悪い。)
人間にとって単純な動作一つでも、プログラム化してロボットに行なわせるのは難しいのに、情緒を示す動詞はさらに乗数的に困難だ。しかも、それが自律的、自発的にロボット主体で行われるものになるというのは、今はまだ夢物語だ。それが実現するということは、ロボットに、心があるということを意味するからだ。アトムは心のあるロボットだと手塚治虫は簡単に設定したが、それがどれほど難しいことか考えていただろうか。
さてこの「AI」という映画の主人公、少年型ロボットは「愛」をプログラムされているロボット。プログラムの最終キーワードを入力した人を親として慕い続ける。子供を亡くしたり子供を持ちたくても持てなかった人の為に、代理の子供を務めるために開発されたロボットだ。
ちらっと設定を見ただけでかなり胸キュンなストーリーだが、同時に胸キュンそっちのけで「どうやったら『愛する』ことをプログラムできるだろうか」と論理系の思考が冴え冴えと考えはじめる。
愛を名詞ではなく「愛する」という動詞として捉えた時の、その中身の吟味から。愛するとは何がどうなっている状態と定義できるのか。(ここから先はちと広くて、なおかつ込み入っているので省略)
自分の心さえきちんと手に取れている人は少ないというのに、その人間に心をプログラムすることが出来るのだろうか、と疑問に思う。
心とは、感情と思考のルールブックのことを言う。ただしその基底には、動物として理屈抜き・思考抜きに「反応」する源情動があるという前提がある。これは生体の個体が生き延びるためと種の保存のために必要な反応で、生体の命に限りがある前提のものだ。パーツを変えれば永遠に存続出来る、非生体のロボットに心の源となる情動を組み込むことは、非常にリスキーかも知れない。
私個人としては心の働き(つまりルールブック)の部分だけなら、膨大だがプログラム化できると考えている。しかし、それだけでは「プログラムされた内容の範囲内を処理しているだけ」つまり、人間のまね事をしているだけのレベルだ。多分、これでは人間の要求には質や精度の点で応えられない。
人間がロボットのような他者に対して、それが「心」とか「愛」というものだと認知・承認する為には、「それを発現している存在そのものの、根源的情動に基づく感情」が含まれていることが外せない条件になっている。
根源的情動という感情は、しばしば不条理であり、個体としての生体の生命維持さえも放棄する。これをロボットに搭載するのは、危険なことだ。 ロボコップが気まぐれだったら困る。なにせ怪力で破壊力も大きい。ロボットは機能面で人間をはるかに越えることが出来る。だからこそ、人間の安全のために、制御を何重にもかけておかなければならない。感情を持つということは、制御不能になることに近づいてしまうのだ。
心のあるロボットを作ることは、生命を作ることと同じくらい、おおごとなのだ。
そう言いながらも、どこまで真似事の心を、人間がぐっとくるレベルまで近づけて実現できるかを、ずっと考え続けている。それはつまり、人間を研究すること。現在の私の仕事とも極めて相性がよい趣味である。
で、そういう情緒的な振幅とは別に、知的好奇心の方の振幅も起きて。
「愛」をプログラムされた少年(AIの主人公である少年型ロボット)
というキャッチを真面目に考えてしまう。
数ある動詞のどれをとっても、それをプログラム化してロボットに自律的にそれをさせ、人間の期待に応えるレベルにするのは非常に難しい。学生時代人工知能の研究にあやうく嵌まりかけたのでよく解る。
歩く、座る、走る、この基本動作を実現するだけでも、それぞれの動きを解析し、その運動制御を自律させるための仕組みをゼロから考えなければならない。今でこそASHIMOが代表する、二足歩行の人間型ロボットが実現しているが、HondaがP2開発成功をプレスリリースする以前には、世界中の多くのロボット開発現場が二足歩行ロボットの開発を諦め、多関節ロボットや4つ足またはそれ以上の多足歩行ロボットを進めていた。これは、いかに二足歩行させることが困難だったかを示している。そういう世界的情勢の中でも、会社にも内緒で黙々と独自に二足歩行の夢を追い続けたHondaのP2(現在ではASHIMO)開発チームには日本技術者の誇りを感じる。
※ASHIMOの姿勢制御は本当に素晴らしく、「歩行中に押しても倒れない」のである。人間のように踏ん張ることが出来る。くぅ、胸キュン。(これがどうすごいかを語ると大変なので省略。決して転ばないロボットの代表としてはアメリカのBIGDOGという四足歩行ロボットがあるが、こっちはかなり気持ち悪い。)
人間にとって単純な動作一つでも、プログラム化してロボットに行なわせるのは難しいのに、情緒を示す動詞はさらに乗数的に困難だ。しかも、それが自律的、自発的にロボット主体で行われるものになるというのは、今はまだ夢物語だ。それが実現するということは、ロボットに、心があるということを意味するからだ。アトムは心のあるロボットだと手塚治虫は簡単に設定したが、それがどれほど難しいことか考えていただろうか。
さてこの「AI」という映画の主人公、少年型ロボットは「愛」をプログラムされているロボット。プログラムの最終キーワードを入力した人を親として慕い続ける。子供を亡くしたり子供を持ちたくても持てなかった人の為に、代理の子供を務めるために開発されたロボットだ。
ちらっと設定を見ただけでかなり胸キュンなストーリーだが、同時に胸キュンそっちのけで「どうやったら『愛する』ことをプログラムできるだろうか」と論理系の思考が冴え冴えと考えはじめる。
愛を名詞ではなく「愛する」という動詞として捉えた時の、その中身の吟味から。愛するとは何がどうなっている状態と定義できるのか。(ここから先はちと広くて、なおかつ込み入っているので省略)
自分の心さえきちんと手に取れている人は少ないというのに、その人間に心をプログラムすることが出来るのだろうか、と疑問に思う。
心とは、感情と思考のルールブックのことを言う。ただしその基底には、動物として理屈抜き・思考抜きに「反応」する源情動があるという前提がある。これは生体の個体が生き延びるためと種の保存のために必要な反応で、生体の命に限りがある前提のものだ。パーツを変えれば永遠に存続出来る、非生体のロボットに心の源となる情動を組み込むことは、非常にリスキーかも知れない。
私個人としては心の働き(つまりルールブック)の部分だけなら、膨大だがプログラム化できると考えている。しかし、それだけでは「プログラムされた内容の範囲内を処理しているだけ」つまり、人間のまね事をしているだけのレベルだ。多分、これでは人間の要求には質や精度の点で応えられない。
人間がロボットのような他者に対して、それが「心」とか「愛」というものだと認知・承認する為には、「それを発現している存在そのものの、根源的情動に基づく感情」が含まれていることが外せない条件になっている。
根源的情動という感情は、しばしば不条理であり、個体としての生体の生命維持さえも放棄する。これをロボットに搭載するのは、危険なことだ。 ロボコップが気まぐれだったら困る。なにせ怪力で破壊力も大きい。ロボットは機能面で人間をはるかに越えることが出来る。だからこそ、人間の安全のために、制御を何重にもかけておかなければならない。感情を持つということは、制御不能になることに近づいてしまうのだ。
心のあるロボットを作ることは、生命を作ることと同じくらい、おおごとなのだ。
そう言いながらも、どこまで真似事の心を、人間がぐっとくるレベルまで近づけて実現できるかを、ずっと考え続けている。それはつまり、人間を研究すること。現在の私の仕事とも極めて相性がよい趣味である。
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