2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
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宮崎の口蹄疫問題で、ほうぼうで寄付や募金活動をしている。
私は口蹄疫に限らず、募金や寄付の箱を見ると大抵いくらか寄付している。こんなことをわざわざブログに書くのは、自分が善行をしていることを褒めて欲しいからではない。寄付や募金という「施し」について、考えてみたいからだ。
もう日本ではほとんど見かけないけれど、仏教には托鉢という修業がある。僧侶が家の前で教典を唱え、その家の人が僧侶に米や野菜やお金を施すという習慣だ。タイ、カンボジア、ブータン、インドネシア、スリランカ、ミャンマー、ラオスなどの仏教国ではまだこの托鉢が行われている。
僧侶になるということは、家族を捨て、自分の所有物のすべてを捨てることで世俗を離れ、悟りを開くための修業だけを行なう身分になるということだ。仏陀の時代には、あらゆる生産活動が禁止されていたので、自分で畑を作ることさえも行なわない。所有することも禁止されたので、蓄えることもできない。所有できるのは、服が3枚と食事の為の椀と箸だけ。だから、ただその日の食物を世俗の人々から施してもらうことで生き延びる。
一方、出家して僧侶にならない世俗の人々は、善行を行い、念仏を唱えることで来世よい未来に恵まれるとされた。その善行の中でもっとも価値のあることが「布施(出家者への施し)」とされた。だから家の前に僧侶が立ちより、念仏を唱えてくれることは良いこと、ありがたいことで、その僧侶に施しを行なえる機会は、自分の来世が良くなる功徳を積むラッキーな機会と捉えるのだ。
僧侶になる覚悟は持てないが、世俗のままでも修業していることになる行為、それが布施という施しなのだ。
そのような習慣が生きている国では、人に施しを行なうことはその人の為ではなく、自分自身の為という考えが常識になっている。日本語でもこれを「情けは人のためならず」といって教えている。「人に親切にすることは、相手のためだけではなく、結局は自分のためになることなのだよ」という教えだ。残念ながら意味を間違って覚えている人が多いのだが。
仏教には布施行(ふせぎょう)と言って、人に施しをする修業がある。自分のものを手放すことで執着を捨て、他者を助けることで慈悲心を育むものだ。人に施しをすることそのものが、自分の修業であり、自分の為にしていることなのだ。
ダラムサラで、チベット人のおばあさんが、優しい笑顔で私にパンを分けてくれた。決して裕福そうな人ではなかった。そのおばあさんにとって、大切な食べ物だろうに、そのパンを見知らぬ外国人の私にくださるというのは、どういう心持ちかと言うと「受け取ってくれて、布施させてくれてありがとう」という気持ちなのだ。あなたに布施をすることで私は来世への功徳を積むことができてありがたい、そういう気持ちなのだ。出会ったチベット人はみな、そういう考えを持っていた。
私はこの考え方に馴染んだ。昔から知っているような感覚、懐かしい故郷に帰ったような気がした。
ところで、募金をする時、いくらにしようかと悩むことはないだろうか。
私は、布施の基準をひとつ持っている。
「この布施をしたことで自分がさらに貧しく困窮することがない」という基準だ。
だから、いつ、どんな時でも、1円なら布施できる。
今はとても生活に困窮しているので、大抵は1円玉と5円玉の小銭をその時持っているだけ募金する。
私がどんなに困窮していても、そのくらいの小銭を人にあげたからといって、自分がさらに貧しくなることはない。
私が普通に給料をもらっているなら、多分500円や1000円くらいは寄付できるかもしれない。
その時も「この額を寄付したとしても、自分が貧しくならない」ということが基準だ。
さらに言えば、貧しくならないというのは、経済面だけの話ではない。
その額を惜しんで、ああもったいない、と思うことがない額ということでもある。施しをすることを惜しい、惜しいと思うようでは、心が貧しくなっている。貧しくなるような布施は仏陀の教えによれば間違っている。経済的にも、心理的にも、貧しくならない程度を、自分の中で正直に見つめて、その時、その時、自分を試すようにして布施する。自分の為になると心底思える行為を続ける。
これが布施行だ。
1円でも100万円でも、そうして自分の内側を見つめることが、「施し」をする時に与えられる機会なのだ。大金を一生に一度、死ぬ前に施したら来世がよくなるという訳ではないだろう。自分の心を見つめる機会を、一回、一回、得ようとすることが尊いのだ。
1円でも、1000円でも、ありがたい布施の機会なのだ。
私は、寄付をしなかったとき、1円を寄付したからと言って自分が貧しくなるはずもないのに何故しなかっただろうかと考える。募金箱をわざと無視したか?別の何かに気が逸れたか?僅かな金を惜しんだのか?募金を義務的に感じて面倒になったか?
そんな風に自分のなかを見つめる機会にする。そして次はどうするだろうか?と考えておく。
そして、また次の募金箱に出会う。
募金箱は、どこにでもある。
布施行は、どこででも出来る。
私は口蹄疫に限らず、募金や寄付の箱を見ると大抵いくらか寄付している。こんなことをわざわざブログに書くのは、自分が善行をしていることを褒めて欲しいからではない。寄付や募金という「施し」について、考えてみたいからだ。
もう日本ではほとんど見かけないけれど、仏教には托鉢という修業がある。僧侶が家の前で教典を唱え、その家の人が僧侶に米や野菜やお金を施すという習慣だ。タイ、カンボジア、ブータン、インドネシア、スリランカ、ミャンマー、ラオスなどの仏教国ではまだこの托鉢が行われている。
僧侶になるということは、家族を捨て、自分の所有物のすべてを捨てることで世俗を離れ、悟りを開くための修業だけを行なう身分になるということだ。仏陀の時代には、あらゆる生産活動が禁止されていたので、自分で畑を作ることさえも行なわない。所有することも禁止されたので、蓄えることもできない。所有できるのは、服が3枚と食事の為の椀と箸だけ。だから、ただその日の食物を世俗の人々から施してもらうことで生き延びる。
一方、出家して僧侶にならない世俗の人々は、善行を行い、念仏を唱えることで来世よい未来に恵まれるとされた。その善行の中でもっとも価値のあることが「布施(出家者への施し)」とされた。だから家の前に僧侶が立ちより、念仏を唱えてくれることは良いこと、ありがたいことで、その僧侶に施しを行なえる機会は、自分の来世が良くなる功徳を積むラッキーな機会と捉えるのだ。
僧侶になる覚悟は持てないが、世俗のままでも修業していることになる行為、それが布施という施しなのだ。
そのような習慣が生きている国では、人に施しを行なうことはその人の為ではなく、自分自身の為という考えが常識になっている。日本語でもこれを「情けは人のためならず」といって教えている。「人に親切にすることは、相手のためだけではなく、結局は自分のためになることなのだよ」という教えだ。残念ながら意味を間違って覚えている人が多いのだが。
仏教には布施行(ふせぎょう)と言って、人に施しをする修業がある。自分のものを手放すことで執着を捨て、他者を助けることで慈悲心を育むものだ。人に施しをすることそのものが、自分の修業であり、自分の為にしていることなのだ。
ダラムサラで、チベット人のおばあさんが、優しい笑顔で私にパンを分けてくれた。決して裕福そうな人ではなかった。そのおばあさんにとって、大切な食べ物だろうに、そのパンを見知らぬ外国人の私にくださるというのは、どういう心持ちかと言うと「受け取ってくれて、布施させてくれてありがとう」という気持ちなのだ。あなたに布施をすることで私は来世への功徳を積むことができてありがたい、そういう気持ちなのだ。出会ったチベット人はみな、そういう考えを持っていた。
私はこの考え方に馴染んだ。昔から知っているような感覚、懐かしい故郷に帰ったような気がした。
ところで、募金をする時、いくらにしようかと悩むことはないだろうか。
私は、布施の基準をひとつ持っている。
「この布施をしたことで自分がさらに貧しく困窮することがない」という基準だ。
だから、いつ、どんな時でも、1円なら布施できる。
今はとても生活に困窮しているので、大抵は1円玉と5円玉の小銭をその時持っているだけ募金する。
私がどんなに困窮していても、そのくらいの小銭を人にあげたからといって、自分がさらに貧しくなることはない。
私が普通に給料をもらっているなら、多分500円や1000円くらいは寄付できるかもしれない。
その時も「この額を寄付したとしても、自分が貧しくならない」ということが基準だ。
さらに言えば、貧しくならないというのは、経済面だけの話ではない。
その額を惜しんで、ああもったいない、と思うことがない額ということでもある。施しをすることを惜しい、惜しいと思うようでは、心が貧しくなっている。貧しくなるような布施は仏陀の教えによれば間違っている。経済的にも、心理的にも、貧しくならない程度を、自分の中で正直に見つめて、その時、その時、自分を試すようにして布施する。自分の為になると心底思える行為を続ける。
これが布施行だ。
1円でも100万円でも、そうして自分の内側を見つめることが、「施し」をする時に与えられる機会なのだ。大金を一生に一度、死ぬ前に施したら来世がよくなるという訳ではないだろう。自分の心を見つめる機会を、一回、一回、得ようとすることが尊いのだ。
1円でも、1000円でも、ありがたい布施の機会なのだ。
私は、寄付をしなかったとき、1円を寄付したからと言って自分が貧しくなるはずもないのに何故しなかっただろうかと考える。募金箱をわざと無視したか?別の何かに気が逸れたか?僅かな金を惜しんだのか?募金を義務的に感じて面倒になったか?
そんな風に自分のなかを見つめる機会にする。そして次はどうするだろうか?と考えておく。
そして、また次の募金箱に出会う。
募金箱は、どこにでもある。
布施行は、どこででも出来る。
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