2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
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小学4年生の時、南くんという男子と同じクラスだった。
当時3、4年はクラス替えなしで持ち上がりだったので、この男子生徒とは2年間同じクラスだったわけだ。
3年生の頃、南くんと私は仲が悪かった。
当時の私は国語辞典、百科事典、物知り博士のニックネームが表す通り、はっきりとクラスメイトから頭のいい子として一目置かれる存在だった。南くんは、そんな私が気に入らなかったのだ。何故なら彼は男子で一番成績が良い子だったから。そんな彼は私をことごとくライバル視して、私の失敗を見過ごさないように常に私をマークしていた。何かもめごとがあり、私が仲裁していようものなら、そのやり方にもすかさずケチを付けてくるうっとおしい存在だった。
授業中私が手を上げれば必ず私の方を見ながら彼も手を上げた。
面倒なヤツだった。南くんのおかげで、平穏な日々がいつも乱されるのだった。私から南くんに対立を仕掛けた事はなかったと思うが、彼からは数限りなく仕掛けられた。でも私も黙ってやられるはずもなく、彼は私の言い返す言葉の鋭さにこてんぱんに返り討ちにされるのだった。
それがまた、彼の憎しみを買ったに違いない。
いつしか、クラスで「南とM(私の旧姓)は犬猿の仲」と評判になり、私たちが言い合いを始めると「わーまた始まったー!!」とみんなが集まって、ちょっとした見せ物状態の体になった。
私は面倒な日々にうんざりしていたが、やがて4年生になり、南くんとはそのまままた一年同じクラスという事になってしまった。
「Mちゃんと南くんって、腐れ縁だねー」と友人が面白そうに言った。どこで覚えてきたものか、小学4年生が言うには早いセリフだと思ったものだ。彼女にしてみれば、また南くんと私のバトルが見られて退屈しないとでも思ったに違いない。
級友はささやかなイベントを楽しむ気分でいたのだろうが、剣闘士になっている当の本人同士は決して気分がいい訳ではない。南くんがバトルを楽しんでいたかどうか尋ねた事がないので知らないが、私は、相手を言い負かしてしまう自分の毒舌ぶりと、相手を打ちのめした事に優越感を感じる自分が恐ろしくて仕方なかった。そんな事をしていたら、ますます南くんは恨みを募らせるに違いない。そのうち口で歯が立たないと悟った彼から、暴力を加えられるようになるのではないかと思っていた。
馬鹿はすぐに手を出してくる。南くんは少しは賢い子だったので握りこぶしをぶるぶる震わせて、屈辱に耐えていた。しかしその忍耐もいつまでも続くとは思えなかった。
ある日、授業が始まる短い休み時間に、例によってバトルが勃発した。
私にこてんぱんに口で言い負けて、南くんの「忍耐」は長い間の屈辱から沸点に達しついに蒸発して居なくなった。可哀相な南くんの忍耐よ。君はよくやった。
忍耐を失った彼は、禁断の言葉を放った。
「お前なんかこのクラスから居なくなれ!出て行け!学校に来るな!帰れ!いますぐ帰れ!」
大人になった今なら、そんな子供の怒りに任せた発言など、大した攻撃とは思わない。
けれど、学校という社会でしか生きられない子供時代の私にとって、その社会=学校・クラスから拒絶されたに等しいその言葉は、酷いダメージだった。
売り言葉に買い言葉。
「ああそうかい。じゃあ帰るよ!」
私はカバンもランドセルも持たず、そのまま学校から家に帰った。
家に帰り、母は何事かとびっくりして問いただしたが、私はもう学校には行かないと言い続けた。
すぐに学校から電話が入り、担任が私を学校にやるようにと母に言ったらしい。母も少しは我が子を庇ってくれてもよさそうなものなのに、担任の言いなりに「今すぐ学校に行きなさい」と命令した。
「第一、ランドセルなんかどうするのよ。学校に置きっ放しで」悲しいかな、子供の私はあ、そりゃそうだなと思ってしまった。これで私の尊厳はランドセルよりも軽い事が確定した。あほ。
気まずい思いで学校に戻ると、授業そっちのけでクラス会が開催されており、南くんはクラス全員から悪者扱いされていた。「南くんが帰れと言ったのがいけないと思います」「同じ意見です」「僕も同じです」気の毒な南くんは、すっかりしょげ返り、うなだれていた。
担任は南くんに「さあ、南くん、仲直りをする気はある?」と促し、南くんは全員の前で「Mさんに、帰れといったのはいけなかったです。ごめんなさい。僕はもう、そういう事は言わないようにします」と私に頭を下げた。先生は私の手を取り、「握手しましょう」と南くんと握手させた。
…なんなんだ、これは、と思った。
茶番。南くんは、私が学校から勝手に帰ってしまうという想定外の行動を起こしたせいで、学校のクラス社会から制裁を受けてしまったのだ。なんて気の毒なんだろう。
南くんだって、忍耐が蒸発するまで、ずっと耐えていたという偉い栄光(でもないけど)の時代があったのだ。それなのに、このてんまつはどうだろう。
相手が泣けば泣かした方が悪い。
多くの人に同情された人が被害者で、多くの人に非難された人が加害者で悪者。
そんな風に単純なりくつで、一人の人を多人数で悪者にする、社会の恐ろしさを見た気がした。
しかし、それ以降、南くんは私につっかかってこなくなった。
明確に一度、「お前なっ!!」といつも通り激高した後、「…いや、やめとこう。お前をいじめるとまた勝手に帰って俺が怒られるからな」とぷいっと背を向けて行ってしまった。
なんとなくその背中を見て、寂しかった。
ケンカ相手でも、「仲間」だったんだな、と思った。
それからさらにしばらくすると、南くんは、私につっかかる代りに、勉強の事でいろいろと尋ねてくるようになった。私たちは、他のクラスメイトと同じように普通に仲良く話すようになったのだった。南くんはつるし上げにより、何かを学んだに違いなかったし、それは小学4年生の彼には良い事だったのかも知れない。そして、担任は、自分のした指導、クラス会での反省会が効を奏したと思ったに違いない。
けれど私は今でも、疑問だ。
南くん は 悪者 だったのか どうか。
何故なら、私は私が絶対的な被害者だったのではないと知っているのだから。
私の毒舌は彼を幾度となく傷つけ、突き落とし、私の目は打ちのめされた彼を見てほくそ笑んでいた。そのことを私はよく知っている。
もしかしたら、いや、本当は、被害者は、彼の方だったのに、と。
当時3、4年はクラス替えなしで持ち上がりだったので、この男子生徒とは2年間同じクラスだったわけだ。
3年生の頃、南くんと私は仲が悪かった。
当時の私は国語辞典、百科事典、物知り博士のニックネームが表す通り、はっきりとクラスメイトから頭のいい子として一目置かれる存在だった。南くんは、そんな私が気に入らなかったのだ。何故なら彼は男子で一番成績が良い子だったから。そんな彼は私をことごとくライバル視して、私の失敗を見過ごさないように常に私をマークしていた。何かもめごとがあり、私が仲裁していようものなら、そのやり方にもすかさずケチを付けてくるうっとおしい存在だった。
授業中私が手を上げれば必ず私の方を見ながら彼も手を上げた。
面倒なヤツだった。南くんのおかげで、平穏な日々がいつも乱されるのだった。私から南くんに対立を仕掛けた事はなかったと思うが、彼からは数限りなく仕掛けられた。でも私も黙ってやられるはずもなく、彼は私の言い返す言葉の鋭さにこてんぱんに返り討ちにされるのだった。
それがまた、彼の憎しみを買ったに違いない。
いつしか、クラスで「南とM(私の旧姓)は犬猿の仲」と評判になり、私たちが言い合いを始めると「わーまた始まったー!!」とみんなが集まって、ちょっとした見せ物状態の体になった。
私は面倒な日々にうんざりしていたが、やがて4年生になり、南くんとはそのまままた一年同じクラスという事になってしまった。
「Mちゃんと南くんって、腐れ縁だねー」と友人が面白そうに言った。どこで覚えてきたものか、小学4年生が言うには早いセリフだと思ったものだ。彼女にしてみれば、また南くんと私のバトルが見られて退屈しないとでも思ったに違いない。
級友はささやかなイベントを楽しむ気分でいたのだろうが、剣闘士になっている当の本人同士は決して気分がいい訳ではない。南くんがバトルを楽しんでいたかどうか尋ねた事がないので知らないが、私は、相手を言い負かしてしまう自分の毒舌ぶりと、相手を打ちのめした事に優越感を感じる自分が恐ろしくて仕方なかった。そんな事をしていたら、ますます南くんは恨みを募らせるに違いない。そのうち口で歯が立たないと悟った彼から、暴力を加えられるようになるのではないかと思っていた。
馬鹿はすぐに手を出してくる。南くんは少しは賢い子だったので握りこぶしをぶるぶる震わせて、屈辱に耐えていた。しかしその忍耐もいつまでも続くとは思えなかった。
ある日、授業が始まる短い休み時間に、例によってバトルが勃発した。
私にこてんぱんに口で言い負けて、南くんの「忍耐」は長い間の屈辱から沸点に達しついに蒸発して居なくなった。可哀相な南くんの忍耐よ。君はよくやった。
忍耐を失った彼は、禁断の言葉を放った。
「お前なんかこのクラスから居なくなれ!出て行け!学校に来るな!帰れ!いますぐ帰れ!」
大人になった今なら、そんな子供の怒りに任せた発言など、大した攻撃とは思わない。
けれど、学校という社会でしか生きられない子供時代の私にとって、その社会=学校・クラスから拒絶されたに等しいその言葉は、酷いダメージだった。
売り言葉に買い言葉。
「ああそうかい。じゃあ帰るよ!」
私はカバンもランドセルも持たず、そのまま学校から家に帰った。
家に帰り、母は何事かとびっくりして問いただしたが、私はもう学校には行かないと言い続けた。
すぐに学校から電話が入り、担任が私を学校にやるようにと母に言ったらしい。母も少しは我が子を庇ってくれてもよさそうなものなのに、担任の言いなりに「今すぐ学校に行きなさい」と命令した。
「第一、ランドセルなんかどうするのよ。学校に置きっ放しで」悲しいかな、子供の私はあ、そりゃそうだなと思ってしまった。これで私の尊厳はランドセルよりも軽い事が確定した。あほ。
気まずい思いで学校に戻ると、授業そっちのけでクラス会が開催されており、南くんはクラス全員から悪者扱いされていた。「南くんが帰れと言ったのがいけないと思います」「同じ意見です」「僕も同じです」気の毒な南くんは、すっかりしょげ返り、うなだれていた。
担任は南くんに「さあ、南くん、仲直りをする気はある?」と促し、南くんは全員の前で「Mさんに、帰れといったのはいけなかったです。ごめんなさい。僕はもう、そういう事は言わないようにします」と私に頭を下げた。先生は私の手を取り、「握手しましょう」と南くんと握手させた。
…なんなんだ、これは、と思った。
茶番。南くんは、私が学校から勝手に帰ってしまうという想定外の行動を起こしたせいで、学校のクラス社会から制裁を受けてしまったのだ。なんて気の毒なんだろう。
南くんだって、忍耐が蒸発するまで、ずっと耐えていたという偉い栄光(でもないけど)の時代があったのだ。それなのに、このてんまつはどうだろう。
相手が泣けば泣かした方が悪い。
多くの人に同情された人が被害者で、多くの人に非難された人が加害者で悪者。
そんな風に単純なりくつで、一人の人を多人数で悪者にする、社会の恐ろしさを見た気がした。
しかし、それ以降、南くんは私につっかかってこなくなった。
明確に一度、「お前なっ!!」といつも通り激高した後、「…いや、やめとこう。お前をいじめるとまた勝手に帰って俺が怒られるからな」とぷいっと背を向けて行ってしまった。
なんとなくその背中を見て、寂しかった。
ケンカ相手でも、「仲間」だったんだな、と思った。
それからさらにしばらくすると、南くんは、私につっかかる代りに、勉強の事でいろいろと尋ねてくるようになった。私たちは、他のクラスメイトと同じように普通に仲良く話すようになったのだった。南くんはつるし上げにより、何かを学んだに違いなかったし、それは小学4年生の彼には良い事だったのかも知れない。そして、担任は、自分のした指導、クラス会での反省会が効を奏したと思ったに違いない。
けれど私は今でも、疑問だ。
南くん は 悪者 だったのか どうか。
何故なら、私は私が絶対的な被害者だったのではないと知っているのだから。
私の毒舌は彼を幾度となく傷つけ、突き落とし、私の目は打ちのめされた彼を見てほくそ笑んでいた。そのことを私はよく知っている。
もしかしたら、いや、本当は、被害者は、彼の方だったのに、と。
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