2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
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自分にとって苦境がおとずれた時に
それが何か自分以外のものの力によると思うと
苦しさは何倍にもなってしまう。
特に、誰かのせいで自分が苦境に立たされたのだと思うと、
その苦しみは地獄の業火のようであろうと思う。
釈迦の教えの中にすべての苦は自分から生ずるという言葉がある。
この言葉を日頃よく思い出し 暇な時につらつらと考えている。
最近、カウンセリングも少ないし、講演の仕事もぼつぼつとしか
やらないので事実上私はとても暇である。
暇だ なんて言葉を使うのは、いったい何年ぶりなのだろうか。
おそらく最後に使ったのは高校生の頃だから26年ぶりくらい。
何故それ以来、暇じゃなくなったのかと言えば、私自身が私に休暇を許さなかったからだ。
暇だなんて言うことは許されていなかった。
やるべきことは常になにかあったし、仕事のこと、未来のためにしておくべきことはいつだって山のようにあったのだ。
ここ数年間は、常にNPOの為に仕事をしていた。
きりのない、そして終わりのない仕事。
家事が終わり、子供の手が離れるとすぐにパソコンの前に座り事務作業をしたり、これからの計画の為に必要なデザイン作業や講義に入れる資料作り、下調べ。
いつもいつも、仕事のことを考えていた。
正月休みに実家にいる時も、温泉に入っている時も。
それから、外国から来る講師たちの為に何が出来るかと考えたり、準備したり。泊まりがけのワークをいつやろうかとか。
最近、そのような仕事頭をオヤスミすることができる瞬間が多くなった。
常任の理事であるから、常に責任がある、という考えを自分からおろしてみたのだ。
私は、常任の理事を務めなくても、講師として働くことで十分に働いていると、認識を改めた。
事務作業などしなくても、私は十分にやっている。
これまで、私だけは特別に重い義務があるのだから自由に寝ることさえも許されずいつも仕事しなければいけないのだと思い込んでいたように思う。文句ではなく、事実として、他の理事だっていつもNPOの仕事を負担しているのではないのだ。私だけがいつでも仕事を負担しないといけないと、ずーーっと思い込んで来た。
現実を見たら、私も他の理事も、NPOから理事報酬としてのお金を受け取っていない。
他の理事に対して、「お金も受け取っていないのだから仕事を義務として引き受けないのは仕方ないな」と思っていたが、自分にだけはそれを適用していなかった。自分だけは他の人が放り出したり自己都合で出来ないと言った分まですべて、引き受けてどんなに苦しくてもやらなければならない存在なのだと思い込んでいたのだ。しかも、無償で、無限に。
どうして私だけがそんなに重い責任を負わなければならないのか?
ああ、ナンセンスなのだと、気付いた。
私だけが私生活をすべて投げ打って、死ぬ思いをしてやらなければいけないなんて、おかしいのだ。
馬鹿馬鹿しいほどに当たり前なのだけれど、目からうろことはこの事だ。
私の、このようなおかしな思い込みによって、うちのNPOのボランティアは動かないのだ、と思っている。私が、辛そうに仕事しているから、その側に人が来ないのだと。
私はどこかで、自分がこんなに仕事に追われ苦しんでいるのは、誰かのせいだと思っていなかっただろうか。そんなことを僅かでも思っているなら、それは当然、人に伝わる。
人が寄りつかないのは当然のことなのだ。
すべては自分から生ずるのだ。
私は、もっと自分に対しても公平に振る舞うべきだと気付いた。
やれる分を一生懸命誠実にやっていけばいい。楽しんで。
気楽に、人が見て楽しそうに見えるような具合に。
私は今、暇である。
その暇は、NPOにすべて捧げなければならないものではないのだ。
私の暇は、私の自由に使って良いはずなのだ。
呼吸をする自由を取り戻そう。力を蓄えよう。うたた寝をしよう。
笑顔でいられるように。健康でいられるように。
悲壮な生き方をやめるべきだ。
そうしたからといって、私は、困っている人のことを忘れたりはしない。
助けに行ける機会を、見逃したりはしないのだから。
それが私のライフワークなのだ。
焦らず長く続けられる分量を調節していこう。
ああ 久しぶりにクリスに会いたいな。
私の魂の産婆さん。
宮古島のエメラルド波の音を聴きたい。
石垣の風に吹かれたい。
何度でも、生まれ変わらせてくれる、あの沖縄の離島。
魂の故郷。
それが何か自分以外のものの力によると思うと
苦しさは何倍にもなってしまう。
特に、誰かのせいで自分が苦境に立たされたのだと思うと、
その苦しみは地獄の業火のようであろうと思う。
釈迦の教えの中にすべての苦は自分から生ずるという言葉がある。
この言葉を日頃よく思い出し 暇な時につらつらと考えている。
最近、カウンセリングも少ないし、講演の仕事もぼつぼつとしか
やらないので事実上私はとても暇である。
暇だ なんて言葉を使うのは、いったい何年ぶりなのだろうか。
おそらく最後に使ったのは高校生の頃だから26年ぶりくらい。
何故それ以来、暇じゃなくなったのかと言えば、私自身が私に休暇を許さなかったからだ。
暇だなんて言うことは許されていなかった。
やるべきことは常になにかあったし、仕事のこと、未来のためにしておくべきことはいつだって山のようにあったのだ。
ここ数年間は、常にNPOの為に仕事をしていた。
きりのない、そして終わりのない仕事。
家事が終わり、子供の手が離れるとすぐにパソコンの前に座り事務作業をしたり、これからの計画の為に必要なデザイン作業や講義に入れる資料作り、下調べ。
いつもいつも、仕事のことを考えていた。
正月休みに実家にいる時も、温泉に入っている時も。
それから、外国から来る講師たちの為に何が出来るかと考えたり、準備したり。泊まりがけのワークをいつやろうかとか。
最近、そのような仕事頭をオヤスミすることができる瞬間が多くなった。
常任の理事であるから、常に責任がある、という考えを自分からおろしてみたのだ。
私は、常任の理事を務めなくても、講師として働くことで十分に働いていると、認識を改めた。
事務作業などしなくても、私は十分にやっている。
これまで、私だけは特別に重い義務があるのだから自由に寝ることさえも許されずいつも仕事しなければいけないのだと思い込んでいたように思う。文句ではなく、事実として、他の理事だっていつもNPOの仕事を負担しているのではないのだ。私だけがいつでも仕事を負担しないといけないと、ずーーっと思い込んで来た。
現実を見たら、私も他の理事も、NPOから理事報酬としてのお金を受け取っていない。
他の理事に対して、「お金も受け取っていないのだから仕事を義務として引き受けないのは仕方ないな」と思っていたが、自分にだけはそれを適用していなかった。自分だけは他の人が放り出したり自己都合で出来ないと言った分まですべて、引き受けてどんなに苦しくてもやらなければならない存在なのだと思い込んでいたのだ。しかも、無償で、無限に。
どうして私だけがそんなに重い責任を負わなければならないのか?
ああ、ナンセンスなのだと、気付いた。
私だけが私生活をすべて投げ打って、死ぬ思いをしてやらなければいけないなんて、おかしいのだ。
馬鹿馬鹿しいほどに当たり前なのだけれど、目からうろことはこの事だ。
私の、このようなおかしな思い込みによって、うちのNPOのボランティアは動かないのだ、と思っている。私が、辛そうに仕事しているから、その側に人が来ないのだと。
私はどこかで、自分がこんなに仕事に追われ苦しんでいるのは、誰かのせいだと思っていなかっただろうか。そんなことを僅かでも思っているなら、それは当然、人に伝わる。
人が寄りつかないのは当然のことなのだ。
すべては自分から生ずるのだ。
私は、もっと自分に対しても公平に振る舞うべきだと気付いた。
やれる分を一生懸命誠実にやっていけばいい。楽しんで。
気楽に、人が見て楽しそうに見えるような具合に。
私は今、暇である。
その暇は、NPOにすべて捧げなければならないものではないのだ。
私の暇は、私の自由に使って良いはずなのだ。
呼吸をする自由を取り戻そう。力を蓄えよう。うたた寝をしよう。
笑顔でいられるように。健康でいられるように。
悲壮な生き方をやめるべきだ。
そうしたからといって、私は、困っている人のことを忘れたりはしない。
助けに行ける機会を、見逃したりはしないのだから。
それが私のライフワークなのだ。
焦らず長く続けられる分量を調節していこう。
ああ 久しぶりにクリスに会いたいな。
私の魂の産婆さん。
宮古島のエメラルド波の音を聴きたい。
石垣の風に吹かれたい。
何度でも、生まれ変わらせてくれる、あの沖縄の離島。
魂の故郷。
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