2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
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試写会が当たったので一人でお出かけした。
まだ開場30分前だというのに、すでに100人くらいの列が
出来ている。びっくり。
養老孟子の「逆さメガネ」を読みながら列に並ぶ。
開場しゆっくりと列が進み、場内の席を確保したあとも、上映
時間までまだあと30分ある。また養老さんの本を読みふける。
Trickの感想としては「これまでの作品をきれいに踏襲した一作」
で、質を保っている点は評価したい。
お約束のギャグが満載だったが、主に50代以上の人だけが笑っ
ていたような印象。人がどこでどれくらいウケるのか分かるとい
う点では、映画館や試写会は面白いなと思った。
自分の笑いのツボは人とはやはりずれているようだなとも思った。
今回の会場は、福岡の試写会会場のメッカ、津久志会館だったが
やはり映画館の音響設備には負ける。映画はどうしたって、映画
館で見るのが一番面白い。津久志会館は舞台としての音響しか備
えておらず、スクリーンも小さくて迫力に欠ける。
本作に限らず、楽しみにしている作品があったら、是非映画館で
観て欲しい。映画を作る側の作り手は、必ず映画館で上映される
ことを前提に全ての設計をして作っている。だからベストの状態
は映画館だ。
お手軽にDVDを借りて観ることが出来る時代だけれど、映画館
の楽しさを忘れたくはないものだなあと思った。
それにしても、平日の夜にこんなに試写会に足を運べる人が大勢
いるとは、びっくりだ。みんな、残業がないんだろうか。
私が会社勤めをしていた頃は、7時のイベントなんてどうやった
って参加することは無理だったが。
残業で11時になる事は日常茶飯事。月に何回も会社に泊まるは
めになる。今思えばよく働いていたものだなあ。
にゃむっ。(仲間由紀恵のセリフです)
まだ開場30分前だというのに、すでに100人くらいの列が
出来ている。びっくり。
養老孟子の「逆さメガネ」を読みながら列に並ぶ。
開場しゆっくりと列が進み、場内の席を確保したあとも、上映
時間までまだあと30分ある。また養老さんの本を読みふける。
Trickの感想としては「これまでの作品をきれいに踏襲した一作」
で、質を保っている点は評価したい。
お約束のギャグが満載だったが、主に50代以上の人だけが笑っ
ていたような印象。人がどこでどれくらいウケるのか分かるとい
う点では、映画館や試写会は面白いなと思った。
自分の笑いのツボは人とはやはりずれているようだなとも思った。
今回の会場は、福岡の試写会会場のメッカ、津久志会館だったが
やはり映画館の音響設備には負ける。映画はどうしたって、映画
館で見るのが一番面白い。津久志会館は舞台としての音響しか備
えておらず、スクリーンも小さくて迫力に欠ける。
本作に限らず、楽しみにしている作品があったら、是非映画館で
観て欲しい。映画を作る側の作り手は、必ず映画館で上映される
ことを前提に全ての設計をして作っている。だからベストの状態
は映画館だ。
お手軽にDVDを借りて観ることが出来る時代だけれど、映画館
の楽しさを忘れたくはないものだなあと思った。
それにしても、平日の夜にこんなに試写会に足を運べる人が大勢
いるとは、びっくりだ。みんな、残業がないんだろうか。
私が会社勤めをしていた頃は、7時のイベントなんてどうやった
って参加することは無理だったが。
残業で11時になる事は日常茶飯事。月に何回も会社に泊まるは
めになる。今思えばよく働いていたものだなあ。
にゃむっ。(仲間由紀恵のセリフです)
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夫の兄が亡くなって、早くも三回忌が行われることになった。
兄が倒れたと聞いたのは広島でバリーさんのセミナーに参加中のことだった。
桜が咲き誇る時期だった。
兄の病院からの帰りに大阪で見た夜桜とひとけの無くなったアーケード街も 先月の事のように思い出されるけどもう、3年経ったなんて。
夫は兄の年においつき、亡くなった兄の年齢と同じ年になろうとしている。
そして兄の年を抜いて 兄が生きなかった年齢の人生を進めて行く。
不思議だね。
死んだ人は立ち止まって もうそこから先へは進まない。
彼らの足跡を辿れるのは彼らが生きた日数分だけなのだ。
でもそれはもしかしたら私たちが知覚できる世界での話に過ぎないのかも知れない。
本当に輪廻転生があるのなら、この世界での体に終わりがきたら 魂は次の時代、次の命へと生まれ変わってもしかしたらもうすぐ側で生きている。
今生きている命も 死んでまたどこかへ旅立ち 別の形で生まれてくる。
はかないというよりも それがごく自然だと感じる今日この頃。
死ぬことは少しも怖いことではないと感じる今日この頃。
毎日が 死ぬ日のための準備を少しづつ整えるもの。
変わって行くことと共に生きる日々。
兄が倒れたと聞いたのは広島でバリーさんのセミナーに参加中のことだった。
桜が咲き誇る時期だった。
兄の病院からの帰りに大阪で見た夜桜とひとけの無くなったアーケード街も 先月の事のように思い出されるけどもう、3年経ったなんて。
夫は兄の年においつき、亡くなった兄の年齢と同じ年になろうとしている。
そして兄の年を抜いて 兄が生きなかった年齢の人生を進めて行く。
不思議だね。
死んだ人は立ち止まって もうそこから先へは進まない。
彼らの足跡を辿れるのは彼らが生きた日数分だけなのだ。
でもそれはもしかしたら私たちが知覚できる世界での話に過ぎないのかも知れない。
本当に輪廻転生があるのなら、この世界での体に終わりがきたら 魂は次の時代、次の命へと生まれ変わってもしかしたらもうすぐ側で生きている。
今生きている命も 死んでまたどこかへ旅立ち 別の形で生まれてくる。
はかないというよりも それがごく自然だと感じる今日この頃。
死ぬことは少しも怖いことではないと感じる今日この頃。
毎日が 死ぬ日のための準備を少しづつ整えるもの。
変わって行くことと共に生きる日々。
娘の学校で 同じクラスになった子のお母さんとメールでコミュニケーションをすることがある。
そういう関係の人のなかで、この人はある意味、私の師だなあと思っている人がいる。
私は人に対して気さくな口をきくのが非常に苦手で、いわゆる「ためぐち」というのが使えない。
私の方がどうしても崩れないものだから、堅苦しいのだろう、徐々にママ友だった人との距離が開いていく。
ところが、距離が開かない稀な人が一人居る。
そのママは 最初のご挨拶を学校で交わした後、一本目のメールから「こんばんワニ(ハート)」と送ってきた。言葉の端々にモジリが入っていて、しかもケロロ軍曹のデコメ。こんなメールをもらったのは初めてで、笑ってしまった。
毎回、デコメの使い方も非常に上手で、気持ちがとてもよく伝わってくるのだ。そして、彼女のメールはいつもベタなモジリ言葉が入っている。最近はすっかり染められてしまって、彼女に送る時には私もモジり言葉を入れてみたりする。
互いに、宿題に何がでたか分からないときや準備するものがわからないときに気軽に聞き合う関係で、今日もちょっと確認したいことを教えてもらったので「サンキューサマンサ(ハート)」と送ってみた。するとすぐに「どういたちまち子(ハート)」と返ってくる。
こういう言葉遊びは、重要で、かつ高度なコミュニケーションスキルなのだと思う。
真面目に丁寧に書けば誠意が伝わるとは限らない。彼女の巧みなスキルには学ぶべき処がたくさんある。
同じように、若者のメール文化にも必ず学ぶ処があるだろうと思う。
世界中に師が大勢居る。
学べることがたくさんある。
人生は素敵だなあ。
たくさんの師に感謝。
そういう関係の人のなかで、この人はある意味、私の師だなあと思っている人がいる。
私は人に対して気さくな口をきくのが非常に苦手で、いわゆる「ためぐち」というのが使えない。
私の方がどうしても崩れないものだから、堅苦しいのだろう、徐々にママ友だった人との距離が開いていく。
ところが、距離が開かない稀な人が一人居る。
そのママは 最初のご挨拶を学校で交わした後、一本目のメールから「こんばんワニ(ハート)」と送ってきた。言葉の端々にモジリが入っていて、しかもケロロ軍曹のデコメ。こんなメールをもらったのは初めてで、笑ってしまった。
毎回、デコメの使い方も非常に上手で、気持ちがとてもよく伝わってくるのだ。そして、彼女のメールはいつもベタなモジリ言葉が入っている。最近はすっかり染められてしまって、彼女に送る時には私もモジり言葉を入れてみたりする。
互いに、宿題に何がでたか分からないときや準備するものがわからないときに気軽に聞き合う関係で、今日もちょっと確認したいことを教えてもらったので「サンキューサマンサ(ハート)」と送ってみた。するとすぐに「どういたちまち子(ハート)」と返ってくる。
こういう言葉遊びは、重要で、かつ高度なコミュニケーションスキルなのだと思う。
真面目に丁寧に書けば誠意が伝わるとは限らない。彼女の巧みなスキルには学ぶべき処がたくさんある。
同じように、若者のメール文化にも必ず学ぶ処があるだろうと思う。
世界中に師が大勢居る。
学べることがたくさんある。
人生は素敵だなあ。
たくさんの師に感謝。
人が人と関わると それが真剣であれば真剣であるだけ 深く傷付くことがある。
特に 親子。 特に 恋人。
相手に対して真剣だからこそ 無防備な優しい部分を深く傷つけてしまったり逆に傷ついたりする。
今の私にとって 人と関係性を持つということは
「私を傷つけてもいいよ」という相手への許可だ。
その人が私を傷つけるとしたら それは間違いなく その人が生身である証拠だ。
それを歓迎する。生身の人間と付き合うことを歓迎する。
その人が私の事を深く思ってくれず もしかしたら自分のエゴばかりに走って乱暴な言動をしたために 私は深く深く傷付くかもしれない。
けれど それが起きても いいよ と私は相手を許している。
最初からその覚悟で 人と付き合っている。
そして 言うチャンスがあれば本当に言葉で言うのだけれど 相手にこう伝える。
「あなたとこうして深く付き合うことで未来に何が起こるとしても 私は決してあなたを恨まず あなたのしたすべてを許すと約束します。」
これは相手への約束というよりは 自分自身への誓約だ。
傷つけることを恐れて言いたいことを言わないより 言いたいことを言って傷つけて欲しい。
私は 恨まない。それが私の誓いだ。私は自分との誓約を命をかけて守る。そういう自分でありたいという誓約を守ることが自分自身への誠実さだ。
私は 自分のエゴで人を傷つけることが 可能な限り、無いようにと願う。それを願って言動に可能な限り気を配る。相手の器に入る程度までは私も相手に正直な気持ちを伝える。
それが私にとって 誠実に生きるということであり 同時に自分自身に対して誠実であるということ。
傷つけても許すよ。
それが私の 今生での誓約、菩薩行の実践。
特に 親子。 特に 恋人。
相手に対して真剣だからこそ 無防備な優しい部分を深く傷つけてしまったり逆に傷ついたりする。
今の私にとって 人と関係性を持つということは
「私を傷つけてもいいよ」という相手への許可だ。
その人が私を傷つけるとしたら それは間違いなく その人が生身である証拠だ。
それを歓迎する。生身の人間と付き合うことを歓迎する。
その人が私の事を深く思ってくれず もしかしたら自分のエゴばかりに走って乱暴な言動をしたために 私は深く深く傷付くかもしれない。
けれど それが起きても いいよ と私は相手を許している。
最初からその覚悟で 人と付き合っている。
そして 言うチャンスがあれば本当に言葉で言うのだけれど 相手にこう伝える。
「あなたとこうして深く付き合うことで未来に何が起こるとしても 私は決してあなたを恨まず あなたのしたすべてを許すと約束します。」
これは相手への約束というよりは 自分自身への誓約だ。
傷つけることを恐れて言いたいことを言わないより 言いたいことを言って傷つけて欲しい。
私は 恨まない。それが私の誓いだ。私は自分との誓約を命をかけて守る。そういう自分でありたいという誓約を守ることが自分自身への誠実さだ。
私は 自分のエゴで人を傷つけることが 可能な限り、無いようにと願う。それを願って言動に可能な限り気を配る。相手の器に入る程度までは私も相手に正直な気持ちを伝える。
それが私にとって 誠実に生きるということであり 同時に自分自身に対して誠実であるということ。
傷つけても許すよ。
それが私の 今生での誓約、菩薩行の実践。
泣いたり 怒ったり 怖くなったりする。
人間なら誰でも。
それが自然な営みだから。
なのに それをことさら「してはいけないこと」のように思っていないだろうか、私たちは。
人と言い争ったり 衝突したりしてはいけないと 幼い頃から教え過ぎていないだろうか、私たちは。
幼稚園や保育園で、あるいは家庭の中で 子供が二人いれば必ず争いは生まれる。
お互いの主張がぶつかるのは お互いが自分の価値を守ろうとしている時に自然に発生することだ。
そんな時に けんかしちゃだめ とだけ教えられてきたのが 今現役の親になった世代ではないだろうか。けんかしちゃだめ というメッセージが強くなり過ぎて 主張することもだめということになってしまっていないだろうか。
今、保育園でも幼稚園でも 子供たちがけんかになると 先生がすぐにすっとんできて すぐにけんかをやめさせ 二人に謝らせ けんかしてはダメと教える。
家庭では 兄弟げんかがおきれば 親がどちらをより叱るにしろ ケンカがいけないと教える。
子供たちは ケンカそのものがいけないと教わり 自分の感情も相手の感情も出すべきではなかったと学んでいるのではないだろうか。私はカウンセリングをしていてそう思う。カウンセリングに来る人たちはみんな、けんかの出来ない人ばかりだ。
子供が幼い頃、もう少しだけ ケンカをとめるのを待てないだろうか。
殴り合いやつかみ合いをほっとけとは言わないが お互いが感情をむき出しにし 何を主張し合っているのか明確にするくらい 許せないだろうか。
そして 殴り合わなくても しっかり主張して お互いの気持ちは同じくらい重みがあるのだと感じられるように 言いたいことを最後まで 20分くらい言えるようにできないだろうか。
それをするには まず大人たちが人間は感情的になるものだということを 内蔵までしっかり根を下ろしたレベルで理解し 自分の感情も受け入れ 許している必要がある。自分の感情を押し殺すだけの方法ではなく より豊かに自分の感情を使い 人間としておおらかに生きている大人なら 感情に向き合うのは少しの時間が必要だとわかっているし 子供に限らず相手の感情にも付き合えるだろう。
まっすぐな生命エネルギーに満ちた、子供の純粋で爆発的な感情に触れる準備を 日頃からしている大人が大勢いれば 子供はその大人の太い幹の側で まっすぐに育つだろう。
自分の感情は 忌むべきものでも未熟の証でもなく ただ人間として自然なものだと受け入れ その上で 感情とどう付き合えば自分をより成長させるのかを考えはじめるだろう。
どこにも逃げずどっしりと腰を据えて座り 相手の生の感情に触れる。そして自分の生々しい感情にも触れる。涙も怒りも不安も 外からも内側からもやってくるものを迎え入れる。
それを使って傷つけあうのではなく 解り合うのだと信じながら 感情を決して殺さずに触れ合うことができれば 私たちは本当に自分との関係性を修復し そして自分以外の人間と絆を結ぶことができるのではないだろうか。
人間は自然であることを捨ててはいけない。
人間は 人工物ではなく 自然物なのだから。
生々しい感情は 醜いものではなく ただ自然の営みだ。
けんかしていいではないか。
けんかを避け過ぎたために 私たちが自分とも相手ともきちんと関われなくなっていることの方が 大きくて深刻な問題なのだ。
けんかしても 関係は壊れるとは限らず より絆を深める為にけんかすることもあると受け入れてみるのは、そんなに怖いことだろうか。
相手の感情に触れたからといって または 自分の感情が溢れたからといって 恐れたり恥じたりして逃げ出すような そんなひ弱な関係性では 不安で生きられず 孤独に耐えられないのではないのか。
自分の中の自然を受け入れることを学ぼう。
それが 結局は地球の環境問題とも世界の戦争とも関わっている。
今人間が抱えている問題のほぼすべてが 自分の中の自然を壊した為に起きているのだ。
自分の中の自然を受け入れることを学ぼう。
自分の中の破壊された自然を回復しよう。
私は それを多くの人たちと一緒に学びたい。
私が人々を導くほどの存在であるかは解らないけれど 共に学ぶことならできると思う。
自分を見つめるスキルを得て 瞑想する場を造ること。
そして自然豊かな場所に庵を結んで 私流の内観道場を開きたい。
その未来の為に 生きている気がする。
「心のヨガ教室Twin Wings」と命名した教室は 以前のセルフカウンセリングクラスの延長線上、そして私流ゲシュタルト道場へ続く一歩。ゲシュタルトの気付きのスキルと内観はよく似ていると思う。でも私が内観道場をするなら決して責めない内観。静かで豊かさへと続く内観。自分の過去を整理し未来の可能性を拓く内観。
それを提供する場を 一日も早く作りたい。
ゲシュタルトと言っても普通の人には解りにくいから、内観道場と言うだろうけど、早くそれを実現したい。
生きるのに疲れた時 静かにただ自分に触れるための避難場所。
自然に還る場所。
人間なら誰でも。
それが自然な営みだから。
なのに それをことさら「してはいけないこと」のように思っていないだろうか、私たちは。
人と言い争ったり 衝突したりしてはいけないと 幼い頃から教え過ぎていないだろうか、私たちは。
幼稚園や保育園で、あるいは家庭の中で 子供が二人いれば必ず争いは生まれる。
お互いの主張がぶつかるのは お互いが自分の価値を守ろうとしている時に自然に発生することだ。
そんな時に けんかしちゃだめ とだけ教えられてきたのが 今現役の親になった世代ではないだろうか。けんかしちゃだめ というメッセージが強くなり過ぎて 主張することもだめということになってしまっていないだろうか。
今、保育園でも幼稚園でも 子供たちがけんかになると 先生がすぐにすっとんできて すぐにけんかをやめさせ 二人に謝らせ けんかしてはダメと教える。
家庭では 兄弟げんかがおきれば 親がどちらをより叱るにしろ ケンカがいけないと教える。
子供たちは ケンカそのものがいけないと教わり 自分の感情も相手の感情も出すべきではなかったと学んでいるのではないだろうか。私はカウンセリングをしていてそう思う。カウンセリングに来る人たちはみんな、けんかの出来ない人ばかりだ。
子供が幼い頃、もう少しだけ ケンカをとめるのを待てないだろうか。
殴り合いやつかみ合いをほっとけとは言わないが お互いが感情をむき出しにし 何を主張し合っているのか明確にするくらい 許せないだろうか。
そして 殴り合わなくても しっかり主張して お互いの気持ちは同じくらい重みがあるのだと感じられるように 言いたいことを最後まで 20分くらい言えるようにできないだろうか。
それをするには まず大人たちが人間は感情的になるものだということを 内蔵までしっかり根を下ろしたレベルで理解し 自分の感情も受け入れ 許している必要がある。自分の感情を押し殺すだけの方法ではなく より豊かに自分の感情を使い 人間としておおらかに生きている大人なら 感情に向き合うのは少しの時間が必要だとわかっているし 子供に限らず相手の感情にも付き合えるだろう。
まっすぐな生命エネルギーに満ちた、子供の純粋で爆発的な感情に触れる準備を 日頃からしている大人が大勢いれば 子供はその大人の太い幹の側で まっすぐに育つだろう。
自分の感情は 忌むべきものでも未熟の証でもなく ただ人間として自然なものだと受け入れ その上で 感情とどう付き合えば自分をより成長させるのかを考えはじめるだろう。
どこにも逃げずどっしりと腰を据えて座り 相手の生の感情に触れる。そして自分の生々しい感情にも触れる。涙も怒りも不安も 外からも内側からもやってくるものを迎え入れる。
それを使って傷つけあうのではなく 解り合うのだと信じながら 感情を決して殺さずに触れ合うことができれば 私たちは本当に自分との関係性を修復し そして自分以外の人間と絆を結ぶことができるのではないだろうか。
人間は自然であることを捨ててはいけない。
人間は 人工物ではなく 自然物なのだから。
生々しい感情は 醜いものではなく ただ自然の営みだ。
けんかしていいではないか。
けんかを避け過ぎたために 私たちが自分とも相手ともきちんと関われなくなっていることの方が 大きくて深刻な問題なのだ。
けんかしても 関係は壊れるとは限らず より絆を深める為にけんかすることもあると受け入れてみるのは、そんなに怖いことだろうか。
相手の感情に触れたからといって または 自分の感情が溢れたからといって 恐れたり恥じたりして逃げ出すような そんなひ弱な関係性では 不安で生きられず 孤独に耐えられないのではないのか。
自分の中の自然を受け入れることを学ぼう。
それが 結局は地球の環境問題とも世界の戦争とも関わっている。
今人間が抱えている問題のほぼすべてが 自分の中の自然を壊した為に起きているのだ。
自分の中の自然を受け入れることを学ぼう。
自分の中の破壊された自然を回復しよう。
私は それを多くの人たちと一緒に学びたい。
私が人々を導くほどの存在であるかは解らないけれど 共に学ぶことならできると思う。
自分を見つめるスキルを得て 瞑想する場を造ること。
そして自然豊かな場所に庵を結んで 私流の内観道場を開きたい。
その未来の為に 生きている気がする。
「心のヨガ教室Twin Wings」と命名した教室は 以前のセルフカウンセリングクラスの延長線上、そして私流ゲシュタルト道場へ続く一歩。ゲシュタルトの気付きのスキルと内観はよく似ていると思う。でも私が内観道場をするなら決して責めない内観。静かで豊かさへと続く内観。自分の過去を整理し未来の可能性を拓く内観。
それを提供する場を 一日も早く作りたい。
ゲシュタルトと言っても普通の人には解りにくいから、内観道場と言うだろうけど、早くそれを実現したい。
生きるのに疲れた時 静かにただ自分に触れるための避難場所。
自然に還る場所。
私は極端にあまのじゃくなのかもしれないけれども
人から言われた事は とりあえずやらない
という面がある。
親から常に心の自由を奪われていたせいかも知れない。
幼い頃から親の言葉は厳しく、実際に体罰も恐怖に
満ちたもので、私は自分の安全を信じていなかった。
親の腕力は強く 権力は絶大で 子供である私は大
人には叶わないのだと心底思い知らされていた。
だから 怖れから常に親の言いつけに従順だったし、
親の望む子供であろうと精一杯努力し続けた。
自分の感じ方も偽り 本当の感情を押し殺し親の期
待する子供の像を演じてそれになりきろうとした。
大人になって、それがどれほどの自分自身への裏切
りであったかが初めて解り、どうして自分が幼い頃
から遺書を書くような苦しい思いをして生きていた
のかが解った。
自分の中に取り込んだ親に自分自身を完全に明け渡
してしまっていたために 私の心はいつも誰かの命
令に侵されていたのだった。
それらの命令を自分の中から排除する為に数年、格
闘した。何度もくじけそうになったし、自分自身の
傷の痛みに負けそうになり、何度も死にそうにもな
った。
今、心の中に、他人のつけた傷はあっても、私に命
令する誰かはもう居ない。私に命令したり指図でき
るのは、この世に唯一、私自身だけなのだ。
だから私は、もう誰の命令にも従わない。
ただ、他者に侵されていた心には深い傷が残ってい
て 単なる好意からのお薦めだと解っているのに、
アレルギー反応のように とりあえず受付けないと
いう反応が起きる。
人がそれを好意で薦めてくれただけだ、とか
ただの助言だ、と頭ではなく心が納得するためには
少し時間がかかる場合が多い。
でも仕方がない。用心深いのは当たり前なのだ。
過去に牢獄のような場所に閉じこめられていたのだ
から。もう一度鎖に繋がれたら今度こそ心が壊れて
しまうだろう。
私の母は、そんな私の事をこれっぽっちも理解しな
い。
「ほら、こうすればいいじゃないの。こうしなさい
よ。これがいいって言ってるでしょう」
と易々と私に強要する。
その場で素直に笑顔で受け入れない限り、母は不機
嫌になる。だが私ももう、母の不機嫌ごときには構
っていられない。
「うん、わかった。後でそうしてみる」と言うのが
精一杯の母への気遣いだ。
「なーんか素直じゃないわね、あんたは」母は不満
げに子供の頃の私と対応が違うことをなじる。
悲しいが 言われたことに素直になんて従えない。
私が私に命じるまでは私はそれを「しない」。
もう誰の言うことも 鵜呑みにはしないと決めたの
だから。
ただ 時間が欲しいだけなの
自分のためになる助言なら 後でゆっくり安全を確
認した上で きちんと採用するから
目の前で従わないからと そんなに怒らないで
私を嫌わないで
薬を今飲めと 無理やりに口をこじ開けないで
自分でちゃんと 考えて覚悟してからゆっくり飲む
から
自分で ちゃんと飲めるから
信頼してよ 脅さないでよ
幼い頃、そう言えたなら本当に良かったのに。
おこがましいことかもしれないけれども
こうして生き延びることができ、自由になれた私こ
そは 幼い子供たちの代弁者でなければならないと
感じる。
もう誰の言うことも聞かないと言う自分の傷に触れ
ると 今この瞬間 親たちに押しつぶされて 言葉
を発することのできない幼い子供たちの代りに 私
は彼らの声を代弁しなければと思う。
生まれつき 素直でない子供なんていない
彼らが どうして 拒絶するようになったのかを
考えて欲しい
本当に 愛しているのなら!
人から言われた事は とりあえずやらない
という面がある。
親から常に心の自由を奪われていたせいかも知れない。
幼い頃から親の言葉は厳しく、実際に体罰も恐怖に
満ちたもので、私は自分の安全を信じていなかった。
親の腕力は強く 権力は絶大で 子供である私は大
人には叶わないのだと心底思い知らされていた。
だから 怖れから常に親の言いつけに従順だったし、
親の望む子供であろうと精一杯努力し続けた。
自分の感じ方も偽り 本当の感情を押し殺し親の期
待する子供の像を演じてそれになりきろうとした。
大人になって、それがどれほどの自分自身への裏切
りであったかが初めて解り、どうして自分が幼い頃
から遺書を書くような苦しい思いをして生きていた
のかが解った。
自分の中に取り込んだ親に自分自身を完全に明け渡
してしまっていたために 私の心はいつも誰かの命
令に侵されていたのだった。
それらの命令を自分の中から排除する為に数年、格
闘した。何度もくじけそうになったし、自分自身の
傷の痛みに負けそうになり、何度も死にそうにもな
った。
今、心の中に、他人のつけた傷はあっても、私に命
令する誰かはもう居ない。私に命令したり指図でき
るのは、この世に唯一、私自身だけなのだ。
だから私は、もう誰の命令にも従わない。
ただ、他者に侵されていた心には深い傷が残ってい
て 単なる好意からのお薦めだと解っているのに、
アレルギー反応のように とりあえず受付けないと
いう反応が起きる。
人がそれを好意で薦めてくれただけだ、とか
ただの助言だ、と頭ではなく心が納得するためには
少し時間がかかる場合が多い。
でも仕方がない。用心深いのは当たり前なのだ。
過去に牢獄のような場所に閉じこめられていたのだ
から。もう一度鎖に繋がれたら今度こそ心が壊れて
しまうだろう。
私の母は、そんな私の事をこれっぽっちも理解しな
い。
「ほら、こうすればいいじゃないの。こうしなさい
よ。これがいいって言ってるでしょう」
と易々と私に強要する。
その場で素直に笑顔で受け入れない限り、母は不機
嫌になる。だが私ももう、母の不機嫌ごときには構
っていられない。
「うん、わかった。後でそうしてみる」と言うのが
精一杯の母への気遣いだ。
「なーんか素直じゃないわね、あんたは」母は不満
げに子供の頃の私と対応が違うことをなじる。
悲しいが 言われたことに素直になんて従えない。
私が私に命じるまでは私はそれを「しない」。
もう誰の言うことも 鵜呑みにはしないと決めたの
だから。
ただ 時間が欲しいだけなの
自分のためになる助言なら 後でゆっくり安全を確
認した上で きちんと採用するから
目の前で従わないからと そんなに怒らないで
私を嫌わないで
薬を今飲めと 無理やりに口をこじ開けないで
自分でちゃんと 考えて覚悟してからゆっくり飲む
から
自分で ちゃんと飲めるから
信頼してよ 脅さないでよ
幼い頃、そう言えたなら本当に良かったのに。
おこがましいことかもしれないけれども
こうして生き延びることができ、自由になれた私こ
そは 幼い子供たちの代弁者でなければならないと
感じる。
もう誰の言うことも聞かないと言う自分の傷に触れ
ると 今この瞬間 親たちに押しつぶされて 言葉
を発することのできない幼い子供たちの代りに 私
は彼らの声を代弁しなければと思う。
生まれつき 素直でない子供なんていない
彼らが どうして 拒絶するようになったのかを
考えて欲しい
本当に 愛しているのなら!
最近、娘と二人だけでお出かけするのが楽しい。
娘は最近、マンガの主人公に夢中で、女の子っぽくなってきた。
それと同時に、雑貨や文房具をただ見て回るというウィンドウショッピングの楽しさが解るようになったようで、二人で何となく楽しく時間を潰せるようになった。
ファッションにはあまり関心が無く、もっぱら雑貨という処が私と共通している。
これ可愛いね、とか わあこんな変わったのがあるよ、とか二人で色々言いながらお店をはしごする。
先日、試写会があたったので、夫と行こうか迷ったのだが娘と行くことにした。
ダーリンは外国人 である。原作コミックを私が買っていたので、娘も読んでいて、この作品のファンだったので、連れて行ってあげようかと言うととても喜んだ。
イオンモール筑紫野のワーナーまで行く道のりは、鳥栖や武雄への出張と同じルートで、1時間20分ほどのドライブになる。いつもこの道で仕事に行くよとか、日頃のんびり話せないことをいろいろお話しながら、何とか開場時間に間に合った。イオンモールはどこも大体作りが同じだけれど、筑紫野は志免のルクルより広く感じた。
映画が始まる前の20分くらい、ブラブラお店を見て回った。
映画が始まると、娘はたぶん会場の中で一番リアクションが大きかったかもしれないというくらい、笑ったり、歓声を上げたり、泣いたりしていた。
終わってから、「ママー、私ね、犬の出てくる映画以外で、初めて泣いたかも」と言った。娘は人前で泣くことが嫌いで、感動のシーンではことさらクールに振る舞って、泣いている私を笑うのだが、人間ドラマで泣いたとは、私の方がびっくりした。
恋愛もので泣くようになったのかあ。
帰りながら「ねえ、トニー(主人公の夫)って、パパに何となく似てない?」と私が言うと、「あー!私もそう思った!!似てるよね!」と娘も大賛成。
映画の後、閉店間際だったけれど雑貨屋を何軒かはしごした。
「ママ、時間が足りなかったね。今度またここに来たいな。」というので「うん、また日曜日とか、時間がある日に来ようね」と言った。
娘は最近、マンガの主人公に夢中で、女の子っぽくなってきた。
それと同時に、雑貨や文房具をただ見て回るというウィンドウショッピングの楽しさが解るようになったようで、二人で何となく楽しく時間を潰せるようになった。
ファッションにはあまり関心が無く、もっぱら雑貨という処が私と共通している。
これ可愛いね、とか わあこんな変わったのがあるよ、とか二人で色々言いながらお店をはしごする。
先日、試写会があたったので、夫と行こうか迷ったのだが娘と行くことにした。
ダーリンは外国人 である。原作コミックを私が買っていたので、娘も読んでいて、この作品のファンだったので、連れて行ってあげようかと言うととても喜んだ。
イオンモール筑紫野のワーナーまで行く道のりは、鳥栖や武雄への出張と同じルートで、1時間20分ほどのドライブになる。いつもこの道で仕事に行くよとか、日頃のんびり話せないことをいろいろお話しながら、何とか開場時間に間に合った。イオンモールはどこも大体作りが同じだけれど、筑紫野は志免のルクルより広く感じた。
映画が始まる前の20分くらい、ブラブラお店を見て回った。
映画が始まると、娘はたぶん会場の中で一番リアクションが大きかったかもしれないというくらい、笑ったり、歓声を上げたり、泣いたりしていた。
終わってから、「ママー、私ね、犬の出てくる映画以外で、初めて泣いたかも」と言った。娘は人前で泣くことが嫌いで、感動のシーンではことさらクールに振る舞って、泣いている私を笑うのだが、人間ドラマで泣いたとは、私の方がびっくりした。
恋愛もので泣くようになったのかあ。
帰りながら「ねえ、トニー(主人公の夫)って、パパに何となく似てない?」と私が言うと、「あー!私もそう思った!!似てるよね!」と娘も大賛成。
映画の後、閉店間際だったけれど雑貨屋を何軒かはしごした。
「ママ、時間が足りなかったね。今度またここに来たいな。」というので「うん、また日曜日とか、時間がある日に来ようね」と言った。
昨年から無事に冬越えをしたイチゴの株。
けなげにも自力で二株に増えた。
生き残れなかった株は引っこ抜いて、空いたスペースの土をほぐし石灰を入れ肥料を入れて数日養生したあと、別の種類のイチゴを植えた。今年はスーパーのビニール袋を切り開いたものでマルチングしてみる。早速花がどんどん咲いているので、収穫に期待だ。たぶんGWごろに食べごろだろう。
イチゴの場合、花が咲く条件は気温20度以下、日照時間12時間以下ということを学んだ。農業って面白い科学だなあ。日照時間が長くなり気温が暑くなる、つまり夏になると、花が咲かなくなるのだ。だからハウスで気温や日照をコントロールすれば、一年中騙されたイチゴが花をつけ、イチゴが収穫できる。イチゴにしてみれば「長い春だなあ」とでも思っているかも。
いつもならキュウリを買うところだけどまだ苗が出回っていない。昨年はキューリ不作ですごく損した気分だったのだ。今年はリベンジしたい。
すでに出回っていたゴーヤを衝動買い。一株70円だから、元は取れるだろう。
ゴーヤって育てやすいのと、日よけに最適ということで知られているから、多分そう失敗はないだろうなと思うものの、たしか少しトゲがあったような。。。トゲのある植物はきらいなのだ。
実はキュウリにも小さなトゲがいっぱいある。何度指に刺さって痛かったことか…。そういう意味で、キュウリもあんまり好きじゃないかも…。まあ、キュウリやゴーヤにしてみれば、ツルを簡単にむしられないよう精一杯防御しているのかもしれないし、トゲから空気中の水分を吸い取っているのかも知れないけど。
ゴーヤはこんな小さな苗でも、ものすごいゴーヤの匂いがする。取れたてのゴーヤが夏中食べられたら、結構、幸せかもかも(ワクワク)。トゲに気をつけ、大事に育ててあげよう。
ハーブ類は、昨年から生き残っているローズマリーの横に、新顔のディルとフェンネルを一株づつ植えた。ディルをバターに混ぜ込んだ、ディルバターはすごくトーストに合うので大好き。収穫の時が楽しみ。フェンネルは魚料理に大活躍するけど、まだまだ株が小さいので収穫まで時間がかかりそう。
ブロッコリも結構長く楽しめたけどそろそろおしまい。
主軸を収穫した後から、脇芽が次々出てきて、茎ブロッコリが収穫できて楽しかった。
娘が大好きなフルーツトマト。
今年は一株を大事に育ててみようかな。
それから、グリーンピースご飯を作った時、生のピースを5粒取っておいて、濡らしたキッチンペーパーで包んで発芽するか試してみた。5粒中、2粒が発芽したので、土に植えてみる。これも育つと楽しいなあ。
それぞれに、お世話があって楽しい。
生き物はみんなそれぞれに、つき合い方があって、ほんとに楽しい。
おっ、こんな処にジャングルが。
イタリアンパセリと普通のパセリのジャングル。
肥料をあげるとものすごい勢いで茂っています。
やたらとお肉が食べたい!!という時がある。
そういう時は 料理担当者の特権でメニューがやたらと肉料理に偏る。
私には肉食期があるようだ。ちなみに私の体にある消化酵素は、肉類の脂質もしくはたんぱく質に強いらしく、肉を食べ過ぎて太ったデータがこれまでにない。データおたくの夫が証言するのだから間違いない。私が確実に太る食物は、炭水化物である。パスタとかお好み焼きとか、大盛りご飯などが美容の大敵なのである。(と言っても全然気にせず食べるんだけど)
話がそれたのでもとい。
最近、肉食期の逆で、草食期というのもあることを発見した。
年齢を重ねてきて、体にそういうニーズがあるのかも知れない。
ダイエットもしていないし、別にヘルシーな食生活を心がけている訳でもないのにやたらと野菜が食べたい。豆が美味しく感じる。
ぬか漬けの大根、キュウリ、ニンジンをご飯の上に乗せて、ただのお湯をかけて食べる。
こういうのがやたらと美味しい。極端な薄味になるのだけれど、米の甘味、野菜の香りと甘味が引き立って非常に美味しく感じる。
高野豆腐が美味しい。
最近すっかり高野豆腐にはまって、どうかすると気付けば三食とも高野豆腐とご飯だったりする。
草食期の時は、夫と子供用のおかずをつくり、自分は付け合わせの野菜だけをさりげなくつまんでいたりする。一人づつのお皿にもりつけると、私がおかずを食べていないことに気付いた娘や夫が心配するので、大皿盛りにして、野菜9肉1の比率でつまんでいる。私が野菜を大量に食べるのを見越して、野菜が大量投入されているので、本当に「大皿」料理になる。
今回の草食期、あんまり野菜が美味しいので、ふと魔が差して(?)
忙しい女には禁断の、そして究極の主婦仕事「ぬか床」を作ってみた。
そして、数日後、ぬか床が出来たのでついに我が家初の自家製ぬか漬けを漬けた。まだぬか床が熟成していない新しいものなので、発酵したうま味はなく、単なる浅漬けになっているが、これから味が変わってくるのが楽しみだ。
ぬか床は毎日かき混ぜないとすぐにダメになって腐るという話を、いろんな人から嫌というほど聞かされている。なので、朝と夜には必ず混ぜ返している。忙しくて夜混ぜ忘れた次の朝には「きゃーー忘れてたーー」などと叫びながらぬか床を恐る恐る開ける。そして腐っていないことにほっとしてせっせと混ぜ返す。
ぬか床をかき回した後、ぬかを洗い落とすために手を洗うと、明らかにぬかが付いた方の手が白くなる。そしてすべすべになる。驚くほど、左右が違う状態になる。昔からぬかは美白効果があると言われていたのは、これなんだ、と実感。
今日は両手でかき混ぜた (^-^)
両手突っ込むほどのぬか床ではないのだけど無理やり。毎日、少しづつ手に付いた分や、野菜についた分が洗い流されて行くのだけど、減ったらどうするのかな。ぬかを足すのかなあ。ネットで調べてみよう。
ぬか床って成長するらしい。そう思うとなんだか可愛い。
あとは、次の肉食期に入った時、ぬかのお世話を怠ったりしないか、少し心配。
そういう時は 料理担当者の特権でメニューがやたらと肉料理に偏る。
私には肉食期があるようだ。ちなみに私の体にある消化酵素は、肉類の脂質もしくはたんぱく質に強いらしく、肉を食べ過ぎて太ったデータがこれまでにない。データおたくの夫が証言するのだから間違いない。私が確実に太る食物は、炭水化物である。パスタとかお好み焼きとか、大盛りご飯などが美容の大敵なのである。(と言っても全然気にせず食べるんだけど)
話がそれたのでもとい。
最近、肉食期の逆で、草食期というのもあることを発見した。
年齢を重ねてきて、体にそういうニーズがあるのかも知れない。
ダイエットもしていないし、別にヘルシーな食生活を心がけている訳でもないのにやたらと野菜が食べたい。豆が美味しく感じる。
ぬか漬けの大根、キュウリ、ニンジンをご飯の上に乗せて、ただのお湯をかけて食べる。
こういうのがやたらと美味しい。極端な薄味になるのだけれど、米の甘味、野菜の香りと甘味が引き立って非常に美味しく感じる。
高野豆腐が美味しい。
最近すっかり高野豆腐にはまって、どうかすると気付けば三食とも高野豆腐とご飯だったりする。
草食期の時は、夫と子供用のおかずをつくり、自分は付け合わせの野菜だけをさりげなくつまんでいたりする。一人づつのお皿にもりつけると、私がおかずを食べていないことに気付いた娘や夫が心配するので、大皿盛りにして、野菜9肉1の比率でつまんでいる。私が野菜を大量に食べるのを見越して、野菜が大量投入されているので、本当に「大皿」料理になる。
今回の草食期、あんまり野菜が美味しいので、ふと魔が差して(?)
忙しい女には禁断の、そして究極の主婦仕事「ぬか床」を作ってみた。
そして、数日後、ぬか床が出来たのでついに我が家初の自家製ぬか漬けを漬けた。まだぬか床が熟成していない新しいものなので、発酵したうま味はなく、単なる浅漬けになっているが、これから味が変わってくるのが楽しみだ。
ぬか床は毎日かき混ぜないとすぐにダメになって腐るという話を、いろんな人から嫌というほど聞かされている。なので、朝と夜には必ず混ぜ返している。忙しくて夜混ぜ忘れた次の朝には「きゃーー忘れてたーー」などと叫びながらぬか床を恐る恐る開ける。そして腐っていないことにほっとしてせっせと混ぜ返す。
ぬか床をかき回した後、ぬかを洗い落とすために手を洗うと、明らかにぬかが付いた方の手が白くなる。そしてすべすべになる。驚くほど、左右が違う状態になる。昔からぬかは美白効果があると言われていたのは、これなんだ、と実感。
今日は両手でかき混ぜた (^-^)
両手突っ込むほどのぬか床ではないのだけど無理やり。毎日、少しづつ手に付いた分や、野菜についた分が洗い流されて行くのだけど、減ったらどうするのかな。ぬかを足すのかなあ。ネットで調べてみよう。
ぬか床って成長するらしい。そう思うとなんだか可愛い。
あとは、次の肉食期に入った時、ぬかのお世話を怠ったりしないか、少し心配。
友人のメアドからその友人本人が昨日亡くなったというメールが届いた。
その文字を見た途端、心臓がぎゅっと何かにつかまれたようなショックを受けて、何故、ブログにはあんなに元気に活動している様子がアップされていたのに、と頭の中が混乱状態に。
「ついては彼の遺言で、今月メモリアルパーティを行ないます。お集まり下さい」と書かれている。
そのまま読み進めるために画面をスクロールさせていくと「なんてな。冗談やで」と書かれてあり、イベントの告知文が書いてあった。
そのメールが送られてきた日付は4月1日だった。
しばらくして少し冷静になってから、エイプリルフールの冗談なのだから、と気を取り直そうとしたが、どうしても許し難い怒りが静かに煮込まれるシチュー鍋のようにふつふつと沸いている。
彼にメールで返信した。「ひどい。全然笑えない。本気で頭にきた」
彼から返信。「ごめーーぇん、許してぇーなー。でもにやにやしてる俺がいます。ごめんな!」
ふん、とそのメールを片目で眺めて、彼のいたずら、悪ふざけは今に始まったことじゃないと思う。
でも、どうして自分はこんなに怒っているのだろう、と自分の事を観察しはじめた。
何か、傷付いた感じがしている。
どんな風に? うーん、裏切られたような。
彼は死んでいなかったのだから、よかったはずなのに、この傷付き感は何だろう?
そうだ。試されたからだ。
彼は私が怒ったことをニヤニヤして喜んでいる。
私にとって、彼の死が無関心ではなく大いに反応することだったと解ってニヤニヤ喜んでいる。
彼は私の(他の多くの友人達の)愛情を試したんだ。
いつでも愛情や優しさは無防備。
自分を守ることのない純粋で柔らかい気持ち。
疑われたり試されたりすれば簡単に傷付いてしまう。
彼に返信した。
「いいわ。エイプリルフールだし、許したる。でも代りにホントに死んでも信じないからね」
私はまだ怒っている。
彼は友人たちから不評を買ったに違いない。
その文字を見た途端、心臓がぎゅっと何かにつかまれたようなショックを受けて、何故、ブログにはあんなに元気に活動している様子がアップされていたのに、と頭の中が混乱状態に。
「ついては彼の遺言で、今月メモリアルパーティを行ないます。お集まり下さい」と書かれている。
そのまま読み進めるために画面をスクロールさせていくと「なんてな。冗談やで」と書かれてあり、イベントの告知文が書いてあった。
そのメールが送られてきた日付は4月1日だった。
しばらくして少し冷静になってから、エイプリルフールの冗談なのだから、と気を取り直そうとしたが、どうしても許し難い怒りが静かに煮込まれるシチュー鍋のようにふつふつと沸いている。
彼にメールで返信した。「ひどい。全然笑えない。本気で頭にきた」
彼から返信。「ごめーーぇん、許してぇーなー。でもにやにやしてる俺がいます。ごめんな!」
ふん、とそのメールを片目で眺めて、彼のいたずら、悪ふざけは今に始まったことじゃないと思う。
でも、どうして自分はこんなに怒っているのだろう、と自分の事を観察しはじめた。
何か、傷付いた感じがしている。
どんな風に? うーん、裏切られたような。
彼は死んでいなかったのだから、よかったはずなのに、この傷付き感は何だろう?
そうだ。試されたからだ。
彼は私が怒ったことをニヤニヤして喜んでいる。
私にとって、彼の死が無関心ではなく大いに反応することだったと解ってニヤニヤ喜んでいる。
彼は私の(他の多くの友人達の)愛情を試したんだ。
いつでも愛情や優しさは無防備。
自分を守ることのない純粋で柔らかい気持ち。
疑われたり試されたりすれば簡単に傷付いてしまう。
彼に返信した。
「いいわ。エイプリルフールだし、許したる。でも代りにホントに死んでも信じないからね」
私はまだ怒っている。
彼は友人たちから不評を買ったに違いない。