2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
カレンダー
12 | 2025/01 | 02 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
プロフィール
HN:
MoonLeaf
性別:
女性
職業:
Peace Maker
自己紹介:
Member of MENSA International
最新記事
(10/03)
(10/29)
(09/30)
(09/27)
(09/25)
(09/22)
(09/16)
(09/14)
(09/14)
(09/13)
(09/13)
(09/04)
(08/24)
(08/20)
(08/18)
(08/12)
(07/30)
(07/27)
(07/22)
(07/02)
最古記事
(09/02)
(09/02)
(09/03)
(09/05)
(09/05)
(09/06)
(09/06)
(09/07)
(09/10)
(09/13)
(09/15)
(09/17)
(09/29)
(10/08)
(10/17)
(10/18)
(11/09)
(11/12)
(11/18)
(11/25)
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
アクセス解析
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
今日は参議院選挙です。
日本人は人と争いごとになるのをトコトン避けるので政治や政治家、政党について人と会話しませんね。私がこれまでに政治のことを大人同士で語っている処を見たのは、親戚の集まりの中だけでした。
若い人が政治に興味を持たないというけれど、大人が政治について真面目に語っている処を見せないのですから、興味を持てと言うのは勝手な話だと思います。大人たちはみな「どこが政権でも同じ」というようなあきらめなのか白けたコメントしかしません。これでは子供も若い人もマネしてしまいます。
政治家は国民の代表者です。
自分の意見を代理してくれる人を選ぶことが、選挙です。
選挙は人気投票ではなく、「自分の実現したいことを政治の発言の場で代りに発言して、実現してくれる人」を真剣に選ぶ機会です。
我が家はたいてい、期日前投票に行きます。
投票日は日曜日で大事な休養日なので、平日のどこかついでの時に、期日前投票にいってさっさと済ませます。選挙に行かなかったという事は大人になってから1、2回しかありません。
政治に興味を持つ為には、政党の主張を知らなければなりません。
そして、その主張を理解する為には、歴史と今の社会問題を知らなければなりません。
この作業が大変なので、多くの人が「よくわからないなあ」と政治から興味を失うのです。だから良く知っている人たち、年配の大人たちが、若年層に教えてやる機会が必要なのです。
政治をもっと語る場が欲しいなと思います。
自分で考え、自分で選んだ代表者がさらに他の代表者と戦い、勝ったものの思う通りに決めごとを行なう。それが民主主義です。古来から、日本人はとても穏やかで大人しいけれど、ものを考えない愚民ではありませんでした。誰もが、自分の意志と意見を持っている、精神性の高い国民でした。
池上彰の番組を見ると、よくわからなかったことがとてもよく解るようになります。
大変オススメです。
さあ、投票です。
日本を良い国にしましょう!
日本人は人と争いごとになるのをトコトン避けるので政治や政治家、政党について人と会話しませんね。私がこれまでに政治のことを大人同士で語っている処を見たのは、親戚の集まりの中だけでした。
若い人が政治に興味を持たないというけれど、大人が政治について真面目に語っている処を見せないのですから、興味を持てと言うのは勝手な話だと思います。大人たちはみな「どこが政権でも同じ」というようなあきらめなのか白けたコメントしかしません。これでは子供も若い人もマネしてしまいます。
政治家は国民の代表者です。
自分の意見を代理してくれる人を選ぶことが、選挙です。
選挙は人気投票ではなく、「自分の実現したいことを政治の発言の場で代りに発言して、実現してくれる人」を真剣に選ぶ機会です。
我が家はたいてい、期日前投票に行きます。
投票日は日曜日で大事な休養日なので、平日のどこかついでの時に、期日前投票にいってさっさと済ませます。選挙に行かなかったという事は大人になってから1、2回しかありません。
政治に興味を持つ為には、政党の主張を知らなければなりません。
そして、その主張を理解する為には、歴史と今の社会問題を知らなければなりません。
この作業が大変なので、多くの人が「よくわからないなあ」と政治から興味を失うのです。だから良く知っている人たち、年配の大人たちが、若年層に教えてやる機会が必要なのです。
政治をもっと語る場が欲しいなと思います。
自分で考え、自分で選んだ代表者がさらに他の代表者と戦い、勝ったものの思う通りに決めごとを行なう。それが民主主義です。古来から、日本人はとても穏やかで大人しいけれど、ものを考えない愚民ではありませんでした。誰もが、自分の意志と意見を持っている、精神性の高い国民でした。
池上彰の番組を見ると、よくわからなかったことがとてもよく解るようになります。
大変オススメです。
さあ、投票です。
日本を良い国にしましょう!
PR
我が家のベランダ菜園は今年なかなかの出来栄えだ。
特に、4月から育ててきたフルーツトマトがとても大きく育って、たわわに実を付けている。気温も高くなっていよいよ赤く色づきはじめた。
と思っていたその矢先。
一番最初に色づいて、やっと収穫しようかどうしようかと考えていたその実を、誰かが盗んでいった。
盗まれた!と思ったその視線の先、ベランダの欄干の上に、食い荒らされて中身をほじられて、無残な姿になったトマトの残がいが。
そう。トマトを狙っていたのはカラスだった。
それからトマトを巡って、カラスとの智恵比べが始まった。
赤い実が空から見えないようにプランターの向きをかえてみたり。
一日に何度もベランダに様子を見にきてみたり。
私は別にそれを怒っているのではない。カラスも腹が減っているのだろう。
ただ私が今朝、まさに摘もうかなと楽しみにしていた、その実をかっさらっていくのは気にくわない。
敵もさるもので、一瞬の隙にトマトを奪って行ったりするのだ。
この間、カラスは不思議なことをした。
ご丁寧に、枝からむしったトマトを、食べもせずにベランダの欄干の上に残して行ったのだ。熟れ加減が気に入らなかったのかも知れないし、別の何かに気を取られて飛び去ったのかも知れないが。
私はそのトマトをわざとカラスがよくとまっているラティスの上に見えやすく置いた。
「食べるならこれからお食べよ。お前がむしったんだぞ」というメッセージだ。
そのトマトは、おととい、昨日、そのまま置き去りにされていた。置き去りにされた分、きれいに色づき、とても美味しそうなトマトになっていった。
今日の午後、ふとベランダを見るとカラスがラティスの上にとまっている。部屋の中の私がカラスから見えているのか、私に真っすぐむかって「カアァ、カア、カア、カアァ」と四回大きく鳴いてから飛び立った。口を大きく開けて、中の赤いのどのうちがわまで見えた。まるで私に何かを話したみたいだった。
なんだよ!とベランダに出ると、あのお土産用のトマトが無くなっていた。
カラスとの知恵比べを楽しんでいる。
もちろん、被害があるといっても趣味の菜園程度なのだからそんな呑気なこともいってられるのだが。
仕事で農業をしている人や、本気で自家栽培をしている人にとって、カラスやイノシシに畑を荒されることは、ずっと深刻だし本当に憎らしくなるに違いない。
ともあれ、カラスに先を越されるのは癪なので、トマトの苗ごと、カラスが入りにくい柵の下に移した。その代りに、お持ち帰り用のトマトをラティスの上に置いておいてやろう。きっとあいつならわかってくれる。「ああ、これを食えってか。しゃーないなー」と。
ゴーヤも3本、初収穫。
ゴーヤは結構ラクチンだな。水さえあげれば勝手に大きくなるかんじ。
あと数週間すれば、きっとキュウリが実を付けはじめるだろう。
宝石のようなミニトマトも可愛らしい。
そうそう、ピーマンもいつの間にか実が一つ成ってたな。
夏がきたな、と感じる夏野菜のベランダ菜園。
季節は美しく、泥棒カラスのお陰で楽しくスリリングに巡っている。
特に、4月から育ててきたフルーツトマトがとても大きく育って、たわわに実を付けている。気温も高くなっていよいよ赤く色づきはじめた。
と思っていたその矢先。
一番最初に色づいて、やっと収穫しようかどうしようかと考えていたその実を、誰かが盗んでいった。
盗まれた!と思ったその視線の先、ベランダの欄干の上に、食い荒らされて中身をほじられて、無残な姿になったトマトの残がいが。
そう。トマトを狙っていたのはカラスだった。
それからトマトを巡って、カラスとの智恵比べが始まった。
赤い実が空から見えないようにプランターの向きをかえてみたり。
一日に何度もベランダに様子を見にきてみたり。
私は別にそれを怒っているのではない。カラスも腹が減っているのだろう。
ただ私が今朝、まさに摘もうかなと楽しみにしていた、その実をかっさらっていくのは気にくわない。
敵もさるもので、一瞬の隙にトマトを奪って行ったりするのだ。
この間、カラスは不思議なことをした。
ご丁寧に、枝からむしったトマトを、食べもせずにベランダの欄干の上に残して行ったのだ。熟れ加減が気に入らなかったのかも知れないし、別の何かに気を取られて飛び去ったのかも知れないが。
私はそのトマトをわざとカラスがよくとまっているラティスの上に見えやすく置いた。
「食べるならこれからお食べよ。お前がむしったんだぞ」というメッセージだ。
そのトマトは、おととい、昨日、そのまま置き去りにされていた。置き去りにされた分、きれいに色づき、とても美味しそうなトマトになっていった。
今日の午後、ふとベランダを見るとカラスがラティスの上にとまっている。部屋の中の私がカラスから見えているのか、私に真っすぐむかって「カアァ、カア、カア、カアァ」と四回大きく鳴いてから飛び立った。口を大きく開けて、中の赤いのどのうちがわまで見えた。まるで私に何かを話したみたいだった。
なんだよ!とベランダに出ると、あのお土産用のトマトが無くなっていた。
カラスとの知恵比べを楽しんでいる。
もちろん、被害があるといっても趣味の菜園程度なのだからそんな呑気なこともいってられるのだが。
仕事で農業をしている人や、本気で自家栽培をしている人にとって、カラスやイノシシに畑を荒されることは、ずっと深刻だし本当に憎らしくなるに違いない。
ともあれ、カラスに先を越されるのは癪なので、トマトの苗ごと、カラスが入りにくい柵の下に移した。その代りに、お持ち帰り用のトマトをラティスの上に置いておいてやろう。きっとあいつならわかってくれる。「ああ、これを食えってか。しゃーないなー」と。
ゴーヤも3本、初収穫。
ゴーヤは結構ラクチンだな。水さえあげれば勝手に大きくなるかんじ。
あと数週間すれば、きっとキュウリが実を付けはじめるだろう。
宝石のようなミニトマトも可愛らしい。
そうそう、ピーマンもいつの間にか実が一つ成ってたな。
夏がきたな、と感じる夏野菜のベランダ菜園。
季節は美しく、泥棒カラスのお陰で楽しくスリリングに巡っている。
私の仕事は種別でいえば完全に自営業だ。
NPOの仕事はNPOという団体に属してやっているが給料をまったくもらっていないので職員とか雇用されている訳ではない。やった事業が黒字だった時だけ、講師料を一部もらうという外注扱いだ。
だから、収入でみれば私は完全に個人事業主なのだ。
こういう生活を5年以上続けてきた結果、覚悟をしていたとは言え、特にNPOを始めてから我が家はどんどん目に見えて貧しくなった。もはや限界だと言い続けて、それでも死ぬ訳にはいかないので何とか生き延びてきたのだけれど、子供に食べさせる為に食事を抜いたりもするし、お風呂に入ると光熱費がどんと上がるのでシャワーで我慢する。子供が「ノートが一杯になった」と言った時にノート代のわずか150円を探して家中を引っかき回すこともある。(その割に体にはしっかり肉がついてるけどね(^-^)P)
それほどの貧乏は、体験した人にしかピンとこない部分があるのは当然だ。
私だって、ちょっと前まで「日本に住んでいてそこまで貧乏になるはずがない」と思っていたのだから。だから、こういう極限の貧乏を体験できて本当によかったと思っている。わかった風なことを軽々しく言わずに済むのは嬉しい。私は何でも体験してみたい方だ。何しろ、人前で話すことが私の役目なのだから。言葉が頭だけでひねり出したものでなく、体験に裏付けられているものでないといけない。
ま、それは問題ではないのでさておき。
支出を減らして耐えるという作戦はもう本当に、完全に万策尽きた。すでに我が家の家計のやりくりには一円の無駄もない。削れる贅肉はない。
ということは、この極貧問題を解決するには、収入を増やす以外に方法はないのである。
何とか就職せずにいられないかと思っていたけれど、最近はもしチャンスがあるのなら、就職してみるというのもいいんじゃないかと思いはじめた。簡単に言えば「就職して人にあごでこき使われるなんて耐えられそうにないから嫌だなあ」と思っていたのが「いい仕事もあるかもしれないし、やりがいがあって安定した給料になるならそれもいいんじゃないか」と思えるようになってきたのだ。
就職という方法はベストではないがベターではある。
なによりも子供を私立の学校に通わせ続けられる。
こんな極貧でよくもまあ、子供を私立に通わせているもんだと我ながら思うが、教育はその人の一生を左右するのだ。教育は人生最大の投資。質の高い教育さえ受けていれば、自分の頭と素直な心で人生を切り開いて生きて行ける人間になる。
だが。
その娘は私の就職に猛烈な反対姿勢だ。
絶対に嫌だと言っている。
そりゃ私だって、お金の為ならどんな職場でも耐えるなんて思っていない。
やりがいのある仕事を与えられ、それが私の役目だと納得でき、ある程度話のできる職場であれば。
なーーんて都合のよいことを考えているだけだ。
世の中そう甘くないんだろうな。
やっぱりまだまだ 自営でもがくのかな。
ま、それでも決して不幸ではないけれど。
貧乏なことはまったく不幸な事実ではない。
でも現実にはお金が本当にないと困る場面はいろいろとある。
そうだ。
神様にお願いだ。
神様。
私に仕事を下さい。
私のするべき仕事を与えて下さい。
私の家族が飢えずに、そして教育を受けられるだけの仕事を下さい。
神様。私は一生懸命 自分の使命に誠実でありたいと努めてきました。
同じ気持ちで働ける仕事に 私を導いて下さい。
よし。これでうまくいく。うむ。
NPOの仕事はNPOという団体に属してやっているが給料をまったくもらっていないので職員とか雇用されている訳ではない。やった事業が黒字だった時だけ、講師料を一部もらうという外注扱いだ。
だから、収入でみれば私は完全に個人事業主なのだ。
こういう生活を5年以上続けてきた結果、覚悟をしていたとは言え、特にNPOを始めてから我が家はどんどん目に見えて貧しくなった。もはや限界だと言い続けて、それでも死ぬ訳にはいかないので何とか生き延びてきたのだけれど、子供に食べさせる為に食事を抜いたりもするし、お風呂に入ると光熱費がどんと上がるのでシャワーで我慢する。子供が「ノートが一杯になった」と言った時にノート代のわずか150円を探して家中を引っかき回すこともある。(その割に体にはしっかり肉がついてるけどね(^-^)P)
それほどの貧乏は、体験した人にしかピンとこない部分があるのは当然だ。
私だって、ちょっと前まで「日本に住んでいてそこまで貧乏になるはずがない」と思っていたのだから。だから、こういう極限の貧乏を体験できて本当によかったと思っている。わかった風なことを軽々しく言わずに済むのは嬉しい。私は何でも体験してみたい方だ。何しろ、人前で話すことが私の役目なのだから。言葉が頭だけでひねり出したものでなく、体験に裏付けられているものでないといけない。
ま、それは問題ではないのでさておき。
支出を減らして耐えるという作戦はもう本当に、完全に万策尽きた。すでに我が家の家計のやりくりには一円の無駄もない。削れる贅肉はない。
ということは、この極貧問題を解決するには、収入を増やす以外に方法はないのである。
何とか就職せずにいられないかと思っていたけれど、最近はもしチャンスがあるのなら、就職してみるというのもいいんじゃないかと思いはじめた。簡単に言えば「就職して人にあごでこき使われるなんて耐えられそうにないから嫌だなあ」と思っていたのが「いい仕事もあるかもしれないし、やりがいがあって安定した給料になるならそれもいいんじゃないか」と思えるようになってきたのだ。
就職という方法はベストではないがベターではある。
なによりも子供を私立の学校に通わせ続けられる。
こんな極貧でよくもまあ、子供を私立に通わせているもんだと我ながら思うが、教育はその人の一生を左右するのだ。教育は人生最大の投資。質の高い教育さえ受けていれば、自分の頭と素直な心で人生を切り開いて生きて行ける人間になる。
だが。
その娘は私の就職に猛烈な反対姿勢だ。
絶対に嫌だと言っている。
そりゃ私だって、お金の為ならどんな職場でも耐えるなんて思っていない。
やりがいのある仕事を与えられ、それが私の役目だと納得でき、ある程度話のできる職場であれば。
なーーんて都合のよいことを考えているだけだ。
世の中そう甘くないんだろうな。
やっぱりまだまだ 自営でもがくのかな。
ま、それでも決して不幸ではないけれど。
貧乏なことはまったく不幸な事実ではない。
でも現実にはお金が本当にないと困る場面はいろいろとある。
そうだ。
神様にお願いだ。
神様。
私に仕事を下さい。
私のするべき仕事を与えて下さい。
私の家族が飢えずに、そして教育を受けられるだけの仕事を下さい。
神様。私は一生懸命 自分の使命に誠実でありたいと努めてきました。
同じ気持ちで働ける仕事に 私を導いて下さい。
よし。これでうまくいく。うむ。
「生活が苦しい」「生活が大変」という表現について考える。
「生活する」って何だろう。
私にとって。
料理して ご飯食べること。
買い物にいくこと。
買ってきたものを冷蔵庫に入れること。
水を汲みに行くこと。
汲んだ水を飲みやすい高さの台に乗っけてセットすること。
使った食器を洗って拭いて食器棚にしまうこと。
娘の制服のとれかかったボタンをぬいつけること。
犬を洗って乾かすこと。
布団のシーツを替えること。
ベランダの野菜に水をやったり痛んだ葉を摘んだりすること。
空を見ながら冷えた緑茶を飲むこと。
扇風機のホコリをきれいにふき取ること。
服にアイロンをかけること。
白と色もので分けて洗濯すること。
夜に犬の散歩にでかけること。
お買い得品を見つけて喜ぶこと。
トイレットペーパーをセットすること。
外から帰ったら汗をシャワーで流すこと。
洗面台に娘と並んで歯磨きすること。
宿題をみてあげること。
犬の背中をかいてやること。
金魚の水槽を掃除して水をかえてエサをやること。
…「生活が苦しい」とか「生活するのが大変」と思う時
このすべてが面倒だったりツライ作業に思える。
うまくやれなくなる。
「うちに足りないのはお金だけだね。あとは全部うまく行ってる」
と思う時 例え本当に全財産が空っぽでもこのすべてを楽しくやっている。
私は43歳になってやっと
生活するってこういう一つ一つのことなんだなあ
と 本当に実感できるようになった。
「生活する」って何だろう。
私にとって。
料理して ご飯食べること。
買い物にいくこと。
買ってきたものを冷蔵庫に入れること。
水を汲みに行くこと。
汲んだ水を飲みやすい高さの台に乗っけてセットすること。
使った食器を洗って拭いて食器棚にしまうこと。
娘の制服のとれかかったボタンをぬいつけること。
犬を洗って乾かすこと。
布団のシーツを替えること。
ベランダの野菜に水をやったり痛んだ葉を摘んだりすること。
空を見ながら冷えた緑茶を飲むこと。
扇風機のホコリをきれいにふき取ること。
服にアイロンをかけること。
白と色もので分けて洗濯すること。
夜に犬の散歩にでかけること。
お買い得品を見つけて喜ぶこと。
トイレットペーパーをセットすること。
外から帰ったら汗をシャワーで流すこと。
洗面台に娘と並んで歯磨きすること。
宿題をみてあげること。
犬の背中をかいてやること。
金魚の水槽を掃除して水をかえてエサをやること。
…「生活が苦しい」とか「生活するのが大変」と思う時
このすべてが面倒だったりツライ作業に思える。
うまくやれなくなる。
「うちに足りないのはお金だけだね。あとは全部うまく行ってる」
と思う時 例え本当に全財産が空っぽでもこのすべてを楽しくやっている。
私は43歳になってやっと
生活するってこういう一つ一つのことなんだなあ
と 本当に実感できるようになった。
自分が 人からしてもらったことを感謝しない人は大抵嫌われ者になる。
世の中、そうなっている。
人に感謝する気持ちを表現することは 人間の社会で円滑に生きて行こうと思ったら必須項目なのだ。
現代において、感謝はただ自分の感じるものに留まってはいけない。人前で盛大に表現されなければならないのだ。
でも私はここに、ひとつだけ疑問を投げ掛けたい。
その「感謝」の表現は 人のための感謝になっていませんか?
人のための感謝。
相手から怒られない為、嫌われない為の感謝。
社会からはみださない為の感謝。
感謝すべきという考えによる強制的な感謝。
世の中に こういう変質した感謝がまん延している。
そのせいで 人間関係が複雑になりすぎている。
私が これが感謝という気持ち と認識する「感謝」とは、自分の内側から溢れ出る光のようなものだ。受け取ったものの中にこもる、柔らかく暖かい何かを感じ、それに作用して勝手に自分の内側から溢れ出るようにしてこぼれていく感情と光の粒のような感覚。それが感謝だ。
そして、この感謝の念を感じているとき 私は本当に幸福だ。出来るだけこの状態でいたいと思う。
誰であれ、この感謝を胸に沸き起こしている時は幸せだろうと思う。
あなたの日頃感じている感謝は、このようなものだろうか。
私は人がこの感謝の状態にあることを喜ぶ。その人は間違いなく幸せをその瞬間手にしているからだ。
一方、変質した感謝を感じている人は、本当に喜んで幸福感のなかにあるようには見えない。
「ありがたい」と口にしていても、「こんなにしてもらってもったいない」」「私には過ぎたことです」とでもいいたそうに、罪悪感や悲しみに似た感情を同時に感じているように見える。
私にも覚えがある。そういう状態は本当に気の毒だと思う。
背負っている荷物が多過ぎて自分の心に邪魔なものが溜まり過ぎて、本当の感謝に触れることができないでいるのだ。
そして、日頃から変質した感謝ばかりを感じている人は、残念なことに人にも同じく変質した感謝を強要する。それを感じない人を「非常識」呼ばわりすることさえある。感謝を表現しなかったというだけで「人間失格」とさえ言う人もいる。
あなたが、誰かたまにしか合わない人に贈り物を送ったとしよう。
その人があなたにお礼状の一つもよこさず、次に会った時に贈り物の話題さえ持ち出さなかったら、あなたはきっと多少なりとも、気を悪くするだろう。そしてその人の評価を心の中で下げたり、その人とのつき合い方を考え直したりするだろう。または自分が贈った贈り物は相手にとって何の価値もなかったのだろうか、とか、余計なことをして怒らせたのではないか、などと妄想して不安になったりもするだろう。
それが、現代のごく普通の、不文律、きまりごとだ。
贈り物をもらったら お礼の一言を言うべきだ。出来ればお返しをすべきだ。送り主が心配しないように到着したことを知らせ、感謝の言葉をいって相手を喜ばせるべきだ。それが常識なのだ。私はそれを否定しない。私はこれを常識的な「感謝風の儀式」だと考えている。現代人は、マニュアルが好きで、儀式が好きなのだ。それをコミュニケーションだと錯覚している。
けれどそういう常識的なことを 越えた考え方もあることを知って欲しい。
あなたが贈り物をしたのは、何故だったのだろう。
一体、何を目的にしたのだろう。
相手から好かれる計略のためか。
自分の評価をあげておくためか。
感謝の言葉をもらうためか。
あなたの相手への思いを伝えるためか。
(これらはあなたの心の中ですべて相手への
「貸し」に数えられている。 贈り物そのものと、
それにくっつけた思いの両方が「貸し」となる。)
それとも
あなたが見ることのない、相手が贈り物を開け喜ぶ一瞬の笑顔のためか。
(相手が喜ぶ姿を想像する瞬間にあなたは贈り物を
する喜びを得ている。それが「貸し」のない状態。)
この世のだれ一人として私に対して 「借り」のある人はいない。
私がする行動と放つ言葉のすべては 私が手放したものであり それを受け取った人が私に感謝風の儀式をする必要はまったくない。
貸しを作らずに生きることを 多くの人にお勧めしたい。
それは、感謝ごっこの因縁を断ち切る具体的な方策だからだ。
感謝することを教えるのも大事だろう。だが同時に相手の感謝を求め過ぎないことを教えるのを忘れてはならない。自分が相手から好かれているという安心のために、相手に感謝の表現を義務づけてはならない。
もちろん私がどれほど純粋に感謝の中にあったとしても それを表現しないなら相手にはわからないだろう。だから私は務めて相手のために表現すべきなのだ。けれどもその質を理解出来る人は少ないことが、残念だ。いつも痛感するけれど 本質に触れた時、それを言葉で表現することはほとんど不可能なのだから。
だから不文律の常識のなかでは 私は多くの人に「借りだらけ」の人間なのだろう。
私に何かを与えてくれた人と その行為そのものに深い感謝を捧げる。
それで納得してもらえない場合はお互い残念なのだが 借りとは考えない。
借りを返す為に生きることを考えるのではなく 貸しを作らず与え手放し続けることを考えるほうが 自然なことなのだから。
借りがあると言えば無数にあるだろう。
そもそも、返しきれないほどのものを受け取っている。それは誰もがそうなのだ。
私たちは大きな大きな循環の中で 互いに与えあいながら生きている。
人間だけがそれを貸しだ借りだと大騒ぎするのだ。
人生は 貸し借りなし。
ただ手放して 与えればいい。
世の中、そうなっている。
人に感謝する気持ちを表現することは 人間の社会で円滑に生きて行こうと思ったら必須項目なのだ。
現代において、感謝はただ自分の感じるものに留まってはいけない。人前で盛大に表現されなければならないのだ。
でも私はここに、ひとつだけ疑問を投げ掛けたい。
その「感謝」の表現は 人のための感謝になっていませんか?
人のための感謝。
相手から怒られない為、嫌われない為の感謝。
社会からはみださない為の感謝。
感謝すべきという考えによる強制的な感謝。
世の中に こういう変質した感謝がまん延している。
そのせいで 人間関係が複雑になりすぎている。
私が これが感謝という気持ち と認識する「感謝」とは、自分の内側から溢れ出る光のようなものだ。受け取ったものの中にこもる、柔らかく暖かい何かを感じ、それに作用して勝手に自分の内側から溢れ出るようにしてこぼれていく感情と光の粒のような感覚。それが感謝だ。
そして、この感謝の念を感じているとき 私は本当に幸福だ。出来るだけこの状態でいたいと思う。
誰であれ、この感謝を胸に沸き起こしている時は幸せだろうと思う。
あなたの日頃感じている感謝は、このようなものだろうか。
私は人がこの感謝の状態にあることを喜ぶ。その人は間違いなく幸せをその瞬間手にしているからだ。
一方、変質した感謝を感じている人は、本当に喜んで幸福感のなかにあるようには見えない。
「ありがたい」と口にしていても、「こんなにしてもらってもったいない」」「私には過ぎたことです」とでもいいたそうに、罪悪感や悲しみに似た感情を同時に感じているように見える。
私にも覚えがある。そういう状態は本当に気の毒だと思う。
背負っている荷物が多過ぎて自分の心に邪魔なものが溜まり過ぎて、本当の感謝に触れることができないでいるのだ。
そして、日頃から変質した感謝ばかりを感じている人は、残念なことに人にも同じく変質した感謝を強要する。それを感じない人を「非常識」呼ばわりすることさえある。感謝を表現しなかったというだけで「人間失格」とさえ言う人もいる。
あなたが、誰かたまにしか合わない人に贈り物を送ったとしよう。
その人があなたにお礼状の一つもよこさず、次に会った時に贈り物の話題さえ持ち出さなかったら、あなたはきっと多少なりとも、気を悪くするだろう。そしてその人の評価を心の中で下げたり、その人とのつき合い方を考え直したりするだろう。または自分が贈った贈り物は相手にとって何の価値もなかったのだろうか、とか、余計なことをして怒らせたのではないか、などと妄想して不安になったりもするだろう。
それが、現代のごく普通の、不文律、きまりごとだ。
贈り物をもらったら お礼の一言を言うべきだ。出来ればお返しをすべきだ。送り主が心配しないように到着したことを知らせ、感謝の言葉をいって相手を喜ばせるべきだ。それが常識なのだ。私はそれを否定しない。私はこれを常識的な「感謝風の儀式」だと考えている。現代人は、マニュアルが好きで、儀式が好きなのだ。それをコミュニケーションだと錯覚している。
けれどそういう常識的なことを 越えた考え方もあることを知って欲しい。
あなたが贈り物をしたのは、何故だったのだろう。
一体、何を目的にしたのだろう。
相手から好かれる計略のためか。
自分の評価をあげておくためか。
感謝の言葉をもらうためか。
あなたの相手への思いを伝えるためか。
(これらはあなたの心の中ですべて相手への
「貸し」に数えられている。 贈り物そのものと、
それにくっつけた思いの両方が「貸し」となる。)
それとも
あなたが見ることのない、相手が贈り物を開け喜ぶ一瞬の笑顔のためか。
(相手が喜ぶ姿を想像する瞬間にあなたは贈り物を
する喜びを得ている。それが「貸し」のない状態。)
この世のだれ一人として私に対して 「借り」のある人はいない。
私がする行動と放つ言葉のすべては 私が手放したものであり それを受け取った人が私に感謝風の儀式をする必要はまったくない。
貸しを作らずに生きることを 多くの人にお勧めしたい。
それは、感謝ごっこの因縁を断ち切る具体的な方策だからだ。
感謝することを教えるのも大事だろう。だが同時に相手の感謝を求め過ぎないことを教えるのを忘れてはならない。自分が相手から好かれているという安心のために、相手に感謝の表現を義務づけてはならない。
もちろん私がどれほど純粋に感謝の中にあったとしても それを表現しないなら相手にはわからないだろう。だから私は務めて相手のために表現すべきなのだ。けれどもその質を理解出来る人は少ないことが、残念だ。いつも痛感するけれど 本質に触れた時、それを言葉で表現することはほとんど不可能なのだから。
だから不文律の常識のなかでは 私は多くの人に「借りだらけ」の人間なのだろう。
私に何かを与えてくれた人と その行為そのものに深い感謝を捧げる。
それで納得してもらえない場合はお互い残念なのだが 借りとは考えない。
借りを返す為に生きることを考えるのではなく 貸しを作らず与え手放し続けることを考えるほうが 自然なことなのだから。
借りがあると言えば無数にあるだろう。
そもそも、返しきれないほどのものを受け取っている。それは誰もがそうなのだ。
私たちは大きな大きな循環の中で 互いに与えあいながら生きている。
人間だけがそれを貸しだ借りだと大騒ぎするのだ。
人生は 貸し借りなし。
ただ手放して 与えればいい。
宮崎の口蹄疫問題で、ほうぼうで寄付や募金活動をしている。
私は口蹄疫に限らず、募金や寄付の箱を見ると大抵いくらか寄付している。こんなことをわざわざブログに書くのは、自分が善行をしていることを褒めて欲しいからではない。寄付や募金という「施し」について、考えてみたいからだ。
もう日本ではほとんど見かけないけれど、仏教には托鉢という修業がある。僧侶が家の前で教典を唱え、その家の人が僧侶に米や野菜やお金を施すという習慣だ。タイ、カンボジア、ブータン、インドネシア、スリランカ、ミャンマー、ラオスなどの仏教国ではまだこの托鉢が行われている。
僧侶になるということは、家族を捨て、自分の所有物のすべてを捨てることで世俗を離れ、悟りを開くための修業だけを行なう身分になるということだ。仏陀の時代には、あらゆる生産活動が禁止されていたので、自分で畑を作ることさえも行なわない。所有することも禁止されたので、蓄えることもできない。所有できるのは、服が3枚と食事の為の椀と箸だけ。だから、ただその日の食物を世俗の人々から施してもらうことで生き延びる。
一方、出家して僧侶にならない世俗の人々は、善行を行い、念仏を唱えることで来世よい未来に恵まれるとされた。その善行の中でもっとも価値のあることが「布施(出家者への施し)」とされた。だから家の前に僧侶が立ちより、念仏を唱えてくれることは良いこと、ありがたいことで、その僧侶に施しを行なえる機会は、自分の来世が良くなる功徳を積むラッキーな機会と捉えるのだ。
僧侶になる覚悟は持てないが、世俗のままでも修業していることになる行為、それが布施という施しなのだ。
そのような習慣が生きている国では、人に施しを行なうことはその人の為ではなく、自分自身の為という考えが常識になっている。日本語でもこれを「情けは人のためならず」といって教えている。「人に親切にすることは、相手のためだけではなく、結局は自分のためになることなのだよ」という教えだ。残念ながら意味を間違って覚えている人が多いのだが。
仏教には布施行(ふせぎょう)と言って、人に施しをする修業がある。自分のものを手放すことで執着を捨て、他者を助けることで慈悲心を育むものだ。人に施しをすることそのものが、自分の修業であり、自分の為にしていることなのだ。
ダラムサラで、チベット人のおばあさんが、優しい笑顔で私にパンを分けてくれた。決して裕福そうな人ではなかった。そのおばあさんにとって、大切な食べ物だろうに、そのパンを見知らぬ外国人の私にくださるというのは、どういう心持ちかと言うと「受け取ってくれて、布施させてくれてありがとう」という気持ちなのだ。あなたに布施をすることで私は来世への功徳を積むことができてありがたい、そういう気持ちなのだ。出会ったチベット人はみな、そういう考えを持っていた。
私はこの考え方に馴染んだ。昔から知っているような感覚、懐かしい故郷に帰ったような気がした。
ところで、募金をする時、いくらにしようかと悩むことはないだろうか。
私は、布施の基準をひとつ持っている。
「この布施をしたことで自分がさらに貧しく困窮することがない」という基準だ。
だから、いつ、どんな時でも、1円なら布施できる。
今はとても生活に困窮しているので、大抵は1円玉と5円玉の小銭をその時持っているだけ募金する。
私がどんなに困窮していても、そのくらいの小銭を人にあげたからといって、自分がさらに貧しくなることはない。
私が普通に給料をもらっているなら、多分500円や1000円くらいは寄付できるかもしれない。
その時も「この額を寄付したとしても、自分が貧しくならない」ということが基準だ。
さらに言えば、貧しくならないというのは、経済面だけの話ではない。
その額を惜しんで、ああもったいない、と思うことがない額ということでもある。施しをすることを惜しい、惜しいと思うようでは、心が貧しくなっている。貧しくなるような布施は仏陀の教えによれば間違っている。経済的にも、心理的にも、貧しくならない程度を、自分の中で正直に見つめて、その時、その時、自分を試すようにして布施する。自分の為になると心底思える行為を続ける。
これが布施行だ。
1円でも100万円でも、そうして自分の内側を見つめることが、「施し」をする時に与えられる機会なのだ。大金を一生に一度、死ぬ前に施したら来世がよくなるという訳ではないだろう。自分の心を見つめる機会を、一回、一回、得ようとすることが尊いのだ。
1円でも、1000円でも、ありがたい布施の機会なのだ。
私は、寄付をしなかったとき、1円を寄付したからと言って自分が貧しくなるはずもないのに何故しなかっただろうかと考える。募金箱をわざと無視したか?別の何かに気が逸れたか?僅かな金を惜しんだのか?募金を義務的に感じて面倒になったか?
そんな風に自分のなかを見つめる機会にする。そして次はどうするだろうか?と考えておく。
そして、また次の募金箱に出会う。
募金箱は、どこにでもある。
布施行は、どこででも出来る。
私は口蹄疫に限らず、募金や寄付の箱を見ると大抵いくらか寄付している。こんなことをわざわざブログに書くのは、自分が善行をしていることを褒めて欲しいからではない。寄付や募金という「施し」について、考えてみたいからだ。
もう日本ではほとんど見かけないけれど、仏教には托鉢という修業がある。僧侶が家の前で教典を唱え、その家の人が僧侶に米や野菜やお金を施すという習慣だ。タイ、カンボジア、ブータン、インドネシア、スリランカ、ミャンマー、ラオスなどの仏教国ではまだこの托鉢が行われている。
僧侶になるということは、家族を捨て、自分の所有物のすべてを捨てることで世俗を離れ、悟りを開くための修業だけを行なう身分になるということだ。仏陀の時代には、あらゆる生産活動が禁止されていたので、自分で畑を作ることさえも行なわない。所有することも禁止されたので、蓄えることもできない。所有できるのは、服が3枚と食事の為の椀と箸だけ。だから、ただその日の食物を世俗の人々から施してもらうことで生き延びる。
一方、出家して僧侶にならない世俗の人々は、善行を行い、念仏を唱えることで来世よい未来に恵まれるとされた。その善行の中でもっとも価値のあることが「布施(出家者への施し)」とされた。だから家の前に僧侶が立ちより、念仏を唱えてくれることは良いこと、ありがたいことで、その僧侶に施しを行なえる機会は、自分の来世が良くなる功徳を積むラッキーな機会と捉えるのだ。
僧侶になる覚悟は持てないが、世俗のままでも修業していることになる行為、それが布施という施しなのだ。
そのような習慣が生きている国では、人に施しを行なうことはその人の為ではなく、自分自身の為という考えが常識になっている。日本語でもこれを「情けは人のためならず」といって教えている。「人に親切にすることは、相手のためだけではなく、結局は自分のためになることなのだよ」という教えだ。残念ながら意味を間違って覚えている人が多いのだが。
仏教には布施行(ふせぎょう)と言って、人に施しをする修業がある。自分のものを手放すことで執着を捨て、他者を助けることで慈悲心を育むものだ。人に施しをすることそのものが、自分の修業であり、自分の為にしていることなのだ。
ダラムサラで、チベット人のおばあさんが、優しい笑顔で私にパンを分けてくれた。決して裕福そうな人ではなかった。そのおばあさんにとって、大切な食べ物だろうに、そのパンを見知らぬ外国人の私にくださるというのは、どういう心持ちかと言うと「受け取ってくれて、布施させてくれてありがとう」という気持ちなのだ。あなたに布施をすることで私は来世への功徳を積むことができてありがたい、そういう気持ちなのだ。出会ったチベット人はみな、そういう考えを持っていた。
私はこの考え方に馴染んだ。昔から知っているような感覚、懐かしい故郷に帰ったような気がした。
ところで、募金をする時、いくらにしようかと悩むことはないだろうか。
私は、布施の基準をひとつ持っている。
「この布施をしたことで自分がさらに貧しく困窮することがない」という基準だ。
だから、いつ、どんな時でも、1円なら布施できる。
今はとても生活に困窮しているので、大抵は1円玉と5円玉の小銭をその時持っているだけ募金する。
私がどんなに困窮していても、そのくらいの小銭を人にあげたからといって、自分がさらに貧しくなることはない。
私が普通に給料をもらっているなら、多分500円や1000円くらいは寄付できるかもしれない。
その時も「この額を寄付したとしても、自分が貧しくならない」ということが基準だ。
さらに言えば、貧しくならないというのは、経済面だけの話ではない。
その額を惜しんで、ああもったいない、と思うことがない額ということでもある。施しをすることを惜しい、惜しいと思うようでは、心が貧しくなっている。貧しくなるような布施は仏陀の教えによれば間違っている。経済的にも、心理的にも、貧しくならない程度を、自分の中で正直に見つめて、その時、その時、自分を試すようにして布施する。自分の為になると心底思える行為を続ける。
これが布施行だ。
1円でも100万円でも、そうして自分の内側を見つめることが、「施し」をする時に与えられる機会なのだ。大金を一生に一度、死ぬ前に施したら来世がよくなるという訳ではないだろう。自分の心を見つめる機会を、一回、一回、得ようとすることが尊いのだ。
1円でも、1000円でも、ありがたい布施の機会なのだ。
私は、寄付をしなかったとき、1円を寄付したからと言って自分が貧しくなるはずもないのに何故しなかっただろうかと考える。募金箱をわざと無視したか?別の何かに気が逸れたか?僅かな金を惜しんだのか?募金を義務的に感じて面倒になったか?
そんな風に自分のなかを見つめる機会にする。そして次はどうするだろうか?と考えておく。
そして、また次の募金箱に出会う。
募金箱は、どこにでもある。
布施行は、どこででも出来る。
夫の趣味はネットでポイントを稼ぐことで 毎月数千円分のポイントが溜まっているそうだ。そのポイントで米などの必需品を買ったりしているので、馬鹿にできない趣味なのだけれど、それに協力するためにちょくちょく、アンケートに答えている。
アンケートの質問にはどういう訳か、タイトルに書いたものが含まれていることが多い。
いま一番欲しいものはなんですか?
これが……もう…毎度のことだが、本当に困る質問なのだ。
この質問を見ると何も浮かんでこない。
たぶん、本当に私には「これが欲しい」とおねだりしたいほど明確な「欲しいもの」がないのだ。必要なものはすべてすでに持っている気がする。持っているものはまだ使えるものばかりだから、新しいものが欲しいとも思わない。
服も車も食べ物も生活に必要な道具も、家族も、時間も、私はすべてを持っていると感じる。
そこで、この設問の意図を考える。
このアンケートで、「今一般の人が一番欲しがっているのは」というリストを作るのだろう。そのリストを使って、懸賞のプレゼントをこのリストから選んだりするのだろう。また、このアンケートで「車」と答えた人に新車の販売案内を送ったりするのだろう。
しかしその設問意図の想像がついた処で、自分に物欲がないことはどうしようもない。
仕方ないので、一般の女性の代弁をするつもりで考える。みんなはどんなものを欲しいと思うだろうか、と想像してみるのだ。
やっぱり美容関係は必須かな。
「イオン導入の美顔器」とかどうかな。
「商品券」っていう人もいるだろうな。
券シリーズなら「旅行券」「図書カード」「百貨店商品券」というのもありか。
「エステつきで温泉旅館に宿泊」なんていうのも魅力的だろう。
「地デジ対応大画面テレビ」とかもいいかな。
「ホームベーカリー」っていうのもいいかも。
それから、それから…えーと、えーと……んーーー…
毎回毎回、頑張って考えているのだが、さすがにネタが尽きている。ツライ。
あっ、今 思いついた!
この間、ホークスタウンの雑貨店で見かけた、ペッパーミルが欲しいな。
うさぎの形で、耳をにぎると胡椒がひける。
いま使っているミルは、普通に筒をひねる方式なので、手が濡れていたりするとすべって使いにくいのだ。あのミルだったら使いやすいこと請け合いだ。あの時、これは買いだと思ったのに、歩き回ってて買い忘れてしまったんだ。1000円くらいのものだけど、欲しいものといえばこれが欲しい。
…もちろん手に入らなくても別に構わないという程度の「欲しい」なのだけれど。かすかにでも「欲しい」と言えるものを思いつけた。
欲しいものを考えつくと、少し元気になるものだね。
欲しいものを思いつけない私は 元気のもとが少ないのかもしれないな。
普通の人は、いろんなものを欲しがることで元気を保とうとしているのかもしれないな。
いま一番欲しいものはなんですか?
アンケートの質問にはどういう訳か、タイトルに書いたものが含まれていることが多い。
いま一番欲しいものはなんですか?
これが……もう…毎度のことだが、本当に困る質問なのだ。
この質問を見ると何も浮かんでこない。
たぶん、本当に私には「これが欲しい」とおねだりしたいほど明確な「欲しいもの」がないのだ。必要なものはすべてすでに持っている気がする。持っているものはまだ使えるものばかりだから、新しいものが欲しいとも思わない。
服も車も食べ物も生活に必要な道具も、家族も、時間も、私はすべてを持っていると感じる。
そこで、この設問の意図を考える。
このアンケートで、「今一般の人が一番欲しがっているのは」というリストを作るのだろう。そのリストを使って、懸賞のプレゼントをこのリストから選んだりするのだろう。また、このアンケートで「車」と答えた人に新車の販売案内を送ったりするのだろう。
しかしその設問意図の想像がついた処で、自分に物欲がないことはどうしようもない。
仕方ないので、一般の女性の代弁をするつもりで考える。みんなはどんなものを欲しいと思うだろうか、と想像してみるのだ。
やっぱり美容関係は必須かな。
「イオン導入の美顔器」とかどうかな。
「商品券」っていう人もいるだろうな。
券シリーズなら「旅行券」「図書カード」「百貨店商品券」というのもありか。
「エステつきで温泉旅館に宿泊」なんていうのも魅力的だろう。
「地デジ対応大画面テレビ」とかもいいかな。
「ホームベーカリー」っていうのもいいかも。
それから、それから…えーと、えーと……んーーー…
毎回毎回、頑張って考えているのだが、さすがにネタが尽きている。ツライ。
あっ、今 思いついた!
この間、ホークスタウンの雑貨店で見かけた、ペッパーミルが欲しいな。
うさぎの形で、耳をにぎると胡椒がひける。
いま使っているミルは、普通に筒をひねる方式なので、手が濡れていたりするとすべって使いにくいのだ。あのミルだったら使いやすいこと請け合いだ。あの時、これは買いだと思ったのに、歩き回ってて買い忘れてしまったんだ。1000円くらいのものだけど、欲しいものといえばこれが欲しい。
…もちろん手に入らなくても別に構わないという程度の「欲しい」なのだけれど。かすかにでも「欲しい」と言えるものを思いつけた。
欲しいものを考えつくと、少し元気になるものだね。
欲しいものを思いつけない私は 元気のもとが少ないのかもしれないな。
普通の人は、いろんなものを欲しがることで元気を保とうとしているのかもしれないな。
いま一番欲しいものはなんですか?
数年前に積ん読図書(つんどくとしょ)として購入したものの読む時間がなかなか無くて順番待ちだった本、邦題「孤独〜自己への回帰〜」という本をやっと今、少しづつ読んでいる。
原題は「The Schoole Of Genius」 天才の学舎とでも訳したい処だ。
この本に書かれている考察は、私にとって実に救いに満ちている。
フロイトが、約100年前に登場して、「健全な人間とは他者との交流に喜びを見いだしそのような人生を送るもの」と論じた。以来、人付き合いが苦手だったり、異性との付き合いに縁遠く、孤独がちな人間はイコール未熟であり、異常または、十分に発達していない不健全な人間であると見られるようになった。
そのフロイト以降の風潮に対して、この本の著者アンソニー・ストーは、「孤独な時間によって人は完全な思考の中に没入でき、しかもそれは限りなくその人の本質的なものに触れる唯一の方法である」と反論している。
これまでの歴史上の天才と言われる、輝ける功績を残した優れた人物の多くが、自分一人で過ごす時間を実に好んでおり、必ずしも他者との交流で満たされることがなかったということを研究した結果を述べている。
現代の私たちは、すっかり「対人関係不全イコール未熟」と思い込まされていないだろうか。
一人遊びの好きな子供を、何か発達障害ではないかとすぐに疑い、人と付き合えない子だったらどうしようと恐れてしまう。集団から離れて、読書や創作を好み、静かに一人で過ごす人を「暗い」「変わりもの」と呼ぶ。母親同士の交流に交われないとしたら自分はすなわち未熟なのだと怖れ、必要以上に神経を逆立ててしまう。
例えば家族を失って落ち込んでいる人が、その気持ちを抑えて会社に復帰し黙って痛みを押し隠していようとすることは賞讃され、一人世間を避けて悲しみに暮れることは不健全であるとする。
けれども、この本でストーは臨床心理の現場で、セラピーがいかなる方法で心の傷を回復させるかにも言及し、私たちは自分自身の内側の世界に閉じこもり、それをしっかり感じきるために外界の影響を避ける必要があるのだと代弁してくれている。
また、創作的な活動には、必ずその初期段階に、一人考え込み、創造の源となる様々な断片を収集するための孤独な期間が存在すると語っている。人は、一人でしか出来ない作業がある。そしてより創造的な人々は、より孤独な時間が必要なのだと。
私が幼い頃から人生のほとんどを孤独に過ごしてきたことを、ストーの論は肯定してくれている。
交わろうと努力もした。しかし本質的に、私の考えていることに付き合ってくれる人も、また付き合えるだけの同等の思考力を持つ人も、存在しなかった。私にとって、自分の世界を理解して共有してくれる他者はただの一人も見つけられなかった。
他者と交わるということは、私にはかなり足枷をはめられた苦痛な作業でもあったのだ。
人と交わることが無くとも、それは個性の一つとも言って差し支えない堂々としたものだし、さらに言えば、すべての人にとって孤独は必要なものだともストーは述べている。孤独な時間を持たない人というのは自分の本質に触れる機会を持たない人ということであり、むしろ、その人の精神性の成長を妨げているというのだ。
私は、この説に賛成する。
娘を見ていても、彼女が自分の感情を処理し考えをまとめる為には彼女を一人にしてやる必要があるということがわかっている。叱られた時も、失敗した時も、彼女はいつも一人自分のベッドの上で感情を爆発させ、毛布にくるまって好きなだけ閉じこもり、誰の干渉も受けない状態で自分の心のケアをしている。そして自分なりに収まりが付いた時に、ベッドから降りてくる。
私たち大人は、彼女に何もなかったかのようにそっと自然に接する。彼女がまとめた結論がどのようなものか質問しなくても、話したいなら自分から話しはじめるし、まだそっとしておいて欲しい時にはさらに数日の時間をかけて彼女は自分をケアしている。親のぬくもりが必要な時にはハグをリクエストしてくるし、言葉の支援が必要な時には愚痴を聞かせてくれる。
彼女を一人にして、まったく干渉せず、しかしすぐ側で彼女の叫びを聞き続けながら家事をしているという状態を、彼女は完全に受け入れている。一度、その状況があまりにも不憫に思えて、声をかけると彼女は私にとても邪魔だと言った。あっちへ行って、一人にしておいて欲しいと言ったのだった。
ストーは、著書の中で「母親から完全な保護と安全を感じている子供は、その母親の側で一人遊びをする」と書いている。「安全があるからこそ、安心の中で一人で居る」と。その時の「一人引きこもる状態=孤独」が、その子供の内側の世界を大きく育てているのだと。
孤独は 天才の学舎。自己へ回帰する唯一の方法。
これを読んで深く納得し、どこかで安心したということは、私自身も「孤独な人間は不健全」という考えに汚染されていたという訳だ。
原題は「The Schoole Of Genius」 天才の学舎とでも訳したい処だ。
この本に書かれている考察は、私にとって実に救いに満ちている。
フロイトが、約100年前に登場して、「健全な人間とは他者との交流に喜びを見いだしそのような人生を送るもの」と論じた。以来、人付き合いが苦手だったり、異性との付き合いに縁遠く、孤独がちな人間はイコール未熟であり、異常または、十分に発達していない不健全な人間であると見られるようになった。
そのフロイト以降の風潮に対して、この本の著者アンソニー・ストーは、「孤独な時間によって人は完全な思考の中に没入でき、しかもそれは限りなくその人の本質的なものに触れる唯一の方法である」と反論している。
これまでの歴史上の天才と言われる、輝ける功績を残した優れた人物の多くが、自分一人で過ごす時間を実に好んでおり、必ずしも他者との交流で満たされることがなかったということを研究した結果を述べている。
現代の私たちは、すっかり「対人関係不全イコール未熟」と思い込まされていないだろうか。
一人遊びの好きな子供を、何か発達障害ではないかとすぐに疑い、人と付き合えない子だったらどうしようと恐れてしまう。集団から離れて、読書や創作を好み、静かに一人で過ごす人を「暗い」「変わりもの」と呼ぶ。母親同士の交流に交われないとしたら自分はすなわち未熟なのだと怖れ、必要以上に神経を逆立ててしまう。
例えば家族を失って落ち込んでいる人が、その気持ちを抑えて会社に復帰し黙って痛みを押し隠していようとすることは賞讃され、一人世間を避けて悲しみに暮れることは不健全であるとする。
けれども、この本でストーは臨床心理の現場で、セラピーがいかなる方法で心の傷を回復させるかにも言及し、私たちは自分自身の内側の世界に閉じこもり、それをしっかり感じきるために外界の影響を避ける必要があるのだと代弁してくれている。
また、創作的な活動には、必ずその初期段階に、一人考え込み、創造の源となる様々な断片を収集するための孤独な期間が存在すると語っている。人は、一人でしか出来ない作業がある。そしてより創造的な人々は、より孤独な時間が必要なのだと。
私が幼い頃から人生のほとんどを孤独に過ごしてきたことを、ストーの論は肯定してくれている。
交わろうと努力もした。しかし本質的に、私の考えていることに付き合ってくれる人も、また付き合えるだけの同等の思考力を持つ人も、存在しなかった。私にとって、自分の世界を理解して共有してくれる他者はただの一人も見つけられなかった。
他者と交わるということは、私にはかなり足枷をはめられた苦痛な作業でもあったのだ。
人と交わることが無くとも、それは個性の一つとも言って差し支えない堂々としたものだし、さらに言えば、すべての人にとって孤独は必要なものだともストーは述べている。孤独な時間を持たない人というのは自分の本質に触れる機会を持たない人ということであり、むしろ、その人の精神性の成長を妨げているというのだ。
私は、この説に賛成する。
娘を見ていても、彼女が自分の感情を処理し考えをまとめる為には彼女を一人にしてやる必要があるということがわかっている。叱られた時も、失敗した時も、彼女はいつも一人自分のベッドの上で感情を爆発させ、毛布にくるまって好きなだけ閉じこもり、誰の干渉も受けない状態で自分の心のケアをしている。そして自分なりに収まりが付いた時に、ベッドから降りてくる。
私たち大人は、彼女に何もなかったかのようにそっと自然に接する。彼女がまとめた結論がどのようなものか質問しなくても、話したいなら自分から話しはじめるし、まだそっとしておいて欲しい時にはさらに数日の時間をかけて彼女は自分をケアしている。親のぬくもりが必要な時にはハグをリクエストしてくるし、言葉の支援が必要な時には愚痴を聞かせてくれる。
彼女を一人にして、まったく干渉せず、しかしすぐ側で彼女の叫びを聞き続けながら家事をしているという状態を、彼女は完全に受け入れている。一度、その状況があまりにも不憫に思えて、声をかけると彼女は私にとても邪魔だと言った。あっちへ行って、一人にしておいて欲しいと言ったのだった。
ストーは、著書の中で「母親から完全な保護と安全を感じている子供は、その母親の側で一人遊びをする」と書いている。「安全があるからこそ、安心の中で一人で居る」と。その時の「一人引きこもる状態=孤独」が、その子供の内側の世界を大きく育てているのだと。
孤独は 天才の学舎。自己へ回帰する唯一の方法。
これを読んで深く納得し、どこかで安心したということは、私自身も「孤独な人間は不健全」という考えに汚染されていたという訳だ。
だいぶ前の映画でAIという、人工知能ものをそのまま連想させる米映画があった。機械萌え属性を持つ私はもちろんこれも速攻で見たのだが、可哀相すぎて見るのが苦しいくらいのストーリー。
で、そういう情緒的な振幅とは別に、知的好奇心の方の振幅も起きて。
「愛」をプログラムされた少年(AIの主人公である少年型ロボット)
というキャッチを真面目に考えてしまう。
数ある動詞のどれをとっても、それをプログラム化してロボットに自律的にそれをさせ、人間の期待に応えるレベルにするのは非常に難しい。学生時代人工知能の研究にあやうく嵌まりかけたのでよく解る。
歩く、座る、走る、この基本動作を実現するだけでも、それぞれの動きを解析し、その運動制御を自律させるための仕組みをゼロから考えなければならない。今でこそASHIMOが代表する、二足歩行の人間型ロボットが実現しているが、HondaがP2開発成功をプレスリリースする以前には、世界中の多くのロボット開発現場が二足歩行ロボットの開発を諦め、多関節ロボットや4つ足またはそれ以上の多足歩行ロボットを進めていた。これは、いかに二足歩行させることが困難だったかを示している。そういう世界的情勢の中でも、会社にも内緒で黙々と独自に二足歩行の夢を追い続けたHondaのP2(現在ではASHIMO)開発チームには日本技術者の誇りを感じる。
※ASHIMOの姿勢制御は本当に素晴らしく、「歩行中に押しても倒れない」のである。人間のように踏ん張ることが出来る。くぅ、胸キュン。(これがどうすごいかを語ると大変なので省略。決して転ばないロボットの代表としてはアメリカのBIGDOGという四足歩行ロボットがあるが、こっちはかなり気持ち悪い。)
人間にとって単純な動作一つでも、プログラム化してロボットに行なわせるのは難しいのに、情緒を示す動詞はさらに乗数的に困難だ。しかも、それが自律的、自発的にロボット主体で行われるものになるというのは、今はまだ夢物語だ。それが実現するということは、ロボットに、心があるということを意味するからだ。アトムは心のあるロボットだと手塚治虫は簡単に設定したが、それがどれほど難しいことか考えていただろうか。
さてこの「AI」という映画の主人公、少年型ロボットは「愛」をプログラムされているロボット。プログラムの最終キーワードを入力した人を親として慕い続ける。子供を亡くしたり子供を持ちたくても持てなかった人の為に、代理の子供を務めるために開発されたロボットだ。
ちらっと設定を見ただけでかなり胸キュンなストーリーだが、同時に胸キュンそっちのけで「どうやったら『愛する』ことをプログラムできるだろうか」と論理系の思考が冴え冴えと考えはじめる。
愛を名詞ではなく「愛する」という動詞として捉えた時の、その中身の吟味から。愛するとは何がどうなっている状態と定義できるのか。(ここから先はちと広くて、なおかつ込み入っているので省略)
自分の心さえきちんと手に取れている人は少ないというのに、その人間に心をプログラムすることが出来るのだろうか、と疑問に思う。
心とは、感情と思考のルールブックのことを言う。ただしその基底には、動物として理屈抜き・思考抜きに「反応」する源情動があるという前提がある。これは生体の個体が生き延びるためと種の保存のために必要な反応で、生体の命に限りがある前提のものだ。パーツを変えれば永遠に存続出来る、非生体のロボットに心の源となる情動を組み込むことは、非常にリスキーかも知れない。
私個人としては心の働き(つまりルールブック)の部分だけなら、膨大だがプログラム化できると考えている。しかし、それだけでは「プログラムされた内容の範囲内を処理しているだけ」つまり、人間のまね事をしているだけのレベルだ。多分、これでは人間の要求には質や精度の点で応えられない。
人間がロボットのような他者に対して、それが「心」とか「愛」というものだと認知・承認する為には、「それを発現している存在そのものの、根源的情動に基づく感情」が含まれていることが外せない条件になっている。
根源的情動という感情は、しばしば不条理であり、個体としての生体の生命維持さえも放棄する。これをロボットに搭載するのは、危険なことだ。 ロボコップが気まぐれだったら困る。なにせ怪力で破壊力も大きい。ロボットは機能面で人間をはるかに越えることが出来る。だからこそ、人間の安全のために、制御を何重にもかけておかなければならない。感情を持つということは、制御不能になることに近づいてしまうのだ。
心のあるロボットを作ることは、生命を作ることと同じくらい、おおごとなのだ。
そう言いながらも、どこまで真似事の心を、人間がぐっとくるレベルまで近づけて実現できるかを、ずっと考え続けている。それはつまり、人間を研究すること。現在の私の仕事とも極めて相性がよい趣味である。
で、そういう情緒的な振幅とは別に、知的好奇心の方の振幅も起きて。
「愛」をプログラムされた少年(AIの主人公である少年型ロボット)
というキャッチを真面目に考えてしまう。
数ある動詞のどれをとっても、それをプログラム化してロボットに自律的にそれをさせ、人間の期待に応えるレベルにするのは非常に難しい。学生時代人工知能の研究にあやうく嵌まりかけたのでよく解る。
歩く、座る、走る、この基本動作を実現するだけでも、それぞれの動きを解析し、その運動制御を自律させるための仕組みをゼロから考えなければならない。今でこそASHIMOが代表する、二足歩行の人間型ロボットが実現しているが、HondaがP2開発成功をプレスリリースする以前には、世界中の多くのロボット開発現場が二足歩行ロボットの開発を諦め、多関節ロボットや4つ足またはそれ以上の多足歩行ロボットを進めていた。これは、いかに二足歩行させることが困難だったかを示している。そういう世界的情勢の中でも、会社にも内緒で黙々と独自に二足歩行の夢を追い続けたHondaのP2(現在ではASHIMO)開発チームには日本技術者の誇りを感じる。
※ASHIMOの姿勢制御は本当に素晴らしく、「歩行中に押しても倒れない」のである。人間のように踏ん張ることが出来る。くぅ、胸キュン。(これがどうすごいかを語ると大変なので省略。決して転ばないロボットの代表としてはアメリカのBIGDOGという四足歩行ロボットがあるが、こっちはかなり気持ち悪い。)
人間にとって単純な動作一つでも、プログラム化してロボットに行なわせるのは難しいのに、情緒を示す動詞はさらに乗数的に困難だ。しかも、それが自律的、自発的にロボット主体で行われるものになるというのは、今はまだ夢物語だ。それが実現するということは、ロボットに、心があるということを意味するからだ。アトムは心のあるロボットだと手塚治虫は簡単に設定したが、それがどれほど難しいことか考えていただろうか。
さてこの「AI」という映画の主人公、少年型ロボットは「愛」をプログラムされているロボット。プログラムの最終キーワードを入力した人を親として慕い続ける。子供を亡くしたり子供を持ちたくても持てなかった人の為に、代理の子供を務めるために開発されたロボットだ。
ちらっと設定を見ただけでかなり胸キュンなストーリーだが、同時に胸キュンそっちのけで「どうやったら『愛する』ことをプログラムできるだろうか」と論理系の思考が冴え冴えと考えはじめる。
愛を名詞ではなく「愛する」という動詞として捉えた時の、その中身の吟味から。愛するとは何がどうなっている状態と定義できるのか。(ここから先はちと広くて、なおかつ込み入っているので省略)
自分の心さえきちんと手に取れている人は少ないというのに、その人間に心をプログラムすることが出来るのだろうか、と疑問に思う。
心とは、感情と思考のルールブックのことを言う。ただしその基底には、動物として理屈抜き・思考抜きに「反応」する源情動があるという前提がある。これは生体の個体が生き延びるためと種の保存のために必要な反応で、生体の命に限りがある前提のものだ。パーツを変えれば永遠に存続出来る、非生体のロボットに心の源となる情動を組み込むことは、非常にリスキーかも知れない。
私個人としては心の働き(つまりルールブック)の部分だけなら、膨大だがプログラム化できると考えている。しかし、それだけでは「プログラムされた内容の範囲内を処理しているだけ」つまり、人間のまね事をしているだけのレベルだ。多分、これでは人間の要求には質や精度の点で応えられない。
人間がロボットのような他者に対して、それが「心」とか「愛」というものだと認知・承認する為には、「それを発現している存在そのものの、根源的情動に基づく感情」が含まれていることが外せない条件になっている。
根源的情動という感情は、しばしば不条理であり、個体としての生体の生命維持さえも放棄する。これをロボットに搭載するのは、危険なことだ。 ロボコップが気まぐれだったら困る。なにせ怪力で破壊力も大きい。ロボットは機能面で人間をはるかに越えることが出来る。だからこそ、人間の安全のために、制御を何重にもかけておかなければならない。感情を持つということは、制御不能になることに近づいてしまうのだ。
心のあるロボットを作ることは、生命を作ることと同じくらい、おおごとなのだ。
そう言いながらも、どこまで真似事の心を、人間がぐっとくるレベルまで近づけて実現できるかを、ずっと考え続けている。それはつまり、人間を研究すること。現在の私の仕事とも極めて相性がよい趣味である。
私は昔からプログラムで忠実に使命を果たそうと する機
械にいわゆる「萌え」を感じる性質なのだけれども
「はやぶさ」は久々に相当くる。
動画サイトでもいろいろフィーチャーされている。
とりあえずはこれ。
油断するとはやぶさのけなげさに泣いてしまう。
http://www.youtube.com/watch?v=me-kYu-ikKw(前編)
http://www.youtube.com/watch?v=EuXuZLq5fVY(後編)
子供向けにJAXAがまとめた絵本風のものもオススメ。
(はやぶさ君の冒険日誌)
http://www.isas.jaxa.jp/j/enterp/missions/hayabusa/fun/adv/index.shtml
実際にはやぶさを奇跡の帰還に導いたのは地上か ら粘り
強く困難に立ち向かった開発チームの技術者たちだろう
と思う。
もちろん彼らも素晴らしいしプロジェクトX的な視点な
ら彼らに栄光のスポットライトが当たるだろう。
でも私としては「はやぶさ視点」にぐっとくる。
過酷と困難を極めた長い旅路の最期に、自らの故 郷で燃
え尽きてしまうはやぶさ。
よく帰った、よく頑張った、と手放しに全力で褒 めてや
りたくなる。たとえカプセルに「いとかわ」のサンプル
が入って いたとしても、入っていないとしても。
はやぶさ は、その使命に全力を尽くして散った。
私的には「アポロ13」より胸にぐっとくる。
おやすみ、はやぶさ。
械にいわゆる「萌え」を感じる性質なのだけれども
「はやぶさ」は久々に相当くる。
動画サイトでもいろいろフィーチャーされている。
とりあえずはこれ。
油断するとはやぶさのけなげさに泣いてしまう。
http://www.youtube.com/watch?v=me-kYu-ikKw(前編)
http://www.youtube.com/watch?v=EuXuZLq5fVY(後編)
子供向けにJAXAがまとめた絵本風のものもオススメ。
(はやぶさ君の冒険日誌)
http://www.isas.jaxa.jp/j/enterp/missions/hayabusa/fun/adv/index.shtml
実際にはやぶさを奇跡の帰還に導いたのは地上か ら粘り
強く困難に立ち向かった開発チームの技術者たちだろう
と思う。
もちろん彼らも素晴らしいしプロジェクトX的な視点な
ら彼らに栄光のスポットライトが当たるだろう。
でも私としては「はやぶさ視点」にぐっとくる。
過酷と困難を極めた長い旅路の最期に、自らの故 郷で燃
え尽きてしまうはやぶさ。
よく帰った、よく頑張った、と手放しに全力で褒 めてや
りたくなる。たとえカプセルに「いとかわ」のサンプル
が入って いたとしても、入っていないとしても。
はやぶさ は、その使命に全力を尽くして散った。
私的には「アポロ13」より胸にぐっとくる。
おやすみ、はやぶさ。