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佐賀県小城市役所からの依頼で自殺予防の講演。

事前申し込みは10名くらいと聞いていたので、ガラガラなんだろうなと
思いながら会場入りすると、予想に反して50名ほどの人が席をみっちり
と埋めていて、少し驚いた。

佐賀県は自殺率が全国でも10番目で、九州ではトップなのだ。
世界的に見れば、日本の自殺率は2010年WHOの最新調査で世界第6位。
自殺率が高い国々は、国内が内戦状態で、殺したり殺されたりという荒廃
し安定していない社会構造の国々ばかり。そのなかに6位の日本と5位の
ハンバリーが入っているのは非常に奇異に見える。

中でも日本は皆保険、皆年金といった高度な社会システムを実現し、経済
的にも最高水準の国、戦争、内戦のような究極の混乱とは真逆でありなが
ら自殺率の高さである。
これは明らかに異様な結果と言わざるを得ない。

日本自殺率一位の秋田県は、世界一の自殺率のベラルーシ以上の自殺率で
あり、10位佐賀、13位福岡の自殺率は世界第4位のカザフスタンを超
える。

これがどれほど異常な状態であるか。
02年8月に横浜市で開かれた、第12回世界精神医学会(WPA)の推計に
よれば日本は実質自殺率世界1位とされた。

日本人の自殺には、海外諸国とは明らかに違う特徴がある。
日本以外の国での自殺率は、年齢が高くなるにつれ上がる。グラフは10
代、20代、30代とわずかずつ上昇し、75歳くらいから急激に増加する。
つまり、高齢になり、健康問題に苦しみ、将来への希望をもてなくなり、
自殺する人が増えるのが、世界的に普通のパターンなのである。

それにたいして、日本の自殺率グラフは、50代がピークとなるという極
めて特異的なラインを描く。

50代。
子供たちは独立し結婚し、それぞれの人生を築いているころだろう。
親という役割を終え、いよいよ自分の人生を豊かに実らせるころ。まだ体
も衰え切ってはおらず、余暇にできることも多く残されていることだろう。

何故日本人は、その頃に自殺するのか。
厚生労働省や学者の分析によれば、自殺する人の二大理由は、病苦と経済
問題である。しかしそれが何故50代なのかの理由にはなっていないと感
じる。

健康問題が理由ならば、50代より70代、80代の方が高いのが当然だ。
30代40代と、50代の健康問題発生率にそれほど大きな開きがあると
は思えない。

経済問題が理由だというが、それならば経済破綻寸前のギリシアはどうな
るのか。ギリシアの自殺率は、日本の7分の1以下だ。日本が世界6位に
たいして、ギリシアは世界80位なのだ。

私は、経済問題、健康問題で死ぬのはやはり高齢者だと思う。
高齢者の自殺はある意味、人生の終末を感じ取った人が、自らの人生をど
こで締めくくるかという決意でもあり、残念なことだが自殺率が高いのは
自然なことと思う。
しかし、それよりずっと若い人々が数多く死ぬのは、メンタルの問題、自
己肯定感の問題だと確信している。人生を締めくくるには早過ぎる年齢で
あるにも関わらず、自分から死を選ぶというのは、自分の命を自ら軽視し
ているからに他ならないのではないか。
どこかで、自分の価値を喪失したと感じ、社会には自分は要らない人間な
のだと絶望してしまったのではないのか。

もう死んじゃおうかな、と言ったときに、「えっ本当に?」と真顔で聞い
てくれる人がほとんど居ない日本。
「あはは、もう冗談ばっかり」「なに馬鹿なこと言ってるのよ」「まあ、
みんなそうよ」と、その場を誤魔化し、小さな声でやっとつぶやいた苦し
みの声を黙殺してしまう国民、日本人。

そんな対応をされて、「私の死は、たいしたことではない」と思うのだ。

だから講演の一番最後に、
だれかが冗談めかしてであれ、自分の死について話したら、必ず真顔で
「本当に死にそうですか」とまっすぐに訊ねて下さい、と訴えた。
相手はびっくりして、「いや、冗談だよー」とその場をごまかすかも知れ
ない。けれど、きっと心にこう残っている。

(私が死にたいといったら、真顔で真剣に、聞いてくれた人がいた)と。
それがその人をこの社会につなぐ細い糸の一本になる。
社会との信頼の糸。
少なくとも一人、私の死を見過ごすまいとした人がいた、と。


そうして、「死」についてまっすぐに向き合ってくれる人が多くなるほ
ど、必ず自殺率は低下する。
私はそう信じている。





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心理学とそっくりな面があってとても相性の良い、仏教のお話。


仏教のもっとも重要な点は、「空(くう)」の理解にある。

これはしっかりした仏教の基礎的な知識を理解した上でないと、
とても乱暴に思える表現でしか語ることが出来ない。

「一般的に言う【私】は存在しない」
「【あれ】とか【それ】というものも存在しない」

つまり確固とした存在など、この世にはないということだ。
同じことを心理学でも考えている。
それは【認知】の仕組みに関する研究に表れている。

たとえば私たちが「椅子」というものを認知・認識するとき、
椅子とは何のことを差すのか?
(心理学では、人間がものごとを認識する仕組みを「認知システ
 ム」と呼び、詳しく研究してきた。)

椅子とは、四つの脚のある、人が座ることを目的とした家具の一
種である。
これが知識としての椅子のデータ。
この基礎知識があってこそ、人は視覚的情報からえたものが、椅
子に該当すると判断できるのだ。

素材や形、質感、頑丈さ、装飾など、見た目から得た情報と、自
分の知識情報を合致させた時にはじめてそれを「椅子」だと認識
する。

記憶され保管されている知識と外部情報の合致。
これが認知システムである。

しかしもしも、椅子が存在しない文化で育った人が、椅子を見た
ときにどう思うだろうか。

「木を組み合わせた工芸品や芸術品だ」と思うかも知れないし、
「変な形の薪だ」と思うかも知れない。
椅子の素材が石なら
「食卓の一種だ」と思うかも知れないし、「祭壇だ」と思うかも
知れない。

つまり その人の中に「椅子」の概念や基礎知識がない限り、そ
の人にとって「椅子」は「存在しない」のである。だがしかし、
物質としての椅子はそこに存在している。
概念としての椅子がないからといって、そこにあるそれが完全に
「存在し無い」という訳ではない。

「空(くう)」を理解する時には、このような認知の分解という
ような思考が必要になる。

確固たる「私」というものは存在しない。
しかし全くいないという訳ではない。

誰もが共通に認識している私という人物は、確固たる存在では
ないという意味で「存在しない」と言える。
しかし私がまったくいないという訳ではない。


たとえば、虹。
虹は、物質として虹というものが存在する訳ではない。
「虹」とは光の屈折現象に固有の名前を付けたものであって、
虹という存在がそこにある訳ではないのだ。
しかし、だからといって、虹はない、とは言えない。

これが「空(くう)」。

うーん、どうでしょう、分かります?

仏教の概念を誰にでも分かりやすく語れたら、
それだけでも何かの仕事になるのかもしれないと思う今日この頃。


蛇足:

今日、唐津の出張の帰り、2回も虹を見た。人生初。
しかも、2回目の虹は、虹のアーチの下を車で通過してしまったのだ。
虹のアーチをくぐるなんて、すごい経験!!
信じられますか?

なんだかものすごくいい事が起きそうな感じ。

娘は、「ももの49日だからじゃない?」と言ってました。
し、渋い。

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ふと思い出すと、3年前の2月下旬、インドに行った。

ダライラマ法王猊下のティーチングに参加する為だった。
チベット亡命政府厚生大臣のチョペさんに本当によくして頂き、
ダラムサラでは国賓級の待遇に何度も与った。

ヒマラヤの峰が、日本の景色の常識ではあり得ない高さにある
ことに驚いた。冷たい風に吹かれながら息をするのも忘れそうにな
るほど美しい、ヒマラヤの夕暮れを見つめた。
夕焼けが真っ白な峰々をバラ色に染める、ほんの1分、
すぐに稜線は青に戻り、やがて黒くなっていく。

あのヒマラヤの懐で、石畳に座り、ダライラマ法王猊下の説法を
聞いた。隣に座ったチベット人のおばあちゃんが笑顔でパンを分
けてくれた。参加者全員に配られる、ミルクティー。
逞しい僧侶が大きなヤカンから、小さなカップに次々と器用にミ
ルクティーを満たしていく。

日本に比べればとても貧しく粗末なものばかりだったけれど
本当に心が満たされていた毎日。
それは、ただただ、平和だった。

仏教によって堅く一つにまとまっているチベット人。
私は、チベット人の中にある仏教にとても興味を感じた。
彼らの優しさ、強さ、平穏さ、そして元気。
彼らはとても生き生きと生きている人々だった。
足を失い、地面に這いつくばって物乞いをして生きている人にさえ
生き生きと生きている目の光があった。
犬や猿が町中の至るところに自由に居て ロバや牛ものんびり
道を歩いている。
狂犬病が発生しており、衛生面では危険がたくさんあるけれども、
それは日本と比較した話だ。

ダラムサラに何年間か住んでみたいと本気で思った。

この地の平穏さは、仏教が人々の中に深くしみ込んでいるからだと
実感した。そして、その仏教とは、何か。
私は自分が納得するまで深く理解したいと思ったのだ。


長くなりそうなので今日はこの辺で。
まとまりがなくてゴメンナサイ。
タイムアウトです。お弁当作らなくちゃ。


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急に秋風がふくようになりました。
日本の四季は本当に鮮やかに変わりますね。

暑くて寝苦しくて、タオルケット一枚で寝ていたのが嘘のよう。
毛布無しではとても横になっていられません。
そろそろ冬布団を出さなくては。

今日、「星守る犬」を手にしてしまいました。
あれは本屋さんでちらっと立ち読みしただけで、涙が止まらなく
なってしまい恥をかいた本なので、とても読めないと分かってい
たのですが、ツタヤでレンタルしていたのでついに借りてしまい
ました。

「星守る犬」と「続 星守る犬」で続いているのですが、本当に
リアリティのあり過ぎるいたたまれない設定と、犬という存在が
持つ幸せパワーが、朴とつと描かれていて胸を打たれます。

フィクションだけれど、日本の片隅、どこかにあり得る命の灯火
を感じて、祈りたくなります。
家で読んだので号泣してしまいました。
娘も一巻だけ読んで「可哀相すぎてもう読めない」と泣いていま
した。我が家では犬が死ぬドラマや番組は娘と私が耐えられない
のでタブーなのです。

でも犬という存在がどんなに人を救うかを感じることが出来ました。


犬はどんな犬でも飼い主が大好きで、ずっと大好きで、何があっ
ても待っています。
だから人は犬と二人きりになると、他のだれにも見せないほど
正直で、素直になります。それが犬の超能力。

私はよく坂本と犬の能力について話しますが、
犬にとって人間がどこで何をしてきたかなんて、匂い一つで分か
ってしまうと思います。そして、今の機嫌がどんなだか、人間の
呼吸をひと嗅ぎしただけでわかっているはずです。

人間は視覚が発達している代わりに、嗅覚は動物の中でもかなり
駄目な種族なので、犬の生きている匂いの世界はピンと来ないも
のですが、空気の中にいくつも色がついているように見える、と
言えばわかるでしょうか。

たとえば、人間がいつも見ている、街の通り。
空気にいくつもの色のついたスジや、色のついた空気のスポット
があるわけです。犬にはその空気の模様や状態から、いつの匂い
で何によるものか、よくわかるのです。
人間が、木々の緑の色から季節の変化を感じたり、葉っぱの形か
ら何の植物かわかるように。

飼い主と一緒に歩いていたら、飼い主の吐いた息で、飼い主がリ
ラックスしているのか緊張しているのか、ストレスを溜めている
のか全部分かります。苦手な人と出会って世間話を交わしている
ときに、内心「この人は苦手だ、早く切り上げて帰りたいな」と
思っていたら、相手には絶対にわからない笑顔で接していても、
側にいる犬には本心がわかっています。

犬は病気の知識を持たないので、特に何も警告はしてくれません
が飼い主の呼吸から、その人の体に起きている病気や問題、全部
知っているはずです。
もしも犬と話ができたら、物凄い情報を簡単に知ることが出来る
でしょう。そして犬が人間からしたら間違いなく超能力者である
ことが、はっきりすると思います。

坂本は「犬に隠し事なんて無理だよね」とよく言います。

娘が「ももが居ない」と泣いてしまいました。

この寂しさが癒える日は来るでしょうか。
新しい犬がくれば、このすき間を上手に埋めてくれることは分か
っています。

でも まだ49日も過ぎていないから…と新しい出逢を避けてい
る私が居ます。

夏が終わり 秋になりました。
温もりが恋しい季節がやってきました。

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ほんの片隅で一番下っ端のパートのおばちゃんをやらせていただいて
いる会社は、このご時世に本当にまあ、びっくりするくらい好景気で
ございまして。

でもさすがに6時出勤が続くとバテ気味でございます。
ちゃんとしたまっとうなお勤めにはもう体が馴染まないとでも言いま
すか、定時から定時というお仕事形態そのものが「無理」という感じ
もしてきています。

つくづく、お勤めしている人たちは凄いなあと、思います。
同じことは学生の頃からずっと思っていましたが、どうして同じ場所
に毎日通って、同じことを毎日繰り返すという生活に馴染めるのでし
ょうか。
私は学生時代からそれが苦痛で仕方なくて、本当に、暗黒のような学
生時代でしたから、何とかしてまともな職に就かずに済む方法はない
ものかと思案していましたっけ。


たぶん、だからこそ自分で会社を興すことになったのでしょうし、
カウンセラーなんて自由業を始めることにもなったのでしょう。

私、組織の一員になることが出来ない人間なのです。

縛られるのがきらい、押しつけられるのがきらい、
監視されるのがきらい、指図されるのがきらい、
馬鹿がきらい、いじわるがきらい、非効率がきらい、慣習がきらい


動き続けていなければ窒息してしまう
考え続けていなければ狂ってしまう

そんな気性なのでしょう。


そんな私が組織の片隅で、会社の球拾いをしています。
テニス部の一年生部員だった頃を思い出します。

まあそんなポジションで、会社と社会を眺めるのは面白いのですが
あまり当てにされたり、あまり縛られたりするようになると、
ライフワークバランスが崩れて耐えられなくなります。


ももの治療費の為に始めたお勤め。
そのももちゃんも今は亡く。

仕事そのものはとっても楽しい仕事なのですけどね。
私がちょうどはまれる仕組みなんか、どこにもないのですから仕方ありません。
お尻もおっきいしね。うふふふ。


新しいクライエントさんがぽつぽつ増えています。
やはりその方たちのサポートをしている方が、いくらも性に合っているようで。

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夕べ娘が布団に入ってから寝つくまでの間に

 「ももに会いたいなあ」

ともらした。

ももをぎゅーっと抱きしめるポーズをして、

 「こんな風にして、顔を押しつけて抱っこしたいなあ」

と言った。

思い返せば娘は毎日、毎晩、ももやチャムにそうしていた。
幼い頃の私がそうであったように、娘も大きな犬達から、安心感や
温もりを補給していたのかも知れない。

そして、寝つく直前に

 「ママ 私のこと、好き?」

と聞いてきた。

 「ママは 死にたいと思ったことある?」

とも聞いてきた。

 「友達にね、昼休みに先生から用事を言いつけられて、昼休みが

  なくなっただけで死にたいっていう人がいるんだよ。

  そのくらいで死にたいってどういうことなんだろうねー」


 「私なら死にたいなんて思わないけどなあ。死ぬくらいなら先生の

  言うこと聞かないほうがいいし」


娘の思っていることは、やはりこうして聞かせてもらえないと知る由も
無いと思う。ももが死んで以来、娘は私の部屋で就寝しているけれど
眠りにつく前にぽつぽつと彼女の口から語られる、彼女の心は、私の
子供時代とは比較にならないほど健康的で、たくましいと感じる。

私の子供時代は、昼休みを奪われただけで死にたくなるほうのクチだ
った。娘のように、死にたくなるくらいなら言うことを聞かない、な
んて選択肢は思い浮かびもしなかった。大人の命令や指示は絶対で、
服従しないでいられるはずがないと堅く思い込んでいた、奴隷のよう
な幼い頃の私の心。

私と娘は、これほど近くに居ても、本当に中身が違うと感じる。
娘には娘の気持ちや考えがあり、それが私とは違うものなのだという
ことを、改めて尊重したいと思う、いくつもの夜。


聞かせてもらえることは 本当に素晴らしいことだ。
娘に感謝したいし、この気持ちを上手に伝えられたらと願う。

ももやチャムが、言葉なしに娘を安心させることが出来ていたように
私も言葉ではない何かで、彼女を大好きだということや、信頼して話
してくれていることへの感謝を伝えたい。


言葉でない 何か。
本当は いつも それが一番大事で
本当は いつも それを感じられれば
私たちは 心の底から安心できるのかも知れない。

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夕べ、娘にせがまれて筥崎宮の放生会に行ってきた。

毎年9月のお楽しみ。
500を軽く超える夜店が沿道にずらーっと並んで、毎年のことだけどすごい人だ。福岡は、お祭り系のイベントがほんとに多くて、季節ごとに楽しみが用意されている。私が福岡を離れ難い理由のひとつがこれ。

小さい頃から毎年連れてきているので、娘も夜店の楽しみ方を心得ていて、何を遊ぼうか、何を食べようか、ワクワクして歩く。毎年必ずやるのが、「型抜き」。夫と娘は型抜きを始めると軽く二時間以上は終らない。真剣に攻略を考え、毎年技術を上げて、夫はついに今年、400円の型を見事に抜いた。記念写真に納めた直後、店の人のもとに持っていこうと手に乗せた瞬間、「ポリ」と儚く折れた。なんという奥深さ。来年のリベンジを誓う娘と夫。

射的でヨッチャンイカと風船ガムを落とし、スマートボールで4回もボーナスゲームを決めて、娘は上機嫌で帰路に付く。2年前に金魚すくいですくった奴が我が家の水槽で巨大化しているので、金魚すくいはパスなんだそうだ。

私はビール片手にブラブラしながら、夫と娘を見守る。
夜店の並ぶお祭りって、ちょっと魔法のかかった時間だなと思う。あぶない世界の人も混在していて、油断すればスリや置き引きにも遭う場所だし、明かりも臨時ごしらえだからまっ暗い場所もたくさん。ライトに照らされてきらびやかなお店の裏側に、ダークな世界が広がるこの雰囲気。
お店のにいちゃんの威勢のよい掛け声、当たりなんか入っていないクジに騙される子供たち。オトナのカモにされて鍛えられ、やがて彼らもにいちゃんの上を行くようになるだろう。騙されることが分かった上で遊ぶようになる。 お互い見せている部分だけではない駆け引きの世界。

土ぼこりの中で焼かれるイカは衛生的とは言えないが、それも分かった上で「熱消毒済み」「少量の雑菌も滋養栄養」を言い聞かせて気にせず口に運ぶ。
なあに、日本以外の国に行けばたいてい同じような状況だ。
これが本当の、世界の姿なのかなとも思う。そんなこと考えながらポーッと夜の世界と人間模様を眺める快感。

十五夜、中秋の名月、お祭りの夜。

今夜は十六夜(いざよい)だよ。
魔法の夜は、日曜日まで。
いざ、二回戦へ。

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私は、小さい頃から動物が大好きで 特に犬は本当にたくさん飼ってきました。
だから、たくさん、お別れも経験してきているはずなのです。

いつも、お別れは胸が張り裂けそうに辛かった。頭が割れそうになるほど泣き
明かしたし、ほとんど絶望に近い感覚で壁に頭を打ち付けて死んでしまいたい
ほどでした。
だけどすぐに、次の動物と出会いたいと思っていたし実際にすぐ次の犬を迎え
ていました。

それなのに、今回は今までと全然ちがうのです。
私は、次の犬や猫を迎えることをとてもためらっています。
怖いのです。どんな命も、私より先に死んでしまう可能性が高いのだから、また
あんなに苦しむ姿を見守らなければならないのか…そう思うと、とても怖くて、
新しい犬や猫を迎えたいという強い思いが、沸いてこないのです。


以前の私には、犬という存在は、絶対に裏切らない、愛情の補給源でした。
必要なだけ親にかまってもらえず、長女の責任というプレッシャーに常に苦し
んでいた幼い頃の私には、依存する対象が必要でした。
そして、犬ほど私を裏切らず、与えた愛情以上の純粋な愛情を返してくれるもの
は他に居ませんでした。別れがどんなに辛くても、犬なしでは生きていられない
ほど、私は犬という家族を必要としていました。
それは、チャムと出会った頃までずっとそうだったと思います。

勉強のため家から遠く離れた土地に暮らすことになった時、私は無理やりジル
(雑種の犬)を一緒に連れていきました。ジルが一緒なら家族と遠く離れてい
ても平気で、私はホームシックになることは全然ありませんでした。

アメリカに留学した時には、最初ホームステイしたお宅の犬を可愛がりました。
そのお宅の人の名前は思い出すのに苦労するけれど、犬の名前はすぐに出てきま
す。ペトラという赤茶色の大型犬でした。その後、ステイ先を離れ、一人暮らし
をするようになると、犬を飼いたくてたまらない日々を過ごしました。でも日本
に連れて帰れないかも知れないということを考えて、我慢していました。アメリカ
で私がひどく体調を崩したのは、たぶん犬と暮らせなかったからではないだろうか
とも思っています。

結婚する直前に、大好きだったジルが交通事故で死んでしまいました。本当に辛く
て、私は毎日食事が喉を通らないほど、泣いて過ごしました。仕事中にも、ふとし
たきっかけで涙が溢れ、傍目にみても私の様子はきっとおかしかったと思います。
そんなに悲しんでいたのに、私は結婚するとすぐに家族になる犬を探して週末ごと
にいろんな場所のペットショップをはしごしました。犬の居ない生活に耐えられな
かったのです。
そして、チャムに出会いました。


今、私はももが死んだことを悲しんでいますが、あの頃までの悲しさとは全然質が
違うなと思います。私は、いつの間にか、依存することをやめたようなのです。
これまで、私にとって犬が死んでしまうということは、自分自身の体や心がちぎれ
て、バラバラになってしまうような感覚のする経験でした。バラバラのままでは生
きられないので、私はそれをかき集めようとするかのように、次の犬が必要でした。

でも今回のもものことは違うのです。
私は私のままだし、どこもバラバラにはなりませんでした。
ただ、心の奥の一番柔らかくてデリケートな部分に、ひどい擦り傷のような怪我を
しました。そんな感じです。
ももが死んだことは、もものことで、私はどこも死んだりしていないのです。

ももと別れる悲しさ、ももが苦しんだことによって心は深く傷つき今も癒えていま
せんが、それでも、私はどこも死んでいないし、ちぎれていません。ももは逝って
しまいましたが、それはももが逝っただけであって、私はこうして無事なのです。
かき集めようとする飢えのような衝動はなく、ただただ、静かに自分の心が深く傷
ついたことを見つめているし、逝ってしまったももを想い祈っている、そんな感じ
なのです。


動物との別れで、こんな経験をするのは、初めてのことです。

そして、私は、動物という存在が自分の外側にあるが故に、その命が傷ついたり、
病んだりして苦しむことを心の底から恐れています。私にしてやれることは何もな
く、ただ祈ったり、側にいることだけしか出来ないのです。

命は 一つ一つが 完全に自分の分の荷物を背負っていて
誰もそのかけらさえも 肩代わりしてやることはできないのだと
私は つくづく 実感しています。



こんなこと書いて…
読む人に分かるのかしら きっとつまらないわよねと
ちょっと心配に思いつつも、今日の思いを書いてみました。

拍手[4回]

パートのおばちゃんとして通っている会社ですがえらく景気がよくてとても忙しいのです。
このご時世ですが、本当に毎日すごい額の売り上げです。

そのせいか、早朝6時から出社して欲しいなどという要請もしばしば。
私は朝型人間なので、どうせ4時にはおきているし、6時出社でも構わないのですが、最近働きすぎてワークライフバランスが崩れてきています。

それにお客さんもどうなっているのか、朝の6時でも電話がなりっぱなしにかかってくるのですよ。
お客様の相談に乗るのが仕事ですから、何時だって別にお相手するのは構わないのですけれど、そんな早朝から、ホントに皆さんお元気だなあと、しみじみ思います。

仕事の中でクレーム処理もありますが、朝っぱらから怒鳴りつけてくるお客様は、本当に元気だと思います。
怒りのエネルギーは、生きる力と連動していますので、怒鳴るほど怒れる人は自殺なんかしません。だから怒鳴られながら、私はどこか安心します。この人は大丈夫だな、と。
本業では死にそうな人を相手にすることも多いので、副業が元気な方ばかりで、ほっとします。
お客様の要求を満たし、不安を解消するだけが私の役目なのですが自然と笑顔になってしまいます。

10月から契約が更新され、フルタイム出勤を要請される日が増えてしまいました。
予定とちがうなあ、おかしいなあ…。
でもよそ様の会社で仕事している間は、いろんな悲しい思いは消えていますね。
仕事でつらいことを忘れることができるというのは本当だなと思います。

本も毎日、少しづつ書きためています。

夫がすごくリアルなももの夢を見たそうです。
ももはもう次の命になったのかしら。

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44期最終日でした。

今日は、次期役員候補の人と食事の約束もしていました。
講習会を受講してもらうことは、NPOの活動意義を含め、内容をよく
理解してもらうための方法でした。
同時に、私の講師としてのレベルというか、クオリティもチェックされてい
た訳で、言い換えると5回の講習会終了日に、その判定をある程度
聞かせてもらうことになっていたのです。

講義内容は充分な質と量を備えているし、社会的意義もあり、
またお金のためではなく、社会の改善に取り組んでいる姿勢はよくわか
ったと言ってもらえました。

正式に役員になってもらえるかどうかの返事は来年3月の総会まで
猶予があるのですが、今のところ、充分理解していただけたようです。

そして、食事をしながら心理療法に関するディスカッションを交わし、
楽しく会話しているうち、本を出版すべきだと強くアドバイスされました。

前々から本を書かないといけないなあと思いつつ、なかなか重い腰が
あがりません。今月は出版社をしている友人と、出版について相談した
にも関わらず、原稿を書く気力が生まれず困っていました。
もものことがあって、気力が大きく削られているのだと思いますが、そろそろ
手をつけないといけないなあとは思っていました。

本を出すべきだ、と強く、それも繰り返し繰り返し言われて、
なんとなくその気が 少し増えました。

私がお手伝いして、出版されたばかりの、バリー師の本が、紀伊国屋に
並んでいます。あとがき辺りに、出版協力者の名前に私の名前が入って
いました。少しこそばゆいですね。
amazonでも買えるようです。↓
http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_ss_i_0_15?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%83%60%83x%83b%83g%95%A7%8B%B3%82%A9%82%E7%82%CC%8DK%82%B9%82%CC%8F%88%95%FB%E2%B3&sprefix=%83%60%83x%83b%83g%95%A7%8B%B3%82%


バリー師の本と自分の本が並んで紀伊国屋の棚にあることを想像
すると また少し、頑張らなくちゃと思えます。

ゆっくりでも 一文字一文字綴っていれば、
そのうち 出来上がるものかも知れません。

なにより 自分には無理だと投げ出さないこと。
そして 言い訳せず、亀の歩みでも続けること。
それを心がけて やってみようと思います。

いつも、会報のことが重く頭の上に乗っかっていて、
気分が晴れることがありませんね。
それも早くやらなくては。

せっかくもらった元気を使って、
いろいろ、出来ることから、がんばってみます。

拍手[2回]

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