2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
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技術研鑽と研究の為に催眠療法の技術セミナーに行ってきま した。
2日連続で10時から18時までみっちりと。
しかし授業料たっかいなあ…。
私の仕事は技術の高さが命なので、常に技術は研鑽し続けないといけ
ないのですが、その為のセミナー参加料は毎度結構高いです。
特にNLPと催眠はほんとに高い。
NLPも催眠もフルコース受けると100万円近いです。
それで、NLPの講師はよく、「自分が受けてきたセミナー料金をずー
っと積み上げると家が建つくらいになってしまう」なんてことを言い
ます。
受講者は、それを聞いて「そうか。そんなにお金を掛けて学んできた
ことを、習うんだからこれくらいの値段するのも当然なのかな」と思
うわけですが、いやいやいや。ちょっと待った。
騙されちゃいけませんよ。
高額のセミナーは、主催者が儲けるために高額なのです。
それ以外の理由は、なにもありません。
高額を支払わせる為に、納得できる理由を提供しているだけです。
真実はただ一つ。それだけの額のお金が欲しいからです。
もちろん、お金もうけがいけないだなんて言いません。
でも、相手が言うことを鵜呑みにして、騙される必要もありませんよ、
と言っておきたいのです。
そのセミナーがどんなに高額だろうと、その金額を出して学んでみたい
かどうかを吟味すればいいのです。内容と金額が見合うと判断したなら、
その額がいくらだろうと、関係ありません。相手が損していようが、大
もうけしていようが、それはあなたと関係ありません。自分が納得した
額であれば、それだけでいいのです。
今回のセミナーも、主催者はこれだけの額をつけなければやってられな
いのでしょうから、それで良いのです。その額に納得した人だけがやっ
て来るのですから。
私だって自分がやっていけないような値段を自分のセミナーに付けるこ
とは出来ませんからね。ただし自分がやっていけるだけのお金なら、一
コースが何十万にはなりませんけど。
会社作っちゃうとそうは行かないんだろうな。
法人税とか事務所代とか人件費とか…いろいろ経費がかかるものね。
経費がかかるから、この額にするよ、と決める。でもそれは主催者の事
情であって、参加者には関係のないことですよね。
参加者の立場なら、ただその額を出しても行きたいかどうかだけ。
さて元に戻ろう。
さて今日の講義は王道の退行催眠。
退行催眠って、催眠療法の花形スターみたいな位置にあって、クライ
エントさんが結構やってみたがるものだけど、本当に必要だろうかと
思います。
だって催眠使わなくても全然、子供時代の問題なんて解決できちゃう
んです。
催眠やってほしいという人って、ちょっと厳しい言葉に聞こえるかも
しれないけれど、依存的な状態です。
自分の心理的問題を、人に何とかし てもらいたいという気持ち。
催眠をかけてもらうことで、ひとりでに何かが分かり、ひとりでに何
かが解決できるんだろうなーと期待していることが多い。
でも、本当は、自分の問題は根っこの部分で自力でしか解決できない。
きっかけを人からもらうことは、もちろん十分在り得るのですけれど。
催眠家の人間性がヘボだとやはり指導的、指示的になってクライエン
トと上下関係をつくってしまう。何故なら、催眠状態になった人は、
完全に無批判で相手の言葉を受け入れますから、催眠中はセラピスト
が完全に主導して指示することになります。批判意識が働かず、思考
力も極端に落ちていますから、指示語(命令語)で話す必要がありま
す。
その行為が、セラピストの心にも影響し、相手と自分の関係性が上下
であるかのように勘違いさせてしまうのだと思います。
うーん。
私の事をよくご存知の方なら分かってくれると思いますが、指示語・
命令語で話すというのは、日頃の私の言葉選びとは真逆です。
やっぱり催眠は自分の流儀ではないな、と再認識しました。
トランス状態を使わなくても同じ治療効果を上げることが出来るし、
催眠ってクライエントを依存的にしてしまう危険が大きい。
だけど真逆のものに深く触れてみることは、それなりに自分のやり方
をブラッシュアップすることにはなりました。
ロールプレイでは、あたえられたスクリプトに沿って指示語で退行催
眠を行いました。催眠のセミナーなのですから仕方ありません。
相手の方は2歳まで退行してすごく涙ぼろぼろ こぼして泣いてました
けど。終ったら「軽くなった、これからの人生が変わ る気がする」と
すごくお礼言われましたけど。
でもやってる自分はすごく自分の言葉に違和感ありまくりでした。
誘導、誘導、指示、指示、相手に入り込む言葉、踏み込む言葉、決め
つける言葉、50分間がもう違和感の塊でした。
自分の為にやることじゃないから、クライエントが問題解決して満足
できればそれでいいんだけど、できたらこういう不一致なセッション
はもう二度と嫌なので、ロールプレイでもスクリプトは勝手に変えて
しまおうと思っています。
素人じゃないので、スクリプト通りの基本形でなくてもいいかなと。
そうです、あなたはゆったりと、そう、リラックスしますね。
そうですよ、そう、ゆーーーっくりと…そうです…息を吐きます…
うーーー。。。。ちゃう。ちゃうよ。
いつもはそんなこと言わないもん。
そんな言葉つかわないもん。
クラッシック催眠はもういいや、というのが結論。
ニューコードの催眠は、催眠の定義そのものを広げ過ぎていて、怪し
さが爆発してます。というより今日の講師が怪し過ぎたのかな(笑)
「5歳の頃を思い出して下さい。どうですか?思い出せました?はい、
あなたはもう催眠状態です。それが催眠の世界です」
いやそれはちがうって(笑)
催眠状態の定義を広げすぎですって(笑)
人様のセミナーなので黙っていましたが。
この講師だめです。この講師ではちゃんとした療法家が育ちません。
いや、私自身がどうしても催眠には入らない人なので。
私は被催眠性が極端に低いのですよ。
そもそもこれまで出会ったどんな催眠家ともラポールが取れない。
相手が女性でも男性でも関係ないです。
思うに、私の場合、その人の前でトランス状態になってもいいほどの
ラポールが取れる相手というのは、一晩ベッドで共に過ごしても良い
相手という意味と同じなのだろうなと思います。
もちろんこの日記は、
催眠が合うという人を否定するものでも、催眠をしてる人を否定する
ものでもないです。
もちろんクライエントさんが希望すれば、催眠でも、前世でもセッ
ション可能です。クライエントさんが一番大事なのですから。
催眠の使いどころは、やはり緊張の強い時のリラックスや負のイメー
ジが強く付き過ぎている時などが一番有効な気がします。
もう自分ではどうやってリラックスしたらいいのかわからないほどき
ついとか、自分ではどうしても怖いイメージしか沸かない、というよ
うな状態の時には、人に緩めてもらう必要がありますからね。
体のケアに上手なセラピストがいて欲しいようにね。
なんてことない、ゲシュタルト療法家の独り言。
2日連続で10時から18時までみっちりと。
しかし授業料たっかいなあ…。
私の仕事は技術の高さが命なので、常に技術は研鑽し続けないといけ
ないのですが、その為のセミナー参加料は毎度結構高いです。
特にNLPと催眠はほんとに高い。
NLPも催眠もフルコース受けると100万円近いです。
それで、NLPの講師はよく、「自分が受けてきたセミナー料金をずー
っと積み上げると家が建つくらいになってしまう」なんてことを言い
ます。
受講者は、それを聞いて「そうか。そんなにお金を掛けて学んできた
ことを、習うんだからこれくらいの値段するのも当然なのかな」と思
うわけですが、いやいやいや。ちょっと待った。
騙されちゃいけませんよ。
高額のセミナーは、主催者が儲けるために高額なのです。
それ以外の理由は、なにもありません。
高額を支払わせる為に、納得できる理由を提供しているだけです。
真実はただ一つ。それだけの額のお金が欲しいからです。
もちろん、お金もうけがいけないだなんて言いません。
でも、相手が言うことを鵜呑みにして、騙される必要もありませんよ、
と言っておきたいのです。
そのセミナーがどんなに高額だろうと、その金額を出して学んでみたい
かどうかを吟味すればいいのです。内容と金額が見合うと判断したなら、
その額がいくらだろうと、関係ありません。相手が損していようが、大
もうけしていようが、それはあなたと関係ありません。自分が納得した
額であれば、それだけでいいのです。
今回のセミナーも、主催者はこれだけの額をつけなければやってられな
いのでしょうから、それで良いのです。その額に納得した人だけがやっ
て来るのですから。
私だって自分がやっていけないような値段を自分のセミナーに付けるこ
とは出来ませんからね。ただし自分がやっていけるだけのお金なら、一
コースが何十万にはなりませんけど。
会社作っちゃうとそうは行かないんだろうな。
法人税とか事務所代とか人件費とか…いろいろ経費がかかるものね。
経費がかかるから、この額にするよ、と決める。でもそれは主催者の事
情であって、参加者には関係のないことですよね。
参加者の立場なら、ただその額を出しても行きたいかどうかだけ。
さて元に戻ろう。
さて今日の講義は王道の退行催眠。
退行催眠って、催眠療法の花形スターみたいな位置にあって、クライ
エントさんが結構やってみたがるものだけど、本当に必要だろうかと
思います。
だって催眠使わなくても全然、子供時代の問題なんて解決できちゃう
んです。
催眠やってほしいという人って、ちょっと厳しい言葉に聞こえるかも
しれないけれど、依存的な状態です。
自分の心理的問題を、人に何とかし てもらいたいという気持ち。
催眠をかけてもらうことで、ひとりでに何かが分かり、ひとりでに何
かが解決できるんだろうなーと期待していることが多い。
でも、本当は、自分の問題は根っこの部分で自力でしか解決できない。
きっかけを人からもらうことは、もちろん十分在り得るのですけれど。
催眠家の人間性がヘボだとやはり指導的、指示的になってクライエン
トと上下関係をつくってしまう。何故なら、催眠状態になった人は、
完全に無批判で相手の言葉を受け入れますから、催眠中はセラピスト
が完全に主導して指示することになります。批判意識が働かず、思考
力も極端に落ちていますから、指示語(命令語)で話す必要がありま
す。
その行為が、セラピストの心にも影響し、相手と自分の関係性が上下
であるかのように勘違いさせてしまうのだと思います。
うーん。
私の事をよくご存知の方なら分かってくれると思いますが、指示語・
命令語で話すというのは、日頃の私の言葉選びとは真逆です。
やっぱり催眠は自分の流儀ではないな、と再認識しました。
トランス状態を使わなくても同じ治療効果を上げることが出来るし、
催眠ってクライエントを依存的にしてしまう危険が大きい。
だけど真逆のものに深く触れてみることは、それなりに自分のやり方
をブラッシュアップすることにはなりました。
ロールプレイでは、あたえられたスクリプトに沿って指示語で退行催
眠を行いました。催眠のセミナーなのですから仕方ありません。
相手の方は2歳まで退行してすごく涙ぼろぼろ こぼして泣いてました
けど。終ったら「軽くなった、これからの人生が変わ る気がする」と
すごくお礼言われましたけど。
でもやってる自分はすごく自分の言葉に違和感ありまくりでした。
誘導、誘導、指示、指示、相手に入り込む言葉、踏み込む言葉、決め
つける言葉、50分間がもう違和感の塊でした。
自分の為にやることじゃないから、クライエントが問題解決して満足
できればそれでいいんだけど、できたらこういう不一致なセッション
はもう二度と嫌なので、ロールプレイでもスクリプトは勝手に変えて
しまおうと思っています。
素人じゃないので、スクリプト通りの基本形でなくてもいいかなと。
そうです、あなたはゆったりと、そう、リラックスしますね。
そうですよ、そう、ゆーーーっくりと…そうです…息を吐きます…
うーーー。。。。ちゃう。ちゃうよ。
いつもはそんなこと言わないもん。
そんな言葉つかわないもん。
クラッシック催眠はもういいや、というのが結論。
ニューコードの催眠は、催眠の定義そのものを広げ過ぎていて、怪し
さが爆発してます。というより今日の講師が怪し過ぎたのかな(笑)
「5歳の頃を思い出して下さい。どうですか?思い出せました?はい、
あなたはもう催眠状態です。それが催眠の世界です」
いやそれはちがうって(笑)
催眠状態の定義を広げすぎですって(笑)
人様のセミナーなので黙っていましたが。
この講師だめです。この講師ではちゃんとした療法家が育ちません。
いや、私自身がどうしても催眠には入らない人なので。
私は被催眠性が極端に低いのですよ。
そもそもこれまで出会ったどんな催眠家ともラポールが取れない。
相手が女性でも男性でも関係ないです。
思うに、私の場合、その人の前でトランス状態になってもいいほどの
ラポールが取れる相手というのは、一晩ベッドで共に過ごしても良い
相手という意味と同じなのだろうなと思います。
もちろんこの日記は、
催眠が合うという人を否定するものでも、催眠をしてる人を否定する
ものでもないです。
もちろんクライエントさんが希望すれば、催眠でも、前世でもセッ
ション可能です。クライエントさんが一番大事なのですから。
催眠の使いどころは、やはり緊張の強い時のリラックスや負のイメー
ジが強く付き過ぎている時などが一番有効な気がします。
もう自分ではどうやってリラックスしたらいいのかわからないほどき
ついとか、自分ではどうしても怖いイメージしか沸かない、というよ
うな状態の時には、人に緩めてもらう必要がありますからね。
体のケアに上手なセラピストがいて欲しいようにね。
なんてことない、ゲシュタルト療法家の独り言。
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やりました〜!
高橋大輔、NHK杯優勝です。
見ました?見ました?
坂本は昨日のショートプログラムを見逃したので、
今日は一緒に見たのですが、「おおー…これはすごい」と
唸っていました。
2位の小塚も非常に上手かったのですが、今の高橋は別次元です。
とにかく、美しい!上手いとかじゃなく、本当に美しい!!
高橋の足の動きは、まるで堅いはずの氷面が水であるかのように滑らか。
いつエッジを立てているのかわからない。
あまりにも優美なスケーティングに、鳥肌が立ちます。
多分、スケーティングの美しさでは世界一と言っても良いのではないで
しょうか。
数年前の高橋は、もちろん注目株ではありましたが、私にとって頭角を現
した若手の一人に過ぎませんでした。
私が注目しはじめたのは、一旦チャンピオンの座を得た彼が、その座から
転落し、成績を出せなくなって苦しみはじめてからです。スケートやめて
しまう可能性さえあった彼が、幾多の挫折と怪我を乗り越えて、本物の美
を身にまとい、その動きと表情の全てで美を体現しています。
これを成長、と呼ぶべきか、進化と言うべきか。
あらゆる経験は、こうして美しく力強く昇華する、と思うと感動します。
は〜…もう今季はスケートから目を離せません。
機会があったら、是非高橋大輔の演技にご注目を。
高橋大輔、NHK杯優勝です。
見ました?見ました?
坂本は昨日のショートプログラムを見逃したので、
今日は一緒に見たのですが、「おおー…これはすごい」と
唸っていました。
2位の小塚も非常に上手かったのですが、今の高橋は別次元です。
とにかく、美しい!上手いとかじゃなく、本当に美しい!!
高橋の足の動きは、まるで堅いはずの氷面が水であるかのように滑らか。
いつエッジを立てているのかわからない。
あまりにも優美なスケーティングに、鳥肌が立ちます。
多分、スケーティングの美しさでは世界一と言っても良いのではないで
しょうか。
数年前の高橋は、もちろん注目株ではありましたが、私にとって頭角を現
した若手の一人に過ぎませんでした。
私が注目しはじめたのは、一旦チャンピオンの座を得た彼が、その座から
転落し、成績を出せなくなって苦しみはじめてからです。スケートやめて
しまう可能性さえあった彼が、幾多の挫折と怪我を乗り越えて、本物の美
を身にまとい、その動きと表情の全てで美を体現しています。
これを成長、と呼ぶべきか、進化と言うべきか。
あらゆる経験は、こうして美しく力強く昇華する、と思うと感動します。
は〜…もう今季はスケートから目を離せません。
機会があったら、是非高橋大輔の演技にご注目を。
私は実はフィギアスケートファンです。
女子もいいですが、ここ数年、何といっても見ていて楽しみなのは高橋大輔!
今日のNHK杯、ショートプログラムは非常に素晴らしかった。
演技中、見ていて涙が出るほど美しく、力強かったです。
結果の点数をみてほんとびっくり!!ものすごい点を叩き出しました。
今季の成績が楽しみですね〜。素晴らしいです。
以前は女子ばかりみていたのですが、ほんとに日本人の男子スケーターの
中で見惚れたのは彼が初めて。
表現力が、本当に年々磨かれて行きます。
成長する彼、そして内面の状態がいつも演技に現れる彼が大好き。
アスリートはみんな、自分との戦いを極め、真剣に生きる姿を
私たちに晒してくれることで、私たちに勇気を与えてくれます。
高橋は精神的には本当にデリケートな優しい人。
その彼が厳しい世界で精一杯自分と闘っている姿に、いつも胸を打たれます。
頑張れ、高橋!
…高橋の演技に感動して、
なんかすごーくフツーのこと書いてしまいました。
女子もいいですが、ここ数年、何といっても見ていて楽しみなのは高橋大輔!
今日のNHK杯、ショートプログラムは非常に素晴らしかった。
演技中、見ていて涙が出るほど美しく、力強かったです。
結果の点数をみてほんとびっくり!!ものすごい点を叩き出しました。
今季の成績が楽しみですね〜。素晴らしいです。
以前は女子ばかりみていたのですが、ほんとに日本人の男子スケーターの
中で見惚れたのは彼が初めて。
表現力が、本当に年々磨かれて行きます。
成長する彼、そして内面の状態がいつも演技に現れる彼が大好き。
アスリートはみんな、自分との戦いを極め、真剣に生きる姿を
私たちに晒してくれることで、私たちに勇気を与えてくれます。
高橋は精神的には本当にデリケートな優しい人。
その彼が厳しい世界で精一杯自分と闘っている姿に、いつも胸を打たれます。
頑張れ、高橋!
…高橋の演技に感動して、
なんかすごーくフツーのこと書いてしまいました。
昨日から、唐津で月二回づつの心理学教室が始まりました。
月謝制なので、「なんだかつまらないな」と思われたら翌月には
人が減るでしょう。参加者の期待通り、いえ期待以上のものを
ご提供し続けなければ申し訳ない。
半年つづくこの教室、最後には2、3人になっていた、なんてこ
とにならないよう全力で一生懸命お務めしたいと思います。
私としても渾身の気を抜かない授業が続きます。
昨日は準備が十分だったおかげで、非常によい雰囲気を初回に
つくることが出来ました。
参加者の中に、一人とてもフリーダムな男性がいて、講義中の発言
が多い。しかも「こんなことを学んで何かになるのか」的な、根本を
ひっくり返すようなフリーダムな発言をします。
微妙に、他の参加者がピリピリしてしまいます。
でも、私は思うのです。
この方は、この教室のスプーンなんだな、と。
この方の存在が、教室の中をかき回します。
それが不快か、愉快かは置いておいて、とにかくかき混ぜてくれる
存在です。そういう方がいるのが今回のクラス。
であればその存在を生かすも殺すも、あとは私の腕次第です。
スプーン役がいたからこそ、豊かに学べたと、全員が感じられるように
することが、私の役目です。
それが、すべての人はありのままで価値があるのだと、実際に学ぶこと
になるからです。
フリーダム人、バンザイです。
今回のクラスは、ハーバード大のサンデル教授の授業進行を意識して、
全員でディスカッション、フリーダムな意見を大推奨するやりかたを
選んでいます。
全ての瞬間の、場のありようを私がコントロールします。
とても刺激的で、やりがいのある仕事です。
月謝制なので、「なんだかつまらないな」と思われたら翌月には
人が減るでしょう。参加者の期待通り、いえ期待以上のものを
ご提供し続けなければ申し訳ない。
半年つづくこの教室、最後には2、3人になっていた、なんてこ
とにならないよう全力で一生懸命お務めしたいと思います。
私としても渾身の気を抜かない授業が続きます。
昨日は準備が十分だったおかげで、非常によい雰囲気を初回に
つくることが出来ました。
参加者の中に、一人とてもフリーダムな男性がいて、講義中の発言
が多い。しかも「こんなことを学んで何かになるのか」的な、根本を
ひっくり返すようなフリーダムな発言をします。
微妙に、他の参加者がピリピリしてしまいます。
でも、私は思うのです。
この方は、この教室のスプーンなんだな、と。
この方の存在が、教室の中をかき回します。
それが不快か、愉快かは置いておいて、とにかくかき混ぜてくれる
存在です。そういう方がいるのが今回のクラス。
であればその存在を生かすも殺すも、あとは私の腕次第です。
スプーン役がいたからこそ、豊かに学べたと、全員が感じられるように
することが、私の役目です。
それが、すべての人はありのままで価値があるのだと、実際に学ぶこと
になるからです。
フリーダム人、バンザイです。
今回のクラスは、ハーバード大のサンデル教授の授業進行を意識して、
全員でディスカッション、フリーダムな意見を大推奨するやりかたを
選んでいます。
全ての瞬間の、場のありようを私がコントロールします。
とても刺激的で、やりがいのある仕事です。
お勤め先の会社には 出張授業の日以外かなり出社しています。
すると、本来集団には入れない私でも 集団の方からお声がかかることがあるようです。
昨日は私が入るずーっと以前からある仲良しグループ(30代から50代)の、最年長の女性から、チョコレートを頂きました。お返しにキャンディを差し上げました。すると休憩時間や帰りの時にそのグループの人々から話しかけられるようになりました。もしかしたらおばちゃんずの一人として認めて頂いたのかも知れません。
嬉しいような、怖いような。
人と笑顔で話すことは楽しいことですが、自分のことをほとんど話さない私がどこまでグループに適応できますやら。そろそろ辞めようかなあと思っていた矢先にグループに入ってしまうというのも皮肉なものですが、もう少し様子をみてみようかな。
ささやかな食べ物でコミュニケーションを取るというのは、大阪のおばちゃんの「飴ちゃん文化」に代表される、普遍的な方法のようです。大阪のおばちゃんは、常に飴をたくさん持っていて、コミュニケーションの手段として「飴ちゃんいるか?」と渡してくれるのです。飴だったら断るほどの大げさなものではないし、受け取れば誰でも「おばちゃんありがとう」と好意的な反応をしますよね。私は大阪人のたくましさと生き上手さには本当に敬意を感じて観察を続けています。飴ちゃん文化は福岡にも存在するようですね。
いつも女子グループにはうまく居続けられなかった私なのですが。
でもこの状況を楽しんでみようと思いまーす。
ドキドキ。
すると、本来集団には入れない私でも 集団の方からお声がかかることがあるようです。
昨日は私が入るずーっと以前からある仲良しグループ(30代から50代)の、最年長の女性から、チョコレートを頂きました。お返しにキャンディを差し上げました。すると休憩時間や帰りの時にそのグループの人々から話しかけられるようになりました。もしかしたらおばちゃんずの一人として認めて頂いたのかも知れません。
嬉しいような、怖いような。
人と笑顔で話すことは楽しいことですが、自分のことをほとんど話さない私がどこまでグループに適応できますやら。そろそろ辞めようかなあと思っていた矢先にグループに入ってしまうというのも皮肉なものですが、もう少し様子をみてみようかな。
ささやかな食べ物でコミュニケーションを取るというのは、大阪のおばちゃんの「飴ちゃん文化」に代表される、普遍的な方法のようです。大阪のおばちゃんは、常に飴をたくさん持っていて、コミュニケーションの手段として「飴ちゃんいるか?」と渡してくれるのです。飴だったら断るほどの大げさなものではないし、受け取れば誰でも「おばちゃんありがとう」と好意的な反応をしますよね。私は大阪人のたくましさと生き上手さには本当に敬意を感じて観察を続けています。飴ちゃん文化は福岡にも存在するようですね。
いつも女子グループにはうまく居続けられなかった私なのですが。
でもこの状況を楽しんでみようと思いまーす。
ドキドキ。
社会適応できないと愚痴ったので、じゃあどんな仕事ならば自分の命を使っても惜しまないのかと考えてみました。
自分がどうもごく当たり前の仕組みにうまく適応できないという自覚は子どもの頃からありましたが、それに対する援助というか、理解というか、そういうものは周りにはぜんぜんありませんでした。
今、発達障害のお子さんや、理由はわからないけど少し変わった個性の子どもさんを育てている親御さんたちは、自分の子どもがどんな風にこの社会の中で生きるのか、漠然と心配しているのではないかと思います。うちの子も両親の遺伝なのか、結構個性的なので、彼女がちゃんと生活できるようになるのかかなり危惧しています。
変わっているというだけでいじめられるし、教師からも理解されず「普通」を求められるし、何より友人が出来にくいです。
決して性格が悪いわけではないのだけれど、どうしても集団からはじかれてしまったり、集団の居心地悪さに耐え切れず自分から群を離れてしまったり。
「普通」でないことはそれほど存在が許されないのだろうかと真剣に思い悩むことが、子ども時代から青年期まで、たびたびありました。
で、多分、そういう状況は今後もあまり変わらないと思うのです。
太古より、人間は集団で生きる生物だし、集団を維持するためには集団としての集合意識のようなものが必要だからです。人間に限らず、集団で社会を構成する動物はすべて同じようにしています。異質な個体は集団から攻撃され、弾かれ、群れから追い出されます。自然界において、それは良い悪いではなく、集団が生き延びるために必要な犠牲でもあるのです。
つまり「馴染まないものを良しとしない」という性質が、遺伝子に組み込まれていると思うのです。もしそうでないなら、周囲に危険が一杯で集団にならなければ絶滅してしまうような古代ならいざしらず、人間が作り出した環境がたくさんある現代では、人間は好き勝手にバラバラに生きるようになっていても不思議ではないはずです。けれど、人間はいまだに集団で社会を構築し、それを維持しつづけています。人間が集団で生きるのは、遺伝子レベルの命令なのではないでしょうか。仮にそうであれば集団に馴染まないものは排除され、そうやって集団を維持しろというのも、遺伝子レベルの、逆らいがたい命令である可能性があります。
人間は同種族であっても「異質なものを排除・拒絶する」という基本性質をもっていると仮定します。
そして必ず、少数の異質な存在は生まれてきます。
つまり排除され、傷つき悲しむ存在は、今後も生まれ続けるのが現実です。これに対し、どうすればいいのか。
多くの福祉家は、排除するような社会が悪い、社会を変えろと活動しています。それも大いに結構。
けれど私は、それとは別のことを提案します。
少数派よ、あなたは排除されることを織り込んだ人生設計をすべきなのではないか、と。
負けを認めろといっているのではありません。
少数派が多数派にはじかれてしまうのは、簡単には変えられない「環境」の一種として捉えろといっているのです。
毎年台風が来る自力では脱出できない島に住んでいて、台風のせいで家も作物も全部駄目になってしまう。そういう場所にいる時に、台風のルートを変えようとするのは無駄な努力です。
それよりも、台風が来ることを前提にして、それを承知で、知恵を使って生き延びろと言いたいのです。
早めに収穫する、地下に家を作る、知恵と工夫の限りを尽くして、生き延びろと言いたいのです。
社会は、多数派に都合がよいように出来ています。
右利き用の道具は当然のようにお店に並んでいても、左利き用の道具はオーダーしないと手に入らないように。
それでも、少数派のオーダーが可能ならまだましです。
時には「なんで左利きなんかなのさ」「変だし、不便だろ。右利きになればいいじゃないか」と言われるのです。
もちろん、これは譬えです。
利き手なら、訓練で直せるかもしれません。
でもそれが「感性」や「考えの基準」だったら?
自分の感性を捨てて人の感性になるというのは、自分の魂を捨てることに等しいことです。
自分にとって「きれい」なものを周りから「それは汚いと感じるべき」と強制されるのは、どれほど苦痛でしょうか。
自分が自分であることの根拠は、自分が感じることに基づいています。
だから自分が感じることを捨てるのは、自分である意味がないということになります。
その時、多分その人は絶望しきって沈黙するか、怒りのあまり社会を壊し、自分の命を顧みない行動に出るでしょう。
そういう、避けられない台風がある社会に、少数派は生きているのだと。
だからこそ、知恵と工夫の限りを尽くそうといいたいのです。
私は、発達障害ではありませんが、他の多数の人と違うという意味では間違いなく少数派の一人です。
違っている部分を変えて多数派の社会に適応することは、どうしてもできませんでした。社会は私のような少数派には非常に生き辛い過酷な場所です。それでも、私は多数派の社会の片隅に、少数派が生きられる場所を作り出したいなと思っています。また、少数派の生き方を研究し、それを今後も生まれ続ける少数派のために活かし、生きるヒントを与え続ける泉(シンクタンク)を作りたいと思っています。そうすることで、多数派の人たちの中から、少数派を理解しようとする心ある人々も生まれると思うからです。
いわゆる障害者支援をしたいわけではないのです。
私は、誰でも、ただシンプルに「自分」でいられるようにしたいだけなのです。
「自分」でいられる上でなら、生存競争に勝てず、生き残れなくても満足だからです。
自分がどうもごく当たり前の仕組みにうまく適応できないという自覚は子どもの頃からありましたが、それに対する援助というか、理解というか、そういうものは周りにはぜんぜんありませんでした。
今、発達障害のお子さんや、理由はわからないけど少し変わった個性の子どもさんを育てている親御さんたちは、自分の子どもがどんな風にこの社会の中で生きるのか、漠然と心配しているのではないかと思います。うちの子も両親の遺伝なのか、結構個性的なので、彼女がちゃんと生活できるようになるのかかなり危惧しています。
変わっているというだけでいじめられるし、教師からも理解されず「普通」を求められるし、何より友人が出来にくいです。
決して性格が悪いわけではないのだけれど、どうしても集団からはじかれてしまったり、集団の居心地悪さに耐え切れず自分から群を離れてしまったり。
「普通」でないことはそれほど存在が許されないのだろうかと真剣に思い悩むことが、子ども時代から青年期まで、たびたびありました。
で、多分、そういう状況は今後もあまり変わらないと思うのです。
太古より、人間は集団で生きる生物だし、集団を維持するためには集団としての集合意識のようなものが必要だからです。人間に限らず、集団で社会を構成する動物はすべて同じようにしています。異質な個体は集団から攻撃され、弾かれ、群れから追い出されます。自然界において、それは良い悪いではなく、集団が生き延びるために必要な犠牲でもあるのです。
つまり「馴染まないものを良しとしない」という性質が、遺伝子に組み込まれていると思うのです。もしそうでないなら、周囲に危険が一杯で集団にならなければ絶滅してしまうような古代ならいざしらず、人間が作り出した環境がたくさんある現代では、人間は好き勝手にバラバラに生きるようになっていても不思議ではないはずです。けれど、人間はいまだに集団で社会を構築し、それを維持しつづけています。人間が集団で生きるのは、遺伝子レベルの命令なのではないでしょうか。仮にそうであれば集団に馴染まないものは排除され、そうやって集団を維持しろというのも、遺伝子レベルの、逆らいがたい命令である可能性があります。
人間は同種族であっても「異質なものを排除・拒絶する」という基本性質をもっていると仮定します。
そして必ず、少数の異質な存在は生まれてきます。
つまり排除され、傷つき悲しむ存在は、今後も生まれ続けるのが現実です。これに対し、どうすればいいのか。
多くの福祉家は、排除するような社会が悪い、社会を変えろと活動しています。それも大いに結構。
けれど私は、それとは別のことを提案します。
少数派よ、あなたは排除されることを織り込んだ人生設計をすべきなのではないか、と。
負けを認めろといっているのではありません。
少数派が多数派にはじかれてしまうのは、簡単には変えられない「環境」の一種として捉えろといっているのです。
毎年台風が来る自力では脱出できない島に住んでいて、台風のせいで家も作物も全部駄目になってしまう。そういう場所にいる時に、台風のルートを変えようとするのは無駄な努力です。
それよりも、台風が来ることを前提にして、それを承知で、知恵を使って生き延びろと言いたいのです。
早めに収穫する、地下に家を作る、知恵と工夫の限りを尽くして、生き延びろと言いたいのです。
社会は、多数派に都合がよいように出来ています。
右利き用の道具は当然のようにお店に並んでいても、左利き用の道具はオーダーしないと手に入らないように。
それでも、少数派のオーダーが可能ならまだましです。
時には「なんで左利きなんかなのさ」「変だし、不便だろ。右利きになればいいじゃないか」と言われるのです。
もちろん、これは譬えです。
利き手なら、訓練で直せるかもしれません。
でもそれが「感性」や「考えの基準」だったら?
自分の感性を捨てて人の感性になるというのは、自分の魂を捨てることに等しいことです。
自分にとって「きれい」なものを周りから「それは汚いと感じるべき」と強制されるのは、どれほど苦痛でしょうか。
自分が自分であることの根拠は、自分が感じることに基づいています。
だから自分が感じることを捨てるのは、自分である意味がないということになります。
その時、多分その人は絶望しきって沈黙するか、怒りのあまり社会を壊し、自分の命を顧みない行動に出るでしょう。
そういう、避けられない台風がある社会に、少数派は生きているのだと。
だからこそ、知恵と工夫の限りを尽くそうといいたいのです。
私は、発達障害ではありませんが、他の多数の人と違うという意味では間違いなく少数派の一人です。
違っている部分を変えて多数派の社会に適応することは、どうしてもできませんでした。社会は私のような少数派には非常に生き辛い過酷な場所です。それでも、私は多数派の社会の片隅に、少数派が生きられる場所を作り出したいなと思っています。また、少数派の生き方を研究し、それを今後も生まれ続ける少数派のために活かし、生きるヒントを与え続ける泉(シンクタンク)を作りたいと思っています。そうすることで、多数派の人たちの中から、少数派を理解しようとする心ある人々も生まれると思うからです。
いわゆる障害者支援をしたいわけではないのです。
私は、誰でも、ただシンプルに「自分」でいられるようにしたいだけなのです。
「自分」でいられる上でなら、生存競争に勝てず、生き残れなくても満足だからです。
「命とは、あなたに与えられている残り時間のことです」
とは日野原重明先生の言葉。
なんて分かりやすい言葉なんだろうと思います。
自分に残されている時間…感じながら生きています。
今思うのは 本当に本当に、社会人という生き方の大変さです。
よく毎日朝から夕方まで会社という組織の中で過ごすことに
コミットできるものだなと、社会不適応者の私はつくづく
うなってしまいます。
学生だったころ、こうして朝家を出て、夕方になるまで学校で
過ごしました。それを小学校、中学校、高校、大学と続けて、
その生活に適応するよう訓練したはずなのに、私はどうしても
そんな毎日が当たり前にならないのです。
最近は日が落ちるのが早くて、ちょっとでも残業しようものな
ら、外に出たときにはもう「夜」になっています。
気楽な半日勤務のはずが、繁忙期のため毎日フルタイム勤務です。
朝まだ暗いうちに会社にきて、暗くなってから会社を出ると、
一日がすっぽりと失われてしまったという感覚がものすごく
自分の中いっぱいになってしまうのです。
仕事は全然辛くありません。
むしろやること、工夫することがたくさんがあって、楽しい
くらいなのですが、「自分の時間を捧げてもよい」とコミット
していないようで、毎日毎日、会社の外に出るたびに空を見上
げて「これでいいんですか、神様」とつぶやいています。
決まった時間に会社に行き、丸一日を仕事に費やし、家に帰っ
て寝る。そのどこに私は不満なのかしらと考えています。
不満…じゃなくて。
焦り…に近いかなあ。
これでいいのだろうか?
自分の人生をこんなことに使っていいのだろうか?
また一日が失われた。
また一日が失われた。
私の命は刻々と無くなっていくのに
この事にこんなにたくさん命の残りを使ってもいいのだろうか。
そんな感じが毎日しています。
学校に行っていた頃はこの感覚が10倍くらい強くて、
毎日が本当に辛かったのです。
年をとった分、バランスが良くなったのか、だいぶマシなの
ですがそれでもやはり、社会人という生き方には馴れること
が出来ないでいます。
毎日「これでいいのだろうか」と思いながら生きるのって
馬鹿げていますよね。
何とかしないといけません。
時間と労力がかかるとしてもしっかり取り組んで変えていかないと。
ももが死んでから
死ぬという現実がより一層明確に、自分のこととして
感じられています。
会社、NPO、カウンセラーと私はトリプルワーカーですから、休みの
日なんて月に一日もないことも珍しくありません。毎日何かしらの
仕事が入っています。それでもやれていないことが山積みで、私は
「仕事量が自分の能力を超えている」と自分に言い聞かせることで
しか自分を眠らせてやる方法がありません。
焦ったり、辛くなるのは、休みの日が極端にがないせいではなくて
会社という組織のなかで、自分の命の時間が完全に自由を失っている
ことに耐えられないのかも知れないと思います。
トイレに行くにも許可を求めなければなりませんからね。
人の人生を拘束するという意味において、私にとって会社に勤めると
いうのは囚人になるのと同じなのかも知れません。
とは日野原重明先生の言葉。
なんて分かりやすい言葉なんだろうと思います。
自分に残されている時間…感じながら生きています。
今思うのは 本当に本当に、社会人という生き方の大変さです。
よく毎日朝から夕方まで会社という組織の中で過ごすことに
コミットできるものだなと、社会不適応者の私はつくづく
うなってしまいます。
学生だったころ、こうして朝家を出て、夕方になるまで学校で
過ごしました。それを小学校、中学校、高校、大学と続けて、
その生活に適応するよう訓練したはずなのに、私はどうしても
そんな毎日が当たり前にならないのです。
最近は日が落ちるのが早くて、ちょっとでも残業しようものな
ら、外に出たときにはもう「夜」になっています。
気楽な半日勤務のはずが、繁忙期のため毎日フルタイム勤務です。
朝まだ暗いうちに会社にきて、暗くなってから会社を出ると、
一日がすっぽりと失われてしまったという感覚がものすごく
自分の中いっぱいになってしまうのです。
仕事は全然辛くありません。
むしろやること、工夫することがたくさんがあって、楽しい
くらいなのですが、「自分の時間を捧げてもよい」とコミット
していないようで、毎日毎日、会社の外に出るたびに空を見上
げて「これでいいんですか、神様」とつぶやいています。
決まった時間に会社に行き、丸一日を仕事に費やし、家に帰っ
て寝る。そのどこに私は不満なのかしらと考えています。
不満…じゃなくて。
焦り…に近いかなあ。
これでいいのだろうか?
自分の人生をこんなことに使っていいのだろうか?
また一日が失われた。
また一日が失われた。
私の命は刻々と無くなっていくのに
この事にこんなにたくさん命の残りを使ってもいいのだろうか。
そんな感じが毎日しています。
学校に行っていた頃はこの感覚が10倍くらい強くて、
毎日が本当に辛かったのです。
年をとった分、バランスが良くなったのか、だいぶマシなの
ですがそれでもやはり、社会人という生き方には馴れること
が出来ないでいます。
毎日「これでいいのだろうか」と思いながら生きるのって
馬鹿げていますよね。
何とかしないといけません。
時間と労力がかかるとしてもしっかり取り組んで変えていかないと。
ももが死んでから
死ぬという現実がより一層明確に、自分のこととして
感じられています。
会社、NPO、カウンセラーと私はトリプルワーカーですから、休みの
日なんて月に一日もないことも珍しくありません。毎日何かしらの
仕事が入っています。それでもやれていないことが山積みで、私は
「仕事量が自分の能力を超えている」と自分に言い聞かせることで
しか自分を眠らせてやる方法がありません。
焦ったり、辛くなるのは、休みの日が極端にがないせいではなくて
会社という組織のなかで、自分の命の時間が完全に自由を失っている
ことに耐えられないのかも知れないと思います。
トイレに行くにも許可を求めなければなりませんからね。
人の人生を拘束するという意味において、私にとって会社に勤めると
いうのは囚人になるのと同じなのかも知れません。
娘の作文を読むといつも、「こんなことを考えているんだ」と本当に感心するし、人の心はまったく分からないものだという感慨に包まれてしまう。
以下、娘が国語の授業で書いたものをここに残しておこう。
「豊かな言葉とは」
私は「豊かな言葉」と聞いて一番に思った事は、ことわざです。ことわざは知っているだけでもなんだかかっこいいです。そしてことわざを生活に生かすことができるとすごいと思いました。
私はことわざがたくさんあることを知りました。その中でも、私がおもしろいと思ったことわざはは、「猫を追うより魚をのけよ」ということわざです。このことわざの意味は、魚をとろうとしている猫を追いはらうよりもねらわれている魚をしまえばいいという意味です。このように、ことわざは状況をちがう言葉、分かりやすい言葉などで例えて表していると思います。
だから、今の状況にぴったり当てはまるようなことわざがわかる人は、豊かな言葉の使い手だと思います。
反対に、私が良くないと思うのは流行語です。私が流行語をあまり良くないと思うのは、流行語はわかる人とわからない人がいるからです。それに正しい日本語ではない場合があります。
私は、流行語を調べてみました。流行語には人を傷つけたり、人をバカにしたりする言葉があります。例えば、「あなたとはちがうんです」などです。あまり正しくない日本語だと思うのは「セカチュー」「ツンデレ」「アゲポヨ」などです。この流行語は何かの略です。
私はこの二つのことを調べて、私もなるべく正しい言葉を使いたいと思うようになりました。私は豊かな言葉の使い手にはなれないかもしれないけれど、少しでも上手に話すことが出来るようになれればいいと思います。自分で取り組みたいことは、ことわざを使うことです。この学習をして、今までまったく知らなかったことわざも知ることが出来たので、これを生かしていきたいです。
終わり
ことわざ辞典を買ってきて、そーっと本棚に並べて置こうっと。。。。
以下、娘が国語の授業で書いたものをここに残しておこう。
「豊かな言葉とは」
私は「豊かな言葉」と聞いて一番に思った事は、ことわざです。ことわざは知っているだけでもなんだかかっこいいです。そしてことわざを生活に生かすことができるとすごいと思いました。
私はことわざがたくさんあることを知りました。その中でも、私がおもしろいと思ったことわざはは、「猫を追うより魚をのけよ」ということわざです。このことわざの意味は、魚をとろうとしている猫を追いはらうよりもねらわれている魚をしまえばいいという意味です。このように、ことわざは状況をちがう言葉、分かりやすい言葉などで例えて表していると思います。
だから、今の状況にぴったり当てはまるようなことわざがわかる人は、豊かな言葉の使い手だと思います。
反対に、私が良くないと思うのは流行語です。私が流行語をあまり良くないと思うのは、流行語はわかる人とわからない人がいるからです。それに正しい日本語ではない場合があります。
私は、流行語を調べてみました。流行語には人を傷つけたり、人をバカにしたりする言葉があります。例えば、「あなたとはちがうんです」などです。あまり正しくない日本語だと思うのは「セカチュー」「ツンデレ」「アゲポヨ」などです。この流行語は何かの略です。
私はこの二つのことを調べて、私もなるべく正しい言葉を使いたいと思うようになりました。私は豊かな言葉の使い手にはなれないかもしれないけれど、少しでも上手に話すことが出来るようになれればいいと思います。自分で取り組みたいことは、ことわざを使うことです。この学習をして、今までまったく知らなかったことわざも知ることが出来たので、これを生かしていきたいです。
終わり
ことわざ辞典を買ってきて、そーっと本棚に並べて置こうっと。。。。
誰だって自分の話を聴いて欲しい
だけど
聴いてくれる人が居そうになかったり
聴いてもらうと悪いなと考えて
私たちはみんな ひとりぼっちになって困っている。
だから
少しづつ聴きあおうよ と呼びかける活動を続けてきて
もう10年くらいにはなったのだけど
自分自身、やっぱり人に聴いてもらうというのは難しいものだと
思うことが今でもたくさんある。
ももが死んでから
本当は今でもまだ辛くて悲しくて 言葉にしたい思いはたくさん
あるけれど 自分の自由にしようと決めたこのブログにさえ
思い切り綴ることは出来ない。
よほど気を付けないと私の文章には、生々しさを伝えてしまう力
があるし、誰だって「死」をリアルに書きつづったものを読んだ
りしたら多かれ少なかれショックをうけてしまう。
だから自分のブログとはいえ、公開されている場に、あまり正直
に思いを書く事ははばかれる。
でもそれでは私は書きたいことが書けないでいる。
そのことも加えて 余計に辛い。
誰でも心に傷を負っている部分があって
そこに暖かい手を当てたいときには
誰でもいいから側にいてくれる必要があるのだけれど
多くの場合 聞き手の負担を強いることになるのを直感的に避けて
しまうのではないだろうか。
「人に迷惑をかけてはいけない」 とか
「わかってもらえない」 とか
どこまでいっても 私たちは
自分のことより人のことを考えるように
しっかりしっかり躾けられていて………
あまりにも強く そう縛られていて……
あげくの果てには
何もいわないまま ひとりぼっちで死んでいく。
もう少しくらい
自分中心でもいいんじゃないかな。
苦しいときくらいは、人がどう思うかじゃなくて
自分がどうしたいのかだけを まっすぐに見て
思う通りに行動しても いいんじゃないのかな。
寒くなってくると
外で生活している人たちのことが気にかかる。
住むところも無くしているというのにだれにも相談しないで
どんどん困窮していく人たち。
そんな人たちを取材したドキュメンタリーで
「どうして実家とか親戚があるのに相談しないのですか」
と尋ねていた。
決まっている。
迷惑をかけるだけになる相談などしてはいけないと、教わってきた
からだ。人を頼ってはいけないと、教わったからだ。
自分の都合で人に負担をさせてはならないと、厳しく教わってきた
のだ。
教わったことを守り続けて、最後まで守り続けて、
彼らの命は細っていく。
ホームレスの人たちは象徴なのだ。
普通に生活している人々も 心の状態は同じだ。
会社に行っている大人たちも 学生たちも
子供たちも お年寄りたちも…
誰にも話せない。
そう思いながら、たったひとりぼっちで、生きている人だらけだと
私はいつも感じている。
自分もその一人として。
だからこそ チャレンジする。
わがままであること、教わったルールを乗り越えて生きること。
人に嫌われてることがあっても
人を傷つけてることがあっても
それでも自分を 生かし続けるように。
私たちはだれ一人として、
「人を傷つけること」も、「理解されないこと」も
100%防ぐことが出来ないのだから。
故意や悪意でないならば
人を傷つけても理解されなくてもいいのだ。
それは人生の中に折り込まれている分の「許し」で相殺されている。
勇気を出して 生き続けるために
自分の思いを 激烈に、生々しく、それでもいいから
表現していくことに 挑戦すべきなのだ。
何百とある自分自身のパーツを表現することに挑戦しよう。
だけど
聴いてくれる人が居そうになかったり
聴いてもらうと悪いなと考えて
私たちはみんな ひとりぼっちになって困っている。
だから
少しづつ聴きあおうよ と呼びかける活動を続けてきて
もう10年くらいにはなったのだけど
自分自身、やっぱり人に聴いてもらうというのは難しいものだと
思うことが今でもたくさんある。
ももが死んでから
本当は今でもまだ辛くて悲しくて 言葉にしたい思いはたくさん
あるけれど 自分の自由にしようと決めたこのブログにさえ
思い切り綴ることは出来ない。
よほど気を付けないと私の文章には、生々しさを伝えてしまう力
があるし、誰だって「死」をリアルに書きつづったものを読んだ
りしたら多かれ少なかれショックをうけてしまう。
だから自分のブログとはいえ、公開されている場に、あまり正直
に思いを書く事ははばかれる。
でもそれでは私は書きたいことが書けないでいる。
そのことも加えて 余計に辛い。
誰でも心に傷を負っている部分があって
そこに暖かい手を当てたいときには
誰でもいいから側にいてくれる必要があるのだけれど
多くの場合 聞き手の負担を強いることになるのを直感的に避けて
しまうのではないだろうか。
「人に迷惑をかけてはいけない」 とか
「わかってもらえない」 とか
どこまでいっても 私たちは
自分のことより人のことを考えるように
しっかりしっかり躾けられていて………
あまりにも強く そう縛られていて……
あげくの果てには
何もいわないまま ひとりぼっちで死んでいく。
もう少しくらい
自分中心でもいいんじゃないかな。
苦しいときくらいは、人がどう思うかじゃなくて
自分がどうしたいのかだけを まっすぐに見て
思う通りに行動しても いいんじゃないのかな。
寒くなってくると
外で生活している人たちのことが気にかかる。
住むところも無くしているというのにだれにも相談しないで
どんどん困窮していく人たち。
そんな人たちを取材したドキュメンタリーで
「どうして実家とか親戚があるのに相談しないのですか」
と尋ねていた。
決まっている。
迷惑をかけるだけになる相談などしてはいけないと、教わってきた
からだ。人を頼ってはいけないと、教わったからだ。
自分の都合で人に負担をさせてはならないと、厳しく教わってきた
のだ。
教わったことを守り続けて、最後まで守り続けて、
彼らの命は細っていく。
ホームレスの人たちは象徴なのだ。
普通に生活している人々も 心の状態は同じだ。
会社に行っている大人たちも 学生たちも
子供たちも お年寄りたちも…
誰にも話せない。
そう思いながら、たったひとりぼっちで、生きている人だらけだと
私はいつも感じている。
自分もその一人として。
だからこそ チャレンジする。
わがままであること、教わったルールを乗り越えて生きること。
人に嫌われてることがあっても
人を傷つけてることがあっても
それでも自分を 生かし続けるように。
私たちはだれ一人として、
「人を傷つけること」も、「理解されないこと」も
100%防ぐことが出来ないのだから。
故意や悪意でないならば
人を傷つけても理解されなくてもいいのだ。
それは人生の中に折り込まれている分の「許し」で相殺されている。
勇気を出して 生き続けるために
自分の思いを 激烈に、生々しく、それでもいいから
表現していくことに 挑戦すべきなのだ。
何百とある自分自身のパーツを表現することに挑戦しよう。
愛用の、というか日常の知的作業のあらゆる場面で使っている、まさに相棒のようなノートパソコンが本日異常な動作を起こし、立ち上がらないという絶望的な状態に。
状況から想定するに、電源ユニット周りに深刻なトラブルあり。
さらにUSB接続のタイミングで電源周りが異常動作を起こすことを確認。
USB機器とのやり取りで電源がおかしくなるというのは…
ソフトに起因するバグなのかそれとも単なるユニットの寿命によるハード故障か…特定できず。
状況と格闘し数時間後、何とか起動に成功、動くようになった。
重要なデータの退避完了。
偉いぞ、よく頑張ったな、相棒。
そのせいで、明日の講演準備に割く予定だった時間を大幅に食ってしまった。
今日は徹夜になるだろうか。
もう次のパソコンを本気で用意して備えておかなければ遅かれ早かれ、仕事に差し支えるだろう。
明日は電源ユニットに爆弾を抱えたパソコンを持って行き、講演に臨む。
今回の内容はPowerPointを使うのでパソコンが必要なのだ…。
怖い、怖い。
まあ、もしも本番でこの相棒が力尽きたなら、それもまた運命であり、寿命なのだろう。
でも出来ればもうちょっと頑張って欲しい。
相棒とは、いろんな経験を分かち合ってきた。
相棒がまだ何とか動いてくれている間に、次の相棒探しをしなければならない私を、こいつは薄情だと怒るだろうか。
ごめんよ。
でも最後まで君を見捨てたりしないから。
道具を、いつも擬人化して愛着を持ってしまう私。
捨てられないもので部屋が埋め尽くされてしまうのは、そのせいだなあ。
(片づけられない女の言い訳ですよ、はい。)
状況から想定するに、電源ユニット周りに深刻なトラブルあり。
さらにUSB接続のタイミングで電源周りが異常動作を起こすことを確認。
USB機器とのやり取りで電源がおかしくなるというのは…
ソフトに起因するバグなのかそれとも単なるユニットの寿命によるハード故障か…特定できず。
状況と格闘し数時間後、何とか起動に成功、動くようになった。
重要なデータの退避完了。
偉いぞ、よく頑張ったな、相棒。
そのせいで、明日の講演準備に割く予定だった時間を大幅に食ってしまった。
今日は徹夜になるだろうか。
もう次のパソコンを本気で用意して備えておかなければ遅かれ早かれ、仕事に差し支えるだろう。
明日は電源ユニットに爆弾を抱えたパソコンを持って行き、講演に臨む。
今回の内容はPowerPointを使うのでパソコンが必要なのだ…。
怖い、怖い。
まあ、もしも本番でこの相棒が力尽きたなら、それもまた運命であり、寿命なのだろう。
でも出来ればもうちょっと頑張って欲しい。
相棒とは、いろんな経験を分かち合ってきた。
相棒がまだ何とか動いてくれている間に、次の相棒探しをしなければならない私を、こいつは薄情だと怒るだろうか。
ごめんよ。
でも最後まで君を見捨てたりしないから。
道具を、いつも擬人化して愛着を持ってしまう私。
捨てられないもので部屋が埋め尽くされてしまうのは、そのせいだなあ。
(片づけられない女の言い訳ですよ、はい。)