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2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
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社会適応できないと愚痴ったので、じゃあどんな仕事ならば自分の命を使っても惜しまないのかと考えてみました。


自分がどうもごく当たり前の仕組みにうまく適応できないという自覚は子どもの頃からありましたが、それに対する援助というか、理解というか、そういうものは周りにはぜんぜんありませんでした。


今、発達障害のお子さんや、理由はわからないけど少し変わった個性の子どもさんを育てている親御さんたちは、自分の子どもがどんな風にこの社会の中で生きるのか、漠然と心配しているのではないかと思います。うちの子も両親の遺伝なのか、結構個性的なので、彼女がちゃんと生活できるようになるのかかなり危惧しています。


変わっているというだけでいじめられるし、教師からも理解されず「普通」を求められるし、何より友人が出来にくいです。
決して性格が悪いわけではないのだけれど、どうしても集団からはじかれてしまったり、集団の居心地悪さに耐え切れず自分から群を離れてしまったり。

「普通」でないことはそれほど存在が許されないのだろうかと真剣に思い悩むことが、子ども時代から青年期まで、たびたびありました。


で、多分、そういう状況は今後もあまり変わらないと思うのです。
太古より、人間は集団で生きる生物だし、集団を維持するためには集団としての集合意識のようなものが必要だからです。人間に限らず、集団で社会を構成する動物はすべて同じようにしています。異質な個体は集団から攻撃され、弾かれ、群れから追い出されます。自然界において、それは良い悪いではなく、集団が生き延びるために必要な犠牲でもあるのです。

つまり「馴染まないものを良しとしない」という性質が、遺伝子に組み込まれていると思うのです。もしそうでないなら、周囲に危険が一杯で集団にならなければ絶滅してしまうような古代ならいざしらず、人間が作り出した環境がたくさんある現代では、人間は好き勝手にバラバラに生きるようになっていても不思議ではないはずです。けれど、人間はいまだに集団で社会を構築し、それを維持しつづけています。人間が集団で生きるのは、遺伝子レベルの命令なのではないでしょうか。仮にそうであれば集団に馴染まないものは排除され、そうやって集団を維持しろというのも、遺伝子レベルの、逆らいがたい命令である可能性があります。

人間は同種族であっても「異質なものを排除・拒絶する」という基本性質をもっていると仮定します。
そして必ず、少数の異質な存在は生まれてきます。
つまり排除され、傷つき悲しむ存在は、今後も生まれ続けるのが現実です。これに対し、どうすればいいのか。

多くの福祉家は、排除するような社会が悪い、社会を変えろと活動しています。それも大いに結構。
けれど私は、それとは別のことを提案します。

少数派よ、あなたは排除されることを織り込んだ人生設計をすべきなのではないか、と。

負けを認めろといっているのではありません。
少数派が多数派にはじかれてしまうのは、簡単には変えられない「環境」の一種として捉えろといっているのです。

毎年台風が来る自力では脱出できない島に住んでいて、台風のせいで家も作物も全部駄目になってしまう。そういう場所にいる時に、台風のルートを変えようとするのは無駄な努力です。
それよりも、台風が来ることを前提にして、それを承知で、知恵を使って生き延びろと言いたいのです。
早めに収穫する、地下に家を作る、知恵と工夫の限りを尽くして、生き延びろと言いたいのです。


社会は、多数派に都合がよいように出来ています。
右利き用の道具は当然のようにお店に並んでいても、左利き用の道具はオーダーしないと手に入らないように。
それでも、少数派のオーダーが可能ならまだましです。
時には「なんで左利きなんかなのさ」「変だし、不便だろ。右利きになればいいじゃないか」と言われるのです。
もちろん、これは譬えです。

利き手なら、訓練で直せるかもしれません。
でもそれが「感性」や「考えの基準」だったら?
自分の感性を捨てて人の感性になるというのは、自分の魂を捨てることに等しいことです。
自分にとって「きれい」なものを周りから「それは汚いと感じるべき」と強制されるのは、どれほど苦痛でしょうか。

自分が自分であることの根拠は、自分が感じることに基づいています。
だから自分が感じることを捨てるのは、自分である意味がないということになります。
その時、多分その人は絶望しきって沈黙するか、怒りのあまり社会を壊し、自分の命を顧みない行動に出るでしょう。
そういう、避けられない台風がある社会に、少数派は生きているのだと。
だからこそ、知恵と工夫の限りを尽くそうといいたいのです。

私は、発達障害ではありませんが、他の多数の人と違うという意味では間違いなく少数派の一人です。
違っている部分を変えて多数派の社会に適応することは、どうしてもできませんでした。社会は私のような少数派には非常に生き辛い過酷な場所です。それでも、私は多数派の社会の片隅に、少数派が生きられる場所を作り出したいなと思っています。また、少数派の生き方を研究し、それを今後も生まれ続ける少数派のために活かし、生きるヒントを与え続ける泉(シンクタンク)を作りたいと思っています。そうすることで、多数派の人たちの中から、少数派を理解しようとする心ある人々も生まれると思うからです。


いわゆる障害者支援をしたいわけではないのです。

私は、誰でも、ただシンプルに「自分」でいられるようにしたいだけなのです。

「自分」でいられる上でなら、生存競争に勝てず、生き残れなくても満足だからです。


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