忍者ブログ
Admin / Write / Res
2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
カレンダー
12 2025/01 02
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
プロフィール
HN:
MoonLeaf
性別:
女性
職業:
Peace Maker
自己紹介:
Member of MENSA International
最新CM
[04/21 ボーズ]
ブログ内検索
アーカイブ
バーコード
フリーエリア
忍者アド
カウンター
アクセス解析
[5]  [6]  [7]  [8]  [9]  [10]  [11]  [12]  [13]  [14]  [15
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

憎まれるのは怖いですが 嫌われるのは怖くないです。

もちろん嫌われると悲しいし 居心地は少し悪くなりますが

そもそも私は自分が人から嫌われることを受け入れています。

すべての人に愛されるほど 愛らしくもないですし

素直な面ばかりではなく 頑固さもあり

すべての人とうまが合うほど 柔軟でもないですから。


自分の行為や言葉がその人にとって不快だとわかれば

不快な思いをさせないように近づくのをやめたり

しゃべるのをやめたりすることはありますが

嫌われないために何かを努力しようという気はありません。



私を嫌うのは、好きになるのと同じように、その人の自由です。



同時に、私は好かれるために何かを努力しようという気もありません。




それらとは別に、身だしなみや マナーなどは言うまでもなく洗練されて

いることが好ましいと考えています。

それはもういまさら「やったほうがいいのかどうか」をいちいち考えなくても

よいくらい、時間をかけて「良い習慣」として我々の社会が残してきたもの

だからです。

身だしなみやマナーは、考えずに実行できるくらい、身につけておきたい

ものですね。

拍手[1回]

PR
ブログの紹介文を変えてみました。

ブログを書き綴ることに関して思うこと。

どうしてブログを書くのかしら、としばしば自分に疑問を持ちます。

ツイッターやフェイスブック、アカウントは持っているけれど全然利用していません。
正直言えば、関心がないのです。
でも、こうしてブログに正直な今の気持ちや考え、意見などを書き綴るのは、好きです。

何が違うのだろうかと考えると、人とつながりたい距離感なのかなあと思います。



私は、自分の中の、深い場所にあるものを研ぎ澄まして生きていたいと毎日思っています。

お茶を飲んだり、散歩したり、天神で素敵な小物をみつけたりしたことが、その部分とつながっているときには、ブログに書き込んでみたいと思うのかもしれません。

でもたいていの些細なことは 毎日出る体の垢や目やにみたいなもので、人にそれをわざわざ見せることはない、というような気がするし、それにコメントもらったりしたら恥ずかしいではないですか。自分のうんこを見ることがあっても、それを人に見せて感想をいってもらったりはしない、という感じがするのです。


そんなことを考えているとき、ふとテレビで
アスリートの為末大さんが、ツイッターやフェイスブックについて話していたことに、とても納得しました。

アスリートには、自分ひとりで頑張れる段階と、それだけでは耐えられない、周囲や社会と自分の関係を支えにしなければ乗り越えられない段階があると。
思わず 「 それ わかる! 」 と膝を打ってしまいましたよ。
アスリートに限らず、何か目標に向かって精一杯努力し続けるという時には、同じではないかと思いました。

アスリートにとって自分ひとりでは耐えられない時、自分が社会に影響を与えていることや社会的から好意的に認められていることを感じることが、必要なタイミングがあると為末さんは話していました。

そんなときに、ツイッターやフェイスブックが有効なことがあるというのです。


ネットコミュニケーションが生まれる以前には、テレビの特集などでアスリートが紹介される場合、その人の頑張りとか、生い立ちとか、ある一定のテーマに沿ってまとめて見せられるけれども、ツイッターやフェイスブックでアスリート自身が発信する場合には、「今日はいい調子で練習できた」というものだけではなく「遊園地にきた」などの 大きな振り幅の情報を人々に伝えることになる。それが、厚みにもなるし、実体により近いと。


そう。振り幅の大きな情報。
それが、本当のその人に近づいている証拠だと思うのです。

自分のブログを振り返ってみると、落ち込んでいることも、調子が悪いことも、娘と馬鹿騒ぎしていることも、上から目線と批判されそうな自分の考えも、全部書きたくて書いてきたなと思います。それは私がこのブログのテーマに、「全方位の自分を表す」と決めたからです。
先生の顔の私だけをみて、私を慕ってくださる方もいるけれど、私はそれだと少し居心地が悪いのです。私のいいところだけ見て私を好きだという人は、私の別の面を見たらあきれるのではないかしら、と。あきれたり、嫌われたりすることを恐れ始めると、私は人の前で演技ばかりしてしまうことになります。本当のことを言わず、相手の喜ぶことばかりを言ってしまう私になったら、私自身にさえ私が何者かわからなくなっていくでしょう。

だから私は 人の顔色を見て自分が演技し始める前に、全方位の自分をあらわすことで「あきれる人は今のうちにあきれてしまってくださいね」「嫌いだと思ったら離れてくださいね」と伝えているのかもしれません。

そうやって、本当に私を理解しようとしてくれる人、愛してくれる人を求めているのかもしれません。


でも、私を支えとする人たちに私の全部を見せることはリスクがあると思っています。
支えを必要とする人は、私の弱さなんかみたくないからです。
その人たちが必要とする私は、振り幅のない、ある程度完成された私のはずです。
それは師であるクリスにも忠告されたことがあります。
私は、弱っている人、支えを必要としている人の前では、自分の役割を誠実に果たすつもりです。

それと同時に、全体としての自分に触れ続ける機会も、ここに必要なのだなと思います。
自分ひとりでがんばれる段階と、社会や周囲の支えが必要な段階がある。
為末さんの言葉がシンクロします。

拍手[1回]

今日は前半が家族との食事会。

ちょっとした内輪のお祝いでした。

ホテルのビュッフェで、お腹一杯。

もうだめですね、食べ放題は年齢的に無理だ~。



後半は娘のお友達のお母さんとお茶。

大濠公園のボートハウス横のレストランでのんびり数時間過ごしました。

あのレストランのテラスからの眺めは本当に素敵ですね。

大濠公園は、若い頃から福岡の中で、大好きな場所の一つです。

人と数時間お茶して過ごすというのは、私の時間の過ごし方としては

かなり珍しいことですが、やはりたまにはいいものだと思います。

日ごろとは違う話題、家族とは違う距離感での会話。

コミュニケーションは脳にも刺激があるものですね。



そうそう、もうすぐ、大濠公園の花火大会ですね。

今年も前の方に場所取りして、のんびり眺めたいと思います。

場所取りするには、早朝、まだ暗いうちに行かないといけないんですよ。

近所の特権を活かして、いつもすごくいい場所で見物しています。

間近でみる花火って、すごい迫力です。

音がお腹に響いて、なんだか現実感が薄れ、幻想の国に居るような

気持ちになってしまうんですよ。



うーん…夏だな~と実感。

拍手[2回]

残念な記事を見つけました。とても考えさせられます。

http://blogs.yahoo.co.jp/fukushimaaqua/9326268.html

ホタルの放流ってロマンティックで、そして自然環境に良いことをしているようなイメージしか持っていませんでしたが、確かにもともとそこにいたものではない生き物を放流するということが及ぼす影響は、良いものとは限らないですね。

外国の生物を日本の自然に放すことが日本独自の生態系を壊し、固有種などの絶滅を招くことはよく知っていたし、いけないことだと強く思っていましたが、ホタルのような昆虫でしかも国内のものでも、水系によって固有の遺伝情報があって、よその水系から勝手に持ってくると、もとの水系の種が絶滅、または固有の遺伝情報が失われるのですね。

安易に、人間が自然に手を入れるべきではないのだということを痛々しく伝える記事です。

しかも、地元の復興を願ってのイベントだったのだからいいではないか、と逆切れし、専門家の警鐘に対して、「イベント主催者を侮辱したな、謝れ」…という態度をとるとは果て無き人間のエゴの強さを感じます。

逆切れ対応を見る限り、放されても生きられない環境に、いやおうなくつれてこられ、そして死んでいくホタルたちのことには思い至らないのだろうと思います。命を無駄に死なせるイベントになってしまうことに考えが及ばない人が中心だったのだということは容易に想像できます。

私は、愚かな人が嫌いです。
愚かさは人間性の良い面のすべてを汚します。
愚かさとは無知とは別のもの。
エゴの上にある頑なさ、思い込み、自分だけが正しいと考える誤った姿、それが愚かさです。

メダカの放流も水系の生物環境に大きな影響を与える破壊行為だと知って、改めて無知とは恐ろしいものだなと思います。放流するならその水系から捕獲したものを増やして戻すという手間が必要なのですね。
まったく、つくづく、学び続けたいという気持ちが深まります。

誠実に生きて、正しい情報を発信している人が職を辞さなければならないという現実は、社会がまだまだ未熟であることを示していると思います。

それでも このブログの発信者には頑張って欲しい。
誠実さを捨てず、考え続け、感情と理性の両輪で人間らしく生きて行って欲しいと思います。

それは、私もそれに続きたいから。
そういう人たちと一緒に生きていたいと思うからです。

拍手[3回]

最近映画化された「宇宙兄弟」ですが、以前から注目していた漫画が原作です。漫画は完結するまで読まないというのが私の主義なのですが、どうしても我慢が出来なくてついに読んでしまいました。

そこで、感想。

すごく久しぶりに純粋な気持ちになって感動できる、そんな作品でした。

主人公のムッタは自動車会社に勤めていて車の開発をするエンジニアだったのですがクビになってしまい、無職というところから物語がスタートします。優秀な自動車エンジニアだった彼が、一転上司に嫌われてただの無職の男になってしまうというところが、今の世間を反映しています。

そんなどん底の時、彼は自分の夢を思い出すのです。
宇宙飛行士になるという少年の頃の夢を。

大人になって何かの職につくと、誰もが幼かった頃の夢を忘れてしまうような気がします。ムッタもそうでした。宇宙飛行士になりたいなんて遠過ぎる夢だと、大人になるにつれ諦めていたのに、無職になってから彼はそれを取り戻したのです。

そこからはムッタが宇宙飛行士を目指し、「月に行く」夢をかなえるべく次々に難関に挑戦していくというストーリー。

ムッタの性格って、なんとなく自分に重なります。
適度にいい加減で、劣等感があるけどいいお兄ちゃん、尊敬される男でありたい。
弟の前で胸を張ってみせるその胸の中には、不安や焦りがあるけれど、それでも「理想の兄」であろうとする姿。

私も長女だったので子供の頃はそうだったなあ。
妹と二人迷子になった時、本当はどこに来てしまったのかどうすれば帰れるのか全然わからなかったけど、「大丈夫、姉ちゃんが道知ってるから。絶対帰れるって」と妹に笑顔で言い続け、道を知っている振りをして歩き続けたこと。

ある意味、「与えられている役割を演じること」は誰の人生にも、常にあることなのかも。

ムッタにはむちゃくちゃ出来のよい弟、「ヒビト」が居ます。
ヒビトはストーリー上、一足先に、宇宙飛行士になってしまっています。

ヒビトとの幼き日の約束を守るため、宇宙飛行士という超スーパーエリートへの挑戦をするムッタから目を離せません。ムッタ頑張れ!

ストーリーはまだ連載中で、これからどうなるかまだまだわかりません。
(これだから完結していない漫画は読みたくないのだ~!!)

ムッタの純粋な思いに触れて、なんだか幼い頃の純粋な使命感を思い出しています。

大人が子供のように純粋な気持ちを取り戻せる漫画は少ないので、私としては非常にすばらしい作品だと思っています。


皆さんも是非一読を。

拍手[1回]

いやいや…すっかり更新をさぼってしまって…

何事も、継続するには努力も必要ですね。
また、気持ち新たに、更新していきたいと思います。

すっかり気温も高くなり、蒸し暑い日が続いていますね。
博多の山笠も終わって、夏がやってきました。

先週の日曜日、娘と早起きして、セミの羽化を見に行ったのですが、
発見できず。残念。すっかりセミの声もし始めているので簡単に
見つかると思っていたのですが、意外に穴場のポイントなどがある
ものなのかもしれません。

いろんな変化の中、それでも毎日、毎日、一生懸命生活して、私たち
家族も元気に生きています。
ルルはどうも暑さに弱い子らしく、早速へばっています。

みなさんはいかがですか?
どんな毎日を、どんな心持ちですごしていらっしゃるのでしょうね。

私は人生の明るい面よりも暗い面を見つけてしまうたちだと先日
書き込みましたが、だからこそ、明るい面を強調して捉えるように
しないとバランスが取れないのですよね。

だから、少々、恣意的に、このブログでは出来るだけ希望や夢や
幸せについて見つけていく方向で、しばらく調整してみようかなと
思っています。

これまでは思うさま、どん暗い文章ばかり吐き出すようにして書い
てきました。そういう場を持てたことは、私にとって本当に大きな
救いになったのですが、人生の今の時期、少し別のことにもチャレ
ンジしたくなっています。

今日良かったことは、スイカが美味しかったこと。
私は夏の果物のなかではスイカがダントツに好きなのです。
スイカは私にとって、「食事」のカテゴリに入っています。
中くらいのスイカだと、一回に半玉くらい一人で食べてしまいます。

スイカは私の体にも良いようなので、今年はシーズンになるや、
積極的にバクバク食べます。

でもね。スイカって一言で言っても、実は、全然違うのですよ。
甘さはね、だいたい市場に出回るものは糖度センサーで検査して
出荷するので、11度くらいはあって、どれも十分美味しいのですが、
一番違うのは歯ざわりです。

サクっとするもの、ジュワっとするもの、ふんわりしたもの、カリっと
するもの、スイカによって、本当にいろいろなんです。
私はスイカの歯ごたえは硬いほうが好きで、今日のスイカはサクカリの、
固めのものでした。
切っても果汁が実の中に閉じ込められたままで、まな板が果汁だらけ
にならないんですよ。しかも十分甘い。これ、すごく美味しい。
熟し加減なのか、品種なのか、いまだに研究不足でよくわからないですが、
サクカリのスイカに出会えるともうすんごく幸せ。

果肉の硬さは、外見から見分けられないので、いつも当たりくじを
引いているような気分で買います。

そして、今日は「やったー!大当たりだー!!」という具合。

スイカだけで一食済ませてしまうこともよくある、夏のお食事なのです。
(家族はちゃんと食事している横で、私だけスイカ食い→よくやってしまう)

拍手[2回]

死んだあとに 人が自分のことを語る姿を見ることができるとしたら どんな風に言われたいですか?

「あの人は    だったよね」

空白には何が入りますか?


アメリカ人は自分の墓に刻む言葉を遺言したりします。

「トミー・ジョーンズ 1966-2012 ここに眠る 妻とサーフィンを愛した男」

などね。

空白に入れたい言葉や 墓に刻みたい言葉は

自分のなりたい姿や生き方が現れると思います。


考えてみませんか?



私は…そうだなあ。。。

 「あの人は不器用だった でも正直だった」 と言われたい…かな。

拍手[3回]

ももの命日がもうすぐやってくる。

ルルがうちに来て 我が家はすっかり明るくなったけれど
もものことを忘れることは決してない。

去年の今はまだ 生きていたのに…と思って涙ぐむということは やっぱりまだももの死を完全に受け入れることができていないのだろうと思う。

ルルをみると ももに似ていて、そしてやっぱり似ていない。
ルルはももとは違う。

娘はルルがももの生まれ変わりだと信じているけれど
私はそう感じていない。

ルルはやっぱりルルなのだ。
そしてももはやっぱりももしかいない。
チャムもチャムしかいない。

チャムやももが帰ってくるのなら私は何でもするだろう。

先に逝ってしまった私の娘たち。
いつまでも忘れず そしてルルを出来るだけ幸せにすることで
チャムやももがくれた幸せに報いていきたい。

ルルはわんぱく大魔王期に入り 破壊活動にいそしんでいる。
ヘアブラシや靴や椅子などなど…たくさん毎日台無しにしてくれて。
すくすく育つルルを見ていると 命の勢いを感じて元気をもらえる。

やっぱり命からは与えるものよりもらえるものの方が多いと感じる。

そこに居てくれるだけで ありがとう なんだね。

チャムにも、ももにも、一生傍にいてくれて本当にありがとう。

拍手[2回]

この世界には 素敵なこと、きれいなこと、感動すること、
勇気をもらうことがいっぱいあって、それをいつもコレクション
している人はニコニコ、キラキラしているのだと思う。

それと同時に、この世界には 悲しいこと、悔しいこと、残念なこと、
腹が立つこと、怖いこともいっぱいあって、それをいつもコレクション
している人もいる。

残念ながら私はどちらかと言えば後者なのだと思う。

自分がどちらかといえば後者だと分かっているからこそ
積極的に前者の方を見習わないと、人生のバランスが取れない
ということもわかっている。

それでいて、悲しいことや悔しいことのコレクションも決して手放
そうとしない。

そうだなあ…自分のホームポジションはこちらだという感じかしら。

いやなことや悲しいことは忘れて、捨てて、軽やかに楽しいこと
ばかり集める世界で生きればハッピーに決まっているのに、
何故私はここに留まって「これが私のホームポジション」だと思っているのだろう。

忘れたくない。
なかったことにしたくない。
見過ごせない。

私の中で何かがそう言っている。

今この瞬間に
悲しさに胸の張り裂けそうな人がいる。
おなかが減って死にそうな人がいる。
孤独で気が狂いそうな人がいる。

明るい世界の一方で、そういう人たちがいることもまた、現実なのだ。
私は明るい世界に背を向けていつもそういう人たちのことを見つめようとしてしまう。

それは彼らが私の中の「悲しくて寂しくて愛情に飢えて死にそう
だった私」とリンクするせいなのだと思う。
今私は 信頼できる家族と幸せに暮らしていて 生きるのに不自由はないくらい元気だけれど 自分がそうなったからといって自分の中に「悲しくて寂しくて愛情に飢えてしにそうだった私」がいなくなることはない。

同じように、世界から不幸がなくならない限りは、私は彼らから目をそむけることが出来ないのだ。

何が出来るわけでもないけれど せめて
彼らを忘れてしまわないことくらい
私一人が一生続けてもいいじゃないか。

そう思う。

がんばれという言葉が胸に沸いてくる。

相手にその言葉で伝えることはないけれど
あなたに力を送り続ける、届きますようにという気持ちで
世界中のありとあらゆる不幸に向けて
私はがんばれという祈りを 今日も明日も捧げ続けたい。

同じ気持ちで生きている人が少数であれ私だけでないことを
いつも信じて生きている。

仲間だと思う人とは 命の根がつながっているのだと安心する。

拍手[5回]

古くからの知っている人が 癌再発との知らせ。

こういうときにかける言葉は あるのだろうか。

あらゆる励ましがただの気休めになってしまう気がする。

どうしてこれまでこんなに過酷な人生を必死に生きてきたこの人が

これほど若いのに癌になんてなってしまうのか。

一度目の癌宣告の時にも、打ちのめされそうになりながらも

手術し 毎月数万円もかかる抗癌治療を続け

2年前、ようやくもう大丈夫と肩の荷を降ろしたところだったのに。

新しい職場に付き、困難な仕事をこなして認められ、これからだと

いうところだったのに。

そんなときに再発だなんて。


時々 人生は 本当にその人に無慈悲なまでに過酷で

見守る私ごときまでが 打ちのめされそうな気持ちに居たたまれないことがある。



それでいて 私はどこかで 静かに相手を見ている部分があることを自覚する。

あなたに起こることは私にも起こりうる。

誰にも 老いと病と死の可能性が平等にある。

おそらく いや 間違いなくあなたに起こることは私にも起こりうること。

だからあなたを決して一人にはしない。

あなたは一人にはならない。

大勢の仲間がいることを忘れないで。



一週間前に再発を宣告され、もう手術は出来ないと言われたそうだ。

一週間泣きに泣いて 今やっと これからは人のために生きようと思えたと

私に話してくれた。




そんなことは 強がりだ。

私には分かる。

これほどの過酷さを たった一週間で正面から捉えることができるのは

限られた人だけだ。

この人は 精一杯、自分に起きていることの意味を見出そうとしている。

そうしなければぼろぼろに崩れ折れてしまうからだ。

家族の愛を知らず 家庭を持つことに憧れ 懸命に一人で生きてきた。

この人の強がりが 胸に刺さる。


私はその電話口で、最後にやっとこういった。

「何があっても味方だから。応援しているから。

 私はあなたがどんな人が本当に知ってる。頑張っていると分かってる。」

その人は 涙声で 「きっと治します。そして先生に会いに行きます。」と言った。


神や仏の加護があるのなら どうかこの人の上に。

これまでのこの人の困難を私は知っている。孤独を知っている。

それに耐え抜いてきたこの人にどうか力を貸してあげてください。

どうか どうか 神様。

この人の心に 勇気の光が絶えないようにお守りください。


拍手[3回]

Copyright ©  I realize it when I through it All Rights Reserved.
* material by Pearl Box   * Template by tsukika

忍者ブログ [PR]