2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
カレンダー
12 | 2025/01 | 02 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
プロフィール
HN:
MoonLeaf
性別:
女性
職業:
Peace Maker
自己紹介:
Member of MENSA International
最新記事
(10/03)
(10/29)
(09/30)
(09/27)
(09/25)
(09/22)
(09/16)
(09/14)
(09/14)
(09/13)
(09/13)
(09/04)
(08/24)
(08/20)
(08/18)
(08/12)
(07/30)
(07/27)
(07/22)
(07/02)
最古記事
(09/02)
(09/02)
(09/03)
(09/05)
(09/05)
(09/06)
(09/06)
(09/07)
(09/10)
(09/13)
(09/15)
(09/17)
(09/29)
(10/08)
(10/17)
(10/18)
(11/09)
(11/12)
(11/18)
(11/25)
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
アクセス解析
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ブログの紹介文を変えてみました。
ブログを書き綴ることに関して思うこと。
どうしてブログを書くのかしら、としばしば自分に疑問を持ちます。
ツイッターやフェイスブック、アカウントは持っているけれど全然利用していません。
正直言えば、関心がないのです。
でも、こうしてブログに正直な今の気持ちや考え、意見などを書き綴るのは、好きです。
何が違うのだろうかと考えると、人とつながりたい距離感なのかなあと思います。
私は、自分の中の、深い場所にあるものを研ぎ澄まして生きていたいと毎日思っています。
お茶を飲んだり、散歩したり、天神で素敵な小物をみつけたりしたことが、その部分とつながっているときには、ブログに書き込んでみたいと思うのかもしれません。
でもたいていの些細なことは 毎日出る体の垢や目やにみたいなもので、人にそれをわざわざ見せることはない、というような気がするし、それにコメントもらったりしたら恥ずかしいではないですか。自分のうんこを見ることがあっても、それを人に見せて感想をいってもらったりはしない、という感じがするのです。
そんなことを考えているとき、ふとテレビで
アスリートの為末大さんが、ツイッターやフェイスブックについて話していたことに、とても納得しました。
アスリートには、自分ひとりで頑張れる段階と、それだけでは耐えられない、周囲や社会と自分の関係を支えにしなければ乗り越えられない段階があると。
思わず 「 それ わかる! 」 と膝を打ってしまいましたよ。
アスリートに限らず、何か目標に向かって精一杯努力し続けるという時には、同じではないかと思いました。
アスリートにとって自分ひとりでは耐えられない時、自分が社会に影響を与えていることや社会的から好意的に認められていることを感じることが、必要なタイミングがあると為末さんは話していました。
そんなときに、ツイッターやフェイスブックが有効なことがあるというのです。
ネットコミュニケーションが生まれる以前には、テレビの特集などでアスリートが紹介される場合、その人の頑張りとか、生い立ちとか、ある一定のテーマに沿ってまとめて見せられるけれども、ツイッターやフェイスブックでアスリート自身が発信する場合には、「今日はいい調子で練習できた」というものだけではなく「遊園地にきた」などの 大きな振り幅の情報を人々に伝えることになる。それが、厚みにもなるし、実体により近いと。
そう。振り幅の大きな情報。
それが、本当のその人に近づいている証拠だと思うのです。
自分のブログを振り返ってみると、落ち込んでいることも、調子が悪いことも、娘と馬鹿騒ぎしていることも、上から目線と批判されそうな自分の考えも、全部書きたくて書いてきたなと思います。それは私がこのブログのテーマに、「全方位の自分を表す」と決めたからです。
先生の顔の私だけをみて、私を慕ってくださる方もいるけれど、私はそれだと少し居心地が悪いのです。私のいいところだけ見て私を好きだという人は、私の別の面を見たらあきれるのではないかしら、と。あきれたり、嫌われたりすることを恐れ始めると、私は人の前で演技ばかりしてしまうことになります。本当のことを言わず、相手の喜ぶことばかりを言ってしまう私になったら、私自身にさえ私が何者かわからなくなっていくでしょう。
だから私は 人の顔色を見て自分が演技し始める前に、全方位の自分をあらわすことで「あきれる人は今のうちにあきれてしまってくださいね」「嫌いだと思ったら離れてくださいね」と伝えているのかもしれません。
そうやって、本当に私を理解しようとしてくれる人、愛してくれる人を求めているのかもしれません。
でも、私を支えとする人たちに私の全部を見せることはリスクがあると思っています。
支えを必要とする人は、私の弱さなんかみたくないからです。
その人たちが必要とする私は、振り幅のない、ある程度完成された私のはずです。
それは師であるクリスにも忠告されたことがあります。
私は、弱っている人、支えを必要としている人の前では、自分の役割を誠実に果たすつもりです。
それと同時に、全体としての自分に触れ続ける機会も、ここに必要なのだなと思います。
自分ひとりでがんばれる段階と、社会や周囲の支えが必要な段階がある。
為末さんの言葉がシンクロします。
ブログを書き綴ることに関して思うこと。
どうしてブログを書くのかしら、としばしば自分に疑問を持ちます。
ツイッターやフェイスブック、アカウントは持っているけれど全然利用していません。
正直言えば、関心がないのです。
でも、こうしてブログに正直な今の気持ちや考え、意見などを書き綴るのは、好きです。
何が違うのだろうかと考えると、人とつながりたい距離感なのかなあと思います。
私は、自分の中の、深い場所にあるものを研ぎ澄まして生きていたいと毎日思っています。
お茶を飲んだり、散歩したり、天神で素敵な小物をみつけたりしたことが、その部分とつながっているときには、ブログに書き込んでみたいと思うのかもしれません。
でもたいていの些細なことは 毎日出る体の垢や目やにみたいなもので、人にそれをわざわざ見せることはない、というような気がするし、それにコメントもらったりしたら恥ずかしいではないですか。自分のうんこを見ることがあっても、それを人に見せて感想をいってもらったりはしない、という感じがするのです。
そんなことを考えているとき、ふとテレビで
アスリートの為末大さんが、ツイッターやフェイスブックについて話していたことに、とても納得しました。
アスリートには、自分ひとりで頑張れる段階と、それだけでは耐えられない、周囲や社会と自分の関係を支えにしなければ乗り越えられない段階があると。
思わず 「 それ わかる! 」 と膝を打ってしまいましたよ。
アスリートに限らず、何か目標に向かって精一杯努力し続けるという時には、同じではないかと思いました。
アスリートにとって自分ひとりでは耐えられない時、自分が社会に影響を与えていることや社会的から好意的に認められていることを感じることが、必要なタイミングがあると為末さんは話していました。
そんなときに、ツイッターやフェイスブックが有効なことがあるというのです。
ネットコミュニケーションが生まれる以前には、テレビの特集などでアスリートが紹介される場合、その人の頑張りとか、生い立ちとか、ある一定のテーマに沿ってまとめて見せられるけれども、ツイッターやフェイスブックでアスリート自身が発信する場合には、「今日はいい調子で練習できた」というものだけではなく「遊園地にきた」などの 大きな振り幅の情報を人々に伝えることになる。それが、厚みにもなるし、実体により近いと。
そう。振り幅の大きな情報。
それが、本当のその人に近づいている証拠だと思うのです。
自分のブログを振り返ってみると、落ち込んでいることも、調子が悪いことも、娘と馬鹿騒ぎしていることも、上から目線と批判されそうな自分の考えも、全部書きたくて書いてきたなと思います。それは私がこのブログのテーマに、「全方位の自分を表す」と決めたからです。
先生の顔の私だけをみて、私を慕ってくださる方もいるけれど、私はそれだと少し居心地が悪いのです。私のいいところだけ見て私を好きだという人は、私の別の面を見たらあきれるのではないかしら、と。あきれたり、嫌われたりすることを恐れ始めると、私は人の前で演技ばかりしてしまうことになります。本当のことを言わず、相手の喜ぶことばかりを言ってしまう私になったら、私自身にさえ私が何者かわからなくなっていくでしょう。
だから私は 人の顔色を見て自分が演技し始める前に、全方位の自分をあらわすことで「あきれる人は今のうちにあきれてしまってくださいね」「嫌いだと思ったら離れてくださいね」と伝えているのかもしれません。
そうやって、本当に私を理解しようとしてくれる人、愛してくれる人を求めているのかもしれません。
でも、私を支えとする人たちに私の全部を見せることはリスクがあると思っています。
支えを必要とする人は、私の弱さなんかみたくないからです。
その人たちが必要とする私は、振り幅のない、ある程度完成された私のはずです。
それは師であるクリスにも忠告されたことがあります。
私は、弱っている人、支えを必要としている人の前では、自分の役割を誠実に果たすつもりです。
それと同時に、全体としての自分に触れ続ける機会も、ここに必要なのだなと思います。
自分ひとりでがんばれる段階と、社会や周囲の支えが必要な段階がある。
為末さんの言葉がシンクロします。
PR
この記事にコメントする