2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
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あなたがやりたいことは何なのかと問われている。
やりたい事の為ならどんな犠牲も払えるはず
やりたい事を実現する為の努力なら喜んで出来るはず
なぜ自分のやりたい事なのにもっとしっかり出来ないのか
そう問われている。
たぶんそれは「私」という個のやりたい事ではないのだ。
人々の苦しみに触れ 私は動き出す。
その時「私」の個人的な好みや喜びというようなちっぽけな軸は私の中から消し飛んでいる。
「必要があるから動く」だけなのだ。
「救済を必要とする人々がいるから動く」だけの歯車になる。
私の個人的な喜びを満たす仕事なら 別にいくらでもあるのかも知れない。
個人的な喜びを満たそうとして何かをやっているとしたら 私はいくらでも努力し犠牲を覚悟し腹をくくっているのではないだろうか。
私は 自分の望みで動いていない。
「だからあなたは共に働く人に喜びというご褒美を与えないのだ」と坂本は言う。
自分が歯車なので他の人を歯車同様に扱うのだと。
坂本は私のことを同じ人間ではないという。
「普通の人は誰でも喜びというご褒美をもらいながらでなければ生きられないし動けない。それなのにあなたは無機的にただ目的の為だけに動き続ける。他の人はあなたと喜びを共有し、エネルギーを与え合いながらでないと出来ないのに、あなたが余りにもそれを他の人としないのであなたの周囲に集まった人は必ず離れていくのだ。あなたは普通の人と違うもので動いている。だから誰にも理解されない。」
私個人は 一緒にやろうとしてくれる人や力を貸してくれようとしている人に対して感謝を失ったことは一度もない。 けれどそれを人にまったく感じさせない存在になってしまうのだそうだ。何故なら私自身が感謝される事を一切必要としない歯車になっているから。
何かの使命で動いている時、私という個人は失われる。
そして周囲の人がショックを受けるほど冷たい人間に見えるのだそうだ。
使命を果たすことだけで全身染まっているので 使命に必要と思えない事はなかなか受け付けない。目の前の人が人間で、傷つく存在だということさえも、受け付けないのだろう。
それでいて、個人の自分はその使命を果たす苦しさに青色吐息だ。
普通の人が幸福の為に取り入れるバランス「ご褒美」を一切もらわないからだ。
まれに心を許す人が現れると、その苦しさを分かってもらいたいと願ってしまう。
個人の私が心を許した人から与えてもらいたいと願う言葉があるとすればただ「精一杯やってるんだね」「苦しいんだね」の一言だ。その一言があれば個人の私は救われる。
本当に申し訳ない事だけれど、私が心を許してしまった人のほとんどが、私に呆れ、疲れ、傷ついて去っていく。彼らは精一杯、言いたいことを我慢し、堪えてくれる。それが彼らの私に対する精一杯の優しさであり思いやりだからだ。しかしついに離れるその時、メッセージを残していく。
「何故そんなに愚痴をいうのか」「みんなはあなたがやりたいというのでそれに動かされて集まっているのだ」「今やっているのはあなたが好きでやっているのではないのか」「何故やりたいことの為に堪えられないのか」「やりたい事じゃないならやめればいいのじゃないか」
そう。ほとんどの人が、私のあまりの整合性の無さに、「理解不能」という反応を示す。
「やりたいのか、やりたくないのか」
「やるのか、やらないのかの決断が出来ていないのだ。お前は覚悟が出来ていないのだ」
と迫る声。
「使命」を帯びて生きることを知らない人々の言葉だと思う。
そのようなレベルの話ではないことは、語っても理解してはもらえない。
多くの人は使命につかまったりしないのだから無理もない。
大多数の人には個人の幸せを追及して生きられる自由がある。
使命に選ばれた人には、それはないのだから。
例えばマザーテレサが貧しく病の人々を世話し続けた事。
それを「彼女個人がやりたくてやる覚悟でやったので、彼女は素晴らしい人だ。普通の人間にはそんな大変な事は覚悟できないから」と多くの人は感じているのかも知れない。私はそうは思わない。彼女の口から語られる言葉は「使命」に動かされるべく、選ばれた人だという事を示していると私は思う。彼女個人の思いを遥かに超えたものの意志によって彼女は歯車になっている。
あえて言えば、歯車になっている人は歯車である事を受け入れる素質があるのみ、という事だ。
歯車になっている人に「その使命を果たそうとしている、という事はあなたはやりたくてやっているんでしょう?」と問うと、その人自身は個人として答えるべき言葉をすべて失う。ただ「そうです」としか言えなくなるのだ。それが歯車だ。その時、その人は個人としての自分の言葉を失い歯車としての答えしか話せないのだ。使命が個人の言葉を奪い、ただ「そうだ」と答えさせる。
私個人の特殊性はこうした使命の中に未だ同化していないという点だ。だからこんなにもはっきりと個人としての苦しみと、歯車としての無機質なものが、別々に交互に顔を出す。
これを間近で見た人が私を狂人と思うのは無理もない。
NPOはやりたいことなんですか?
と問われれば私は YESとしか答えられない。
やりたい事の為ならどんな犠牲も払えるはず
やりたい事を実現する為の努力なら喜んで出来るはず
なぜ自分のやりたい事なのにもっとしっかり出来ないのか
そう問われている。
たぶんそれは「私」という個のやりたい事ではないのだ。
人々の苦しみに触れ 私は動き出す。
その時「私」の個人的な好みや喜びというようなちっぽけな軸は私の中から消し飛んでいる。
「必要があるから動く」だけなのだ。
「救済を必要とする人々がいるから動く」だけの歯車になる。
私の個人的な喜びを満たす仕事なら 別にいくらでもあるのかも知れない。
個人的な喜びを満たそうとして何かをやっているとしたら 私はいくらでも努力し犠牲を覚悟し腹をくくっているのではないだろうか。
私は 自分の望みで動いていない。
「だからあなたは共に働く人に喜びというご褒美を与えないのだ」と坂本は言う。
自分が歯車なので他の人を歯車同様に扱うのだと。
坂本は私のことを同じ人間ではないという。
「普通の人は誰でも喜びというご褒美をもらいながらでなければ生きられないし動けない。それなのにあなたは無機的にただ目的の為だけに動き続ける。他の人はあなたと喜びを共有し、エネルギーを与え合いながらでないと出来ないのに、あなたが余りにもそれを他の人としないのであなたの周囲に集まった人は必ず離れていくのだ。あなたは普通の人と違うもので動いている。だから誰にも理解されない。」
私個人は 一緒にやろうとしてくれる人や力を貸してくれようとしている人に対して感謝を失ったことは一度もない。 けれどそれを人にまったく感じさせない存在になってしまうのだそうだ。何故なら私自身が感謝される事を一切必要としない歯車になっているから。
何かの使命で動いている時、私という個人は失われる。
そして周囲の人がショックを受けるほど冷たい人間に見えるのだそうだ。
使命を果たすことだけで全身染まっているので 使命に必要と思えない事はなかなか受け付けない。目の前の人が人間で、傷つく存在だということさえも、受け付けないのだろう。
それでいて、個人の自分はその使命を果たす苦しさに青色吐息だ。
普通の人が幸福の為に取り入れるバランス「ご褒美」を一切もらわないからだ。
まれに心を許す人が現れると、その苦しさを分かってもらいたいと願ってしまう。
個人の私が心を許した人から与えてもらいたいと願う言葉があるとすればただ「精一杯やってるんだね」「苦しいんだね」の一言だ。その一言があれば個人の私は救われる。
本当に申し訳ない事だけれど、私が心を許してしまった人のほとんどが、私に呆れ、疲れ、傷ついて去っていく。彼らは精一杯、言いたいことを我慢し、堪えてくれる。それが彼らの私に対する精一杯の優しさであり思いやりだからだ。しかしついに離れるその時、メッセージを残していく。
「何故そんなに愚痴をいうのか」「みんなはあなたがやりたいというのでそれに動かされて集まっているのだ」「今やっているのはあなたが好きでやっているのではないのか」「何故やりたいことの為に堪えられないのか」「やりたい事じゃないならやめればいいのじゃないか」
そう。ほとんどの人が、私のあまりの整合性の無さに、「理解不能」という反応を示す。
「やりたいのか、やりたくないのか」
「やるのか、やらないのかの決断が出来ていないのだ。お前は覚悟が出来ていないのだ」
と迫る声。
「使命」を帯びて生きることを知らない人々の言葉だと思う。
そのようなレベルの話ではないことは、語っても理解してはもらえない。
多くの人は使命につかまったりしないのだから無理もない。
大多数の人には個人の幸せを追及して生きられる自由がある。
使命に選ばれた人には、それはないのだから。
例えばマザーテレサが貧しく病の人々を世話し続けた事。
それを「彼女個人がやりたくてやる覚悟でやったので、彼女は素晴らしい人だ。普通の人間にはそんな大変な事は覚悟できないから」と多くの人は感じているのかも知れない。私はそうは思わない。彼女の口から語られる言葉は「使命」に動かされるべく、選ばれた人だという事を示していると私は思う。彼女個人の思いを遥かに超えたものの意志によって彼女は歯車になっている。
あえて言えば、歯車になっている人は歯車である事を受け入れる素質があるのみ、という事だ。
歯車になっている人に「その使命を果たそうとしている、という事はあなたはやりたくてやっているんでしょう?」と問うと、その人自身は個人として答えるべき言葉をすべて失う。ただ「そうです」としか言えなくなるのだ。それが歯車だ。その時、その人は個人としての自分の言葉を失い歯車としての答えしか話せないのだ。使命が個人の言葉を奪い、ただ「そうだ」と答えさせる。
私個人の特殊性はこうした使命の中に未だ同化していないという点だ。だからこんなにもはっきりと個人としての苦しみと、歯車としての無機質なものが、別々に交互に顔を出す。
これを間近で見た人が私を狂人と思うのは無理もない。
NPOはやりたいことなんですか?
と問われれば私は YESとしか答えられない。
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