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2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
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私の、「人から理解されないこと」について坂本と数時間
話していたのですが、
「たぶんあなたを理解出来る人はこの世に1人も居ないの
ではないか、と思う。それくらい根本から違っている。
同じ人類と思えない」
とまで言われて、ある意味開き直りました。

同じ人類と思えないって…(汗)

どんだけ私は変わっているのか!?
健常者にはとても理解されにくい、アスペルガーの人に
そこまで言われるって…。

なんかもう、誤解されて当然なんだなと、人から嫌われ
ることや、人を傷つけてしまうことを恐れても無駄なん
だな、と思い知りました。

そっか〜……。
やっぱり宇宙人なのかなあ…。

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ブログを日常的に書いて公開している人の事をブロガーというそうだ。
世間のブロガーと言われている人々は、ブログにどんな記事を書くか、
「ネタ」として考えているという。

読んでいる人が楽しく、明るい気分になるようにと意識して、内容を
選別して書いている人が多いと言うことに気付く。

特にタレントやタレント未満の、大多数に支持される人々のブログは、
明るく楽しく前向きな内容である事を求められているし、書き手であ
るブロガーもそう意識しているのだろう。

つまり…。
人の為に書いているということか。

そういう観点から見ると、私のブログはとても自分中心だと思う。
人に読んでもらいたくて書いているのではないし読んでいる人を喜ば
せようと思っていない。

見ている人のことを意識していない訳ではない。
文章は人が読んで分かるようにと工夫する事は忘れない。
けれどサービスで書いたりはしない。
ここで紡ぐ言葉は、可能な限り正直でありたいと思って書いている。

多くのブロガーは、人の為にブログを書いて、何をその引き換えに得
ているのだろうか。好感度かな。
芸能人ならそれは収入に多大なる影響があるだろうから、大事な仕事
なのだろう。華やかな仕事に見えて、一生懸命地味な事も頑張ってい
るのだなあと思う。人の為に文章を書き続けるのは、決して楽ではな
いだろう。

私は私自身を救う為にブログを書いている。
私の中にあるものを、アウトプット出来る場が、この世には余りにも
少ないので時々息が出来なくなるのだ。

だからと言って、汚物を垂れ流していいとも思っていない。
もしそれがネガティブなものなら愚痴や吐息の類いで止めておこうと
思っている。正直さはその分、損なわれるけれど。


実感として分かるのは、正直であるというのは、狂人であるというの
と紙一重だ。

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「やればできる!」「できないのはやらないからだ!」

…という声が聞こえてくる。
私はこの言葉が、とても嫌いだ。

この声が聞こえてくるのは、例えば、机の上を眺めていて、
散らかっているなあと気付いた時だ。
片づかないなあ…とため息をついているくらいならまだ調子の
いい方で、気分が落ち込む時には
「片づけをさぼっているのはお前がだらしないからだ」とか
「今、5分手を動かせばその分片づく」
という声が聞こえてくる。

この声のいいぶんは、いつも正論で正しい。
確かに、今、5分手を動かせば片づけられる。
「できないんじゃない。お前がやらないだけだ」と責める声。
そんな声が聞こえてくると、息が苦しくなる。
胃が締めつけられて吐き気がする。
眠れなくなる。死にたくなる。

最近、理事長としてちゃんとやれとプレッシャーがかかる事が
多くて、精神的な調子を崩すことが多くなっているからだろう
か、ちゃんとできない自分を責める声が大声で聞こえ始めてい
る。死にたくなることなど、ここ何年もなかったのに、最近は
理事の仕事で追い込まれるとよく死にたくなる。

私は、世間一般のちゃんとした人間であることを捨てたのだ。
だらしがないと言われていいと、覚悟したのだ。
なのにその生き方を否定される立場に居なければならないとい
うのは身を引き裂かれそうな苦しみを感じる。

「やればできる」
そうだろう。
だけど、できる事をなんでもやらないといけない訳じゃない。
出来るんだけど、やりたくない事だってある。今はやらないと
選択した上で手をつけない事もある。
やればできることを全部やらないといけないなら、私はすぐに
でも地雷の撤去や飢餓問題の為に海外にでも行かなければなら
ないし、舞鶴公園のホームレスにおにぎりを配らなければなら
ないだろう。

「出来ないのはやらないからだ」
そうかもしれない。
「やらないでいる」という事を選択しているのはいけない事だ
ろうか。目標値を達成できないのは、それを達成する動機が実
行する本人にない場合や、達成にいたるプロセスに実行者が同
意していない場合もあるのではないか。
または、本当に苦手で、助けを必要としている事もあるのでは
ないだろうか。
司法試験に受からないのは、勉強が足りないからだと断じる事
ができるだろうか。どんなに勉強しても、上位数%の合格圏に
入るだけの知的才能がない、というケースは一つもないのだろ
うか。

「やればできる」という言葉は、本来
「もしあなたが本当にやりたいなら、一生懸命やればきっと
できるよ」
という暖かい勇気づけの励ましの言葉だろう。

誰かがうまく、人を誘導し支配する為に、本来の意味とは違
う形でその言葉を使い始めたのだ。

言葉とは常にそういう側面がある。
優れたプレーズであるが故に、本来の意味とはまったく違う
意図で「利用」された言葉たちがたくさんある。
利用された言葉に翻弄され、苦しみもがく人を、大勢知って
いる。私はその人々と共にあり、その苦しみを救済する為に
全力で働いている。

私は、そのように利用された誤った言葉を正し、本当の精神
的自律と自由を獲得する為の活動に今生を捧げている人間だ。
その私が、「やるべきこと」を国や法律から縛られて生きる
のは無理なのではないか。

「責めることを徹底的に放棄する」という修業は何も外側に
目を向けずとも、自分自身の中にいくらでも材料があり、修
業の機会は事欠かない。

自分を責めることをやめ、人を責めることをやめると、おそ
らく誰でも一旦は、非常に無責任でだらしない人間になるだ
ろう。今の私の大部分はここのレベルだ。
責めないでいて、かつやるべきことを淡々と行えるようなレ
ベルに到達するまで、修業する時間が必要だろうと思う。
私はその段階を行きつ戻りつしている。理事長としての責務
は私に次のレベルに進むよう強力に促している。
これが自分の自然な速度にマッチしていないので非常に苦し
んでいる。

NPOに関わっている人や社会から、理事長として出来ていな
い部分を常に責めさいなまれていると感じてしまう。

いっそ団体など捨てるべきか。
世捨て人になるべきなのかもしれないと思う。
または僧になるべきなのかも。

堪えよ、時を待て、と涼やかな声がする。

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娘が阿蘇で金魚すくいをして連れて帰ってきた金魚の為に水槽を
用意しました。

金魚たちは阿蘇から福岡までの長旅に耐えられなかったのか、残
念ながら次々死んでしまい、最後の一匹だけがすごく元気。

私は家庭内に迎えた生き物が死んでしまうとそれが例え虫でも
結構悲しくて堪える方なので、夜店ですくった金魚のように死に
やすいものは出来れば迎えたくないのだけれど、娘がどうしても
というので連れて帰ったのですが、本当に残念、可哀相。

最後に残った一匹では水槽が広過ぎて、何だか寂しそうなので、
ホームセンターでメダカを買ってきました。

するとこのメダカたちがぞくぞくと水草に卵を産み付けます。
ネットで調べると、メダカは生まれた稚魚を食べてしまうそう
なので、慌てて別の水槽を用意し、卵たちを移した、その日。
しばらくして卵用の水槽をみると、ほとんどゴミにしか見えな
いほど小さな小さな、お魚が誕生していました。

なんだか、とっても嬉しくて嬉しくて、幸せな気分。
今、メダカの幼稚園水槽では20匹くらいの稚魚がビルビルと
元気いっぱいに泳いでいます。
その上、まだ卵の状態で誕生を今か今かと待っているようなの
がさらに20個以上。
透明な丸いつぶの中に、黒くて小さな目が二つ、くるくると
世界を見つめています。

小さな水槽の中の世界に吸い寄せられるような、メダカの幼稚園。
のぞき込んでいると時間を忘れます。

金魚の水槽には、また別の金魚すくいですくった金魚が加わっ
てだいぶにぎやかに。

家族が増えて、水変えやえさやりなどのお世話も大変ですが、
幸せな忙しさです。

私はつくづく、命のあるもののお世話が好きなんだなあ。

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娘の夏休みが終わった。

もともと、私に夏休みがある訳じゃないのだから娘の夏休みが終わった
って自分の生活にさほど違いはないはずなのに、何故かどっとプレッシ
ャーを感じる。

ああ、夏が終わる。
生涯一度だけの、この夏が。

明日からまた 月火水木金土日、毎日毎日あくせく働くだけの日々が、
だなんて嘆き節が始まりそうな気分。

8月中だって、ずっと同じだったのにね。
なんだろう、このプレッシャーは。

働きたくないのだろうか、と自分に聞いてみる。
そう、のんびりしたい。
いろいろ家の中の事で、手を入れたい事がたくさんあって、家事もや
りたいことの一つだから、けっして働きたくない訳じゃないんだけれど。
でものんびりしたい。
何かに追われるように、叱られないようにと必死になっている毎日から
脱出したい。

誰にも酷いことを言われず静かでいられたらそれだけで幸せなのだ。
どんなに貧乏でもいい。
誰にも心の中を荒されずに、小さな手の中の幸せを暖められたらそれだ
けで幸せ。
私の幸せは小さいからだろうか、人のほんのかすかな侵入で壊れてしま
う。貧しさの崖っぷちで、ぎりぎりバランスを取っているからだろうか、
ほんのわずかな失金でぐらりと危うくなる。

だけどがんばろう。
娘はこんなにいい子で、元気に育っている。
学校に行くことを楽しみに眠っている。

頑張ろう。
夏は終わる。
命の夏が終わる。
来年の夏を無事に迎えられますように。

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お盆休みで実家の両親の家に行った。
3泊したのだけれど 本当に実家という場所は気付きの宝庫である。

母の傍若無人な言葉や態度に ガラスの破片が突き刺さるような痛みを感じ心が凍りつくような感覚で感情が止まってしまう。
父と母の関係はまさにゲームの日々で 支配者と被支配者の役割を交代しながら、縛り縛られている苦しみにお互いを攻撃し合っている。

人は自分で自分の人生を変える事が出来るはずだけれど 人生のからくりに気付かない内はまるでそれ以外の方法はないとでも言うかのように同じ傷つけ合いを続けていく。
両親は私の年と同じ年月を共に過ごしてきたのに、いまだに同じゲームを続けている。40年以上も支配者のゲームを続けてきて、頭がおかしくならない方が不思議だと思う。

久しぶりに来た私たちの為にすき焼きをするという。
これがゲームの舞台装置の一つだという事はすぐに分かる。
今夜の食卓は悲しいゲームの舞台になるのだ。

すき焼きを作りながら母はさっそく投げやりな口調で「さあどうぞ。食べてちょうだい」と私たちに勧める。母の言葉に逆らうことは、直ちに激怒かその場の崩壊を意味する。私たちは母の不機嫌を見て見ぬふりをしながら大人しくすき焼きに箸を伸ばす。
「肉から食べるといいよ」と母。これは命令である。肉から食べないとさらに母は不機嫌になる。だから私たちは言われた通りに肉をつまむ。
母はすき焼きの鍋に白菜を投入しながら父に「白菜、買ってきたんだね」とジャブを繰り出す。買い物には父が行ったようだ。父が「ああ」とうなづくと「買い物リストに白菜は書いてなかったでしょうが。キャベツをいれようと思っていたのに」と母。要するに、余計なことをしたとなじっているのだ。「よう気がつきますね、おたくは。金も使って。」と父に強烈な嫌みを見舞う母。「はいどうもすみません」と父は苦々しげに謝る。母の前に苦虫をかみつぶしたような顔をしながらもひれ伏し服従の姿勢を見せる父は、この母の仕打ちに確実に恨みをつのらせている。だから毎日酒を飲み、タバコを吸う行為で母に思い知らせようとする。「俺がこんな風にダメな人間になっていくのはお前の仕打ちのせいだ」と。

こういう雰囲気の中、残りの家族(この日は私と夫と娘)はせっかくのご馳走も台なしで、とにかく機械的に口に運びつづけるしかない。私などは繊細過ぎて、不機嫌な母が同席するだけで食事の味がまったく分からないという事がしばしばだ。
やがて母が職場での愚痴を口にする。父はここぞとばかりにアドバイスの嵐で母に講釈を垂れる。さっきの仕返しという訳ではないが、今度は父が支配者になろうとしている訳である。母は、そんなアドバイス通りに振る舞う事なんて現実には出来ないのだと必死に抗弁している。父はそれでも母にアドバイスを続けるのでまるで議論のようになる。父の言っている提案は、母を助けてやろうという意志に溢れているのだが、母からすれば職場でのやるせなさを受容してもらえず、悲しみが募る。母は自分を理解してもらえないと感じるとすぐに自分が攻撃されているのだと勘違いをする癖がある。母は「もういい。もうあんたには話さない」と悔しげに口を閉ざした。父は「なんでわからないんだ、あんたのために言ってるのに」と憮然とする。

こうして父と母は、支配者と被支配者の役割を交代しあいながら、延々と40年以上支配者のゲームを繰り返しているのだ。

母は「うんざりだ」と言わんばかりに食事をかき込むようにして自分の食器を重ね、撤退の雰囲気だ。こういう時、母は周囲の人のほうがよほど「うんざり」と訴えたいほどの被害の中にいる事をまったく忘れているようで、自分だけが被害者だという態度をする。それがまた、周囲の怒りを買ってしまう。哀れでもあり、愚かしくもある母の器の小ささ。母は救済を必要としている。何故なら母には、本当にどう振る舞えばよいのかわからないのだ。

自分の食器を手に立ち上がろうとした母が、突然「痛いっ」と小さく声を上げた。床板の一部が傷んでいて、指に木のとげが刺さったのだ。
夫が「天罰」とつぶやく。私が慌てて「しっ、やめて」と制する。
幸いというべきか、母には聞こえなかった。私たちは残りのご飯をかき込んで、早々に食卓を退散する。自分たちにあてがわれた部屋にこもり、ため息を連発する。

あれほど穏やかな夫が、母の態度、言動には腹に据えかねている。
夫は私の実家に行くことに耐えてくれているが、本当は私と同じで、実家はまったく安らぐことのない場所だ。夫は、人の意地悪や嫌み、ひがみ、などの態度を心から憎んでいる。人は人間として、そのような態度を厳に慎むべきだと魂に刻んで生きている人だ。

私は、夫を連れて実家に行くことも申し訳ないと思う。しかし、そうしなければ夫の実家での立場が悪くなり、母や父の嫌みのターゲットにされるだろう。そうなったらもっと彼が可哀相だと思い、機会には彼を伴っていく。

とにかく実家では気を使わない瞬間が存在しない。
寝ていても起きていても、母の機嫌、父の動向にセンサーを働かせなければならない。

私の伸び伸びとした本質は、この実家ではまったく表に出てくることが出来ない。
冷たい氷のおりの中に閉じこめられずたずたに傷ついて泣いている。母の口から発せられる不機嫌で無遠慮な言葉が、切れ味の鋭いガラスの破片となって全身に突き刺さっていて血を流し、ただただ泣いている。
私はその自分と、そのような振る舞いしか出来ない不幸な母の両方に、トンレンの瞑想を続ける。

以前とは私も もう違う。
もう両親がケンカしないようにと笑い顔を作らないし面白い事を言わない。
静かに状況を眺め 凍りついた心に気付きながらも それと共にいようとし静かに呼吸しながら暖めようと祈り続けている。どうやって共にいるか。それを祈り続ける。

私はゲームからは降りた。
けれど両親のゲームは続く。
何故彼らの業はこのように深いのかと哀れに思う。
本来 心優しく純粋な人々なのに。
そして私は 何故この両親から生まれたのかと心底考える。

実家は気付きの宝庫だ。
私は母の為に父の為に 早く本を書いて出版しなければならない。

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去年 すいかの苗を買ってきて張りきって栽培したら
出来たのはヒョウタンだったというガッカリ体験。

今年、そのリベンジにとスイカの苗を再度買ってきて育てたのだが
玉があまり大きくならない上に 収穫予定日までまだあと2週間も
あるという早い時期に 自然と割れてしまった。

割れたスイカを収穫して、切ってみると ものすごくフレッシュな
スイカの香り。中も少し赤い。娘が食べてみるというので、半分に
切ったスイカをお皿にのせて出してあげると、スプーンですくって
食べ始めた。

「けっこう甘いよ、ママ」
「どれどれ」

おお、確かに売り物レベルの甘さはないけれど、充分スイカの味が
するじゃないか。娘は、とても丁寧に皮ギリギリまで実をほじくっ
て、全部食べた。
「種が多いなあ」と文句をいいながらも、ちゃんと種を出しながら
きれいに食べていく娘。

買ってきたスイカだとこんなにきれいに食べないのに、自分で何ヶ
月も世話をしたスイカだと、大切に大切に食べた。

子供って、本当に面白いくらい自分が関わった食物は食べてくれる。
食育ってこういう事だなあと思う。

よし、来年こそ、もっと上手にスイカを育てるぞ!
と二人で決意した。

ベランダ菜園をしていてつくづく思うのは、この時間のサイクルの
大らかさ。
今年うまく行かなかったね、よし、来年の夏こそ!
そんな長いスパンで考える事が、実生活の中に他にあるだろうか。

自然の気温や天気、季節、そして植物という相手だから、今日失敗
した作物を明日やり直そうという訳には行かない。どうしたって、
今年ダメなら来年さ、というスパンになる。

現代人は、この大きな時間の流れを、取り戻す必要があるのではな
いだろうか。
今仕事で失敗したら明日取り戻さなくちゃいけない、そんな毎日を
送っていると 自分の人生が細切れになってしまわないだろうか。

自分自身だって植物と同じように 長い長いサイクルの中でゆっく
りと成長しているのに現代社会は成長さえも分刻みで要求してくる。

今日出来ない事は 来年出来るようになればいいのさ。
そのくらいのスパンで 再挑戦を考えられたら。

ああ、自分は80年の寿命の木なんだな。
突然若木が大木になったりはしない。
大木になるにはそれなりに 年月が必要だ。
今年茂らせた枝が折れてしまったなら 来年実を付けるのは別の枝
になるだろう。同じくらい茂らせるには数年かかるかも知れない。
それが私。それが現実。

土に触れ 自然と一緒に過ごすと そんな当たり前の事を思い出す。

ああ、早く 土のある場所に移りたいなあ。
土と 風と 水。
それがあれば また成長出来る。

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熱が下がって 体のつらさはずいぶん楽になった。
娘が熊本に一人で出かけていき、夏休みを満喫しているので
時間さえ確保出来れば体を休められる体制になった。

そう思って早く万全に状態に戻そうと隙があれば休もうとしているのだけど、スケジュールを勘違いして別の曜日を頭に入れてしまい午前中オフのつもりで寝てたら カウンセリングが入ってた!!

やってしまったーーー!!
数年に1回くらいこういう事をやってしまう。

結局、予定の20分遅れでカウンセリングを開始。
クライエントさんをお待たせして本当に申し訳ない。
平謝りでお許し頂いた。

うっかり寝坊したんじゃなくて、朝寝をするつもりで予定通り寝ていたんだけど、その予定が勘違いに基づく間違った予定だった訳だ。
本当に、気をつけなくちゃ。特に体調が悪いとスケジュールも勘違いしやすい。

処で、講師としての自分と経営者としての自分で分裂しそうだというような事を書いてしまって、心配している方もいらっしゃるかも知れないと思う。
その瞬間ごとに違うものの、そういう難しさも日々、ゆっくりと調整は進んでいる。
今の私の本体は、ほとんど講師としての私なので その私が生きやすいように調整は進んでいる。

現実は難しくて複雑で、決して今の私らしくはない事も要求してくるけれどそのすべてを拒否するのではなく、どうやってそれと共にいるか、どうやってそれを行うのかを考えて行きたい。

争うのをやめて 共存できるように。出来るだけ痛みがないように。
早く経営から手を引く事が出来るように、今は私がやるしかない事をやろうと思う。

「他に優先順位の高い事があるのでは」と本を書いていることを優しくたしなめられたりしている。やる事は満載だ。優先順位をつけなければ止まってしまうものもある。そういう事を注意してくれる人が側にいることは幸運な事だ。

本を書く時間は作家としての私の時間。
これも死んでしまわないように時々順番を与えてあげないと可哀相。

ああ 誰かと時間の制約無く ゆっくり話がしたいなあ…。
話をする相手に不足しているのは カウンセラーだって例外ではないということ。

だから この夏に自分語りの為のグループワークを始める。
とにかく自分の事を語る為の場。
6年以上前からずっと暖めてきたグループワーク。

「自分語り・未来へ・語り紡ぎの輪」

自分を語る必要のあるすべての人に来てもらいたい。
未来へ向かって歩き始めるために。

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ちょっと、夏らしく?テンプレートを変えてみました。

レイアウトによって同じ文章でも印象が全然ちがうものですね。
売られている本も、表紙や、書体やレイアウトや紙の質で、内容が違って感じられるものなのかも知れません。

そうそう。
本を書き始めています。
無事に最後までまとめ上げられるかなあ。

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実は今月の16日あたりから娘が高熱を出し、すわ新型インフルが我が家に上陸か!?と身構えたのですが、全然大丈夫でただの扁桃腺炎でした。それでもやっぱり高熱の子供というのは手がかかる。吐くし下痢するしで、看病しなければならないし、お布団も下着も汚してしまうので、なにくれと手間が増えます。
そんな時に遠方へ出張講座があって、両親ともがいなくなるというのは、本当に子供を犠牲にしている気がして辛い気持ちになります。
いつもは「いってらっしゃい」と言ってくれる娘が、目に涙を一杯溜めて、「ママ行かないで」と言うからには、相当体調が悪くて苦しいのと、不安でしかたないのだとわかります。それでも行かねばならないというのは本当に、辛い。「出来るだけ急いで帰ってくる」と言い残して、泣く泣く出発します。

そんな結構大変な1週間、娘がようやくご飯を食べられるようになって元気になったと思ったら今度は私が発熱!同じく扁桃腺炎です。症状がまったく同じで、吐き気もあって食事が進みません。
熱がついに39度を突破しているというのに、そんな時にまたまた丁度推し量ったかのように夜の大野城、翌日朝の鳥栖、同じ日の夜中央と立て続けに講座が。

その上娘の病気と自分の病気を抱えてのこの2週間に、会報の制作作業があって自分の担当記事を書くだけでは済まず、他の人の原稿チェックや提出が遅れているものの調整、修正、編集作業をする人との連絡調整などあり…正直胃が痛くて夜も眠れないほど忙しい日々でした。
自分に出来る限界を超えている、というのは分かっているんですが、やろうとしてしまう。

重なる時には重なるものです。

9度台の熱になるとある意味、「自分は病人だ」という開き直りが出来てきて、いろんな事が理想どうりに行かないことにも諦めがつきます。いつもなら「頑張ればなんとかできるかも…」とさらに頑張ってしまうところが「いやー、無理っすねー(Daigo風)」という感じ。

病気にならないとこうできないというのは、ココロが病気なのだろうか…とも思う今日この頃。
使命感、というのもココロのアンバランスかもしれませんね。

病気になってどこか「やっと休める?」とほっとしている自分が居ます。
こんなことしてると、「休みたくなると病気になる」という仕組みが出来てしまいそうで、入院するほどの重病を引き込みそうです。そんなんじゃ、ダメだね。それはなんだか、とても格好悪い。
法王様のように、どんな重責を背負っても健康で、笑顔で、いられるように。
自分に正直である事が大事だと、思います。

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