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2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
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1年ほど前から胸の中に届いていたメッセージ。

土に触れろ 土に還れ
命はすべて土へ帰る


たぶん そのメッセージに従って ベランダ菜園を始めた。

今年もベランダにいろんなものを植えて 時間を忘れて世話に
明け暮れる。出かける直前のほんの5分でも ベランダに出て
植物の世話をしていると 出かける予定も自分の仕事も
時間に追われていた事も あっという間に忘れてしまって
ただただ 緑の命と触れ合っていることに没頭する。

緑の営みに触れることは 直接 地球に触れること。
地球に触れることは 直接 宇宙に触れること。


そんな気がする。
そしてここ数ヶ月 土へ帰れというメッセージは
いよいよ強くなってだんだんに陣痛が強くなるような
うねりとなって私に迫る。

私は 土のある場所に暮らすべきではないか?
という 思いつきのようなはかないアイデアから
どうしても どうしても 大地に直接触れる場所で暮らさ
なければならない というような 強い意志のように変化
してきている。

緑を育てられるような田舎に とにかく居場所を見つけよ
うと思っている。
どんなに古びた家でもいいから 小さな家でいいから と
土のすぐ側に暮らすことへの強い思いが
波のように繰り返し繰り返し 私の中に押し寄せている。

そこを見つけて とにかくこの命令に近いメッセージに従
うと たぶん 私の中の何かがより強く活性化される。

そしてそれは 私の使命をよりクリアにし
私の今生の命として もっとも正しく もっとも美しい形に
導くのだ という 奇妙な確信がある。

きっと間も無く 私を呼んでいる土地に
私のために 備えられた土地に 出会うだろう。

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今朝 とってもいいアイデアが浮かんでいて
「あー、これは絶対に書き残しておこう」と思っていたのに
娘のお弁当、三つ編み、持ち物の用意とバタバタして、
間髪入れず自分の講座に出かける準備にバタバタして

講座が終わってお昼に帰ってきたらすっかりどこかに行っちゃった…。
くすん…。

結構、「数年に一度」級AHA!! なアイデアだったのになーーーー。

んーーー。消えたんじゃなくて頭のどこかには入ってるはず…。
落ち着いてのんびり、また出てくるのを待っていようっと。


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2009年5月25日。
この日、娘は生まれてから8年と5ヶ月と3日。

中途半端に見えるこの日が、娘の一つの記念日になった。

早起きした娘が、身支度を終えて、学校に行く準備も終わっているというのに、徹夜明けのパパは起きることが出来ない。いつもパパにバス停まで送っていってもらう娘は、「パパー早くうー」と一生懸命パパを起こす。

時計を見るとまだ7時。
いつもより20分以上、早く支度を終えている。
私は娘に「ねえ、パパが今起きてくれても、多分すぐに動けないからいつも通りの時間になってしまうと思うよ」と話した。
娘は「ええーーーせっかく早起きしたのにーー」とむくれる。
「パパは寝てないから起きられなくて辛いんだよ。ねえ、今すぐバス停に歩いていけば、朝一番のバスに乗れると思うよ。自分で行って見たらどうかなあ」
娘はしばらく考えて、「ママが送ってよー」と言う。
「ママが行くとしても、支度に5分は待ってもらうよ。着替えないとお外に出られないから。でもその間に、自分で行けばもうずーっと先まで行けるよ」
また娘は考えている。
「ママに電話で話ながら行ってもいいよ。ずっとバス停まで電話してていいけど」
すると「うんわかった。じゃあ一人で行くね」


ついに来た。この日が。

娘が一人で学校に通うようになる日。社会の中に、自分一人で出て行く日。

生まれて8年と5ヶ月と3日。

玄関を出て行く娘。記念撮影でもしたいほど、娘が誇らしく思えた。
あんなにちっちゃかった赤ちゃん。
甘えん坊で絶対一人で行動したがらない子。
その子が、初めて一人で学校へと、社会へと自分一人で歩んでいく。

小さな小さな事なんだけど、私にはすごく感動的な事だったんだ。


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自分の中の 善良な部分や美しい部分をこうして
外側にアウトプットすると 出てくるとってもイヤーな存在。

すごく意地悪な目をしていて 私を馬鹿にしている。
わずかでもスキを見つけると 私をけなしたり
嘲り笑ったりする。
これが私の心の中に現れる。
自分の善い部分を小馬鹿にして いじめる。
善い部分が悲しんだり 恥ずかしくなってうつむいたり
落ち込んでしぼんだりすることを 喜ぶ。

これが出てくると 世の中が少し怖くなる。
これと同じようにする人がいるんじゃないかと。
私に意地悪な目を向けて 根拠のない批判や その人自身の
コンプレックスのはけ口にする人がいる気がしてくる。
ブログで正直な自分を公開している事も怖くなってくる。

でもだからこそ 「祈る」という具体的行動を続ける。
私が無防備でいられるように。
傷つけられることを 恐れてもなお
まっすぐに 風の中 立ち続けられるように


意地悪で卑屈で嘲り笑う私。
これはコインの裏表なのかも知れない。
だから無くならないのかもしれない。
意地悪な自分を オジャマムシだと言うのをやめる。
意地悪な私は 暗やみで光る目を持っていて
いつも私をにらんでいる。

それでもいい。
私は 傷ついても 顔を上げる。
向かい風でも 歩き続ける。
うつむかないで。
祈りながら。祈りながら。

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どうかお願いです

私の命が虚しく終わらない為に
私の持てる力のすべてを世の中の役に立てることが
出来るようどうかお導きをお与えください

ちっぽけな命で
短い生涯ですけれど
それでもこの世界がほんの少しだけでも
良くなることにお仕え出来たと思えたなら
私はこれまでの苦しかった全てが報われると思えるでしょう

私の目の前に
苦しんでいたり 困っている人が
次々に現れます
仕事で出会うだけでなく
私はメディアを通じてもそれらの人々の存在に気付いて
忘れることができません
だからこれは私の魂が自分で望んで 願う事です
私のこの今生は彼らと共にあります

苦しむ人が 悲しむ人が 心に傷を負った人が
ほんの少しでも 楽になりますように
ほんの少しでも 喜びますように
ほんの少しでも 暖かくなりますように

私は諦めません
そして祈り続けます
この世界が ほんの少しだけでも
より清浄な 美しい場所になりますように
目の前の 我が子に
決してひどいことを言わない私でありますように
夫と エゴによる醜い争いを
一度でもしないで済みますように
過ちを犯したり
仮に意図せずにでも人を傷つけた時に
心の底から身を投げ出し
裸になって詫びることが出来る私に
なれますように

私を愛してくれる人に対して
無防備で居られますように
私が愛する人が 私をどんなに深く傷つけても
完全に許すことができますように

私の努力のすべてが
世界の片隅の平和につながりますように
世界の片隅から 世界全体へ
平和が広がっていきますように

どんなに傷ついていても
血を流したままでも
無防備でいられるように
私に強さを与えてください

=========
これを書いていると
すーーーーっと胸の中に
透明な深いブルーの光が 水のように流れ込んで
体の内側から 静かに なっていくのを感じました
不思議な感じ…だけどなんだかよく知ってるような…

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あるスピリチュアルのベストセラーをちらっと立ち読みしたら
こんな事が書いてあった。
「私がスピリチュアルな本を書いて出版したとたんに私は人間
 関係の全てを失いました。家族や近しい友人から不興を買って
 彼らは私に怒り、不信の目を向け、または気の毒そうな顔をし
 または目をそらして無視してことごとく去っていきました」

そしてそれに反比例して 読者から支持される。
(もちろん書いてある事が素晴らしければ)

その内容がどんなに不安を抱えて苦しんでいる人に対して
有効なことだとしてもスピリチュアルなメッセージというのは
どこかしら正体不明な部分があるものだ。
上からの視点だったり、肉体から遊離したような視点だったり。

それでいて筆者は人間として存在しているのだから、
結局そのメッセージを受け取る準備の出来ていない人にとっては
「何様のつもりか」という生身の筆者への反発になるのだろう。
身内ならなおのこと。お前のことなどはな垂れの頃から知っている
という訳で、そんなただの人間が何を偉そうに世間様に向かって
メッセージしているのか、という批判になる。

スピリチュアル系の人々が口にするのは
個としての存在を越えた普遍的な価値に関することが多くなる。
だからどうしても勢い、その人が生身の生活でどうであるかは差し
置いて 人類としてのあるべき姿 や 地球という星の進むべき未来
などといった壮大なテーマを語る事になる。

そして多くの場合
スピリチュアル系の人たちはイタコと同じで客観性を捨ててしま
っているので 普通の人が見るとどうにも怪しげで仕方ないのだ。
何の根拠も示さずに ただ「こうなる」「こう決まっている」と
決定事項のような言葉を使ってしまう。
客観性に欠く。これがスピ系の人の弱点だ。
いつもこの点に気をつけていないと、私も怪しげな人の仲間入りに
なってしまうと自戒している。

別にスピリチュアルな本なんか 全然書きたいとは思っていないけど
もしも身内からも 今親しい人からも総スカンを食らうとは恐ろしい
事だなあと思う。
私が本を書いたらやっぱりどこか、そういうメッセージ性のある言葉
を使ってしまいそうだからだ。

といいながらも すでに似たような状況かもしれないと思う。
私の親は私がカウンセラーや講演講師をしていることにはあまり
好意的でないように感じる。
どこか「ふーん、偉そうにね」という白けた視線を送られているよう
な。親戚の集まる場でNPOの活動について説明した時にも「いいこと
してるね」というような暖かい励ましはなく むしろ冷めた視線を親
戚一同におくられて無関心を装われたような気がする。

大体 社会的な活動や奉仕活動をする人は熱心であるほど必ず
「偽善者」と言われたりいわれのない酷い言葉で罵られたりする。
これはお決まりの試練なのだろうと思う。

私も先日 弟の処に行った時に生活が困窮している事をちらっと話す
と「偽善をしてるからだ」と言われてひどく落ち込んだ。
弟は私を貶めようとしてそう言ったのではないけれど 理解してくれ
ていないし応援してくれていないのだなあと改めて思い知らされたよ
うな悲しさがあった。 

頑張っているんだよ。
偽善じゃなく 今は辛抱しなければいけない時期だから頑張っているんだよ。
これは社会が必要としている事なんだよ。誰かがやらなければならないんだ。

そう言って 理解してもらいたい気持ちを ぐっと飲み込んだ。

自分のしている事を弟に理解させようというのは私のエゴだ。
弟が分かってくれなくとも 私は私が信じている正しい道を進めばいい。
答えはすべて 1番最後に分かる。
私が死ぬ時に私の人生が何を成したのかが分かるだろう。

悲しさを抱きしめて
それでも信じる事を一つづつやっていこう。

偉そうにと言われるとしたら それもまた 自分の未熟が招いている事なの
だろうと思う。私に何かが足りなかったのだろうと思う。
確かに ダライラマ法王はまったく微塵も偉そうではないから。

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今日は 本来ならお休みと決めている月曜日なのだが
決めなければならない 事業のことが山積みになっているので
ブレインストーミング(略してブレスト)の為に時間を確保した。

ゲームソフトを開発している頃から
たくさんのブレストの習慣が私の仕事の質を支えてきた。

新しいアイデアをとにかくたくさん出し合って
ぶつけ合って磨き合い 多角的に精査され
その修練の中で勝ち残ったものだけが
この世に生み出される。

とても楽しい時間であり 苦しい産みの道のりでもある。

思えば もうかれこれ18年ほどの間
私のブレストの場には欠かさず坂本が居た。
一見 物腰柔らかい彼が 実は恐ろしいほど
切れのある冷めた視点を持つことを知っている人は
この世にほとんど居ない。
(その特殊な視点こそがアスペルガー故の最大の才能である)

感性先行で進んでいく私のアイデアを
冷静に分析し感情をかけらも含まず超客観的に
吟味する彼の視点には 私はいつもボロボロに傷ついてきた。
冷酷なまでの追及と情け容赦ない弱点の指摘には
何度も仕事を投げ出しそうになったものだ。

けれど 私は彼の指摘は限りなく有用だと知っている。
彼の痛い指摘を乗り越えられた時 非常に優れたものが世に生まれる。

今日もブレストの相手は坂本だった。
私たちは共に この世にまだ存在していない新しい何かを
作り出すことに従事してきた同志、戦友だ。

私は彼とのブレストのコツの習熟度を上げてきた。
傷ついてやる気を失ったりすることは一時的に今もあるけれど
今日 産み出したものは すごいものではないかと感じる。

少し熱が冷めるのを待って もう一度今日の成果を見つめ直す。
その時にやはり素晴らしいと思えたら それは本物だ。
現実に向けて本格的に始動させるべきものである。

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人前に出てきて
なんかいろいろ生き方の工夫とか
感じ方が変わる方法とか話している人が

並外れて美人で
美しい声で
スタイル抜群で
輝く真っ白な美しい歯並びで
この人にしか着こなせないような素敵な服で
絶品の語り上手で
大金持ちで
機敏で気が利き
何でも完ぺきにこなして細やかで
もちろん自分って最高の存在だと
自信をもっているような人だったら

…憧れるけど 自分には無理かなあ…
と思うかもしれない?

じゃあ、私がこの役割を与えられているのは

美人じゃなくても
声がきれいじゃなくても
巨体でも
歯並び悪くても
微妙なセンスの格好でも
たどたどしく時にカミカミのしゃべりでも
ド貧乏でも
どんくさくても
忘れん坊で間抜けでも
大ざっぱで
しかもいじけ癖があっても

こんな人でさえねえ、
こーんなに 幸せだよって思えるもんだよ


というモデルになれよって事なのかもしれない。

おおー…。
この方が 結構多くの人が救われそうな気がしたりして。ね。

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自分を卑下する癖も治り
傷ついても いじけてしまっても時間が経てば
ちゃんと自己肯定できるようになって

自分はそれなり(等身大)に 価値があるんだなあと
堂々と言えるようにはなったのだけれども

人の前に立って 人にまじまじと見られて
自分のやり方や生き方を 一つのモデルとして
示すという役割を果たそうという時に
「私なんかでいいんでしょうか?」
という複雑な気持ちはなくなったりしない。

並外れて美人じゃないし
声がきれいというわけじゃないし
太ってるし
歯並びきれいじゃないし
似合う服がなにかイマイチわかってないし
特別にしゃべりが上手というわけでもないし
すっごく貧乏だし
結構どんくさいし
間抜けなほど忘れ物もするし
書類がすぐ無くなっちゃうし
割と大ざっぱだし
結構いじけやすいし

それなのに こんな私が人前に出て
自分の生き方ややり方を人に伝えたりしてもいいんだろうか?

こんな私に
どうして人に何かを示す役割、人に何かを伝えるという
重くて大切な役割が与えられているんだろうか?と
本当に不思議に思う。

けれども 役割は役割として どうしても与えられてしまっている。
そこは自分の意志とは別なので お役目として受け入れる他ない。

だから 私は役割をきちんと果たす為には
自分で思う自分のダメダメな部分さえも
人前にさらしていく覚悟を付ける必要があった。

最初はそれが本当に嫌だったし
人から攻撃されるんじゃないか、後ろ指さされるんじゃないか
と怖くて 自分の弱点や欠点やコンプレックスは隠したいと思う
自分と戦っていた。
隠したいと思っていながら それでもあえて晒すというやり方で
自分を叩き上げていた。

でも何年もこうして講師として ファシリテーターとして仕事し
ていく中で 気付きは深まり 自分で自分を認めたり許したりす
る能力も育まれていった。
出会った人々からもたくさん学んだし 与えられもした。

私は私のダメダメな部分を認めたし 許した。
だからもう 今は人からそれを指摘されても 静かに
「おっしゃる通りですね」と言えるような気がする。
形だけ演じるのでも、自己防衛しながらでもなく
受け入れながら静かであろうという準備が出来た気がする。

いや、少なくともそうであろうという覚悟は出来ている。

今から1年8ヶ月前、このブログを始めた頃 
「自分の全てを公開する」というとんでもなく
勇気のいるテーマに取り組み始めた。
作られた「先生」像ではなくて 私という人間の全体と
その中にある小さなパーツ一つ一つのすべてを
書き表していく作業に 挑戦してみようと思った。

他者からの称賛や感謝を 謙遜で拒絶したりしないで
素直に受けとることも 私に課せられた課題の一つだった。

私の知る 成熟した人格者 は皆
無防備と防御を完全に自分の意志で使い分けることが出来る。
完全な無防備でありながら 確固とした自分の意志を失わない。
それは 自分を守ることが不必要なほど 自己への信頼が深い
という事だろうし 個としての自分を越えた何らかの確信を
得ているのだということだ。

私など到底その域ではないけれど
それでも 先達に従い同じ道を進む覚悟だ。

あくまでも等身大の そのままを正直に示して
批判も非難も 甘んじて受け入れ
この今生をまっとうしたいと思う。

それが私の課題・修業そのものだと思う。


 世に光あれ。
 人に平安あれ。
 全ての生き物が幸福であるように。
 本質へと回帰せよ。
 魂の故郷へと還れ。
 光はものの下に置いてはいけない。
 光は照らすべく高き場所にあれ。
 一時の失望を恐れるな。
 それは過ぎ去るものだから。
 残りの時は短い。
 使命を全うせよ。


そんな声が胸の真ん中に響く。
頑張ろう、勇気を出そう、と思う。

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ようやく 昨日の理事会で新カリキュラムの外郭がまとまった。

傾聴を広く市民に普及させる為の講演会と初級講座。
講演会は1回。
初級は講義5回。ここは今まで通り。
価格も若干あがるものの、低価格を維持する。

傾聴力をしっかり身につけたいと思う人の為の技術習得中級講座。
2時間の講義10回。20時間の講義の価格は6万円程度(価格は変動あり)。

自己成長と社会貢献への高い意欲を持つ人の為の資格取得講座。
2時間の講義25回。50時間の講義と資格取得の価格は23万円(価格は変動あり)。

中級と資格取得講座は、テキストをすべて新規で作り直さなければならない。
またまた、想像するのも怖いくらい忙しくなりそうである。

私が生きている間に 出来ることの一つであり 残す価値のある仕事だと思っている。
職場に一人傾聴技術者を置くべきと言われるくらいの 信頼ある資格を目指す。

頑張ろう。
どこにもないくらい 充実した内容と ライブ感のある講義を提供する為に。
生きている学び 学ぼうとする人々の 内面がキラキラと輝くことを目指して。

願わくば この仕事で 困窮する家族を救うことも結果として伴いますように。

これまで32期続けてきた初級(5回の講習会)を 低価格で 守り抜くことができれば本望だなと思う。

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