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久山のYさんが、「ほたるが見ごろになったら声かけますね」と
言ってらっしゃったので楽しみにしていたのだけれど、毎年ほた
るシーズンはあっという間に終わってしまう。

今年も残りわずか…とテレビの夕方情報番組で聞いて、
「梅雨の晴れ間だ、よし今日見に行こう!」と意を決した。

学校から帰ってきた娘に、「宿題大急ぎでやったらいい処に連れ
てってあげるよ!」と頑張ってもらい、6時に家を出発!

コストコでホットドッグを食べ、急いで蛍スポットへ!
このスポットに来るのも二年ぶりだ。

平日の夜だというのに、まあ車が来るわ来るわ、すごい人出だ。

徐々に闇が深まっていき、ついに一匹目の蛍がぽうと光り出す。

静かに見守っているとあそこに、ここに、あんな高い梢に、と
次々に光り。

やがて光の乱舞が始まった。

光の明滅の美しい舞踏を見ていると、道路を走る車の騒音が耳
からすーっと消えていき 川のせせらぎだけになる。

川の水音だけのはずなのにやがて頭の中ではシンフォニーが聞
こえてくる。蛍の乱舞とシンフォニー。
そしていつの間にか、自分はどこにいるのか、河辺にたってい
るのか、それとも蛍の一つになって飛んでいるのか、はたまた
川のせせらぎになったのか、わからなくなる。

幽玄の彼方 水と緑と光の世界で 呼吸と共に蛍は光る。
生きている命の実感。
わずか数日の残りの命を精一杯に生きる。

娘が蛍を手で包んで、何度も私の元に運んでくれる。
周りの大人達からも、娘は何匹もの蛍をもらって可愛がられて
いる。

「ママ、ほら」
そっと手を開くと、小さな手の平から黒い空へと飛び立っていく
緑色の光。

きれいだね。かわいいね。一生懸命だね。

来年も来ようね。この子達の子供に会いに。

そう言いながら、家路についた。

娘がずっと ほ、ほ、ほーたるこい と歌っていた。

もしYさんから連絡がきたら、今度はゲンジボタルのスポット
に連れて行ってもらおう。

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春眠暁を…と言うけれど
最近とても眠くて眠くて困っている。

ついに福岡も梅雨入りして、毎年水不足にはハラハラするので
一安心なのだけれど すっかり春が過ぎているというのにこの
眠気はなんだろうか。

すきがあればうとうとしたくなってしまう。
食後などはもう起きているのが苦痛なほど眠い。
こんなに眠りたいって少しおかしい気がする。


最近知り合った人が壮絶な過去を持っていることを知った。
「瞬」という映画が6月19日から封切りになるが、これは
交通事故にあって目前で恋人を失い、そのショックで記憶を無くした主人公が、記憶を取り戻していくお話。

この映画さながらに、最近知り合った友人は恋人を目の前の事故で亡くしたそうだ。
そしてそのショックで、記憶が失われ、彼女の存在そのものから忘れてしまったのだそうだ。でも「理由が分からない深い悲しみ」が胸の中にあることだけはいつも感じていて、ある時、彼女の事を思い出した。その時「もうこれから一生、一人で生きて行くんだろうな」と感じたそうだ。今でも多くの記憶が失われたままで、過去の自分がどんな人物だったのかもよく覚えていないという。時々知らない人から親しく声をかけられ、それが過去の自分の近しい人だったりする。
最近まで、自分のそういう悲惨な過去を誰にも語ることが出来ず、ようやく信頼できる友人に話して、気持ちが楽になったのだそう。そんな彼は、今、人の命を救う現場で、一生懸命働いている。

私は、記憶を無くした人の不安な気持ちがよくわかる。
目の前で彼女を失った彼にとって、受け入れられないほどの激しいショックと深い悲しみから自分を守る唯一の方法が、記憶を凍結することだったのだろう。代償に、自分が何者かよくわからないという不安定な日常を送る。
だがそれでも毎日を生き延びて、少しづつ時が経ち、彼女とのことも、過去の自分も思い出せるだけの準備を整えているのだろう。

人間はすごい。
生き延びてこそ、生き延びるからこそ人間はすごい。

しんどい坂道を、今日も一人、一歩づつ歩く彼を 静かに応援したい。

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じゃじゃーーん。

冷蔵庫、快調です!
なんとほぼ一年ぶりに、ちゃんとした氷が出来てます!!

今朝は娘の学校に持たせてやるお茶の水筒にたくさん氷を入れてあげました。

「氷だ〜!!」と喜びの声をあげる娘。
一口お茶を飲んで「冷たーい!」と喜びます。
よく冷えたお茶をもって、うきうきと元気よく学校に飛び出して行きました。


我が家は昭和初期か。

でも、こういうのも、いいものだなあと思います。

不便を知っているからこそ、便利さのありがたみがわかる。

何事も体験した上でこそ、実感出来る。

「家に始めてテレビが来た時の感動」
「クーラーが居間に付いた時の感動」

それはテレビやクーラーが家になかった頃の体験があってこその感動です。
生まれた時からテレビがあった子に、テレビが家にあるからといってなんの感動があるでしょう。
クーラーがすべての個室についている家に生まれた子に、クーラーが効いている部屋になんの感動があるでしょう。


氷がいつでも食べられる感動。

氷がないという生活を、ある程度の期間体験したからこそ、私も娘も、感動しています。

ああ、人生って、本当に豊かだなあ と心の底から思います。



「ない」という経験と「ある」という経験は対になってこそ この実感が生まれる。

ないという経験だけでも、あるという経験だけでも、こういう実感にはつながらない。

そこにある、なんと豊かな感動と実感。これぞ人生の喜び。



私は、生涯貧乏でもいい。

この豊かさがあればこそ 本当にそう思えます。


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実は、去年から冷蔵庫が壊れています。

冷凍機能の故障で、非常に動作が不安定だったのです。
氷がいつまでも出来なかったり、作った氷が解けていたり、その解けた水がまた凍って張り付いたり。

つまり冷えたり冷えなかったりを交互に繰り返す乱調ぶりを、去年の秋から示していました。
買った冷凍食品が解けたり再冷凍してたりするので、非常に困りました。女性で料理をする方ならご存知でしょうが、冷凍食品は基本的に一度解凍したら、もう凍らせてはダメです。食べられない訳ではないですが、非常に風味などが落ちてマズくなります。さらに冷凍食品には防腐剤などの食品添加物が使われていないので、解凍したら痛むのが非常に早いのです。

そういう状態でしたが、冷蔵には支障なかったため騙し騙し、工夫しながら冷凍ナシ、氷なしの生活を続けてきました。
しかしついに夏らしき気配です。氷なしではなにかと困ることが出てきたのです。そうめんを冷やせないとか、アイスコーヒーや麦茶に入れる氷がないとか。
冷凍食品なしではお弁当を作る手間が倍増です。手抜きが一切出来なくなりました。

そしてついについに、冷凍だけではなく頼みの綱の、冷蔵があやしくなってきたのです。

冷蔵庫のない夏って、過ごせるだろうか。
食品が痛む夏。冷蔵庫なし。うーーーーーーんーーーーー。

しかし金は無し。

困ったなあ、困ったなあと、中古屋さんを巡ります。
うちの冷蔵庫くらいのサイズになると、中古では5万から安くても3万です。
うーーーんーーーー。

神様…この夏は冷蔵庫なしでしょうか…。
どうなんでしょうか…
もちろん、チャレンジしてみますが…。
結構大変なのと、食の安全が心配なのです。

と祈っていたら。
出会いましたーーー。
道を間違って、入り込んだ路地にあった中古屋さんに!

12000円の中古冷蔵庫!
少し容量が少なくなりますが、出会いました。
近所の中古屋さんからスタートし、東へ東へと中古屋巡りを続けていた日曜日。
ついに古賀まで来てしまい、どこまでこの旅は続くのか…と思っていたら。
道に迷ったその時に中古屋の看板が。

その日は犬と娘も乗車していたため、中央区まで配達してもらえないかと頼むと、別途送料に5000円くらいかかるというのです。
そんなもったいない。手付金を払い、翌日出直しです。
送料ももったいないので、車でン十キロドライブ。
取りに行き、夫婦二人で冷蔵庫の搬送をこなしました。
うちに付いて、車から降ろすのも、5階の台所まで運び入れるのも、全部夫婦二人で。
うちは引越屋さんになれそうなくらい、肉体労働もこなします。

あの日、あの時、あの道を通らなかったら。
道を間違わなかったら。
出会わなかったこの値段の冷蔵庫。
これは本当に、天の采配。安いだけじゃなく、品物がほんとに良いのです(多分)。

神様。ありがとう。
さて、搬入もおわったので、半日過ぎたら通電して、氷を作ってみよう。
神様のプレゼントしてくれた冷凍冷蔵庫。
長持ちしてくれるといいなあ。すぐに壊れませんように。



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毎年娘の運動会は大イベントだ。

当たり前の事なんだけれど
この年齢のこの学年の運動会は
一生に一日だけしかない。

朝5時に起きて弁当を5人分作り
7時30分から場所とりに駆けつけ
一日中炎天下に晒されて応援し
涙をこぼしながらビデオ撮影し
砂ぼこり舞うグラウンドの片隅でお弁当を食べる。

もう4回目の小学校の運動会。
1年生の行進をみるとあまりの小ささに
うちの娘はいつあんな風だっただろうと振り返る。

うちの子もそうだけれど
どの子をみていてもみんな可愛い。
特にぐっとくるのはリレーや徒競走。

全身に力をみなぎらせて
どの子も自分の体と気力の中で精一杯
前へ 前へ 前へと走る。
ひたすらに走る。
顔をゆがめ 歯を食いしばり
足を全速力で回転させ走る。

どうしてだろう。
涙があとからあとから出てきてしまう。
あの子も この子も その子も みんな
みんな 命のまぶしい輝きに満ちている。
どんな宝石よりも美しい光が その体から
こぼれ 溢れ 放たれて
どうしてこんなにも 美しいんだろうと。

子供たちって本当に素晴らしい。
子供が たくさんたくさんたくさん笑ってくれる世界に
そんな世界に なりますように。

輝け 子供たち。
その輝きは 命を懸けて守る価値のあるもの。

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自分は何をしたいのだろう と自問する。

私は、自分の人生が明日突然、交通事故で終わってしまっても
後悔しないように生きようと小学生のころから決めている。
だから、したくない事をするのがとても難しい。

辛抱と引き換えに得られるものが見合っているなら、それもい
いと思う。納得も出来るのだろう。
でも私は、自分の辛抱と引き換えて納得できるものがほとんど
ないのだ。お金をいくらもらっても、したくない事はできない。
とことん我がままだと言われるかも知れないけれど、我がまま
と言われないようにただ従順になって心を殺して生きる人生に
一体何の意味があるのか。

いま、スケジュールがガラガラだ。例年通りいくつかの依頼は
すでに来ているし、例年とおりに自分の仕事を計画すれば例年
通りに忙しくなる。けれど、依頼された事以外を白紙のままに
してある。

自分が本当にしたい事を吟味してみる為に、時間を使おうとし
ているからだ。代りに生活の為の経済事情は非常に不安定だ。
収入の目処が立たなければ数ヶ月後にはこの事務所を引き払わ
なければならないかもしれない。
それでもいいのだ。
今は、白紙で見つめる時間が必要。

流れを見つめる。
自分が本当に何の為に生きていて 何の仕事をすべきなのか
よく考えること。
依頼があれば、それが自分のすべきことかどうかをよく考える。

仕事とは 私にとって奉仕すること。
奉仕の延長線上に、それに相応しい対価が自然と付いてくる。
対価の為に仕事はしない。

奉仕すべき人々に奉仕する。
私がすべきことを優先する。
それが軸だ。

かと言って、本当にただの無料奉仕になるような事を引き受
けようとすれば坂本が黙っていない。
家族が飢え死にする訳にも行かないし、住む家が無くなるの
も困るし、子供が学校をやめなければならないのも困るから
だ。
私はその辺りがどうも無頓着になりがちなので坂本が厳しく
監視している。

私はただ
安心することのない苦しみの中にいる人々を救いたい。
自分自身の中に、信頼すべきものがあることに気付いてもら
いたい。自分を愛し、いたわることが、世界を優しくするこ
とに気付いてもらいたい。
人によって救われるのではなく、自分自身の中にある生命そ
のものによって支えられている事実に目覚めて欲しい。

その為に私は働きたい。
どうすれば一番、効率が良いのか、ずっと考えている。

TwinWings と名付けたメンタルヨガ教室は、セルフカウ
ンセリングクラスの発展。
自分自身に学び、自分自身を学び、自分自身と語り、繋がる
スキルを得る為のクラス。

人は自分自身と関わることのできる深さ分しか 他者と関わ
ることが出来ないから。
他者との関係性の解決策は 自分自身との関係性を深めるこ
とにこそある。

自分に触れないままで他者との関係性を善くしようとしても
すぐに限界の壁がやってくる。その限界に気付かず自己満足
する人もいるけれど、それはその人の今生での限界なのかも
知れない。私は、それには満足しない人々の為に働く。

TwinWings は 現在鳥栖クラスがスタートしている。
大野城と唐津市で募集中だからクラスが発生するかは分から
ない。近々、大手門クラスを募集する予定。

これが今 したいことの一つの形。

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娘が学校から帰って家の中で私を探している。
パタパタとやってきて
「ママ!今日のお弁当、おいしかった!」と言った。

メインおかずはチキンカツの卵とじ。
昨日のお弁当もチキンカツで、同じおかずが続いてし
まったので苦肉の策で初めて入れたおかずだった。

毎日、お弁当を作るのは確かに労力が必要で、大変で
はないと言えば嘘だけれど、同時に、私は娘のお弁当
を作るのが大好きだ。

毎日、娘のことを思いながらお弁当を作ることは、仕
事をする母ゆえに娘に関わることの少なさを質で補え
るような、そんな「気持ちの上での大切さ」を感じる。

短い期間だったけれど夫が食品工場に務めた時も、毎
日4時におきてお弁当を作った。
家族の為に早朝の6時から23時まで辛く不慣れな仕
事をする夫を励ましたい一心で海苔を切ってご飯の上
にメッセージを書いたりもした。
当時の夫はその弁当さえものどを通らないほどの可哀
相な状況だったのだけれど。

娘にしろ、夫にしろ、自分以外の人が頑張っている時、
その人の為にしてあげられることはとても少ないこと
に気付く。
だから数少ない、してあげられることに気持ちを込め
て、おいしくなーれの魔法もかけて、お弁当作りを楽
しむ。


娘がおいしかったと笑顔で応えてくれる。
これ以上のしあわせってあるのだろうか。

とても しあわせ。

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義母が東京へ帰り、我が家のGWがようやく終わった。

今日から娘は学校に、私も夫も仕事に復帰する。

夫の兄の3回忌法要から始まって昨日まで、とにかく仕事関連の
事はまったく、何一つしないし、やろうとしても出来ない12日
間だった。

我が家にはそういうタイプの仕事不能日が年に何回も発生する。
休暇と言えば休暇だし、家族内での義務であり嫁の仕事、母の仕
事とも言える。

義母が来てくれるのは、娘の為には非常にありがたいこと。
娘の喜びようは誕生日やクリスマスを遥かに越えて、最大級なの
である。5才までを共に暮らした義母を娘は強烈に慕っていて、
また一緒に暮らしたいといつも願っている。
その願いが叶うことはおそらくもうないのだが、それでもせめて
出来るだけ娘と義母が一緒に過ごせる時間をと、私も願っている。
娘にとって、義母は最愛のお祖母ちゃんなのだから。

義母の為に気を使う事は確かに増えるけれど、娘の幸せそうな姿
を見れば甲斐のあるものだ。
海に行き、西公園へピクニックに行き、カラオケに行き、映画に
行き、娘の望んだ遊びをすべて詰め込んで、義母も一年分の蓄え
を全部使って孫と遊びほうけてくれる。ありがたいことだ。
高齢になった義母の体調を考えて食事を作ったり運転手をしたり
お世話に明け暮れて毎日が過ぎて行く。ネットも見ないし、メー
ルも見ない。仕事に関係する事に、極力触れない。

10日以上も仕事の事を何もできないというのは ふと不安にも
なるし焦りも感じて苦しくなるけれど だからと言ってこの機会
を台無しにするのは馬鹿げている。
お金よりいかに人生を充実させるかが重要だ。
二度と戻ってこないこの時を、一番輝かせる事に使うべきなのだ
から 価値ある時間の使い方をしたはずだ。

さあ、また再スタート。
一生懸命、仕事しよう。

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東京から義母がきて 娘大はしゃぎの毎日。
毎日「やることリスト」の消化に追われている。

昨日は海へ。ひと足早い磯遊び。
ビナ貝を収穫。岩牡蛎をその場で食べる。
陽に焼けるようなことをすると非常に体力を使う。

私もくたくただが 70の義母はもっとクタクタだろう。
今日は朝からカラオケ。
9才の子供のパワーについていくのは必死だ。

まだあとピクニックと映画にいく予定が消化できていない。
一年に一度しか会えない祖母だから 娘もいろいろ楽しもうと必死だ。
娘の予定消化以外の、何も出来ない毎日が続いている。
でも義母だっていつバタリと倒れて死んでしまうかわからない。
娘にとって最愛の祖母と、あと何回会えるかわからないのだから、心残りがないようにこっちも必死だ。

捕ってきたビナ貝を茹でるのに ものすごく可哀相で コンロに火を付ける覚悟するのに苦労した。
でも食べずに生きることはできない。私たちは多くの命を頂きながら生きる。
有難く食べるのだ。

生きるってのは いろいろ大変だ。

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本を書こうと思っていろいろ草案をまとめている処だけれど
以前からノンフィクションでいくかフィクションでいくか、
非常に悩んでいる。

10才から19才まで、私は小説やマンガを書いていた。
この場合作品はすべてフィクション。
23才から27才までの間は務めていた会社でゲームソフト
のシナリオなどを手がけた。これもすべてフィクション。

27才で自分で会社を創業してからフィクションは一作も書
いていない。あまりに大きな額のお金に携わり、社員の生活
を支える責任を背負い、空想の世界に留まるような余裕は完
全に失われていたからだ。

そしてカウンセラーとして働くようになってからは、自分自
身と相談者の人生の奥深さに、自分の頭の中で作るようなフ
ィクションなど白々しく薄っぺらな作り話に思えて、到底創
作する気にはなれなかった。

現実の奥深さ、豊かさに比べたら私の描くフィクションなど
その要素をほんの少し切り取っただけの虚構だ。

けれど最近、また少しフィクションのメリットと力を再確認
している。

それは、フィクションだからこそ、読み手は安心する、とい
う点だ。

もしも、「近日中に死ぬことになっている人の話」の本があ
ってそれが実話の場合と、フィクションの場合、読み手の心
の状態はまったく違う。

実話にはそれがどんな話であれ、重みがある。
それがどんな深刻な話でもこっけいな馬鹿話でも、実話だと
いうだけで軽々しく扱えない、重厚さが自動的に生じる。
だから読み手は、その話に抱く感想にもかなりの制約を受け
ることになる。近日中に死ぬ、本当の人の話を鼻先で笑うこ
とは出来ないだろう。

しかしフィクションだと読み手は、その物語に対して自由な
感想を持つことができるのだ。近日中に死ぬ架空のキャラク
ターに、同情も反発もできる。それがフィクションだと分か
っていればこそだ。
バカ話なら遠慮なく批判する。話の展開が気に入らなければ
作者を批判することも出来る。

フィクションは、読み手を自由にするのだ。

その特性を十分に考慮した上で、伝えたいことのテーマを絞
り、テーマを最大に活かす舞台設定を起こし、テーマに相応
しい登場人物を配する。それが、作家の仕事なのだろう。

実際の処、私自身も一人の読者として、その作品のテーマや
作風に好き嫌いはあるが、どんな作品を読んでもそれが創作
と承知の上でもなお、感じ入る処があるし、気持ちが動いた
らその分、間違いなく影響を受けている。
最近では「風の名前」がそのいい例だ。

恋愛ものだろうが、歴史ものだろうが、SFだろうが、その作
品の中に描き出されるのはストーリーの中で翻弄されながら
生きる登場人物の生き様や情感だ。

深刻な世界の現実、生きている人たちの美しさに現実として
日々触れていて、それをノンフィクションのジャンルで伝え
たいとも思うし、フィクションにまた戻ってみるのも悪くな
いのかもしれないと行きつ戻りつしている今日この頃。

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