2007年9月2日開始。いつまで続けられるかな?
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私は 生きるのが辛くてたまらない人生前半を送り あやうく死にそうになり
本当の意味で救われて だから今の仕事をしている。
たくさんの「生き辛さにあえぐ人」に出会って 誰にも言えなかったという
言葉をたくさん聴いてきた。
どうしてそれらの言葉を、彼らはこれまで言えなかったのだろう。
私にはわかる。
彼らの身近な人々は彼らの本音を「聞きたがらない」のだ。
弱音や、絶望的な言葉を、身近な人は聞きたがらない。
どうせだめなんだ、どうしていいのかわからない、私は駄目なんだ…
そういう言葉を聞くと、不安になり不快になるのだ。
だから、聞きたがらない。
聞きたくないから、口止めをしようとする。
「そんなこと言ってたってしかたないじゃないか」
「やるしかない」
「もっと苦しんでいる人がいる、あなたはまだ恵まれているほうだ」
「甘えていたって誰も助けてくれないよ」
「いい加減にしなさい」
先日、私が今の仕事と家庭の両立でどんな思いを抱えているか正直に話したら
「自分の辛さを最大化している、あなたは偽善者だ」と言った親戚がいた。
そう、親族とか家族とか、身近な人たちほど、そういう酷く辛らつな言葉を言う。
偽善者って言われても、それが感じている正直な気持ちなんだから仕方ない。
「お前がそう感じることが間違いだ」と言うのだろうか。
それとも、「お前が感じていることを正直に話したことが間違いだ」というのだろうか。
いずれにしろその人は「人の気持ちを聴く気はない」ということと「自分の聞
きたい話以外は聞く気がない」ということを鮮やかに証明してくれた。
私が、一番変わって欲しい、気づいて欲しいと願う側の人間だ。
こういう反応をする人がいるから、自殺が減らない。生き辛い人が減らない。
私はこういう酷い言葉に対して、耐性があるし、今は心が健康だから傷ついた
って死にはしない。けれど、もしも、長年、一人で生き辛さを抱えてきた人が、
身内にだけはわかって欲しいと正直な言葉を話したときにこういう言葉を吐き
つけられたら、「もう死のう」と思ってしまってもまったく不思議ではない。
以前の私なら、数日以内に死んでしまったかもしれない。
遺書に、「あなたは私の苦しさの何を知っているのですか」とその人への言葉
を残すかもしれない。呪うとか祟るとか書いて、私の死後もその人を怯えさせ
てやろうとして復讐するかもしれない。
幸い、今の私はこの人の無理解にさほど傷ついてはいないし恨んでもいない。
この人は無知で無理解なのだとはっきりわかっただけである。
けれど、こういう人たちの、こういう反応が、多くの「生き辛い人」を作り出
している。私はその構造を、嫌というほど知っている。
だから、講演活動で一生懸命に話すのだ。
「聴いて欲しいと待っている人が、あなたのすぐ傍にいる。聴くことの必要性
を真剣に学んで欲しい」と。
なぜ私たちは、身近な人の苦しい言葉を聴けないのだろう。
なぜ苦しみの末に紡ぐ彼らの言葉を、この世に出させまいとして縛るのだろう。
それこそが、未熟ゆえの反応なのだと、私は思う。
未熟。
人生の真の姿を知らぬ未熟。
人の限界を知らぬ未熟。
エゴが拡大し、人間という存在の等身大を見誤っている未熟。
現実を知ることのない無知、無明。
私の親戚は、私の口から「こういうことで苦労しているけど、みんな同じだよね。
頑張って生きていけば、いいことがあるからね」などという明るく健気な言葉を
聞きたかったのかもしれない。
もちろんそう思っているし、そう言えない訳ではない。
けれど「正直な気持ちを話そう」という場なら、明るいことばかりでなく正直で
あるゆえに生生しい苦しさも表現されて当然ではないか。
ブログも「明るく、健康的なことだけ書かなくちゃ」「みんなが喜ぶような記事
を書かなくちゃ」と思うとうんざりする。
けれど世の中そういうことばかりで溢れていないか。
仮面を望む未熟な人間ばかりだから この社会が生き辛い。
明るいことばかり並んでいるブログを読んだときに、「この人にも、書かれてい
ない色んな思いがあるんだろうな」と思えているか?
その想像力こそが、人の豊かさであり、成熟なのだ。
喜びも苦しみも、等しく感じて等しく表現する。
その時の自分の本当の心を しっかりと感じて掴んでいたい。
自分にも人にも、偽りの仮面の自分では居たくないのだ。
人々の心の無理解を変えたい。
伝わらないと死んでしまう人がいることを認識して欲しい。
心を殺して生きている人の悲劇を減らしたい。
自分とは違いすぎて 共感できないとしても
相手は相手なのだと 尊重しそっとしておけるだけのいたわりを
すべての人が持てる社会なら どんなにこの世界は
優しく美しい場所になるだろうか。
本当の意味で救われて だから今の仕事をしている。
たくさんの「生き辛さにあえぐ人」に出会って 誰にも言えなかったという
言葉をたくさん聴いてきた。
どうしてそれらの言葉を、彼らはこれまで言えなかったのだろう。
私にはわかる。
彼らの身近な人々は彼らの本音を「聞きたがらない」のだ。
弱音や、絶望的な言葉を、身近な人は聞きたがらない。
どうせだめなんだ、どうしていいのかわからない、私は駄目なんだ…
そういう言葉を聞くと、不安になり不快になるのだ。
だから、聞きたがらない。
聞きたくないから、口止めをしようとする。
「そんなこと言ってたってしかたないじゃないか」
「やるしかない」
「もっと苦しんでいる人がいる、あなたはまだ恵まれているほうだ」
「甘えていたって誰も助けてくれないよ」
「いい加減にしなさい」
先日、私が今の仕事と家庭の両立でどんな思いを抱えているか正直に話したら
「自分の辛さを最大化している、あなたは偽善者だ」と言った親戚がいた。
そう、親族とか家族とか、身近な人たちほど、そういう酷く辛らつな言葉を言う。
偽善者って言われても、それが感じている正直な気持ちなんだから仕方ない。
「お前がそう感じることが間違いだ」と言うのだろうか。
それとも、「お前が感じていることを正直に話したことが間違いだ」というのだろうか。
いずれにしろその人は「人の気持ちを聴く気はない」ということと「自分の聞
きたい話以外は聞く気がない」ということを鮮やかに証明してくれた。
私が、一番変わって欲しい、気づいて欲しいと願う側の人間だ。
こういう反応をする人がいるから、自殺が減らない。生き辛い人が減らない。
私はこういう酷い言葉に対して、耐性があるし、今は心が健康だから傷ついた
って死にはしない。けれど、もしも、長年、一人で生き辛さを抱えてきた人が、
身内にだけはわかって欲しいと正直な言葉を話したときにこういう言葉を吐き
つけられたら、「もう死のう」と思ってしまってもまったく不思議ではない。
以前の私なら、数日以内に死んでしまったかもしれない。
遺書に、「あなたは私の苦しさの何を知っているのですか」とその人への言葉
を残すかもしれない。呪うとか祟るとか書いて、私の死後もその人を怯えさせ
てやろうとして復讐するかもしれない。
幸い、今の私はこの人の無理解にさほど傷ついてはいないし恨んでもいない。
この人は無知で無理解なのだとはっきりわかっただけである。
けれど、こういう人たちの、こういう反応が、多くの「生き辛い人」を作り出
している。私はその構造を、嫌というほど知っている。
だから、講演活動で一生懸命に話すのだ。
「聴いて欲しいと待っている人が、あなたのすぐ傍にいる。聴くことの必要性
を真剣に学んで欲しい」と。
なぜ私たちは、身近な人の苦しい言葉を聴けないのだろう。
なぜ苦しみの末に紡ぐ彼らの言葉を、この世に出させまいとして縛るのだろう。
それこそが、未熟ゆえの反応なのだと、私は思う。
未熟。
人生の真の姿を知らぬ未熟。
人の限界を知らぬ未熟。
エゴが拡大し、人間という存在の等身大を見誤っている未熟。
現実を知ることのない無知、無明。
私の親戚は、私の口から「こういうことで苦労しているけど、みんな同じだよね。
頑張って生きていけば、いいことがあるからね」などという明るく健気な言葉を
聞きたかったのかもしれない。
もちろんそう思っているし、そう言えない訳ではない。
けれど「正直な気持ちを話そう」という場なら、明るいことばかりでなく正直で
あるゆえに生生しい苦しさも表現されて当然ではないか。
ブログも「明るく、健康的なことだけ書かなくちゃ」「みんなが喜ぶような記事
を書かなくちゃ」と思うとうんざりする。
けれど世の中そういうことばかりで溢れていないか。
仮面を望む未熟な人間ばかりだから この社会が生き辛い。
明るいことばかり並んでいるブログを読んだときに、「この人にも、書かれてい
ない色んな思いがあるんだろうな」と思えているか?
その想像力こそが、人の豊かさであり、成熟なのだ。
喜びも苦しみも、等しく感じて等しく表現する。
その時の自分の本当の心を しっかりと感じて掴んでいたい。
自分にも人にも、偽りの仮面の自分では居たくないのだ。
人々の心の無理解を変えたい。
伝わらないと死んでしまう人がいることを認識して欲しい。
心を殺して生きている人の悲劇を減らしたい。
自分とは違いすぎて 共感できないとしても
相手は相手なのだと 尊重しそっとしておけるだけのいたわりを
すべての人が持てる社会なら どんなにこの世界は
優しく美しい場所になるだろうか。
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